閉鎖

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1.入学 - 01

 

 俺は逃げ出した。彼らと同じ場所で生きられなくて、だから身を守る為に逃げ出した。
 そうして辿り着いたのは学校という名の閉鎖空間。
 中高一貫で全寮制の男子校であるが故、要らぬ気は遣わずに済むし、恐ろしいあの家に帰る必要もない。
 誰も知らない自分だけの世界を作ることができる。外部に目を向けることもなく、ただこの中でじっとしていればいい。
 だからこそ俺はこの学園に逃げ込んできたのだ。いくら俺を呼び戻そうと声を荒げようと、決して振り返ったりするものか――。

 

 

「君が転校生の水瀬弘毅(みなせひろき)君かい?」
 春が始まった日のあたたかい午後、閉ざされた門の前には俺を待ち構えていたらしい男が立っていた。禿げかけた頭と若干出ている腹が気になったが、それには言及せずに相手の目を見て一つ頷く。
「はい」
「入学式は明日だからね、今日は寮の部屋へ案内しよう。荷物を持ってついて来なさい」
 俺が会釈すると男はくるりと背を向けた。大きな鉄格子に片手で触れ、それをくっと押す。
 広い世界が俺の前に現れた。門の奥にある自由が俺を見ている。
「赤石学園へようこそ」
 男は仰々しく俺を門の中へ招き入れた。彼の瞳には親切や優しさが満ち満ちている。しかし俺の中で静かに燃える感情は、ただあの場所から逃れられたという安堵感と、彼らに追いかけられているという焦燥感だけだった。

 

 

