死者には花を供えるべきだ

 

 

 世の中には忘れようとしても決して忘れられないほど印象的な出来事がある。その出来事に価値があるかどうかということは関係なくて、ただ頭に貼り付いて何年経っても色あせずに鮮明に甦ってくる瞬間というものがある。
 しかし俺は警察という厄介な職に就いているにもかかわらず、今までそんな経験をしたことがなかった。そしてそれがずっと続いていけばいいと思っていた。
 だが、そんなものはただの夢にすぎないようであった。
 普段のように仕事を言い付けられ、何事も変わらぬよう気を配りながら現場へ赴く。

 

 それは子供だった。
 せいぜい十四、五歳くらいだろうか。青年と呼ぶにはあまりに幼い顔立ちをしており、しかしその瞳には異常な光が宿っているのも確かだった。ただ今は怯えているのか、青い制服が何を意味するのか知っているのか――全ての動作を止めてじっとこちらを睨むように見ている。抵抗しようとする気配すら感じられなかった。
「この家の者を殺したのはお前か」
 率直に聞くと相手は目を見開いた。そうしてようやく事態が飲み込めたかのように、顔いっぱいに恐怖の色を浮かべて何度かまばたきをした。
「質問に答えろ」
 返事を促したところで効果はなかった。子供はただ震えているだけで、その口は決して動かない。
「まあいい。一緒に来てもらう」
 ぐいと腕を引っ張ると容易に連れ出すことができた。それが何だか不思議に思えた。子供ゆえの素直さなのか、それとも恐怖のあまり力が抜けたからか。考えると疑問は膨らむ一方で、被害者の家から出た頃になってやっと相手の顔を見下ろしてみた。ほとんど何気なく、ただ自らの好奇を無くすためだけに。
 後になってひどく後悔した。そんなことなんてしなければよかったと。
 暗い夜空の下、月も星も出ていない暗黒の光の中で、煌めきの残る銀の髪を持つ少年は、声も出さずに静かに泣いていた。……

 

「名前は?」
 帰り道、様々な質問を投げつけてみた。しかしどれも結果は変わらず、ただ無言の返答が跳ね返ってくるだけ。
「目的は?」
 無駄だと分かっていても、立場上、無視することはできない。
「答えないと分からないだろう」
 何を言っても聞こえていないようだった。それでも素直についてくるあたりが非常に不可解だった。
 明らかな現行犯。手はどす黒い赤に染まっており、服も多くの赤い染みを作っている。今では空気や風に触れ、時間も経っているので鮮明さは劣っているが、彼の腕を掴んだその時にはっきりと見えたならば、その鮮血の赤さと勢いは異常なほど生々しく見えたことだろう。
 今回の件は眉をひそめる部分が多い。
 事件はそれ自体では非常に単純な代物だった。しかしこの子供――殺人犯の子供の様子が、非常に奇妙だった。或いはこれが当然なのかもしれない。しかし俺には、そこに何かがそっと潜んでいるようにしか思えなかったのだ。だから俺は眉をひそめた。単純な事件の中に埋もれていた感覚が、無理矢理起こされたように感じられた。
「つい先日、あの街の外れに住んでいた二人の兄弟が殺された。二人はまだ子供だった。母親の話では、銀髪の子供が逃げていくのを見たそうだ。それもお前なのか?」
 少年は足を止めた。明らかに動揺しているようだった。
「やはりお前か」
「……嫌だ」
 そこで初めて声を発した。消え入りそうなそれは、風に流されて簡単に消滅してしまう。
 彼は人を悩ませるのが非常に上手いらしい。
「一体何が嫌なんだ。牢屋に入るのが嫌なのか? 罰を受けるのが嫌なのか?」
「違う」
「じゃ、何が嫌だっていうんだ、お前は。どんな理由があろうと罪は罪だ。それ相応の罰を受けなければならない。つまらない御託なら腹の底にでもしまっておくんだな」
「やめて……」
「は?」
「もう、帰して」
 どうにも話が通じていないらしい。だが、嘘を吐いているわけではないようだった。
「お前はあの家の者を殺したんだろう。だったら帰すわけにはいかない。法で裁くからだ。それくらい分かるだろう? それとも何か他にあるというのか? 何か――そうだ、お前、あれは、お前自身の考えで行なったことなのか」
「行なったのは僕だ」
「なんだ、じゃ、お前は命令されていたのか。誰に命じられた? それとも脅されたのか?」
「脅されてなんかない。僕は僕自身の判断で行なったんだから」
「だったら話は変わってくるぞ」
「あの人の為なら何だってする」
 そうして彼の不可解さは消え去った。俺は全てを掴んだと思った。

