無色

 

 

 きらりと光る星や月が俺たち人間を照らす意義とは、分け隔てなく世界を愛してくれている証なのだろう。それを信じるも疑うも自由だが、清らかな窓の外の世界から現れたものが現実離れしたものだったとすれば、俺たち人間は一体何を見ていれば平穏を保つことが出来るだろうか。
「こんにちは」
 そう、こんなもの、あり得るわけがなかったんだ。
 夜の帳が下ろされて数時間が経過した頃、俺は普段と同じ生活を繰り返していた。寝ぼけた眼で鏡に映る自分の姿を眺め、腕をしきりに動かして歯を磨く。そうしてうがいをした後は寝心地の悪い布団に寝転がるはずだった。
「あ、今の時間はこんばんは、だったな」
「……何だお前」
 布団の上に知らない少年が立っていた。俺の寝床をふんづけてやがる。パジャマを着込み今にも眠りそうな俺の姿は人々の目には滑稽に映っただろうが、俺の目の前にいる子供はちゃんとした服を着ているにもかかわらず、何かがとても不自然に見えていた。いいやこの状況からして不可解なことが多すぎたのだろう。
 彼は一体何者なのか? なぜ俺の部屋に上がり込み、そして俺の布団の上に立っているのか。それ以前に彼はいつ、どこから部屋に入った? 俺はこいつが部屋に入ってきたことにどうして気付かなかったんだろう?
「あはは、考えてるね。俺が何者なのか、どうやってここに入ったのかってことを」
 ぴたりと止まった時間を動かしてくれたのは、俺の中の事実を言い当てた不可解な少年だった。彼の小柄な顔に人懐っこい笑みが描かれる。
「俺は夢の運び屋さ。あんたの夢を届けにやって来た。だからもっと喜べよ、俺があんたの夢を叶えてやるって言ってるんだ」
「は――」
 得意げに語る少年は腕を組んでじっと俺を見つめ、しかし彼はどこまでも無邪気な声を響かせていた。

 

 

