閉鎖

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番外編その2
 〜昔話・聡史編〜

 

 守るべき人は誰なのか。
 誰を守らなければならないのか。

 

「おかえり、兄さん」
 家に帰るといつも誰かが出迎えてくれる。相手は嫌な顔一つすることもなく、俺に自然な笑顔を見せてくれる。それを見ると一日の疲れがすっと吹き飛ぶから不思議だった。
 今日は弘毅が出迎えてくれた。どうやら庭の水やりをしていたようで、手にはまだホースが握られている。彼の周囲では花や草が水を浴びて活き活きと輝いており、もう少しでその作業も終わるようだった。
 弘毅が水やりを終えるのを待ち、二人並んで玄関の扉をくぐる。まだまだ背の小さい相手は俺を眩しそうに見上げていたが、その表情がふと変化したことを見逃すことができなかった。
「どうした?」
「あ、いや……なんでも」
 話しかけると目をそらされる。何か心配事でもあるのだろうか。彼が苦しむ姿なんか見たくない。どうにかして聞き出したいけど、迷惑をかけることもできないから難しいところだった。
「兄さん、俺の服に何かついてない?」
 余計な心配をしていると、相手の方から話題を持ち出された。もしかすると俺の心配は単なる杞憂だったのかもしれない。
「特に何もついてないようだけど、気になることでもあるのか?」
「何か変な匂いがして」
 弘毅の言葉が俺の胸に突き刺さった心地がした。先程までの記憶が閃光のように頭を駆け巡る。少しだけめまいがして、でもなんとか持ちこたえることに成功したようだった。
「兄さん、今日はなんでこんなに遅かったんだ?」
 相手の顔が心配そうなそれに変わっていた。
「――友達と遊び過ぎてしまったんだ」
「彼女じゃなくて?」
「おいおい、俺には彼女なんかできないよ」
 彼に心配させてはいけない。彼にはいつでも笑っていて欲しいから、俺は頑張ることができるんだ。この小さな部分ですら心配の元となってしまうのなら、俺はもっと気を付けなければならないんだろう。
 苦しむのは自分一人だけでいい。
「何して遊んでたんだ?」
「そんなに知りたいか?」
「知りたい!」
 まるで今にも飛びついてきそうな弟は、とても愛らしい存在であった。誰がこの繊細なガラス細工を守らねばならないのだろう? それは兄である俺の仕事なのではないか?
 分かっている。分かっているからこそ、もう引き返せないところへ足を踏み入れたはずだった。
「秘密だ」
 振り返り微笑んで見せると、あまりにも彼の表情が美しすぎて――これ以上それを見る権利のない俺は、そのまま自分の部屋へ逃げ込むことしかできなかった。

 

 

