月のない夜に

 

 

 ばらばらになった欠片をかき集めながら、俺はそこに映し出される光景を眺める。粉々になっているそれを一つ残らず集めることは不可能だったが、切り捨てることもまた必要であるということを知っていた。本当に大事なものだけを選択し、要らないものはどんどん捨てていく。掬い上げた手のひらから大切なものが零れ落ちていく。求めているのにいくら探しても見つからないものもある。そうやって不完全な形を保ったまま、新しく生きる自分を創り上げていくのだ。
 今日限りで全てが終わる。古い世界は破壊され、そこを礎として新たな生命が芽吹くだろう。
 朝日が窓の外から差し込む中、俺は鏡と向き合って髪を整えていた。昔に比べすっかり短くなった銀髪が自分の顔を別人のように思わせる。だけど俺は間違いなくラザーラスであり、ロイでもあった。俺が俺でなくなることなど決して有り得ないのだ。
 木造の軽い扉を開き、慣れ親しんだ部屋を後にする。廊下に出ると俺を待っていた樹と目が合った。彼と手短な挨拶を交わし、二人揃って広間へと足を運ぶ。
 いつだって早起きなカイは既に朝食の準備を始めていた。俺は広間の席に座り、隣には樹が腰かけた。それほど時間を持て余すこともなくカイが朝食を机の上に並べ出し、それを終えた彼は俺と向かい合う場所に座った。
「いただきます」
 樹の小さな声が部屋の中を駆け巡る。俺もまた一つ会釈をし、目の前に置かれた料理に手を伸ばした。
「二人とも制服を着てないみたいだけど、学校には行かなくていいのか?」
「今日は日曜日だよ、師匠」
 手を伸ばせば届く距離にいる樹が俺の代わりに全てを答えてくれる。俺でさえ知らないことを口にしてくれるけれど、俺だけが知ることは決して話そうとはしない。彼は俺を知っているがラザーラスではないのだ。
「じゃあ今日は家でゆっくりして――」
「いいや」
 首を横に振ったのは樹ではない。彼の言葉を遮った俺は、相手に自分自身を見せる為に声を出して表現する。
「組織に行ってくる。そして全てを終わらせてくるんだ」
 俺の言葉を聞いたカイは驚いた顔をしていたが、穴だらけの意思を吹き飛ばすような風は作らなかった。

 

 

 大地を噛み締めるようにゆっくりと歩く。朝の日差しが二人を優しく包み込み、俺と樹は人気の少ない道を突き進んでいた。誰も二人の前進を止めることはできなかった。自ら歩き出した俺たちは、誰にも止められない権利を得ることができたのだ。
 やがて辿り着いた目的地は幸助の住むアパートの一室だった。インターフォンを鳴らすと間を置いてから扉が開き、そこの主である幸助がまず顔を出す。彼はまだ眠そうな顔をしていた。起きたばかりの息を吐き出し、俺と樹に向かって明るい表情を向けてくれる。
「おはよう。清明も起きてるよ」
 相手の了承を得て部屋に上がり込む。狭い室内には目覚めの陰鬱さが充満していたが、床に大人しく座り込んでいる清明にはそれがよく似合っていた。相手はぼんやりと窓の外を見上げており、その態度からは俺と樹が訪ねてきたことに気付いているかどうかさえ判断できない。
「清明」
 試しに呼び掛けてみると彼はこちらを見た。深い漆黒の瞳が俺の姿をきちんと捉えていた。
「ラザーラスか」
「ああ。これから組織に行ってくる。その報告をしに来たんだ」
「律義な奴だな」
「あんただって人のこと言えないだろ?」
 昔のようにおどけた顔で俺は笑う。相手は少し顔を俯けたが、それでも口元には薄い笑みを浮かべていた。
「それじゃ、もう行くよ」
「ラザーラス。俺はあの男が嫌いだが、できれば救ってやって欲しいと思っている。あの男は救いを遮断している。世の中のありとあらゆる幸福を遠ざけているんだ。もしもお前が彼と話すことのできる最後の一人だとすれば、彼に残された道もまた一つ増えているのかもしれないから」
「うん」
 清明は立ち上がり、高い位置にある目で俺をまっすぐ見てきた。そうしておもむろに手を差し出してくる。俺は彼の手に自分のものを重ねた。お互いの手の温かさを確認し合い、おそらく最後になるであろう抱擁を受け取る。
「また会おう、ロイ」

