閉鎖

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番外編その3
 〜春休み編〜

 

 卒業式が終了し、平和な春休みが到来しても、俺の隣にいる奴の機嫌はなかなか直ってくれなかった。
「亮介、おい」
 窓から朝日が差し込んだのでとりあえず声をかけてみる。しかしベッドに横たわっている相手は布団の中でごそごそと動いただけで、一言も返してはくれなかった。
「いい加減起きろよ。身体壊すぞ」
 肩に手を置き揺すってみても同じで、もうこんな日々が一週間は続いていた。
 彼がそうなった原因なら容易に想像することができる。それは明らかにあの「卒業式」のせいだった。
 世間ではめでたいイベントとして扱われる卒業式だが、亮介の話によるとこの学園のものはとてつもなく恐ろしいものらしい。彼は詳細を教えてくれなかったから具体的にどう恐ろしいのかは分からないけれど、それが亮介の気分を害していることだけは確かだった。
 何の原因もなく機嫌が悪くなっているわけじゃない。そればかりかここで暮らしていた多くの生徒のことを想って心を痛めているのであり、そういうところを見ると彼の優しさが感じられて俺はなんだかほっとするんだ。いや、実際はほっとできるような話じゃないらしいんだけどさ。
 そんなわけで亮介は新学期が始まるまでこんな調子になりそうだった。春休みなので商売も完全にストップさせ、一日中ベッドの中で転がっている日もあった。晃やキアランの話によるとこれもまた恒例行事らしいが、常に一緒にいなければならない俺としてはどう付き合っていけばいいのか悩むのも確かであり。
「亮介ってば」
 試しに布団を引き剥がしてみる。しかしそれはとても素早い動きで相手に阻止されてしまった。こいつ、やっぱり起きてるんじゃないのかよ。
「起きろって」
「うっせえよバカ、文句あるんならキアランのところにでも行っていろ」
 やっと声が聞けたと思ったらこれか。
 仕方がないので俺は部屋を出ていくことにした。

 

 

「それでボクのところに来たの? 弘くんも大変だね」
「大変ってレベルじゃないって」
 行くあてもなかったので、俺は結局亮介の言った通りにキアランの部屋を訪れた。ちなみに晃は実家に帰っているらしく、円先生のところに行くわけにもいかないので、自動的にキアランのところへ逃げ込んだというわけなのだが。
「あいつ、いつになったら機嫌が直るんだ?」
「例年通りなら入学式にはもう直ってるよ。今年はどうか知らないけどねー」
 カップに入った紅茶を片手に持ち、出来て間もないクッキーを頂戴することにする。もしここに亮介がいたら俺の分まで食っちまうだろうな。いたらいたで迷惑だけど、いないとなるとなんだか淋しい気がする。
「……まさかとは思うけど、俺のせいで余計に機嫌が悪くなってるとか、そんなことじゃないよな?」
「それはないんじゃないかなぁ」
 今日のクッキーも美味しかった。亮介なら辛口なコメントを残しそうなものだけど、俺にとっては充分すぎる美味しさだ。相変わらずキアランは凄いと感じる。
「亮ちゃんってあれで弘くんのこと気に入ってるはずなんだよ。もし嫌ってたらもっと白々しい態度するだろうし、何より一緒に行動したりなんかしないもの」
「うーん」
 嫌ってないならそれなりの証を見せて欲しいものだが。それができないあたりにあいつの未熟さを感じる。
「キアランは亮介のことよく分かってるんだな」
 俺よりも長い付き合いをしている相手がなんだか羨ましく思えた。本心ではもっとあいつのことを知りたいんだと分かっている。それでも必要以上に踏み込む勇気が出てこなくて、だから俺はキアランに頼っているのかもしれない。
「いくらよく分かっていたとしても、ただそれだけじゃ何の意味もないよ。ボクは亮ちゃんの友達でしかないんだから」
「友達ってだけじゃ――駄目なのか?」
「それでいい場合もあるけど、亮ちゃんにとっては駄目なんじゃないかなぁ。彼が本気で欲しがってるものって、一時的なものじゃなく永続性のあるもののような気がするんだ」
 突然やたらと哲学的な答えが飛んできてどうしたもんかと思った。要するに亮介は学園内限定の卒業と同時に疎遠になるであろう友達は不要としており、大人になってもずっと付き合っていられる友達を欲しているってことなんだろうか。
 そして俺はそんな存在に近付いている? 彼が俺を眺めているその瞳は、どんな評価を下しているのだろう。
「でもそれって、まるで結婚じゃないか」
「端的に言えばそうなるね。結局人間が真に愛せるものって家族と異性だけだって、誰かが言っていた気がするよ」
 呟くようにそう言った相手は悲しげな表情をしていた。彼の先にある未来は真っ暗で、巨大な不安感が彼を押し潰していることが遠目からも分かってしまった。家族も異性も愛せない相手にとって、その言葉はあまりにも大きな意味を持ちすぎている。
 だったら家族や異性を愛する方法を知っているはずの人間は、どうすれば未来を見ることができるんだろう? 一時的に方法を忘れてしまっているだけの奴がそれを思い出すにはどうすればいいというのか。
「なんだか難しい話になっちゃったね。でもボクらはそこまで深く考える必要はないと思うよ。ありのままの姿で、感じたままを受け止めればいいんだ。自分に正直でいられたら、きっと幸せになれる」
「そうだな」
 キアランは微笑んだ。そばかすに染められた顔がくしゃりと緩み、それはとても穏やかなものだった。俺はそんな相手を見て相槌を打つ。今は何も考えずに相手の全てを肯定してやりたかったんだ。