「それにしても汚い部屋だなぁ、あんたちゃんと掃除してるのか? ここ、アパートみたいだけど一人暮らし? 大学生ってやつなのか?」
「うるさい奴だな、気に入らないならここから出ていけ」
「酷いな、俺が願いを叶えてやるって言ってんのに!」
 相手はとんでもなく図々しいガキだった。
 俺の部屋を観察するべく首を振り、透き通るような茶色の短い髪が揺れている。小柄な体付きだけを見ると中学生かそこらのように思えるが、彼は夢の運び屋だとか何とかだと言って日本人ではないと断言していた。どこぞのガキが悪戯で部屋に入り込んできたのかと疑ってみるものの、こんな一人暮らしの高校生をからかって面白いことなど存在するだろうか。あまりに現実離れした正体を信じてやる気などなかったが、今は彼の遊びに付き合ってやり、早いところ家に帰した方が良さそうだった。
 そう結論付けて彼を部屋の外へ追い出したりはしなかったものの、調子に乗った相手は俺の部屋を隅から隅まで物色する勢いであちこちに目を向けている。そればかりか落ちている本を拾ったり、閉じてあったノートパソコンを開いたり、更には布団の中に手を突っ込んだりして小姑の如く俺の部屋を調べている。俺の夢を叶える為になぜ物色が必要なのだろうか。やはり子供の考えは浅はかで静かな苛立ちを覚えるものだ。
「おいガキ、いい加減にしろよ」
 汚くなった食器に手を伸ばしかけた少年を後ろから捕まえる。
「いい加減にするって、何を」
「さっさとお家に帰れって言ってんだ」
「帰れないよ。俺、あんたの願いを叶えるまで帰っちゃいけないから」
 まるで取って付けたような設定を口にした相手はくるりと振り返り、髪と同じ透き通るような茶色の瞳をこちらに向けてきた。
「あんたの願いを教えてよ。俺がそれを叶えてあげるから」
 どこまでも図々しく、頑固な子供だった。思わずため息が漏れてくる。
「願いなんてない」
「嘘を言うな! あんたから確かな感情を見出したから、俺はあんたの元に来たんだ」
「ないんだから仕方ないだろ。ほら、分かったらもう帰れよ」
 肩に手を置き、玄関へと誘導する。しかし相手は俺の手を振り払い、先ほどとは打って変わって睨むような目つきで俺の顔を見上げてきた。
「だから帰れないって言ってるだろ! あんたは胸中にある強い願いに気付いてないだけなんだ、俺はそれを叶えなきゃ次の人間の所へ行くことが出来ないんだ」
「ああ、そう」
 面倒な奴には付き合っていられないので、俺はもう彼のことは無視して布団に潜り込むことにした。玄関に相手を放置し、部屋の中へと戻っていく。見慣れた部屋は俺を歓迎してくれていたが、俺の後ろからついてきた見慣れぬ少年まで何の検査もなく招き入れてしまったんだ。
 相手は俺の前に回り込み、あろうことか布団の上に座り込んでしまった。
「そこをどけ」
「願いを教えろ。そしたらどいてやるよ」
「だからないと言っただろ」
「あるはずだ。なければ俺の姿なんか見えないはずだもん」
 二人の間にガラスのような透明な壁が作られていた。俺はそれを壊すすべをまだ知らない。
 散らかった部屋を呪いつつ、足元に置いてあった本を隅に寄せて床に座った。
