空間

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3.喧噪 - 03

 

 深く深い闇に漂っている感覚があった。覚醒すればここから脱出できるだろうけど、後ろから何かに引っ張られていて上手く動くことができない。
 俺はどんどん底へと近付いていく。誰も俺の落下を止めることはない。ただ落ちていくだけの風は、全てのものを切り裂いてしまいそうだった。
 身体じゅうから赤い鮮血が溢れ、奪われていく。
 自らの体内から失われたそれらを眺めながら、俺はひたすら落下し続けていった――

 

 

 目を開けると何か不気味な白が視界に入った。それは果てしなく天に広がるようで、だけどよく見れば限りのある色だった。どうやら俺は天井を見上げているらしい。自分の状況が分かった途端、他のものも理解の切れ端に触れ始めた。
「気が付いた?」
 ぼんやりとまばたきをしていると左の方から聞き慣れた声が響いてきた。
「う――」
「こらこら、まだ傷は治ってないんだから動いちゃ駄目だよ」
 身体を動かそうとすると全身が焼かれたような痛みを感じた。これは誰に忠告されるまでもなく、しばらくはまともに動けそうにないようだ。俺に隣から声だけを見せてくる相手はそれを察したのか、ひょいと天井と俺の顔の間にその双眸を挟み込んだ。
「陰」
「無事でよかったよ、弘毅」
 そこにいるのは確かに陰だった。
「元気そうだな、お前」
 俺の記憶が間違っていないなら、彼は聡史兄さんに包丁で胸を突き刺されたはずだ。しかし目の前にいる相手は不死身の如くぴんぴんしている。まさかあれは俺が見た夢だったとでもいうのだろうか。だとすれば、俺のこの傷は一体何なんだって話になるんだけどさ。
「当たり前だろ、俺は人間じゃないから少しの損傷ならすぐに直すことができる。それにあれからもう三日も経ったんだぜ? 直ってない方が尋常じゃないって」
「そうか……」
 やはりクローンは人間とは違うということか。いくら傷付いても何度でも復活することができるだなんて、ますます不死身っぽい存在なんだな。
 ――いや、待てよ。それよりも今、なんだかやたらと不穏な言葉が混じってなかったか?
「あれから……何日経ったって?」
「三日」
「う、嘘だろ! じゃあ俺はそれまでずっと気を失ってたってことか?」
「その通り」
 信じられなかった。思わず飛び起きそうになり、全身に流れた痛みによって更に頭が覚醒したらしい。でもそこに真っ先に飛び込んできた情報はあまりに現実離れしたものだった。小説なんかじゃよくある話だけど、まさか自分が三日間も意識不明状態に陥るだなんて。
「あ、あのさ。とりあえず、あれからどうなったかだけ教えてくれ」
 落ち着く為にはまず何よりも今の状況を知る必要があった。何でも知ってそうな陰は嫌な顔一つすることもなく、ただ俺が望むものだけを選択して与えてくれると思い込んでいるのかもしれない。
「そうだなぁ。何から話せばいいのか……」
「亮介はどうしてる?」
「彼は井上と一緒に気を失ってたけど、あの日の翌日にはもう目を覚ましてたよ。傷も順調に回復してるみたいだ。井上も命に別条はない状態だけど、亮介よりも傷が深くてしばらくは歩けそうにないらしい。そして、高原和希――水瀬聡史について。彼は今、輝美先生の部屋にいる」
 亮介の状態を聞いてほっとした矢先、陰の口から出た最後の言葉に息が詰まりそうになった。
「兄さんが、先生の部屋にいるって――どういうこと」