 

 

 霧が広がっているように視界がはっきりしていない町を二人で歩いていた。忙しそうに朝の仕事に勤しむ人々を眺めながら、俺と樹はエダの家の前へと足を運ぶ。薄汚れた小さな家の玄関には植木鉢に入れられた花が並んでいた。俺がそこに近寄ろうとすると、裏側から回り込んできたセレナが手に持ったじょうろで花に水を与え始めた。
「セレナ」
「あれっ、ラザーラスさん! おはようございます」
 声をかけると彼女は驚き、だけどすぐにやわらかな微笑みを見せてくれた。それが嬉しくて俺の顔も素直に綻ぶ。簡単な挨拶を済ませ、俺と樹は家の中へと案内された。
「よう、そろそろ来るんじゃないかと思ってたぜ」
「おはよう、ロイ! それに樹君も」
 待ち構えていたエダとヨウトが同時に声を飛ばしてくる。二人は合図を決めていたかのように揃って立ち上がり、俺の隣を通り過ぎて先に外へと出ていった。
「ほら、さっさと行こうぜ」
 何も話していないはずなのに、二人はもう分かっているようだった。だから俺は安心することができる。離れていても心が通じ合うという大それたものではないが、二人は信頼に値する家族のような存在だと認識できるようになっていたのだ。
 二人を追って外に出ると雲間から朝陽が眩しく煌めいた。それがここにいる人や建物を全て巻き込み、この町全体を一瞬間で染め上げてしまう。
「皆さんお揃いで、どこかへ遊びに行くんですか?」
 どうしてだか気の抜けるようなセレナの声が後ろから聞こえた。俺は振り返り、彼女の不思議そうな眼差しを見る。知る必要のないものを知らない少女はとても美しい。だからこそ俺は彼女を守ろうと思ったのだと気が付いた。
「遊びに行くんじゃないさ。悪者を捕まえに行くんだよ」
 俺が口を開く前に調子のいいエダの回答が飛んだ。彼はセレナに向かってウインクをする。何も分かっていないような顔でセレナは彼の姿を見つめ、それでもすぐさま表情を改めて胸の前でぎゅっとじょうろを握り締めた。
「皆さん、頑張ってくださいね! 私、ここで皆さんの帰りを待っていますから」
「泥棒には気を付けろよ」
「任せてください!」
 無垢な少女に見送られ、俺たちは朝靄に包まれた小さな家から遠ざかった。

 

 

 警察の本部では朝から騒がしく人々が行き来していたが、その中をくぐり抜けて辿り着いた一室は静寂に支配されていた。三人を引き連れて俺はヤウラの部屋を訪問する。くつろいでいるはずなのに青い制服をきちんと着込んだ男は厳しい表情をしており、相変わらず威厳だけが感じられる椅子に堂々とした態度で座っていた。
 何も言わずに彼の前へと近付いていく。目が合った時に確かなものを感じ、それを表すかのように彼は椅子から立ち上がった。机の上に置いていた白い手袋を装着し、俺の前に君臨するかのように立ち塞がる。
「今からか?」
「ああ、準備は出来ているのか」
「そんなものはとうに済んでいる」
 普段と違わない受け答えは俺の気持ちを落ち着かせてくれた。思わず苦笑が漏れ、彼に先陣を許してしまう。壁にある隠し扉を皆の前で開き、彼は誰よりも早く太陽の下へ身をさらした。それを追うように俺たちも外へと出ていく。
「それでは、行こうか」
 ヤウラの言葉に全員が頷いた。それぞれ別々の面持ちを作り、だけど一つきりの目的の為に進んでいく。俺たちは世界を壊すのだ。あの人が創造した素晴らしい桃源郷を、彼から与えられた力を以て破壊する為に歩いている。
 もう立ち止まっている時間など残されていなかった。道はもはや前にしか伸びていないのだから。

 

 