「で、何なんだお前は」
「やっと話を聞く気になってくれたのか?」
「聞かなきゃ帰らないんだろ」
「そっか! でもまあいいや、へへっ。俺はさっきも言ったとおり夢の運び屋だ。名前はエリクってんだ、よろしくな」
 何をよろしくすればいいのかは分からない。しかし相手の嬉しそうな表情を眺めていると、なんとなく全てが許されそうな気がしていた。
「あんたの名前は?」
「川嶋聖」
「カワシマ・ヒジリ……うーん変わった名前だなぁ。覚えられっかな、俺」
 名前など深く考える必要はない。それは個を識別するための数字のようなものだから。
「それで、エリクさんはどうして俺のところに来たのかな」
「だから言っただろ、あんたから強い願望を感じ取ったんだ。普通の人よりも数倍強い願いを持ってるあんただから、俺はあんたの願いを叶えてやろうと考えたんだ」
「願いねえ」
 このご時世、願うだけで望みが叶うならば涙を見ることなどなくなるだろう。それでも毎日のように人が泣く姿を見かけるのは、この世に作られた不仕合せが地の果てまで蔓延している証拠ではないのだろうか。それは誰もが先端を追いかけたけれど、結局は止められず意志もないままに拡大させてしまった代償だ。後世に残された俺たち若者は息苦しくなったガラスだらけの世界で生まれ、そしていつかの瞬間に塵となりて消えゆくのだろう。その合間に幾千もの願いを並べる。見上げた星は光り輝いているが、望みが叶う手順とは、自らの手で切り拓いていく他にはないのではないだろうか。
「悪いけど、本当に俺には願いなんてないんだよ。そういう類のものは何一つ思い浮かばないというかさ」
「ええ、そんなの嘘だろ? たとえば、そうだな……一億円欲しいとか考えたりしないのかよ?」
「別に金なんて今のままで充分だ」
「こんなオンボロな生活してるくせに?」
 必要以上に金を手に入れたところで、どんな形の幸せが俺を包むというんだろう。所詮は上辺だけのカーテンにすぎないと分かっているから、金なんて欲しくない。
「じゃあ可愛い彼女が欲しいとか!」
「そんなもん邪魔なだけだ」
「幸せな家庭を築きたい!」
「まだそういう年じゃねえだろ」
「面白い漫画が読みたい!」
 一気にレベルが落ちたな、おい。
「マジで何もねえの?」
「だから最初からそう言ってるだろ」
 面と向かって断言すると、相手は黙り込んで何やら考えているような仕草をした。
「だったらあんたが願いを思い出すまでここにいる」
 そうして呟いた台詞は、とてつもなく途方のないことであって。
「おい、何がどうなったらそうなるんだよ?」
「あんたの中に願いの欠片すら存在しないのなら、俺が引き寄せられることなんてなかったはずなんだ。だからあんたには必ず願いがある。一生を台無しにしてもいいくらいの、強く強い願いがあるはず。それを俺があんたの中から引き出してやるよ」
 早口にだがしっかりとした口調で喋った相手は、強い自信の現れた表情で微笑んだ。それはあるいは威圧的な種類のものだったはずなのに、俺には裏に大きな負の感情が隠れているように見えたんだ。