 いかにも古そうな歴史を感じさせる校舎から少し離れた場所に、これまた古代遺跡かと見間違うほど風化が進んでいる寮があった。俺はその中へ案内され、片手でぶら下げている荷物を持って玄関の扉をくぐる。
 内部は外見よりずっと新しい見た目をしていた。床はピカピカしているし、蝋燭ではなく蛍光灯が周囲を照らし、どこにでもありそうな現代社会の風景が広がっている。遠目に見える廊下を何人かの少年たちが歩いていた。彼らがいわゆる学友ってヤツになるんだろうか。
「あっちには中等部の生徒の部屋がある。君が使う高等部の部屋は東側になるからね」
「分かりました」
 廊下を歩いている彼らはどうやら中等部の生徒らしい。俺と男は談笑しながら歩いている少年たちに背を向け、東側へと足を踏み出した。
 部屋に辿り着くまでに長い距離を歩かねばならなかった。階段を上った回数は累計四回。転校生というものはどうやら嫌われているらしく、そこに着いた頃には俺はなぜか息を切らさなければならなかった。いや、単に転校生は珍しいからこんな辺境にしか部屋がなかったんだろうけどさ。だからって四階の部屋に押し込んでくれなくたっていいじゃないか。
「ここが君の部屋になる。うちの寮は二人部屋だから、何か分からないことがあれば同室の子に聞いてみなさい」
 男の説明を聞き、俺は視線を扉の隣に投げた。壁にはめ込まれたプレートには既に名前が彫られてあり、もう一つの空白は下にひっそりと添えられている。
 そこにはやたら達筆な字で「加賀見」と書かれていた。あまり聞かない名字だな、どう読めばいいんだろう。
「ええと……かがみ?」
「そうだよ。君と同室になるのは加賀見亮介(かがみりょうすけ)君だ。まあ、少し変わった子だが……仲良くするようにね」
 何か不穏な言葉が聞こえた気がしたが、俺は素直に返事をしておいた。
 少し変わってる? 超天才なガリ勉野郎とかだったらどうしよう。俺、自尊心丸出しの他人を小馬鹿にするような奴って嫌いなんだよなぁ。いやいやもしかしたら逆に成績が底辺を彷徨うグラサンな不良かもしれんぞ。どっちにしろ嫌だ。やはり転校生は不幸になる運命だったということかっ!
「それじゃ、これが部屋の鍵でこれが呼び鈴だからね。今日は部屋でゆっくりしておきなさい。明日の朝九時から入学式だから、寝坊しないようにね」
「あ、はい……」
 俺をここまで案内した男は部屋の鍵だけを渡し、そそくさと俺を置き去りにして歩いて行った。その態度はまるでこの部屋の中にいる奴に関わりたくないと言わんばかりじゃないか。さてはて一体どうしたものか。
 とりあえず立っていても仕方がないので扉に手を掛けた。しかしそれと同時にドアノブが音を立て、ぱっと扉が自動で開いた。
 二つの黒い眼光が俺の身体を貫く。
「君が、水瀬弘毅君?」
 やわらかな声が耳に届いた。どこか少年っぽさを感じさせるそれは明るく、俺を拒絶するものではない。
「そう、だよ」
「そっか。僕は加賀見亮介。これからよろしく」
 次に届いたものは小奇麗な手のひらだった。
 なんだ、嫌味な奴でも不良な奴でもないじゃないか。変わっているところと言えば、確かに男のくせして髪が肩まで伸びてるのは変だけど、見た目や態度にそれほどおかしな点はない。
 俺は快く握手をした。すると相手はにこりと輝かしい笑みを見せてくれた。つられて俺も微笑んだ。相手の少しだけ長いまつ毛が気になった。
「さ、中に入って」
 相手に促されて俺は部屋の中へと入り込む。そこはなかなか広々としていて、二人で暮らすにはちょうどいいくらいの空間になっていた。二つ並んだ机とベッド、リビングの如きソファにテーブル、おまけに机上にはきちんとパソコンまで設置されている。カーテンは目に優しいクリーム色で、私物はほとんどなく、男が生活していたとは思えないほど綺麗に整頓されていた。
 これからルームメイトになる加賀見亮介は後ろ手に扉を閉め、きょろきょろと部屋を見回していた俺の前にゆったりと近寄ってくる。彼の額に垂れている黒髪は艶やかで煌めいており、どこか中性的な顔立ちはともすれば女のように美しい。肩まで伸びた髪のせいで余計に彼は美人に見えていた。この見た目が「少し変わっている」という意味だったのだろうか。
「こっちが君の机。服はそこのタンスに入れておいて。冷蔵庫はここ、ベッドはこっち、ゴミ箱はこれ、それから……」
 一つ一つ律義に説明してくれる彼は俺に好印象を与える。一通り説明が終わると俺は荷物を片付けることにした。それをも相手が手伝ってくれ、俺の中で彼はすっかりいい人になっていた。
「あれ」
 夢中になっていたのが悪かったのか、窓の外から降り注ぐ光はいつの間にやらオレンジ色に変わっていた。そっと窓を開けると広い世界が外に見える。俺の身体は高い位置にあり、見下ろす校舎はどこか閉鎖的だ。
 カラン、と鐘が鳴ったような音が聞こえた。それは廊下側から響いたようで、俺はぴしゃりと窓を閉める。
「お客さんが来たみたいだ。君はそこで待ってて」
「ああ、うん」
 どうやら先程の音は呼び鈴らしい。言っちゃ悪いが変な音なんだな。時計でも鳴ったのかと思ったぞ。
 ドアの方へ向かった亮介は廊下にいる誰かと話し始めた。聞かれたらまずい話なのか声は小さく、ベッドの上に腰を下ろしている俺の元にははっきりした言葉は届かない。
 五分ほどで客は帰ったらしかった。ドアを閉め亮介はこちらに歩いてくる。そうしてソファに浅く腰掛けた。
 何を話してたか聞きたいけど、今日会ったばかりの俺なんかが聞いていいわけないよな。理想としては相手から教えてくれることだけど、世の中そう上手くいくはずもない。
「ねえ、弘毅君? 君に質問したいことがあるんだけど、いいかな」
「え」
 逆にこちらが質問されてしまった。これは予想外だ。しかし何を聞かれるのだろう。
 相手の黒い瞳が少しだけ大きく開かれている。
「今の持ち合わせ、いくら?」
 真正面から飛んできた質問。それは間違いなく俺の想像の斜め上にあったものだった。
 何なんだ? なぜ彼はこんなことを知りたがるんだ? 俺がいくら持っていようと関係ないはずなのに――いや、待てよ、寮で暮らすには最低限の金が必要だからそれを教えようとしてくれてるのかもしれない。でも事前の説明では金が必要だなんて話は一つも聞いてなかったぞ? じゃあ何だ、彼は俺に娯楽要素を勧めようとしてるのか? 真面目そうな顔して、こいつ実はとんでもない遊び人だったりするのか?