 一歩、また一歩と進み、俺たちは彼の元へと向かう。
 森の中の道を抜け、入り口付近でヤウラとヨウトの二人とは別れた。ヤウラは組織から連れ出したあの人を捕まえる為に、そしてヨウトはヤウラの護衛をする為に木々に囲まれた外の世界で待っていてもらうのだ。中に入り込むのは三人で充分だった。俺と樹はエダに道案内を頼み、組織の入口から堂々と侵入する。
 門番が俺たちを止めようと手を伸ばしていたが、樹を取り巻く精霊の力により彼は深い眠りに落ちた。暗い廊下を歩いていくとたくさんの人とすれ違う。その誰もが俺の知らない人であり、だけど彼らは愛すべき同志に他ならない。もしかしたら話をしたことがあったかもしれない。あるいは一緒に仕事をしていたこともあったかもしれない。この組織の中では皆が家族のような存在だった。社会からはみ出してしまい、普通の人間として生きられなくなっても自由だけを求め、どうしようもない過ちを繰り返してしまった兄弟たち。誰もが同じものに憧れ、同じものを必要としている。たった一つのもの、いくら手を伸ばしても掴めなかった、どこにあるかも分からないものを求めていたんだ。
 彼らは俺たちの姿を見ていたが、前進を阻止しようとはしなかった。生きていない身体を引きずって光の押しやられた瞳をこちらに向けていた。誰かの傍を通り過ぎるたびに相手の息遣いを感じる。地面に手を付け、頭を擦りつけ、それでも生きようとした人間の心音が確かにそこにはあったのだ。
 その真ん中を俺は歩いている。彼らの思いに引きずられながら、それでも決して足を止めようとは思わなかった。俺はくっと顔を上げ、胸を張り、ただ向かうべき場所だけを見つめて前進していく。もし歩いているのが一人きりだとしても何も怖くはなかった。いつの間にか俺を導いているエダの姿がなくなっていて、俺は自分の意思であの人の元へと歩いていた。
 水を与えられた花は空を見上げ、やがては新しい生命を生み出すだろう。
 聞こえる足音が増えている気がした。三人だったものが五人に、五人だったものが十人になったように聞こえている。息苦しかったこの廊下はとても長く、だけど今ならその長ささえ楽しむことができただろう。徐々に近付いてくる世界の果ては懐かしい場所であり、まだ子供だった自分が生まれ変わった地でもあった。そこへ到るまでに昔のことを思い出している。この長い廊下から自分がロイとして生きた軌跡を感じ、俺はとても穏やかな感情に包まれていた。
 あの頃の疑問や苦しみが身体の中を流れていく。それを眺めながら、俺はやがて一つの扉の前に辿り着いた。
 何一つとして躊躇うこともなく開いた扉の先には誰もおらず、俺はまっすぐもう一つの扉の前へと突き進む。きちんと整頓された部屋に潜む隠されたような扉は俺を待っていた。彼の前に立った俺は軽く挨拶を交わし、導いてくれた空間へと足を踏み入れる。
 そうして俺は、ようやくこの地に立つことができた。

 

 

 