 

 +++++

 

 朝に目覚めれば運がよく、大抵気が付くのは昼過ぎだった。この部屋に俺を起こす存在などなく、だらしのない生活にもすっかり慣れ切ってしまっている俺にとって、朝早くからうるさい目覚ましの如く叩き起してきた少年をひどく恨めしく思ったものであった。
「こら、早く起きないと学校に遅れるだろ!」
 毛布の中で丸まっている俺を高いキーの声が叱りつける。俺の脳はまだ目覚めたくないと繰り返しているのに、新しく設置されたこの時計はどうしようもなく鬱陶しいものだったらしい。
「学校なんて行かねえよ」
「子供が生意気なこと言うな! 起きろったら起きろ!」
 ばっと毛布を取り上げられる。
 まさか子供に子供と呼ばれるとは思っていなくて、びっくりした俺は彼の望み通りに身体を起き上がらせてしまった。
「早く制服に着替えて」
 相手は俺の制服を手に持っていた。この散らかった部屋の中から一人で探し当てたのだろうか。無理やり押し付けられたそれを受け取る気にはなれなくて、俺は黙って相手の小さな顔を睨みつけてやる。
「何だよその顔。せっかく本に埋もれてた制服を見つけてやったんだから、感謝してくれたっていいだろ」
「学校には行かないって言っただろ」
「なんで!」
「なんでもだ」
 運悪く冴えてしまった頭があったから、俺は仕方なしにもう起きることに決めた。洗面所へ行って顔を洗い、歯を磨いてうがいをする。床に放置してあった私服を拾い上げ、あのエリクとかいう少年に騒がれる前に着替えを済ませてしまった。
「おい、本当に学校に行かないつもりか? 今日は水曜日ってカレンダーに書いてあるぞ、休みってわけじゃないんだろ?」
「そうだな」
 冷蔵庫を開けると転がるような少年の声が聞こえてきた。それに適当に返事をし、冷たくなった麦茶を取り出す。
「一人暮らしして好き勝手してるってことかよ。親が悲しむぞ、そんな生活」
「親は死んだ」
 透明なグラスに濁った液体が注がれる。少しでも揺れたなら、波紋はすぐに水面を走り去って行った。俺は再び麦茶を冷蔵庫に戻し、寒い冬の中で凍らせてしまおうと試みる。
「分かった。聖の願いってのは、親を生き返らせて欲しいってことだ」
「違う」
「即答すんな、もうちょっと考え込めよ!」
「これ」
 騒ぐ子供に麦茶を差し出した。相手は少し戸惑った表情を作る。
「あ、ありがと」
 なぜだか照れくさそうに少年は少し俯いた。俺は彼の隣を通り過ぎ、定位置ですとんと座り込む。
 窓の外では清々しい空気が振り撒かれているようだった。その中を学生が自転車で突き進んでいる。ただ俺の目にその光景は靄がかかったようにはっきりとは見えなかった。朝早くに起きると物悲しくて、だからわざわざ冷やした麦茶を喉の奥に押し込んでしまう。
「親がいないって、それじゃ聖は学校には通ってないのか?」
「とりあえず席はあるな」
「金は誰が出してるんだ? 親戚の人とか?」
「自分で出してる」
 ころころと麦茶が喉を転がり落ちる。針のような痛々しさが心地いい。
「聖、あんたの願いって……」
「俺もう死にたいのかも」
 冷たいものが胃に到達し、腸を通り、腎臓で再吸収される。俺はその過程を知らない。
「なんでそんなこと! まだ若いのに、やり残したこととかあるだろ?」
「というか、やりたいことがないんだよ。このまま一人で生きてたってつまらなさそうだし」
「だったら余計に学校に行って勉強して、普通の人と同じように働いていい人と出会って、それで――」
「結婚して子供を産んで? つまんねえの」
 大人になりたくないわけではない。仕事をしたくないわけでもない。だけど子供のまま止まることだって出来ない俺は、自分が何者なのかさえ分かっていない。
 麦茶を飲み終えると何もすることがなくなった。適当に時間を潰していたが、エリクは黙り込んで一歩も動こうとせず、だから俺は何のしがらみもなく普段の自分を演じていられた。
 時間だけが平等に流れ、あっという間に一日が終了する。
 いつか誰かが永遠とは過去にあると言っていたが、俺の瞳に映る時間は永遠とは程遠いもののように思えていた。いや、あるいは永遠そのものなのではないかとさえ感じられた。意味を見出せない時間がいかに恐ろしいか、俺の隣で座り込む少年は知っているのだろうか。それ以前に俺は時間の何を知っているつもりになっているんだろう。
「なんで……学校に行かないんだよ」
 辺りがすっかり暗くなった頃、思い出したようにエリクが口を開いた。彼は朝と同じように俯いたまま動いていない。
「またそれか」
「家の中で閉じこもってるからそういう考え方になるんだよ! 学校に行って、先生や友達と話をしてたら、きっとやりたいことだって見つけられるって!」
「そんなもの、ない」
 少し睨みつけると相手は怯んだ。俺はそのまま布団に潜り、彼に見られながら目を閉じて意識を手放した。