「……彼も弘毅と同じでずっと目を覚ましてないんだ。たぶん今も気絶してる。だから輝美先生が部屋の中に隠してるって感じかな」
「隠すって、一体なんで……」
「なんでだって? これは弘毅の願いだったじゃないか、あんなふうになった水瀬聡史をまだ庇おうとする弘毅の願いを叶える為に、俺が輝美先生に頭を下げて頼んだんだから」
 相手の表情に蔭りが差し込み、それが不似合いだったから俺はなんだか驚いてしまった。よく考えると彼のこんな表情を見たのは初めてかもしれない。俺の前にあるのは明らかに不服そうなそれだったんだ。もしかして俺は、彼に迷惑をかけたんじゃないだろうか。
「ご、ごめん。でも、本当に、兄さんは昔はすごくいい人だったんだ」
「昔は昔。今は今。弘毅はもっと現実を見るべきだね」
「目に見えるものだけを見てたって、物事の本質は見えてこないじゃないか! きっと兄さんがああなったのには理由があるはずなんだ、でなきゃあんなこと――普通はしない!」
 世の中にある全てのものには必ず理由があるはずだった。相手を知る為には、まずその理由を知らなきゃならないんだ。その為には俺は兄さんと向き合う必要があるのだろう。それはとても恐ろしいことだけど、今までのように避けてばかりだと事態は何も変わらないんだ。
 そうなんだ。俺が歩み寄らない限り、相手が俺の声を聞くことはない。だからあの時も、何の躊躇もなく刃を振り下ろそうとしたんじゃないのか。
「盲目的だな。それって結局、自分の理想に囚われてるだけじゃないのか」
「――何だって」
 頭のいい陰は事実を語っているんだろう。だけど今の俺にとってそれは、単なる否定のようにしか聞こえなかった。
「弘毅は嫌なことがあった場合、その物事に納得できなければ受け入れられないタイプなんだと思う。まあほとんどの人がそうなんだろうけどさ、時には妥協をする必要もあることを覚えるべきだ。自分にとって都合の悪いことには背を向けて、納得できる部分にだけ光を当ててそれを主張し続けるタイプ。お兄さんの発狂についても、発狂したという事実よりも、そこへお兄さんを追いやった理由をまず知ろうとするのは、そこに弘毅自身を救ってくれるものが隠れてないか探したいからじゃないのか? そして仮にそれが見つかった場合、今度はその理由があるからお兄さんや自分は悪くないって主張し始めるんじゃないかな」
「そんなこと」
「ないって言い切れる?」
 俺が兄さんの罪に目を瞑っていると言いたいのだろうか。確かにあんな事件を起こしておいて、それでも彼を庇おうとした俺は兄さんに甘い奴だと思われても仕方ないだろう。過去の兄さんを知っているから、優しかったあの人の姿を知っているから、俺は完全に彼を見放すことができないんだ。できることなら、俺の力で救ってやりたいって考えてる。
 そう思うのはいけないことなんだろうか。理由を探して、納得できるにしてもできないにしても、それで兄さんのことを理解したいと思うのは、そんなに駄目なことなんだろうか。
 亮介なら何を言うだろう。彼も頭がいいから、陰と同じで俺を叱るのかな。
「それでも、家族なんだ……大好きな、兄貴なんだ。早く元に戻って欲しい」
「家族が大切って気持ちは分からなくもないけどさ」
 ぽつりと呟いた陰の言葉がなんだか悲しげに聞こえたのは気のせいだろうか。相手はすっと顔を引っ込め、俺の目には高い天井しか映らなくなってしまった。
「そういえば、ここってどこなんだ? 俺の部屋ではないみたいだけど……」
「ああ、まだ教えてなかったっけ。ここは保健室だよ。ついでに今は朝の六時」