 

 本部に着くと誰も使っていない個室を探した。罪人を後ろに連れて歩くと周囲の視線を集めることとなる。そんなことは分かり切ったことだったのに、普段なら無視できるものでも今は非常に煩く感じてしまう。
 焦りが少しの眩暈を促進した。人の気配のない無言の部屋を見つけると、まるで恐ろしい地獄から脱出するように中に逃げ込んだ。
 少年は素直についてきていた。虚ろな瞳は何者も受け入れようとせず、固く閉ざされた口は一つの言葉さえ吐き出そうとしない。あらゆる思惑が交ざり合った気色の悪い視線の中でも少しも動じず、ただ俺の後ろをひたすら追うように歩いてきていた。
「さて、じゃあ――」
 振り返り、改めて相手の姿を眺めてみる。相手は怯えてはいなかったものの、大人に対する警戒心がその大きな瞳に深く刻み込まれていた。
 しかし、今はそれよりも別のものが気になった。
「そうだな、まずは手を洗おうか」
 少年の手は鮮血でどす黒くなっている。彼もそのままでは気分が悪いだろうし、見ているこっちも嫌気が差してくる。どちらにしろ一番にすべきことはそれだろうと俺は判断した。
 子供は自らの手を見下ろしていた。
「それから、その服もどうにかしなければならないな。ついでに顔も洗ってこい。気になるようなら髪も洗って構わない。必要なら風呂を貸すが、どうする?」
「あの」
「ん?」
 銀色の瞳は少し宙に漂い、そこからは躊躇いの色が窺われた。しかしそれはほんの数秒間のことであり、すぐに視線を合わせてはっきりとした口調で尋ねてくる。
「髪……汚れてるの?」
 なぜだろうか。その一言が胸に深く突き刺さり、言葉では言い表わせない衝撃を受けた。

 

 最終的に俺は少年を連れて自分の部屋へ行った。部屋と言っても俺はここ以外に家を持っておらず、毎日この部屋で寝泊りしているため、罪人を自分の家に連れ込んだことに等しくなる。そんなことを知る由もない少年は俺の提案に従って風呂に入った。その隙に汚れた衣服の代わりとなる服を探す。
 自分の部屋にそんな物が見つかる訳がなく、仕方なしに自室を出て探すことにした。あまり気は乗らなかったが他にどうしようもなかった。ただ誰にも気付かれぬよう恐れながら気配を殺していた。そして何故そこまで神経質になっているのか分からずに自問自答するのであった。
 倉庫には大抵の品物が置いてある。俺が探し求めている物もそこにあった。だが、一体どういう冷罵なのか、そこにある物は全て黒だった。俺はその中の一つを無造作に掴んだ。
 部屋に戻っても少年の姿はなかった。俺はしばらく待つことになった。その間に残っている仕事を一つずつ片付けていく。
「厄介な事にならなければいいんだがな」
 呟きは誰にも届かなかっただろう。

 

 +++++

 