 

 

 部屋に戻ると亮介のベッドが空になっていた。不審に思って部屋の中を探してみたが、名を呼んでも相手は出てこなかった。ベッドから出たということは機嫌が直ったということだろうか。
 彼を見つけられないまま風呂と夕食を済ませ、いざ眠ろうと自分のベッドへ近付くと、何かとても恐ろしいものを発見したような心地に襲われてしまった。
 なぜなら、いるはずのない彼が俺のベッドの中で寝転んでいたからだ。
「……は?」
 慌てて部屋の中を確認してみるが、それは俺がいつも使っているベッドに間違いなかった。なぜそこに亮介が転がっているのか。しかも相手はとても気持ちよさそうに寝息を立ててやがるではないか。
「あれ?」
 ちょっとの間部屋の中をうろうろしてしまった。理解できない。とりあえず朝は自分のベッドで寝ていた相手が移動しているということは、今日のどこかの時間帯に起き上がったということなんだろう。それは分かった。でも分かるのはそれだけで、どうして俺のベッドで寝ているかということはいくら考えても分からない。
 答えを知る為には相手に直接聞くしか道はなかった。きっと九割くらいの確率で怒られるだろうけど、このままじゃ俺の寝るスペースがないので相手の肩を揺さぶってみることにした。
「亮介」
 まるで図ったかのように相手はすぐに目を開けた。もしかしてこいつ、寝たふりしてただけなんじゃないだろうか。
「そこ俺のベッドだぞ。お前のはあっち」
「……ああ?」
 相手の目が見る見るうちに細くなっていく。不健康そうな唇から紡がれたのは明らかに機嫌の悪そうな低い声であり、これ以上文句を言おうものなら針より鋭い言葉が飛んできそうだった。
 しかし悲しいかな、俺はもうすっかりその痛さに慣れてしまっていたのだ。
「寝る場所間違えてるから起きろよ」
 ぐいと相手の肩を引き寄せる。
「うるせえバカ」
 素早い動きで俺の手は振りほどかれてしまった。
「お前がそこで寝てたら俺が寝れないじゃないか」
「てめえなんか床で充分だろ」
「じゃあお前のベッド使わせてもらうぞ」
「はあ? てめえ調子に乗ってんじゃねえか? この俺のベッドで寝るなんざ、許すわけがないだろう」
 相変わらずな亮介殿は俺を徹底的に虐めようとしてくる。やはりここは彼をベッドから追い出さねば寝る場所を確保できないようだった。俺は布団をめくり上げ、自らの身体をベッドの上に乗せて再び相手に手を伸ばす。
「何するんだてめえ!」
 先程より覚醒した感じの声が耳を貫いた。俺はちょっと力を込めて相手を追い出そうとしたが、目が冴えてきた相手は恐ろしい強敵だったことを忘れていた。
「――あ」
 揉み合っていたせいか、やわらかな布がびりりと音を立てて見事に破れてしまったらしい。それを確認するように目の前を見てみると、亮介が着ていた白のパジャマが俺の手により一つの傷を作っていた。
 なんてこった。これはどう考えてもやばいぞ。こんなことをしてあのいつも身の回りを綺麗にしまくっている亮介が怒らないはずがない。
「ご、ごめん! まさか破れるとは思ってなくて――」
 勢いで謝ってみたものの、相手からの返事がなかった。声が出ないほど怒ってるってことか? それともまだこの事態が呑み込めてないとか? どちらにせよ俺の近い将来は暗雲が覆っている景色しか見えない。ああ、こんなことなら床で寝ていればよかったよ。
「お前のよこせ」
「へ」
 静かな空間に相手の声がよく透っていた。しかし今の俺にはその言葉の意味を考えるほどの余裕はなかった。
「だから、お前のパジャマを脱いでよこせと言っているんだ。こんな破れたパジャマで眠れるものか」
「は、はあ」
 なんだか想像していたものとは違ったが、ここは大人しく相手の言うことを聞いていた方がいいだろう。俺は彼の望み通りパジャマを脱ぎ、上半身はシャツ一枚になってしまった。