 黒い靄が満ち溢れ、そこは深淵の如く暗闇と化していた。終わりのない絶望の中心には消えそうな灯が揺れており、かろうじて物の形が認識できるようになっている。扉は開け放たれていた。それを閉める人間がいなかったから、全ての世界に筒抜けになっている空間がこの中に押し込められていた。
 中心に立つ人物がいる。すっかり古くなった茶色の衣を身に纏い、仮面さえ付けずに素顔をさらしている金髪の男性。彼は見慣れた微笑みをその顔に浮かべていた。広げられた両手の中に小さな宇宙が創造され、そこから休むこともなく美しい生命が生み出されていく。
「どうかしたのかい、そんなに大勢を引き連れて」
 彼の声が部屋いっぱいに響き渡る。声を乗せて流れる風の動きに違和感を覚え、驚いた俺はさっと周囲を見渡した。そこにはたくさんの人がいた。樹とエダだけじゃない、見覚えのある奴や全く知らない人、小さな少女から白髪に包まれた老人まで、大勢の人々が俺たちを囲むように立っていた。彼らは地にしっかりと足を付けていたが、それでもその身体はどこかおかしな人ばかりだった。間違いなく彼らはこの世界で這いずり回っていた人間だったのだ。
「私に刃向かうつもりかい?」
 静かな声に答える者は誰もいない。引き下がる者もここにはいない。彼らの瞳には強い意志が宿っていた。地の底から這い上がろうとする、勇気付けられた何かが空へ向かって伸び始めていたのだろう。
 誰か一人でもいい、たった一人でもそれに気付き、声を上げて立ち上がることができたなら、世界は変わることだってできる。彼らは待っていたのだ、自らを導いてくれる救世主の存在を。俺だって遥か昔から待っていた。伸ばした手を握ってくれる光の人をずっと待ち続けていた。
 だけどいくら待ってもそんな人は現れない。だって救われたいと願うなら、自ら行動を起こさない限り救世主はこちらを見てくれないのだから。自ら動こうともしない人間を救世主は助けようとはしないのだから。
 こうして立ち上がった彼らはいつかきっと救われるだろう。今すぐは無理でも、長い時間をかけて新たな花を咲かせるだろう。俺はそれを見ていよう。便利なものが何一つない世界で、彼らの向かう大地を並んで見つめていよう。
「クトダムさん」
 もう彼の世界は必要ない。
「あなたの創った桃源郷は、世界に害しかもたらさなかった」
「ロイ」
 彼の腕が宙を舞う。頭上に持ち上げられ、大きな弧を描き、それが下ろされた頃には僕の上から銀の煌めきが零れ落ちた。彼の一振りで僕の身体は操作される。唐突に長くなった髪が確かな重さを感じさせていた。
「ロイ。彼らは人々に追い出されたのだ。だから私が彼らの生きられる世界を創った。お前だってそこを必要としていただろう」
 僕の罪は彼を裁けなかったこと。
「追い出されても立ち向かわなければならなかったんだ。僕らはあなたに甘えていた。あなたの創った居心地の良い世界でずっと笑い続けていた。だから僕らは泣くことができなくなった」
 顔に貼り付けられたものがぱらぱらと音を立てながら崩れていく。塵を拾い上げる者はいない、誰もそれを必要としないから。
「お前は私を否定するのかい」
 僕の罪は彼に意見できなかったこと。
「いいえ」
「ロイ」
「あなたは間違っていません。ただあなたのやり方が間違っていたのです」
 部屋の奥から大きな音が響く。何かが崩れ落ちたような騒がしい音だった。相手の足元で絵の具が入った瓶が転がっている。
「ロイ」
 彼の声と共に部屋がぱっと明るくなった。
 僕は息を呑む。それから大勢が注目している中で、彼の世界をゆっくりと見渡した。
 床には何枚もの絵が散らばり、壁は様々な色で塗りたくられている。部屋じゅうに緑の茎が曲がりくねって侵入し、見たこともない色とりどりの花が咲き誇っていた。そして奥にはたくさんの人形が並べられていた。人間と同じ大きさの少年や青年、また壮年や老人の人形も力なくうなだれている。その中に女性は混ざっていない。数え切れぬほどの男が彼を取り囲んでいたのだ。
 引き剥がされた暗闇は誰の元へ飛んでいったのだろう。
「私は待っていた。お前のその言葉を待っていたのだよ、ロイ」
 僕の罪は彼を求めたこと。
「クトダムさん」
「やっと私の世界を見てくれたね」
 彼は近付き、僕の手を取った。そこに軽く接吻する。
「もう思い残すことはない。さあ、私をそこへ案内してくれ」
 長くなった髪が風に吹かれて揺れていた。彼はやわらかく微笑んでいた。僕は彼の白い手をぎゅっと握り締め、自由に縛られた狭い世界へと導かねばならなかった――。

 

 +++++

 