 少年は黒い服を上下に着込み、その輝かしいまでの白銀の髪が異様に際立って見えた。血の汚れもすっかり落ちた後の姿はとても綺麗で、こんな子供が人を殺しただなんてどうにも信じられない程であった。それでも今、対峙しているのは紛れもない罪人。惑わされてはいけないことを知らなければならない。
 部屋に二つしかない椅子を引っ張り出し、一つに少年を座らせた。自分は机を挟んで普段の席に腰を下ろす。
「じゃあ、聞いてもいいか」
 少年は問いに対し一つ頷いた。しかしその目はこちらを見ようとしていない。
「名前は?」
「ロイ」
「フルネームで」
「ロイ・ラトズ」
「そうか。俺はヤウラ・アシュレーだ」
 ちらりと少年――ロイは俺の顔を見る。
「ここがどこだか分かっているか?」
「警察」
「そうだ。それだけ分かっていればいい。では聞くが、お前は何故あんなことをした?」
「あの方が望むことだから」
「それを具体的に」
「クトダム様が、力石(りょくせき)を求めているから」
 二つとも耳慣れない名だった。クトダムにしろ力石にしろ、一般人には縁のない代物達らしい。それらの単語を吐き出した少年は、深淵の中にでも落ち込んだかのような暗い表情をしている。
「お前はどこに住んでいる?」
「クトダム様の傍に」
「それはどこだ?」
「……それは、口では言いにくい」
「そうか。分かった。よく頑張ったな」
 俺の言葉が不可解だったのか、相手はこちらを見つめて不思議そうにまばたきをする。俺は少し表情を崩した。
「なにも好んで殺しをしたわけじゃないんだろう?」
「な、なんで……」
「確かにお前がしたことは罪だが、それは幇助(ほうじょ)だ。それにお前はまだ子供。そう大きな罰は背負わされないだろう」
「…………」
 黙り込んだ少年は下に俯く。
「僕は」
 次に口を開いた時、ほんの少しだけ相手の持つ空気が変わっていた。そして俺は、罪人に対して警戒する精神をどこかに置き忘れてしまっていた。
「僕は僕の意志であれをやったし、あなた達に捕まって牢の中で過ごそうだなんて少しも考えていない。僕はすぐにでもここを出ていき、あの方の元へ帰りたい。僕はあの方の為に働かなければならないから。あの方は僕を救ってくれた。だから僕もあの方を救わなければならない。救わなければきっと許されない。確かに人を殺すのは……嫌だし、可哀想だと思う。でもそれをしなければあの方が悲しむんだ。僕はあの方に笑っていてほしい。僕が人を殺すことによってあの方が安堵を手にできるなら、僕は何だってできる気がする。人殺しでも、泥棒でも、何でもいい。だって僕は、あの方の為だけに……あるんだから」
 目の前にいるのは子供だった。だが、俺の目の前にいるのは何だ? こいつは本当に子供だろうか? いや、子供には違いないだろう。だが――ああ、そうだ、きっと、生気が感じられないからおかしく見えてしまうんだろう。
 俺が目の当たりにしたのは徹底した『自己犠牲』だった。しかしまだ子供であるはずなのに、何故こんなことができるのか俺には理解できなかった。何が彼をそうさせているのか。何が彼をその道に追いやったのか。
「ロイ、君は――」
「ごめんなさい、ヤウラさん。見逃してください」
 そこから嘘は見出だせない。
 俺は。
 ……道が見つからない。
 どうすればいいだろう。何をすれば正義になるだろう? しかし正義とは何だろう。世間にとって喜ばしいことは、彼を捕まえ、牢に入れ、罰を与え、監視し、首輪を付け、手にも足にも鉛のような重りを引きずらせ、罪を罵り、冷水を頭から浴びせ、見せしめに首を落とすことを指すのだろうか。相手にとっての正義とは、このまま何もなかったこととして逃げ出し、得体の知れない主人の元で働き、盗みと殺しに手を染め、暗黒へ、怠惰へ、深淵へ手を伸ばしているとも気付かずに、それを放置しておくことなのだろうか。
 悪寒が全身を駆け巡った。
「君をこのまま帰すわけにはいかない。君はここで罪を償わなければ。その主人の元へ帰ってはいけない、絶対に。そうすれば君は間違いなく破滅する」
「破滅したって構わない」
「何故! 何故そこまでその主人に尽くそうとする?」
「きっとあなたには分からないでしょう」
「君、は……」
 限界だった。