 

 

 同じような生活を何日か繰り返した。部屋に居ついたエリクは邪魔にならない程度に干渉してきたが、俺はもう彼を追い出そうと怒鳴ることはしなかった。料理を作っても相手は腹が減らないと言って拒否し、朝寝坊をしても無理矢理起こされることもなかった。そうやって夢の中のような日々を通過し、気が付くとエリクが転がり込んできてから一週間が経過する前日に差し掛かっていた。
「結局さ、この一週間、聖は一歩も家から出なかったな」
「そうだな」
 昼に目を覚まして昼食を食べているとエリクが話しかけてきた。適当な返答を口にすると、相手はすぐに黙り込む。
 この日も特に変わったことはなく、いつしかオレンジの空を経て宵のベールに包まれた時刻が俺の前に座っていた。簡単な夕食を済ませ、締め切った窓の外をひょいと眺める。今日は月がよく見える夜だった。形の整った丸い光が一つだけ浮かび、満月なのかどうかさえ判断できない自分が可哀想に思えてくる。
「聖」
 後ろから声をかけられた。振り返ることもなく、窓に映った相手の姿を見上げる。
「何だ」
「タイムリミットだ。俺は明日の朝までに、あんたの願いを叶えなくちゃならない」
「そりゃ残念だったな」
 仕事熱心なのかそうじゃないのか、エリクは俺を最後まで騙そうとする。彼の存在は夢ではなく、相手の言霊の全てが事実であることはなんとなく感じ取っていたことだった。だから俺は彼を笑わない。
「俺があんたの願いを叶えられないと、罰として存在を消されるんだ」
 窓に映った口が小さく動いていた。
「じゃ俺を殺せばいいだろ。俺は死にたいって思ってるかもしれないんだから」
「そんな不確定なものは願いじゃない!」
「だけど、お前が俺のわがままで殺されることだってないだろ」
 振り返ると歪んだ表情が俺を見下ろしていた。両の手をぎゅっと握り締め、何かに耐えているようにも見える。
「最後の……今日が最終日だから、最後の悪あがきをさせてよ、聖」
「――え」
 すっと彼の顔が近付いてくる。わけも分からないままそれを見つめていると、近付きすぎた相手の顔面が俺の顔面と重なった。
 急激に息苦しくなる。これは、まさか――接吻?
「わっ!」
 理解した瞬間に相手を突き放した。この子供、一体何を考えている? なぜこのタイミングでキスをしたのかまるで見当もつかないじゃないか!
「ああ、くそ。やっぱり怒ったか」
「あ、当たり前だろ! 俺は、そんな――そんな趣味じゃねえよ」
 俺の口から勢いのある言葉が飛び出した。だけど驚いているのは俺だけだった。
「悔しいだろ?」
「は」
 エリクは口元をにやりと歪ませている。
「俺みたいなガキにキスされて、悔しいだろって聞いてるんだよ。どうなんだ?」
 驚愕で鈍くなっていた俺の頭でも相手の意図は理解できた。彼は悔しく感じたのなら仕返しでもしてみろと言いたいのだろう。そして仕返しをするということは、少なくとも生きる意欲が俺の中にあり、だから俺が死にたいと感じていることは嘘っぱちだと証明する気なんだ。だがそんなことをしたところで何になる? 俺のやりたいことが見つかるわけでもないのに、彼は何を期待してこんな行為に及んだのだろう?
「これだけじゃ効果なし、か? だったらこれもしようか」
「おい、何を」
 なんだか嫌な予感が走り、彼の動作を止めようと手を伸ばした。だけど俺のすぐ目の前にいる少年の機敏な動作を止めることはできず、彼の手が俺の身体をしっかりと捕まえてしまう。
「馬鹿、どこ触って――ってか何を考えてるんだお前は!」
「聖に思い出させてやろうと思ってるんだよ」
「な、何を……思い出すって?」
 まるで少年らしからぬ知識の持ち主は、その手を俺の脚の間へと伸ばしていた。そうして驚いた俺自身の形をなぞるように動かしている。
「忘れてることとか、思い出さないようにわざと封印してることって、強い刺激がなければ扉を開くことが出来ないんだ。だから、これが最後の手段」
「お前、それ、変な大人に嘘を吹き込まれたんじゃねえのか!」
「嘘じゃねえよ。現にこれで思い出した人もいたし」
「う――」
 驚愕と焦燥と羞恥とで敏感になった俺のそこは既に硬さを持ち始めていた。エリクの冷静さがひどく恐ろしく思え、だけど彼の放った言葉は全て本物のように思わせる何かがあった。身体の中心部から熱が広がっていく。
「お、お前さ、馬鹿だろ。こんなことして……思い出すわけがねえじゃんか!」
「窮屈になってきたな」
 抵抗する暇もなく、彼は俺のズボンを下着ごとずり下ろしてしまった。おかげで隠れていた何もかもが相手の前に姿をさらけ出すことになってしまう。
