閉鎖

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番外編その2
 〜昔話・弘毅編〜

 

 手を離したのは他でもない自分。
 いつの間にか大きな距離が二人を阻んで、その背中は見えないところへ消滅してしまったから。

 

「聡兄。聡兄ー」
 ぱたぱたと俺の後ろをスリッパで駆ける音が聞こえる。振り返ると学校から帰ったばかりの麻衣が兄さんの部屋へと押し掛けようとしている姿が見えた。
「おい麻衣、兄さんはまだ帰ってないぞ」
「ええー? だっていつもは部屋にいる時間じゃん。なんで?」
「そんなこと俺が知るかっての。宿題なら俺が見てやるよ」
 妹の手には教科書がしっかりと抱えられていた。いつものように兄さんに解説をせがもうとしていたのだろう。俺でも分かる問題なら兄さんの手を煩わせるまでもない。
「やだよ! 弘兄って教えるの下手だもん」
「て、てめえ!」
 確かに俺は兄さんに比べると頭もよくないし教えるのも下手かもしれない。でもだからってそんな言い方することないだろう。相変わらず俺に対してだけは嫌味な妹が恨めしく思えてくる。
「二人とも、喧嘩なんかしないの」
 俺たちの様子を見かねたのか母さんが声をかけてきた。その手はおたまを持ったままで、今日の夕食であろうカレーの匂いが部屋の中にまで雪崩れ込んでいる。
「母さん! 今週のお花見のこと、忘れてないよね?」
「家族みんなで出かける行事のことを、この母さんが忘れるわけないでしょう?」
「えへへ」
 突然話題を切り替え、それにより機嫌が良くなった麻衣は顔がすっかり緩んでしまっていた。花見なんて毎年行ってるのに、そこまで楽しみにすることだろうか。そりゃまあ家族全員で出かけられる時間は貴重だし、俺も楽しみにしてないわけじゃないけどさ。
「それにしても、今日は聡史の帰りが遅いのね。友達とどこかに遊びに行ってるのかしら」
「聡兄この前彼女ができたみたいなこと言ってたし、今頃デートとかしてるのかもねー」
「まあ!」
 女同士の会話に聞き耳を立てつつ、俺は一人で部屋へと戻ろうとする。本当は居間で兄さんの帰りを待っていたいけど、麻衣の話が事実ならここで待っていても無駄なような気がしたんだ。
「弘毅」
 ソファから立ち上がると母さんに声をかけられた。思わず立ち止まり、振り返る。
「今日スーパーに行ったらオレンジが安くて買っておいたから、おやつ代わりにでも食べていいわよ」
「マジで? あんがと、母さん」
 母さんの科白ですっかり上機嫌になった俺は、まだ何か話し足りないといった様子の麻衣を残して居間を出て行った。

 

 

 夕方が過ぎ、夜の帳が降りかけた頃に兄さんは家に帰ってきた。母さんから頼まれて庭の水やりをしていた俺はちょうどいいタイミングで兄さんを出迎えることができた。
「おかえり、兄さん」
「ああ」
 いつものように相手はやわらかい微笑みを見せてくれる。それを見ると俺はほっとするんだ。思わず抱き付いてしまいそうになるけど、さすがにこの年でそんなことをするわけにもいかないのでぐっと我慢し、庭の水やりを切り上げて兄さんと一緒に家に入ることにした。
 背の高い彼の隣に並んだ時、ふと何かいつもと違うものを感じた。だけどその違和感の正体が何なのかは彼の姿を見ただけでは分からない。
「どうした?」
「あ、いや……なんでも」
 話している途中、つんとした香りが鼻をついた。玄関の芳香剤と混じっているのか、それは花の甘い匂いとよく似ている。もしかして水やりの時に花が服にくっついたんだろうか。
「兄さん、俺の服に何かついてない?」
「え? うーん……特に何もついてないようだけど、気になることでもあるのか?」
「何か変な匂いがして」
 正直に話すと相手は少し顔を強張らせた。思い当たる節でもあるのだろうか。だとすれば、この匂いは俺じゃなく兄さんから放たれている?
「兄さん、今日はなんでこんなに遅かったんだ?」
「――友達と遊び過ぎてしまったんだ」
「彼女じゃなくて?」
「おいおい、俺には彼女なんかできないよ」
 俺の何倍も顔がいい兄さんですら彼女ができないのなら、俺なんかもう絶望的なんじゃないだろうか。彼はこんなふうに謙遜するけれど、俺は兄さんが本当は人気があることをよく知っている。
「何して遊んでたんだ?」
「そんなに知りたいか?」
「知りたい!」
 靴を脱ぎ廊下を歩きつつ、俺は兄さんの背中を追っていく。この瞬間が何よりも好きだった。
「秘密だ」
 やがて振り返った相手は、俺に短い言葉だけを残して自分の部屋へ引っ込んでしまった。