「いくら?」
 目の前の微笑みは宝石みたいに綺麗だった。その裏に何があるのか、今の俺じゃ少しだって暴くことができない。
「さ、財布には一万円を入れてきた……けど」
「そっか。じゃあちょうどいいや」
「へ」
 ちょうどいいって、一体何が?
 ふと彼は立ち上がり俺の横に座り込んだ。ベッドが二人分の体重を支え、わずかな悲鳴が部屋の中に響く。彼は身体を寄せ俺の肩に手を置き、もう片方の手を緩やかに持ち上げて俺の頬にそっと添えた。その体勢はいささか恋人が接吻でもする数秒前の光景のようでもあり。
「な、な、な――何?」
「手は三千、口は五千、バックは一万でやらせてあげるよ。どうする?」
 囁くように彼の唇から声が漏れるが、俺の理解力じゃ相手の言葉の意味が全く分からない。三千とか五千とかってのはさっきの質問からして金のことなんだろう。でも手とか口とかバックって――何なんだ?
「大丈夫、恐れることはないよ。初めてだろうと僕が一つずつ教えてあげるから。男の身体ってのも女とはまた違った魅力があるんだ。君にそれを教えてあげる――」
 世界が画面の中に入れ込まれたようにゆっくりと動いている。開かれた瞳に近付くものは、相手の整えられた一つの顔であって。
 気が付くと息ができなくなっていた。
 苦しい。口が塞がれているんだ。なぜ? 何が俺の呼吸の邪魔をする? この眼に映る光景は――。
「ぶはっ!!」
 唇を離し、思いっ切り相手の身体を突き飛ばした。バランスを崩した彼はベッドの上にぼふりと倒れる。しかしそんな彼に同情を向けるべきではないのだ。なぜならこいつ、この野郎は。
「何してくれるんだよてめえっ!」
「乱暴な人だなぁ、ちょっとキスしただけじゃないか」
「だからそれが……!」
「ふふっ」
 妖しく笑う彼は背後にナイフを隠し持つ女性のように見えた。無知な俺でもさすがにここまでされると理解できる、こいつが言っていた全てが頭の中で繋がった。要するに彼は金儲けの為に身体を売ってるってことだろう。それならばこいつが今まで二人部屋を一人で使っていた理由も、俺をここまで連れてきてくれた人が避けようとしていた理由も分かる。ちょっとってレベルじゃないくらい変人じゃないかこいつは!
「俺は男なんかに興味ねえの! そーいうことは他の奴相手にやれよ! とにかく、もう俺に触るなっ!」
「酷い人……」
 突然上目遣いになり瞳を潤ませる相手。そんな見え透いた罠に誰が引っ掛かるものか。
「俺はお前に払う金なんか持ってない! いくら誘おうと無駄だ、俺は絶対にそんなことしないからな!」
「……」
 静かになった相手はじっとこちらを見上げてくる。その口は閉ざされ、一つの言葉だって吐き出さない。
 ……なんだか不安になってきた。勢いとはいえ俺は彼を傷付けてしまったのかもしれない。あんな拒絶の仕方をしなくてもよかったんじゃないか? もっとやんわりと断れば、彼だって分かってくれたかもしれないのに。つーかこのままじゃ確実に初日から喧嘩した状態になるんじゃなかろうか。それはやばい、三日もせずにこの場にいることが苦痛になるなんてことがあったら洒落にもならんぞ! 何の為にここに来たと思ってんだよ、俺!
「あ、あのさ。俺はそういうことには興味ないっていうか、あんまり好きじゃないって思ってるだけで、お前のやってることが悪いことだって言ったわけじゃ」
「ちっ」
 小さな、とても小さな音だった。だが確かにそれは俺の耳に届いた。なぜかやたらとはっきり聞こえたのだ。
 どう考えても舌打ち音。
「せっかくカモが来たと思ったのに、とんだクソ真面目野郎だったとはな……あーだから嫌だったんだよ、俺の部屋に転校生なんざ入れるなんてよ! 今度学園長のジジイに会ったら顔面一発ぶん殴ってやる!」
 すっくと相手は立ち上がった。まるで俺のことなど見えていないかのように、振り返りもせずソファにどっかと腰掛ける。
 これは俺にどうしろというのか。とりあえず……話しかけてみるか?
「あのー」
「はぁ!? お前なんかに用はねぇんだよ、うっさいから黙ってろ!」
 話しかけただけで非難されちゃったよ! 何なんだこいつ、さっきまでと態度変わりすぎだろ!
 ええい、ここで負けてはならんぞ水瀬弘毅よ。一言でもいいから言い返すのだ!
「お前――ずっとそうやって金儲けしてたのかよ」
「ふん、だったら何だ? 説教なら聞かねぇぜ」
 彼は目を合わせてくれない。あらぬ方向に視線を投げ、ベッドの上で座り込んでいる俺は仕方がないので彼の整った横顔を見る。
「そこまでしてなんで金が必要なんだ?」
「クスリが欲しいから」
 好奇のままに訊ねると思いがけない答えが返ってきた。薬って、こいつ実は持病があるとか? いやいや油断してはならんぞ、きっと彼の中には俺の想像の斜め上を行く理由しか存在しないんだろうから。
「まさか……麻薬?」
「くくっ。さあて、どうでしょうねぇ?」
 どこぞの悪役みたいな笑い方をして彼はこっちを見てきた。
 何なんだこいつは。一体何なんだ。俺、こんな奴と一緒に暮らして大丈夫なのか? 気が付けばこいつのペースに巻き込まれてたとかいう悲劇が起こってたなんてことになったりしないだろうか?
「おいお前」
 足を組み指差され、彼はなんだか偉そうに声をかけてきた。とりあえずそれに返事をする。
「何」
「夜や休みの日には客が来るが、商売の邪魔だけはするんじゃねえぞ。あまりにもうるさいようなら部屋から追い出すからな」
「な――」
「恨むんならお前をここに押し込んだ学園長を恨むんだな!」
 容姿は綺麗なのに、性格がとんでもない奴だった。
 俺はここに何をしに来たのだろう。逃げ場を求めて来たんじゃなかったか? それなのになぜこんな肩身の狭い思いをせねばならんのだ。
 ああ、果たして俺は、この学園で平和に生きることができるのであろうか。はっきり言ってもう帰りたい。あんな場所でも構わないから、こんな変人と一緒に暮らしたくねーよ!!
 しかし俺の願いなど星屑のように崩れ落ちていくしかない。結局俺はここから動けないまま、この不思議な青年と共に暮らす道を渋々選んだのであった。

 

 そうして俺の記憶は廻り始める。

 

 

 

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