 学校の屋上から見慣れた風景をぼんやりと眺める。
 時間は過ぎ去ったが、あの頃と変わったものは何一つ存在しなかった。髪も長いままだし、学校生活は単調で、友人関係に歪みが生じたわけでもない。俺はラザーラスという一人の生徒としてこの地で暮らしていた。退屈とも言える日常が再び俺を生ぬるい水の中へ放り込んでしまっていた。
「ラザー」
 俺を呼ぶ声がすぐ隣にある。何も変わっていなかったが、彼との距離だけは大きく変わったのかもしれない。
「どうした」
「夕焼け、綺麗だな」
 俺の隣で樹が沈みゆく太陽を見つめていた。その顔は憂いを帯びることもなく、ただ夕日だけをまっすぐ見ている。
 校舎の下からは生徒たちの声が聞こえてきていた。遅くまで部活動に精を出していたのか、とっくに授業は終わったはずなのにたくさんの人々の声が聞こえる。世界は淡いオレンジに包まれて眠り始めていた。深い闇が襲ってくる前に、安心できる場所へと帰らなければならない。
 ふと手にあたたかいものを感じた。そこに視線を落とすと樹の手が添えられていた。確かめるように彼の顔を見ると笑い掛けられ、俺はなんだか夢の中にいるような心地になる。
「昨日のことは、夢じゃないんだよな」
 美しい夕日に向かって問いを投げかけた。今朝に見たひたすら悲しい夢を思い出す。
「それを確かめる為にも今晩、行くんだろ」
「……ああ」
 心に穴が開いていたが、そこにはきちんと蓋をしたので漏れ出すものは何もなかった。失った標は夕日の中に隠れている。たとえ一つの世界が崩壊しようとも、世の中にある美しいものは顔色を変えることはないのだ。俺はそれを知っているからここで息をすることができる。
 樹と共に学校の外へと向かった。人通りの少ない道を歩き、長く伸びた自分の影を追いかける。穏やかな空気が漂っていた。恐ろしいものなど最初からなかったかのように、この国独特の平和が俺の前ではしゃいでいる。その隣を通り過ぎてまた夕日を見上げた。高い場所から見るものより大きく思えたそれは優しげな光を降らせていて、俺が進むべき未来を祝福してくれているように感じられた。
 俺の世界はここにある。
「さあ、行こうか」
 手を握っていてくれる樹に声をかけた時、俺はとても自然な笑顔を向けることができていた。

 

 

 

 孤独を感じた月が泣いていた。その涙は星となり、暗い夜空の海を自由に泳ぐ。
 やがて星々で満たされた空は月を必要としなくなった。月は嘆き、生き抜く為に努力をした。月は星に負けない輝きを生み出した。そうやって遠い空から世界中を照らしてくれていた。
 それは道標だった。いつも俺を支えてくれていた光だった。その光を見失っていた俺は、月が消えてしまったと思い込んでいたのだろう。いつだって月は俺の傍にいてくれたのに、俺は気付くことができていなかった。
「すっかり暗くなっちゃったな」
 警察の本部を見上げる樹が感情を漏らす。憧れていた月は建物に隠れて見えなくなっているが、そこに有るという事実だけでも俺にはもう充分だった。放たれる導きを全身で受け止め、道に迷うこともなく前へ進むことができる。
 樹を連れて警察の中へと足を踏み入れた。だだっ広い空間に出迎えられ、目的であるヤウラの部屋へと歩き始める。
 これが最後の面会になるだろうと聞かされていた。処置が決まったあの人は今晩牢獄へ移される。行き先はあまりにも遠すぎて、もう二度と会うことはないのだろう。俺は何度も深呼吸をしながら長い廊下を歩いていく。
 一歩進むたびにあの人へと近付いていた。最後にどんな顔をして会えばいいのか、何を話せばいいのか、そんなことはいくら考えても答えなど出てこない。時間だって決められているから顔を見るだけで終わってしまうかもしれない。ただ俺は、あの人に会うことこそが大事なのだと知っていた。
 廊下の壁に丸い時計が掛けられている。規則的な音がリズムを刻み、ひとりでに歩みが速くなっていた。
「ここって左?」
 曲がり角に辿り着き、一度足を止めた。間違った方向へ進もうとする樹を引き止め、正しい道へと向き直る。そうして白い角を勢いよく曲がった。
 長く続く廊下がある。壁も床も真っ白で、だから別世界のように感じられたのだろう。
 青い服を着たヤウラに連れられて歩いているあの人の姿が見えた。俺が立っている道の先に、クロスした通路の上をゆっくりと歩き、左側から右側へと進もうとしている。彼の美しい金髪が揺れていた。
 一秒間の映像が何百枚もの絵画として俺の目に映り、足先から頭上へ電光のように駆け巡る何かの存在を静かに感じる。
 気付けば走り出していた。そうして辿り着いた先で大地を蹴り、俺は彼に飛び付いて力いっぱい抱き締めた。
 周囲から驚いたような声が聞こえた。だけど感情が止められなかった。俺の中で眠り続けていた感情が泉のように溢れ出し、それが涙となって形作られる。
 表に出すべきものではないことは分かっていた。本来なら腹の奥に封印して、最初から気付いていなかったことにすべきだということも分かっていた。
 だけど、どうか、今だけでいいから許してくれないだろうか?
 どうしても抑え込むことができなかったその感情は、ただ彼を愛しているというものだけだったのだから――。

 

 

 

 

 

 

 

Fin.

 

 

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