「……で、なんで陰さんは朝の六時の保健室にいらっしゃるのかね」
「ご主人様のご命令でございます」
 よく見てみると天井を照らす光は薄く、昼でも夜でもない時間帯だということがなんとなく分かった。陰は俺に嘘を言っているわけではないらしい。
「ご主人様って誰だよ」
「晃以外に誰がいる? ちなみにあの日、弘毅や亮介を助ける為に刺されたのも晃の命令だったんだぜ」
「――え」
 簡単には言葉が出てこなかった。
 要するに俺たちを助ける為に陰はあの場所に向かったわけで、そうなると陰にそれを命令した晃は聡史兄さんが何をしようとしていたか知っていたってことじゃないのか? いや、それ以前に、なんで陰にそんな、危険な方法をさせようだなんてことを考えたんだ。
 晃の姿がぼやけ始めている。
「ああ、勘違いしないでくれよ。晃に命令されたのはあくまで『弘毅や亮介が危ない目に遭ってたら、どんなことをしてでも助けろ』ってことだから。俺が敵の前に飛び込んで胸を刺されたのは完全に俺の判断だから、気にしないでいいよ」
「そん、そんなこと言われても――」
 どんなことをしてでも助けろって。晃は一体、陰をどういう目で見てるんだ。クローンだから傷を治すのは簡単で、だから少しくらいなら無茶なことをさせても平気だって思ってるんだろうか。でもそれって、まるで。
「なんでそんな命令、簡単に聞くんだよ」
「そういうプログラムが施されてるから」
「じゃあなんでそのプログラムとやらに納得できるんだよ! もっと悲観的になってもいいだろ、自分のことなんだから!」
 俺は自分から大声を出したのに、それに最も驚いているのは他でもない自分自身だった。どうして俺はこんなにも必死になってるんだろう。陰は家族でも恋人でもないただの友達なのに、それも元はと言えば晃の紹介で知り合っただけの奴なのに、彼を取り巻いている環境を思うとこんなにも胸が締め付けられるのは、一体どうしてなのか。
「弘毅って家族に対してだけじゃなくて、身近にいる人全員に対して甘いんじゃない?」
 陰の呆れたような声が俺の全てを物語っているようだった。でも俺だってそんなことは知らなかった。どちらかというと自分は淡白な人間だと思っていたから、こんな容易に情に流される奴だなんて思わなかったんだ。
 だけど、クローンだという理由だけで陰が人間扱いされず、道具のように使われていることを知ったら、どうしても納得できなかったんだ。晃は違うと思っていたのに――初めて陰を紹介してくれた時、あんなに陰を誇りに思ってそうな態度をしていたから、俺はすっかり騙されていたということなのか。本当は陰に酷い命令も戸惑うことなく出し続けられるような奴で、俺が見ていた姿は氷山の一角に過ぎなかったとでもいうのか。
「……逃げないか」
「え」
 ふと思い出したのは、俺にとってとても大切な一つの約束だった。
「俺と亮介とで、約束してるんだ。卒業式が来る前に、いつか一緒にこの学園を出ようって。その時に陰も一緒に……来ないか」
 天井しか見えないから相手の表情は分からなかったけど、彼の息遣いから何を考えているのかということが分かったような気がした。
「気持ちは嬉しいけど、それは不可能だよ。俺にはどうしても逆らえない三人がいる。でも、弘毅。こんな俺の為に悩んだり怒ったりしてくれて、ありがとう」
 彼の言葉はあっけないくらい素朴なものだった。それがぶつかった天井はやはりとても高くて、俺は出口のない箱の中に閉じ込められているような錯覚に陥ってしまうこととなったんだ。