 

 +++++

 

 桜の花びらが風に乗って舞い散る。その様を眺めながら、俺たちは家族全員でのんびりとした時間を過ごしていた。
「今年は一段と綺麗だねー」
 ふらふらと麻衣が俺の前を歩いていく。花びらを全身で受け止めるその姿は、なんだかんだでよく似合っていた。やっぱりこういう時だけは女の子のように見えるんだよな。
「父さん、あそこ空いてるよ」
「よし、行ってみるか」
 きょろきょろと周りを見回していた兄さんが空席を発見し、俺たちはそこへ向かって歩き出す。兄さんが見つけた席は桜もよく見えるいい場所であり、座り込んでも桜のピンクが視界いっぱいに広がっていた。よくこんな場所が空いてたなぁ。今年は何かいいことがありそうだ。
「何回来ても花見はいいもんだな、弘毅」
 俺の隣には兄さんが座った。彼の前髪が風になびき、ふわりと揺れている。
「そう? 俺は花見より夏の登山の方が楽しみだけど」
「何言ってるの弘兄、今年の夏は海に行くって決めたじゃん!」
 向かい側に座っていた麻衣がすかさず口を挟んでくる。こんなところでも俺に逆らう気かコイツは。
「最終的には登山に決まっただろ」
「決まってませんー! 今年は海なのー!」
「海は去年行ったじゃねえか、今年は山だ山!」
「山なんか行ったって面白くないじゃん!」
「もう、二人とも! こんな時に喧嘩なんかやめなさい!」
 まるで子供じみた喧嘩は母さんの一言により一応の終末を迎え入れた。しかしこれについてはまた家に帰ってからじっくりと話し合わねばならないな。今年こそは山だって言ってたはずなんだけど、麻衣の奴は一体何を考えているのやら。
「兄さんは山と海だったらどっち派?」
 隣にいる相手に話を振ってみる。
「この前言っただろ、俺は山じゃなきゃ行かないって」
「あ、そっか」
 以前話し合いをしていた時、確かに兄さんはそんなことを言っていた。なんとなく聞き流してしまっていたけど、兄さんって海が嫌いってわけでもないはずなのに、なんで山じゃなきゃ行かないなんてことを言うんだろう。何か特別な理由でもあるんだろうか。
「ええー、聡兄が行かないなんてつまんない……」
「じゃ山でいいだろ」
「ううっ」
 ようやく麻衣も諦めざるを得なくなったのか、大人しく口を閉ざしてくれた。これは山で決定っぽいな。去年は海で散々な目に遭ったし、今年こそは思いっ切り登山を楽しめるってわけだ。虫が嫌いな麻衣にとっては地獄かもしれないけどな。
「弘毅、あっちの方に行くとここより桜がよく見えるぞ」
「本当に? どうやって行くんだ?」
「案内するよ」
 兄さんの指差した高台を目指し、俺と相手は二人だけでその場を離れる。麻衣は父さん達と何やら違う話を始めており、俺たちの姿をちらりと見てもついて来ようとはしなかった。それを見て俺はなんとなく安心した。
 桜が舞い散る道を二人で歩き、湿っぽい土を踏み締めて目的地へと近付いていく。途中で何人もの人とすれ違ったが、その誰もが現在を幸せそうに満喫している顔をしていた。俺と兄さんもそんな顔をしているのなら嬉しい。
「弘毅」
 ふと兄さんの声が聞こえた。それは俺の名を呼んでいたようだ。
「ん? 何?」
「最近何か変わったことはないか?」
「え?」
 兄さんは俺の何かを探っているみたいだった。でも俺は兄さんに隠し事なんか一つもしていないし、疑われる要因なんかないはずなんだけどな。
「兄さんこそ何か変わったんじゃないのか?」
「彼女か? 彼女はいないぞ」
「そうじゃなくて、ほら――なんで海に行きたくないのか、とか」
 喋りながら歩いていると、いつの間にか目的地の高台の上に立っていた。手すりのある場所まで近付くと、なるほどここからなら一面に広がる桜色が美しく映えているのがよく見える。周囲にはあまり人もいなくて、なかなか居心地のいい場所となっていた。
「ここの景色、綺麗だろ?」
「うん、そうだけど、さっきの話は」
「父さんや母さんには内緒にしてくれるか?」
 ぴたりと唇に相手の人差し指が当てられる。俺は大きく頷いた。三回くらい頷いた。
 兄さんは俺から手を離し、手すりにもたれかかって空を見上げた。そこにはただ悠々と白い雲が流れている。
「……あんまり、さ。見られたくないんだよ」
 風に乗って途切れた言葉が聞こえてきた。だけどそれには続きがあるはずで、だから俺は黙ってそれを待つ。
「前はこんなことなかったのに、最近ちょっと神経質になってるのかもな」
「え、どういうこと? 何を見られたくないって?」
 俺が問うと相手はこちらを向き、何も言わず自身の手を胸のあたりに乗せた。それをすっと下へと下ろす仕草を見せてくる。
 彼が何を言いたがっているのか、その仕草が何を示しているのか、今の俺じゃ何も分からない。
「どちらにせよ、お前が気にすることではないよ」
「兄さん」
「そろそろ戻ろう。じゃなきゃ麻衣がうるさいからな」
 見せつけられた彼の優しさに追いやられ、今や秘密は裏側へと隠れてしまっていた。