 

 +++++

 

 何故だ。
 何故俺は彼の味方をした。
 何故俺は犯罪を見過ごした。
 所詮それが俺の求める正義だったとでも言うのだろうか。
 世の中から犯罪をなくすことを生き甲斐としていた俺はどこへ消えた? 一体何が、俺を変えてしまったのだろう。
 あの時俺は何一つとして言葉が見つからなくなった。少年はまっすぐこちらを見上げて懇願し、見逃してくれるよう繰り返すだけ。普段なら断固として否定しただろうし、たとえ子供といえども情けを掛けるような真似はしなかったはずだった。それなのに俺は見逃した。あの殺人犯を逮捕もせずに世間に放置してしまったのだ。これは一体どういうことだ。これが正義のあるべき姿だったのだろうか? 否。決して! たとえどんな理由があろうとも罪は罪だと少年に言ったのは他でもない自分自身だった。そこに嘘があったとでも言うのか? いいや、そんなはずはない。それを否定することなど、俺にできるはずがなかった。できるはずは、なかったんだ。
「なかったのに……」
 何故、と何度繰り返したことだろう。しかしあの日から一年が経った今、それは最早過去の出来事と化してしまった。警察は呑気に考え事をするほど退屈な職業ではなかった。それに一つ一つの事件に逐一感情移入をするほど暇なものでもなく、大抵の事件は時期が過ぎれば忘れ去られてしまうものである。あの日の出来事も心残りではあったものの、忙しい日々を送っているとだんだん色が薄れていき、今日になるまですっかり記憶から消えていた程であった。
 仕事が一段落ついた頃、俺は妙な噂話を耳にした。普段なら噂など信じる質ではなかったものの、その噂はあまりに妙だったので、自分でも可笑しいほど俺はその噂に興味を持った。それはこんな内容だった。
『殺されたら殺す、殺せるなら殺す。そんな子供がいる』
 最初はただの嘘八百を並べた出鱈目だと思っていた。普通に考えて自分が殺されたなら相手を後に殺せるはずがないし、先に相手を殺して後から殺されるならそんなことを言われる程のことでもない。それに大人ではなく子供だという点も怪しさを強調していた。しかし、その噂を聞いて俺はあいつのことを思い出してしまった。そして同時にあいつが言っていた耳慣れない名称を思い出した。
 力石。
 俺はそれについて調べようと思ったことはなかったが、この一年でその得体の知れない石のことは何度か耳にしたことがあった。だが耳にする度に訳が分からなくなった。何故なら皆言うことが一致しておらず、何が真実なのか全く判断できなかったからだ。唯一はっきりしたことは、それがこの警察の本部のどこかに保管されているということだけだった。
 俺は知らない内にその噂の虜になっていた。ある日ふと無性にあいつに会いたくなった。どこに住んでいるかだなんて見当もつかなかったが、ちょうどそんな時に一つの村が崩壊したという話を耳にした。その時俺は外に出ていきたくてたまらなかったので、適当に理由を作ってその崩壊した村へ向かうことにした。
 それが正解だったか誤りだったかは、誰にも分かりはしないだろう。

 

 +++++

 