 寝転がったまま器用にパジャマを脱いだ相手は俺のパジャマを着込んでいく。なんだか知らないがずいぶん慣れている手つきだった。
「……お前さ、腹のところに怪我の跡があったよな」
 何を考えているのか、パジャマのボタンを付けながら相手は話題を変えてきた。あまり思い出したくない事実だったものの、もう黙っている必要もないので正直に答えておくことにする。
「そうだけど」
「それが兄貴に刺されたってヤツなんだろ? まだ治ってないのか?」
「痛みがあるわけじゃないんだけどな。跡が全然消えないんだ」
 横になったまま亮介はこちらを見てきた。何か言いたげだが、俺がそれを理解できるはずもない。
 不思議な間が流れた後、のそのそとした動作で亮介は身体を起き上がらせた。ベッドに座っていた俺と向き合う形になり、何とも言いようのない雰囲気がその場を支配する。
「見せてみろ」
 俺が何か言う前に彼は俺のシャツをめくり上げてしまった。意見を無視されるのはいつものことだが、今回はそれほど嫌な気分にはならない。
 前かがみに倒れるように相手は俺の身体に体重をかけてきた。とりあえずそれを受け止めてみたものの、これからどうしていいか分からない。
 相手の指がシャツの下に潜り込んできた。脇腹の傷跡をなぞるように移動し、徐々に顔を近付けられる。
「ん――っ!」
 異様な感触がしたと思ったら、相手の舌が傷跡を舐めていた。
「舐めれば治るだろ」
「だ、だからってそんな――」
「なんだお前、いい反応するじゃないか」
 驚いた身体が過剰な反応を示してしまい恥ずかしくなってくる。こんなことをされると何か余計なことを考えてしまいそうだった。全然そんなつもりじゃないはずなのに、夏休みでのことが思い起こされてしまう。
「顔が赤くなってるぞ、お前」
 身体を起こした相手はすぐ近くまで顔を近付けてきた。ピンクのふっくらした唇は濡れており、俺の中にある何かが声を上げ始める。
 どうしてこんな気分になるのかだとか、そんなことは考えても分からないから考えないようにした。俺は相手に向かって手を伸ばし、両肩を掴んでいた。相手はちらりと俺の手を眺め、それでもすぐに視線をこちらに戻してくる。俺と違って彼は少しも動じていないようだった。
「亮介」
 わけもなく名を呼んだ。自分が何を求めているのか俺は知らない。相手だって知らなかっただろう。呼びかけられたからか相手は俺の言葉を待っていたらしい。いつになっても俺が何も言わないから、相手は一つため息を吐いて目を閉ざしてしまった。
「眠いから離せよバカ」
「……」
 何も答えられない俺は手を離した。相手は細い瞳で一度だけこちらを見つめ、すぐにベッドに横になってしまう。相変わらず俺のベッドから出ていく気配は感じられなかった。
 俺は無心になり、気が付けば亮介の隣に寝転んでいた。相手は何も文句を言わなかった。ただ天井をじっと見つめ、だから俺も彼の真似をしていた。狭いと思っていた部屋は恐ろしいまでに広く、その距離を思うとひたすら身体が震えて止まらなかった。
「亮介」
「何だよ」
 なぜ俺は彼の名を呼ぶのだろう。何が欲しくて彼の隣で息をしているのか。俺は彼の首を絞める為に同じベッドで寝ているのかもしれない。でも俺にそんな勇気があるだろうか?
 俺は聡史兄さんのように強くはないんだ。
 ぐいと相手の肩を引き寄せ、こちらに向けられた顔に付いている唇を塞いだ。
「な、何をするんだ、急に……」
 相手は驚いていた。驚いて身体を少し俺から離した。でも俺は彼の肩から手を離さなかった。身体を近付け、相手の上に覆い被さった。
 二つの瞳が大きく開かれる。そこに怯えはないが困惑が見られた。それがどうしようもなく美しく思え、手で触れると瞬時に灰となり俺の前から消えてしまいそうな気がした。
 もう一度唇を重ねる。彼の中にある全てを吸い取ってしまうように、舌を滑り込ませ内部まで舐め尽くそうとした。恐ろしくも魅力的な刹那が流れていた。俺は俺のままでその中へと飛び込んでいく。