 弘毅も麻衣も俺を慕ってくれる。憧れのように思われていることも知っているし、俺が二人を守らなければならないことは誰に言われなくても理解できていた。
 だから何をされても平気でいられる。この身が滅ぼされようとも、きっと静かに微笑んでいられるだろう。
「水瀬君」
 歌うような声が俺の名を呼んだ。道の先に立っているのはよく知った相手だった。同じクラスで同じ時間を過ごした、仲間と呼ぶべき存在の一人。
「例の件、考えてくれた?」
「ああ、あれ……悪いけど断らせてもらうよ」
 彼女の長い髪が風でなびいていた。春の風は時雨のように冷たく気まぐれだ。
「どうして? 私の何がいけないの?」
「君のせいじゃないさ」
「だったらなぜ――」
 守るべき存在が俺にはある。その為の犠牲なら、喜んで棺に入ろうじゃないか。
 俺は彼女の手を振り払った。踵を返して相手に背を向けて、もう追いかけられることのないように静寂を貫く。近付く足音は海のように荒れており、だけど蓄積した疲れのおかげでいつしか音は消えていた。
 やがて立ち塞がる相手が変わった。誰もいないはずの教室で、彼らは俺を待ち構えていたらしい。
「やあ、水瀬君」
「何か用か」
「明日は家族で花見に行くんだって? 俺たちも混ぜて欲しいなあ」
 通り過ぎることができない理由がある。望まないはずなのに、俺の足は教室の中へと導かれていた。
 どうして自分から進まなければならないのだろう? いつから俺の未来は間違ってしまったんだ? ああ!
「大丈夫、今日は早めに切り上げてやるから」
 ぴしゃりと教室の扉が閉められ、中で待っていた数人の同級生たちがこちらへと近寄ってきた様だけがよく見えた。
 腕を掴まれる。脚を触られる。胸の上から圧迫され、少し長くなった髪を引っ張られた。床の上に押し倒され、数人がかりで拘束され、一枚ずつ丁寧に服を脱がされる。そしてカーテンの閉められた暗い部屋の中で今日の催しは開始された。その中心にいる俺は、死人のように黙り込み自ら口を閉ざさなければならない。
「そういえば紀本さんの件はどうなった?」
「断ったさ」
「へえ! いい子だな」
 外されたベルトが床に転がっている。できるだけそれを見つめながら、俺は心を空っぽにしようと試みる。身体のどこを弄られても反応しないように努力をした。どんな言葉を投げかけられようと、気が付いていないふりをしようと思っていた。だけど現実とは常に非情なものであり、自分が望むものと正反対のものしか得られないようにできているのだ。逆らえない力により身体は大きく反応を示す。彼らの笑い声が胸の内にある全てのものを容赦なく切り裂く。いつの間にか覚えていた男の悦ばせ方を実践し、俺は無意識のうちに彼らの快楽の手伝いをしていた。
「なあ、本来のやり方だとここに入れるんだとさ」
 相手側の一人が言った声が澄んだまま耳に届いた。はっとするような響きを持ったそれは、何も分かっていないはずなのに恐ろしいことだと本能的に覚っていたのかもしれない。とんでもなく嫌な予感がして、俺は彼らの手から逃れようと全身に力を込めた。
「あ、こら! 暴れるなよ――おい、押さえ付けろ!」
「う――」
 床の上にうつ伏せに潰され、手首と足首とを掴まれて身動きができなくなる。目の前の景色がおかしいくらい白黒に光っていた。その先に誰かの目があるような気がして――ああ、それは、愛すべき弟と妹の目だった! 俺は全身から力を抜くしか方法がなかった。
 やがて下半身に異様な感触が広がり、鈍い痛みが頭の先にまで伝わってきた。男のそれが俺の中へ侵入してきた証だった。彼らは思い思いの感想を言い合い、だけど俺にはそれがどんな意味を持っているか理解することができなくなっていた。
 呼吸がつらい。息を吸って吐くだけなのに、まるで足枷を付けられたまま階段を上っているかのような苦しさがあった。気付かないうちに手のひらをぎゅっと握り締め、絶えず発信されている彼らからの伝言を片耳だけで聞いていた。
 こんなことはいつまで続くんだろう? 大事な人を守る為には、自分が犠牲になるしか方法はないのか? 何か他に大切なことを見落としていて、だから俺はこんなにも苛まれねばならなくなっているんじゃないだろうか? いくら考えてみてもこの空間の中では答えなど見つけられなかった。それは俺を遠くからじっと眺めていて、俺の手を振り解く瞬間を今か今かと待ち構えているのだ。
 誰も助けてくれない。助けられたいと望むなら、まずは自分が自分を助けなければならないから。そんなことは分かっているのに、もしも自分を追い込まねばならない状況なら、一体どうすれば助けられるのだろうか?
 俺の願いはただ一つ。弟と妹がただ「幸せだよ」と言って笑ってくれること。
「またよろしく頼むよ、聡史お兄ちゃん」
 彼らの遊びが終わりを迎えると、何事もなかったかのように全員が教室を出て行った。重くなった身体を起き上がらせ、周囲に散らばっている制服を着用する。
 こんな汚れた自分を家族にだけは見られたくない。最も見られたくないのは父さんや母さんじゃなく、俺のことを慕ってくれる弘毅と麻衣だった。あの二人が今の俺の姿を見たらどんなことを感じるだろう。幻滅するだろうか、それとも気色が悪いと遠ざかるだろうか。
 ああ――どうして。一体どうして、こんなことになってしまったのだろう。もう嫌なのに、逃げ出したいのに、どうして俺はそうすることができないのか。なぜ俺は彼らの言いなりとなり、彼らの悦ばせ方だけを覚え、彼らの道具に成り果てているのだろう。どうすればこの螺旋から抜け出すことができるというのだろう!
 いくら知られたくなくても家には帰らなければならない。また昨日のように弘毅に感付かれはしないだろうか。匂いなんて、どうしてそこまで気が回らなかったんだろう。どうすれば消すことができる? このなまめかしい嫌な匂いは、俺の何を表しているんだろうか? 違うのに、俺がそれを望んでいたわけじゃないのに、世間はそうだと信じてくれないのだ! 俺も彼らと同類のように扱われ始めているんだ!
 よろめく身体で立ち上がり、鞄を手に取って教室の扉を開く。誰もいない廊下を歩くと虚無感が襲いかかってきた。人の気配がない建物は限りなくからっぽで、それは自分の心を反映している鏡のようだと俺は勝手に思い込んでいた――