 村は完全に廃墟になっていた。
 まだ警察の手には触れられていないらしく、崩壊した時の名残が生々しく残っている。家は自然災害に遭った時と同じように崩れており、その下敷きになって死んでいる人間、誰かに殺された人間、逃げようとして叶わなかった人間の死体が、独特の悪臭を放ちながら風にさらされていた。中には警察の者の姿も混じっていた。きっと本部へ連絡した後に息絶えたのだろう。じきに警察がやって来る。正義の鏡である警察が。
 その前に、と俺は瓦礫の山を目を凝らして見た。その中に望んでいるものがあると信じていた。普段から現実的なものしか信用しない俺が、今に限って自らの予感を信じるとは可笑しな話だった。
 しかしそういう場合こそ物事は劇的に進むものでもある。がらくたのように無造作に積もっている瓦礫の下から人の呼吸の音が聞こえた。ただの風かと思ったが、それは徐々に大きくなり、俺を動かすには充分な効果を発揮するようになった。
 そこに身を潜めて自らを捜しに来た者を襲おうと考えているのか。だったら随分と下手な待ち伏せだな。そういうことを謀るならば、少なくとも息を殺す技術を身につけなければならない。それすら曖昧な今のままで、俺を騙せるとでも思っているのか?
 腹の底で少し毒づいてから瓦礫に手をかける。ほんの少しの期待すら胸に秘めながら、俺はこの状況を楽しんでいたのかもしれない。笑みが漏れる。
 風が吹いたと思った。
 気づけば世界が逆になっていた。目の前にあった瓦礫は空に変わっており、太陽の鋭い光が目を弱らせる。その障害となるように目前を支配するのは黒く細い影と、一度見たら忘れられない程の長い銀の髪。同時に、懐かしい顔が現れる。
「やはりそうだったのか」
 ふと出てきた俺の一言によって、相手はぴたりと行動を止めた。ちょうど俺の心臓の辺りで奴の刃物が光る。
「あなたは……あの日の」
「なんだ、ちゃんと覚えていたんだな」
 俺の体を押さえ付けていた手を払い除け、放心したように見つめる相手の隣に立ち上がる。相手はぼんやりとこちらを見上げてくるが、地面に座り込んで立ち上がる気配はない。その手はしっかりと刃物を握り締めたままで、長すぎる髪は地面の上に垂れていた。
 この少年。こいつこそが、俺の捜していた人物に相違ないはずだった。
「随分と髪が伸びたものだな。顔は少しも変わらないのに」
「長い、時を……過ごしてきたから」
「長い時だと? じゃあ、お前は今いくつなんだ」
 少し嫌味を込めて問うと相手は黙り込んでしまう。深く頭を下に俯け、そこから声が漏れることは一切なかった。彼にとっては先程の皮肉はどうやら度が過ぎたらしい。
「いや、まあいい。質問を変える。この村を破壊したのはお前なのか?」
「……どうして」
「どうしてって、お前なあ、この状況を見たら誰だって――」
 言葉は最後まで続かなかった。視線を感じた。何か驚かされる程の力を持った視線を。そうして俺は、今まで真剣に相手と話をしていなかった軽率さを後悔することとなる。
「どうしてあの日と違って見下してくるの」
 少年――ロイ・ラトズはすっくと立ち上がる。少し目線を下に落ち着けながら、手に握り締めた刃物を自らの胸の辺りまで持ち上げた。気づくと風は無く、彼の銀色の髪は汚れてもまだ綺麗なまま体に纏わりついていた。
 その横顔は子供のようには見えなかった。だが、もしかするとそう見せようと足掻いているのかもしれない。或いはそうせざるを得ないのか、またはそう演じること自体が癖になるような生き方をしてきたのか。とにかく彼の表情は大人の影を潜めているようで、はっとするような恐ろしさがあった。
「ねえ」
 消えそうな小さい声が俺を嘲る。
「本当はそんなことが聞きたいんじゃないんでしょう」
 どこか深いところから響いてくるような声だと思った。
 眩暈がする。
「やっぱり大人なんて皆同じだってこと? 見下すのは子供だから? 優しくするのは珍しい事実を知りたいから?」
 ああ、これが。
「知りたいのは、これなんでしょう?」
 これが、堕落の先にあるものだというのか。
 彼の胸には刃物が深々と刺さっていた。そしてそれを行なったのは、他でもない彼自身だった。……