 

 +++++

 

 俺はあの日、兄さんに刺されたらしい。
 その時の記憶は少しも残っていない。陰が兄さんを刺した場面を目の当たりにして気絶したから、自分の身体がぼろぼろになっていることにも全く気が付かなかった。
 俺が気を失ったのは一種のショックのせいだと円先生は言っていた。でも俺は自分が何に対して衝撃を受けたのか、それがいまいち分からなかった。兄さんが亮介を殺したがっていたことなのか、陰が兄さんに刺されたことなのか、それとも兄さんが陰に刺されたことなのか――いろんな事が起こりすぎて、俺はきっと疲れていたんだと思う。
 先生の話によると、少なくとも一週間は動かない方がいいらしい。白いカーテンで遮られたベッドの上は淋しくてつまらないけれど、誰にも会わずに済むことは今の俺にとっては必要なことなのかもしれないと感じられた。
 俺が目を覚ました後でも、兄さんはまだ気を失っているらしい。
「お前、漫画に出てくる病人みたいだな」
 授業をサボって隣の椅子に腰かけているのは亮介だった。俺は自分の姿をよく見ることができないけれど、どうやら全身を包帯で巻かれているらしい。そんな俺を亮介は小馬鹿にしたような目で見下していた。
「部屋に戻ってなくていいのかよ、この時間はファンの相手しなきゃならないだろ」
「こんなに傷付いて苦しい時にファンの相手なんかしてられるかっての」
「……見るからに元気そうじゃないか」
「はあ? 腕を刺されたんだぞ、あのおぞましい量の血をお前も見ただろうが!」
 やはり相手は元気そうだったが、これ以上言い合っても無駄だと分かったので俺は潔く口を閉ざした。
 手に入れたはずの孤独はそう簡単には顔を見せてくれないらしい。でも誰もいない保健室の不気味な静けさは、世界から切り離された「二人だけの孤独」を演じているように感じられた。
 頭の中で命令を下しても、俺の身体はきちんと動いてくれない。ゆっくりと腕を動かそうとすると、そこから向かってくるのは激痛だけだった。まるで全身が麻痺して感覚を失ったみたいだった。まともに動くこともできなくて、俺は今までの幸福をようやく知ることができた。
「暗い顔してんな、お前。そんなにショックだったのかよ」
「何が」
 普段通り話しかけてくる相手がなんだか妬ましかった。
「お前の兄貴、やたら俺のこと憎んでたみたいだったからさ……まったくいい迷惑だよな」
「……」
「そこは同意しろよ」
 余計なことを考えると泣いてしまうかもしれない。頭痛が襲ってくるその前に、俺はちゃんとした答えを見つけておくべきだった。
「おい、寝るな。まだ昼だぞ」
「眠いんだから放っておいてくれ」
「目を開けろバカ」
 暗闇を見つめていると頬をつねられた。その痛みが何か異質なもののように思えてぞっとした。
「いいから放っておいてくれ!」
 なんだか怖かった。叫べば平気になるとでも思っていたのだろうか。俺の声を聞いて亮介は黙り込んだ。静かな部屋に響く大声は幾度も回ってどこかへと流れていってしまった。
 誰も喋らなくなった時、二つの呼吸音だけが聞こえていた。それぞれ別々のリズムがあり、二つは全く異なる存在だという事実を思い知らされた心地がした。俺は相手の顔を知っているけど、彼の鼓動までは知らなかった。同様に相手も俺の目を見ているけど、俺の血潮からは目をそらしていたのだろう。
 ふと頬に何かが触れた。目を開けて確認してみると、それは大きくて小さな手のひらだった。
 包帯だらけの首筋に相手の艶やかな黒髪が垂れている。
 近付いてくるから、彼が俺の元へと躊躇いなく接近するから、また息を奪われるのかと身体が強張った。その後に訪れる快感を待ち望んでいた。
 だけど願いを叶えてくれる神など存在しない。
「何が一番、悲しかった?」
 二人にしか聞こえない声で、彼は俺に質問をした。
「言ってみろよ」
 悲しい。それは、怖いという感情とは別のものなのか。それとも怖いという感情から派生したものなのか。俺の中に残っているのは確かに「恐怖」と形容されるものであって、「悲哀」なんかが芽生えているだなんて、そんなことは少しも知らなかった。
 だけど、どうしてだか、彼に尋ねられるとそれが最初から存在していたように感じられて、でもそれと向き合うとあらゆるものが壊れてしまいそうで、ずっと背を向けて耳を塞いでいたい衝動に駆られた。怖いことなんか知りたくもなかった。俺を取り囲んでいる全ての苦しいことや悲しいことが、膠着から脱却して遂に侵攻を始めたのかもしれない。
 これはまだ序曲でしかないのだと、誰に言われるまでもなく察してしまったことが怖かった。
 俺はきっと、一人きりだとそれらに押し潰されていただろう。俺に光明を与えてくれる彼がいなければ、この終わりのない絶望感に呑み込まれていたかもしれない。
 身体はまだ動かない。だけど頬から感じる手の温かさは、以前と変わらない唯一のものだった。
「亮介、傍に……傍にいてくれ、どこへも行かないで」
 ふうと一つのため息が零れ落ちた。
「仕方のない奴だな」
 そのすぐ後に振ってきたキスは、俺の凍て付いた心を解き放ってくれた気がした。