 

 

 腕を掴まれ、脚を掴まれても、俺の心は果てしなく自由だった。
 この心がある限りはどこへだって飛んで行くことができる。自分が望む場所へ、誰に制限されることもなく自らの意志で辿り着くことができるんだ。その中では何も飾る必要はない、ありのままの自分を曝け出すことができる。誰がそれを止められる? 俺の意志を堅い箱の中に閉じ込め、上から眺めているのは一体誰の瞳なのか?
 ただ一つの願いが胸の内で燃えている。その熱さは俺の身体を灰へ導くものであり、決して奪われてはならないものだった。
「弘毅、あっちの方に行くとここより桜がよく見えるぞ」
 年に何回か家族の皆で出かけることがある。今日は休みの日に全員で花見に来ており、相変わらずつまらないことで喧嘩をしていた弘毅と麻衣をなだめる為に俺は努力をしなければならなかった。
「本当に? どうやって行くんだ?」
「案内するよ」
 麻衣を父さんと母さんに任せ、俺は弘毅だけを連れて歩き出す。二人を引き離すと平穏が訪れるなんてなんだかおかしな話だった。だけど俺はその平穏よりも、二人の間で織り成される喧噪に似たものの方がずっと平穏と呼ぶべきもののように思えたのだ。
 家族は愛情の終着点であると誰かが言っていたことを思い出す。
「弘毅」
 大事なものを守る為には、まずその状況を知っていなければならなかった。だから俺は彼に直接話しかける方法を選ぼうと思った。
「ん? 何?」
「最近何か変わったことはないか?」
「え?」
 彼は俺の欲しい答えを用意していると分かっていた。いや、そう信じなければ自分が惨めになりそうだったんだ。聞くことがどんな闇よりも恐ろしく思えたのに、俺は平気な顔をしてその恐ろしいことに手を突っ込んでいる。
「兄さんこそ何か変わったんじゃないのか?」
 幾らかの覚悟を持って訊ねてみたのに、返ってきたのは全く予想していなかったものだった。だけど俺はここで戸惑ったり慌てたりしてはならなかった。彼には「憧れの兄」を見せてやらなければならないから。
「彼女か? 彼女はいないぞ」
「そうじゃなくて、ほら――なんで海に行きたくないのか、とか」
 相手の言葉を聞き理解した。弘毅は、弟は、出来の悪い兄を心配している。何の断りもなく帰りが遅くなることや、最近の友人関係など、俺は彼を守っているつもりで心配ばかりをかけていたのかもしれない。これを一体どうすればいいだろう。どうすれば、彼に何の気負いもなく笑っていてもらえるだろうか。
 ふと気が付けば見晴らしのいい場所に立っていた。見下ろすと桜色が視界いっぱいに広がり、ともすれば幻想的な景色が俺たちを出迎えてくれている。
「ここの景色、綺麗だろ?」
「うん、そうだけど、さっきの話は」
「父さんや母さんには内緒にしてくれるか?」
 ぴたりと弘毅の唇に人差し指を当てた。そうして精いっぱいの微笑みを彼に与える。何かを察した弟は何度も頷いて見せてくれた。それは彼なりの気遣いだったのかもしれない。
 ああ俺は、彼を守りたかったんじゃなかったのか。
「……あんまり、さ。見られたくないんだよ」
 この身体、この腕、この脚。俺という人間を形作っている一つ一つの部位が、今はおぞましいくらいに汚れ切ってしまっている。人々がこれを見たならば俺から遠ざかっていくだろう。或いは同情を以て憐れみ、俺に向かって優しげな言葉を掛けてくれるかもしれない。
 だけど弘毅なら、今まで同じ時間の中で生きてきた弟なら、どんなに汚れた兄でも受け止めてくれるような気がしたんだ。俺は彼を守ろうと考えているのに、本当は彼に救ってもらいたいのかもしれない。だからこんな話を切り出したのか、その為に麻衣じゃなく弘毅だけをここに連れてきたのか?
「前はこんなことなかったのに、最近ちょっと神経質になってるのかもな」
「え、どういうこと? 何を見られたくないって?」
 弘毅は何も知らない。知らないなら、それでよかった。この世の暗闇を知るのは兄の役目だ。弟や妹は、ただ美しいものだけを見ていればいい。
「どちらにせよ、お前が気にすることではないよ」
「兄さん」
 泣き出しそうな瞳が目の前にある。それは俺を映し出した鏡なのかもしれない。この地球上では誰もが皆泣いているのか。彼らの言う「幸福」とは、どう足掻こうと手に入らないものなんじゃないのだろうか。
 だったらどうすれば俺は弟を守ることができる? 妹も、母も父も、俺が一体どんな人間になれば安心して笑っていてくれるのだろう?
「そろそろ戻ろう。じゃなきゃ麻衣がうるさいからな」
 この穏やかで優しい態度を形作るのは、本当は自分自身の心を安定させる為だったのかもしれなかった。