 何も言わずエリクは続けた。手だけを使って丁寧に、だけど少しだけ乱暴に俺のものを扱いていた。俺は彼の顔をまともに見ることができず、始終そっぽを向いて今にも爆破しそうな感情を必死になって抑えていた。彼が納得するまでこれが続くのかと思うと寒気がしたが、だからといって適当な願いを作り上げても彼には通用しないような気がしていた。
 やがて外からの刺激に反応した俺の身体は頂点に達し、裸の太ももの上に汚らしい男の液体がぶちまけられる。
「どう? 何か思い出したか?」
「そんなわけあるかよ……」
 乱れた息を隠そうと平静を装うが、身体はまだ熱っぽく赤みを帯びたままだった。
「最後にしたの、いつだった?」
「え」
「自慰だよ。ずいぶん量が多かったから」
 真面目な顔をして恥ずかしい話をする子供だった。
「そんなもん、忘れた」
 本当は覚えている。いろんなことが面倒になって家にこもるようになってから、俺は性的な興味も失っていたらしかった。肉体的な快楽など馬鹿馬鹿しいと思っていたのだろうか。それとも自分以外の全てのものに張られたガラスを見つけてしまって、それを砕く方法すら見失って途方に暮れていただけだったのだろうか。
「まだ溜まってる? 全部出した方が良さそうだな」
「もういい!」
「良くねえよ。願いだって思い出してないんだろ?」
「だからそんなもの最初から――」
 くっと息苦しくなる。また相手の顔が目の前にあった。
「ふ――!」
 何やら大きな体重を感じ、支え切れなくなった身体が後ろへ倒れてしまう。そこにあったのは幸いなことにやわらかな布団で、だけど俺はエリクに押し倒された不幸に見舞われていたようだった。
「なんで、キスなんか」
「その方が気持ち良くなれると思って」
 また触られていた。彼は何でも知っているらしい。俺の感じるところ、弱い部分、あまのじゃくな性格まで、彼にはお見通しということなのだろうか。彼の手つきも慣れたものだった。一体この子はこれまでに何人の男のものを触ってきたのだろう? 仕事の為とはいえ、こんな汚い行為に、なぜ抵抗も感じずに繰り返すことができるんだろう? 俺には何も分からない。
 そうだ、俺は何も知らないから分からないんだ。知ろうともしなかったから何もかもが分からない! 世間のこと、両親のこと、学校のこと。未来が見えないことなど当たり前なのに、どうして俺はそれに怯えて絶望しているんだろう? ああ、そんなことはどうでもいい。やりたいことが見つからないのは俺の中に責任があった。
「あ……くっ!」
 電光が頭の中を駆け巡っていく。先程よりも強く感じるそれは、俺の奥の方にある閉ざされた何かを確かに刺激して通り過ぎていった。一度反応を示した綿毛は風を待ち、次に訪れる光に連れられて身体の隅々へ旅をする。見せたくなくて黙っていたんだ。俺は俺を心配してくれる人が、この世から消えてなくなってしまう瞬間を通り過ぎて、まだ隠そうとする臆病者にすぎないことを知らなきゃならない! おかしな光景だと思ったんだ。よく見たらこのガラスは、とんでもなく汚れて何も映していないじゃないか!
「あ、も……もう、少し――」
 滴り落ちる。淫らに飛ぶものと、快楽に引きずられて今にも何かが溢れ出しそうだ! 俺は頭がおかしくなったんじゃないのか? こんな子供に慰めてもらって、そして何を得ようとしている! 何をって――謝罪か、告白か、その二択だ! そして俺が一番欲しかったものは、ずっと変わらぬ姿で俺のことを見つめ続けていたんだ。
 ああ、俺は、それを知っていた。
「で……出る!」
 勢いのある放出が起こった。相手の手を汚したのは白いものだったが、そこにへばりついていたものはそれだけではないような気がしていた。
「今度はどう?」
 すうっと息を吸い込む。やっと自分が戻ってきたと思ったから、その味をもっと知りたかったんだ。
「死にたくなんか、ない」
 何も残さぬまま死ぬのはつらい。俺を残して死んだ両親の気持ちを思うと、最後まで足掻いて生き抜かなけりゃ叱られる気がする。理由ならいろいろあった。やりたいことを見つけることもその一つなのかもしれない。
「自殺しようとしてたけど、それを俺に止めて欲しかったとか?」
「まさか、そんなこと」
 死にたいと思ったことなどなかった。毎日に疲れてはいたが、自らを死へ追いやるほど苦痛に感じていたわけではない。ただ面倒で、うるさくて、無に憧れていただけだったんだろう。
「だったら聖の願いは――」
「そうだな。強いて言えば」
 いつしか遠ざかっていたもの。距離を置いて、見失って、消えてしまった人と人との絆と呼ばれるもの。箱の中の世界で生きる為に、それはなくてはならないものだったのかもしれない。
「友達が欲しいんだと思う」
 ようやく吐き出した本音は、俺の耳に最もよく届いたものとなった。