 

 

 

 

 不老不死だなんて信じていなかった。
 永遠の時を与えられた人間。死という一文字を知らぬ人間。生命の輪廻から追い出された魂。言葉で表すのはごく簡単なことで、そんなことなら誰にだってできる。ただ、想像するには幾分かの労力が必要だった。更に言うとすれば幾らかの図太さが不可欠だった。そして俺はその怪しげな単語を疑い尽くしていた。いいや、むしろ舐め尽くし、執拗に味わい、噛み砕き、すっかり呑み込んだものと自惚れていた。当時の自分が出した答えは「存在し得ない」の一文だった。しかし、目の前にある事実は、やたらと驚かせるように俺を怯えさせてくる。その回避不可能な明言の前では、想像など何の意味も持たないのだ。
「……いつからそうなった」
 平静を装うことは相手に対して失礼なことであった。しかし警察という身分がそれを強要し、正義がそれに従わざるを得ない状況を作り上げていた。
「正確には分からないけれど、あなたと会って、別れて……その後から、酷い事をされても、死ななくなっていた」
「では、何故?」
「わ、分からない。分からない」
 少年は何かに怯えているようだった。同時に、俺もまた何かに怯えていた。
「聞きたいことは山ほどあるんだ。しかし場所が悪いだろう。一度、警察に来ないか? 悪いようにはしないから」
「駄目。駄目……」
「何故だ。誰にも言いはしないから。きっと秘密にすると約束しよう。これでいいか?」
 少年は何度も首を横に振った。
「じゃ、他に一体何が欲しいと言うんだ。金か、快楽か、それとも安堵か。永遠の生命なんか持つから欲が出たんじゃないのか?」
「僕は何も」
 俺はこの少年に対し同情を示さなかった。そればかりか不老不死だと分かると軽い軽蔑の念を知らず知らずのうちに抱き始めていた。何故ならそれは、欲望の先にある、あの馬鹿げた陶酔に似ていると思っていたからだ。
「やはりあなたは以前と違って僕を見下してくる」
「根拠もないことを。しかし、何故そう言い切れるか聞いておこうか」
「じゃ、どうして、僕のことをお前と呼ぶの。前みたいに、君って言わないのはどうして」
 俺は舌打ちしたくなった。しかしそんなことは到底許されないことだった。
「だったら、君。君は、不死の肉体を得て、尊敬すべき主人に恵まれて、法に反する犯罪に手を染め、札付きになり、警察に追われても、そんな闇に馴染み、そこを住みかとし、怠惰を学び、死んだ顔で笑っていられるのか。笑うことができるのか。笑うことしかできないのか。どうなんだ、不老不死になって、君は喜んでいるのか? 楽しんでいるのか?」
 俺は馬鹿な男だ。感情に走った愚か者だ。だが、過去の因縁から、そう言わざるを得なかったのだ。もし神がいるとすれば、どうか許していただきたい。
 少年はと言うと、彼は、どうやらひどく驚いたようだった。確かに俺の言葉には驚かせる効果があったかもしれない。しかし驚いたのは一瞬だけだった。そして今度は俺が驚かされることとなった。
「楽しむ?」
 突然彼は呟いた。それは呟きのようで、しかし嘲笑でもあり切望でもあった。子供の顔には暗いものが幾重にも重なっていて、本当の表情というものがあるのかどうか疑わしい程だった。そんな作り物の表情を破り捨てるかのごとく、彼は唇を噛んだ。
「こんなもの、楽しいわけがない」
 唇を噛んでいる。
「こんなもの――楽しめるわけがないじゃない!」
 少年は――ロイは、悔しがっていた。
 或いはそれも作り物の仮面だったかもしれない。だが、少なくとも俺にはそう見えた。
 だから。

 

 

戻る  次へ

inserted by FC2 system