 

 +++++

 

 一人の男を殺した。それに対し後悔などしていない。俺は正しいことをしたのだという意識が胸の中に確かに存在していた。
 こうしなければ守ることができなかった。出来の悪い兄が出来のいい兄になる為には、この方法以外は何も思い付かなかった。
 世間は俺のことを愚かな兄だと嗤うだろう。暴力でしか訴えることのできない臆病者だと、低俗で怠惰に逃げた手段でしか解決できない弱虫だと、そう言って彼らは俺を見下してくるだろう。
 だけどもうそれでもよかった。俺がどう言われようと関係なかった。だってこの世で俺という存在はそれほど価値がなく、俺が守るべき存在だけが天に祝福されるべきなのだから。
 昔から変わらない。汚い役を演じるのは、出来損ないの兄だけでいい。
 灰となり燃えていく物質を眺めながら、俺は美しく心地良い感覚を全身に張り巡らせていた。陶酔と恍惚が一度にやってきたような高揚感がある。妹を苦しめた奴は炎に焼かれ十字架で罰せられればいい。悲しい思いをしていた妹に手を差し伸べてやれなかった兄が出来る最後の優しさは、これでようやく麻衣を救ってやれそうだと感じられるものでなければならなかった。
 そして残ったのは弘毅だけ。俺の傍にいる人間は、もう弘毅しか存在しなかった。
 悲しむことはない、彼が残っていてくれるのなら、俺は全力で彼を守るだけだ。外敵から守るにはどうすればいいだろう? 他のものなど信用してはいけない、所詮は俺たちとは異なる存在なのだから。狭い世界で閉じこもっていてくれれば安心できる。でもその限りなく狭い世界だとしても、ふと気が付けば広がっている可能性だって考慮しておかなければならない。
 守るんだ。俺は弟を、弘毅を、何に変えても守らなければならない。もう麻衣のように悲しむ家族を見たくない。彼女のように絶望の淵を走り続け、疲れ果てた愛しい者の姿を発見するようなことはどうしても嫌だった。
 出来の悪い兄だから、まるででたらめな方法しか思い付かないかもしれないけど。
 いつか俺と弘毅だけの世界を作ろう。他の奴らを全て排除して、二人が幸せに笑っていられる世界を、きっと俺が作ると約束するよ。
 だからそれまで待っててね、弘毅――

 

 

 

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