 

 

「ごめん。ちゃんと全部説明しておくべきだったな。聖を悲しませることになっちまって――本当にごめん」
「いや……」
 エリクは俺の願いを叶えられないと言った。彼に出来ることは物を作り出すことや人の記憶を操作することであり、一から生命を作り出したり人の感情を変化させることはできないらしい。要するに、俺の「友達」を作ることは無理だということだった。
「俺も今まで忘れてたことだしさ。こんな小学生みたいな願い、お前に叶えてもらわなくたって自分でどうにかできるさ」
「それじゃ駄目なんだ、俺は聖の役に立ちたいんだ!」
 ぐっと顔を近付けたエリクは目に涙を滲ませている。俺の為なのか自分自身の為なのか、その涙は俺を複雑な思いにさせることしかできない。
「待ってろよ、聖。俺がきっとどうにかしてくるから! だから――待っててくれ!」
「別にそこまでしてくれなくても」
「絶対にあんたの願いを叶える! だから、待っていろ、聖!」
 彼はおかしな子供だった。だけどそんなおかしい少年に、どうしてだか俺は好意を抱いてしまったらしい。
「ああ」
 ぎこちない微笑みをエリクに贈る。
 そしてエリクは窓から外へ飛び立った。羽の生えた鳥のように、星の海を自由に泳いですぐに見えなくなってしまった。俺は一人で窓辺に立ち、いつからかもう一切開いていなかった窓を開けたまま、彼の後姿を瞼の裏に描いて空を見上げていた。外から抵抗もなく入り込んでくる風が冷たくてとても気持ちが良かった。

 

 +++++

 

 さわやかな空気と、あたたかな日差し。二つの新しい要素に加え、俺を驚かせたもう一つの要素は、本当は驚くべきものではないはずだったんだろう。
「よう、聖! さっさと支度しないと遅刻するぜ」
「……エリク」
 夢の運び屋と言っていた少年が俺の部屋を陣取っていた。確か昨日の夜、どこかへ向かって飛び去ったような気がしていたが、それは俺の願望が見せた夢だったんだろうか。
「ほらほら、ぼーっとしてないでさ! 朝飯いらねえんならもう行こうぜ!」
「おい、ちょっと」
 ぐいと腕を引っ張られ、玄関へと引きずられる。ふと気が付くと俺は学校の制服を着用していた。まさかこいつが俺が寝てる隙に着せたのだろうか。いいや、よく見ると彼もまた同じ制服を着ている。
「どういうことだ、説明しろ、ガキ」
「何だよ分からねえの? 相変わらず鈍感だな、聖は」
 相手のペースに乗せられて靴を履き、玄関に放置していた学校の鞄を手に取る。そして何気なくドアノブに手を触れた。瞬時に蘇った過去の出来事が、俺を鮮明に彩り始めていた。
「俺が聖の友達になったんだよ」
 ドアノブを握っている手にぽんと手を重ねられ、エリクの手がドアを開いた。でもドアノブには俺の手が触れていて、結果として二人の手でドアを開いたのかもしれない。
 朝の清々しい風が俺とエリクを手招きする。
「昨日説明しただろ? 俺の能力は他人の記憶を操作できるんだ。だから学校の連中の記憶をちょちょいと弄ってやって、俺はずっと学校に通ってたことにしたんだ」
「なんで、そんなことを」
「決まってるだろ、聖の友達になる為だ! でもな、聖。俺は人の感情は操作できない。学校に通ってたのは昔からでも、友達になるのは今日からだ」
 馬鹿な奴だとつくづく思う。
 濁ったガラスを拭いてくれた少年は無邪気だった。図々しくて、頑固で、喋り出したらうるさいガキだったけれど、イノセントな心を持つ純情な少年だった。
 これは神の計らいか、それとも死んだ両親が残した贈り物か。
 俺には何も分からないけど、これから知っていけばいいと思った。ガラスを壊す必要などなかったのだ。汚れを綺麗に拭き取ってくれる人がいればいい。きっとこの先も壊れないガラスに直面することがあるだろうけれど、彼と共に生きられるなら怖いものなどないと思えた。
「さ、行こうぜ!」
 太陽の下を駆け抜ける少年が俺の手を引いていく。
 自分の足で大地を踏み締めた俺は、ようやく色のある世界へと飛び出すことができた。

 

 

 

 

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