 

 +++++

 

 あの頃の思い。懐かしい記憶。その全てを手放すことはできない。
 だけど目の前にある現実は、俺に諦めを強要するものでしかなかった。美しかった何もかもが音を立てて灰になる。
 聡史兄さんは笑っていたんだ。炎にまみれて小さくなっていく品々を眺めながら、この世のものとは思えない表情を顔に貼り付けていた。それは花弁が一枚ずつ散っていく過程と似ている。形のない十字架が影のように背後で息を吸い、ただ永遠を模造する輪郭だけが彼の周りを囲っていた。
 手を離したのは俺の方。相手を理解できなくなって、自分から遠ざかったから。
 ああ、誰が俺たちを許してくれるだろう? 誰の言葉も得られない俺たちは、このまま坂道を下り続けるしか道はないのか?
 もしも何もかも忘れられて、新しくやり直せる機会があったなら。
 だけど俺が俺である限りは過去の傷跡からは逃げられなくて、忘れたふりをするのは簡単でも、結局はそれと向き合わねばならないことを理解しなければならなかった。その覚悟ならできていると自惚れている。見せかけだけの現実逃避でも構わないというのなら、幾らでも道は準備できるはずだった。
 疲れてしまった今は何でもいい。麻衣と同じ場所へ行くのも興だけど、その前に少し試してみようじゃないか。
 だって新しい場所で出会う人々は、俺のことを何も知らないのだから――。

 

 

 

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