「こんな昼間からお熱いねぇ、お前ら」
 カーテンで隔てられた壁の向こう側、いささか別世界のように感じられる場所から一つの科白が飛んでくる。それは何にも隠されていない無色のものであり、俺にとっては懐古の念を抱くべきものだった。
「てめえ、黒田……邪魔すんじゃねえよ」
「よっ、久しぶり」
 亮介の言葉を掻き消すかの如くひょいと俺に顔を見せたのは、紛れもなく二年になってからほとんど会わなくなった晃だった。
「やっと目を覚ましたって聞いたから顔を見に来たんだ。そこでまさかいちゃついてる様を見せつけられるとは思わなかったけどな」
「馬鹿はさっさと失せろ。でなきゃ馬鹿がうつってバカな弘毅が更にバカになっちまうじゃねえかよ」
「……加賀見お前、相変わらず弘毅の前では平気で酷いこと言うんだな」
「本当のことを言っているだけだろうが」
 俺の上で小さな口論が起こっている。だけど俺はその中心にいるはずなのに、まるで他人事のような心地でそれを眺めていた。この地点での思わぬ再会は俺に何をもたらそうとしているのだろうか。彼のことがぼやけて見えなくなりかけているこの時に、どうして神はこんな形の運命を俺に与えたんだろう。
 これから起こるであろうことがなんだか怖かった。
「陰に聞いたんだ、晃、あれはお前の命令だったんだって」
「え? 何の話だよ」
「なんでお前はあいつを傷付けるんだよ。大事な家族じゃなかったのか」
 俺を見下ろす目が少しだけ大きく開かれた。それに反し、彼を見つめる亮介の瞳はすっと細くなる。
「何を言ってるのか全然分からないぞ、弘毅。ちゃんと主語を言ってくれ」
 本当に分かっていないのか、単におどけているだけなのか――俺は晃じゃないから晃の考えなんか分からない。でも俺は、彼の言葉の裏に潜むものに気付かないほど堕落してはいなかった。
「陰が俺たちを助けてくれたんだ」
「ああ、そうだな」
「その命令を下したのがお前だって聞いた」
「そうだけど、それがどうしたんだよ。なんでお前は助かったのに怒ってるんだ」
 怒っている。俺は怒っているのか。誰に対して怒ってるんだ? どうして怒る必要がある?
 そんなもの、説明してもらわなくたって分かり切っている。
「家族なんだろ? 大事なんだろ? それなのになんであんな命令が出せるんだ? お前は違うって信じてたのに、あいつが人間じゃないからって道具扱いするような奴じゃないって信じてたのに!」
 身体を起こそうとして痛みが走った。手を伸ばそうとしたのに何も掴めなかった。
「馬鹿、動くな」
「なんであんな仕打ちができるんだ? あいつは傷を負って、胸から血を流して……それでも俺と亮介を助けてくれた。笑って俺たちを救ってくれたんだ、お前に恨みを抱くこともなく! 家族なんだろ、兄弟みたいなものなんだろ? どうして家族を守ってやらないんだよ、俺たちを守るよりも先に、なんであいつを守ってやらなかったんだ!」
「もういいから喋るな、馬鹿」
 亮介の手が俺の身体を抑える。彼に口を塞がれてしまったが、俺を見下ろす眼差しが戸惑いを浮かべている様を見て、どうしようもないやるせなさが胸の内に広がっていった。
 晃はきっと、理解していない。きっとそれは彼のせいではないのだろう。彼を取り巻く環境がそうさせたのか、それとも親に教え込まれたからそうなったのか……どちらにせよ、可哀想なことだった。俺は晃も陰も救うことができないんだ。
 ぼやけていた視界がはっきりしてくる。失われていた輪郭が、ようやく俺にも見えるようになってきた。
「弘毅は、家族のことが大好きなんだな」
 彼の出した答えはそれだけだった。そして俺は自分の境遇だけであらゆる物事を捉えていることに気が付いた。
「てめえも喋るんじゃねえ。さっさと出ていけ!」
「はいはい、分かりましたよ……」
 一かけらの躊躇いすら見せずに晃は俺の傍から気配を消してしまう。残された亮介はどこかほっとした表情で、動けない俺の代わりに部屋の扉を閉めてくれた。
「家族ってのは、そんなに大事なもんかね」
 隣に戻ってきた彼の呟きは独り言のようだった。ただその響きは俺に向けられているようでもあり、相手の疑問に答えるべきか迷ってしまう。
「大事……だよ」
「気狂いになっててもか?」
「そんなふうに言うな」
 俺が否定をするということがどういうことなのか、頭のいい亮介ならきっと分かるだろう。だから俺はそれだけしか言わなかった。意図を察したのか察しなかったのか、亮介もまた黙り込んで別の方向へ視線を向ける。
 なんだかいろんなことが一気に起こって疲れてしまった。壊れた身体のおかげで動けないから、この機会にゆっくりと休んでおくべきなのかもしれない。俺は誘われるままに目を閉じた。呼びかけてくる暗闇はこれまで以上に心地良く感じられて、だからもう戻りたくなくなってしまう。
 そうして限りのない夢の中へ意識を落とし、俺は深い眠りの渦へ足を踏み入れた。……

 

 

 

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