「おい、弘毅」
 彼の言葉は何の意味も持たない。価値のある響きは俺の中にしか存在しなかった。
 相手を押し潰して俺は息を吸った。すぐ傍から聞こえる彼の鼓動の音が俺を生かしている。密着しているものが人間であることを理解し、俺は目を開くことができるようになり、声を出すことができるようになる。
 俺には自分以外の人間が必要だった。その人の全てを包含し、隅々まで知り尽くして噛み砕かねば生きることができなかった。今の俺には亮介しかいない。両親の元を離れ、妹を失い、兄に怯えている現在に見つけられた光など――
「弘毅!」
 強い呼び声にはっとする。俺の下で亮介が鋭い目でこちらを見上げていた。その目線はまるで危険なものを警戒している時のもののようだった。
「お前、なんだかおかしいぞ」
「おかしくなんかないよ」
「いいや」
 相手は俺を押しのけ身体を起き上がらせた。ベッドの上に座り込み、じっとこちらを見てくる。
「お前がおかしくなろうが普通でいようが俺には関係ないことだが、不安定なままで抱かれるのだけは嫌だからな」
 吐き捨てるかのように言ったその言葉の羅列は、俺に不思議な効果を与えたのかもしれなかった。
「……え?」
「目が醒めるまで頭を冷やせ。完全に覚醒したら、その時に相手をしてやるよ」
「いやその」
 どうやら亮介は俺が相手を抱こうとしていたのだと捉えたらしい。本当のところがどうだったのか、今となっては知る由もないが、彼の機転で阻止されたことは或いは救いだったのかもしれなかった。もしあのまま流れに任せていたならば、俺は本気で相手の首を絞めていたかもしれないから。
 亮介と一緒にいると戸惑うことが多い。だけど、俺はきっと彼に救われているのだろう。
「もう大丈夫さ」
 闇の中で自ら微笑んで見せた。鏡はなくとも自分の顔がどんな形をしているのか、全て理解することができる。
「ふん、そうかよ」
「どうでもいいけど結局俺のベッドから出ていってくれないのか」
「そんな面倒なこと、誰がするかよ」
 再び横になった相手は少しだけベッドの端へと寄ってくれた。どうやら隣で寝ることは許してくれるらしい。俺は体を横たわらせ、相手の黒い髪を見た。艶やかなそれは小川のように美しく流れ、思わず手を伸ばし指先で触れてしまった。
「勝手に髪に触るな!」
「いいじゃん髪くらい……」
「駄目だ」
 いくら拒まれても、どれほど理不尽な扱いを受けても、俺は彼の隣で息をする。もはや彼がいなければ生きていられなかったかもしれない。
 ああ、そうだ。そうだったんだ。今まで少しも気付いていなかったけど、俺は亮介に出会ったことで棺から這い出ることができたんだ。
 だとしたら、この想いは。
「亮介」
 名を呼ぶと相手は素直にこちらを見てくれた。俺はそっと顔を近付け、彼にキスをする。
「お前、嘘つきやがったな――」
「嘘なんかついてないってば。今のは本当の気持ち」
「は――」
 しばしぽかんとした表情をしていた相手は、やがて顔を赤く染めて勢いよくそっぽを向いてしまった。俺の気持ちは伝わったのだろうか。伝わっていなくとも、歪められて伝わったとしても、俺にとってはそれでもよかった。大切なのは伝えることだと誰かが言っていたような気がするから。
 この気持ちがどんな色をしているのかはまだ分からない。でも俺はこれを恥じたりしないようにしようと思った。これは確かに俺の中に存在する光であり、隠す必要もないはっきりとした一つの感情なのだから。
 夜の闇は深い悲しみを呼び覚まそうとする。
 俺は彼らの悲鳴を耳元で感じながらも、隣にある命の鼓動を聞き安定した時間を過ごすことができた。

 

 

 

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