空間

前へ 目次 次へ


3.喧噪 - 02

 

 ここ最近は毎日が平和だと感じていた。
 大きな事件が起こるわけでもないし、何か特別なことがあったわけでもない。亮介やキアランなんかとは昔と変わらない関係を続けているし、時々会う陰や絹山幾人とも普通に接することができる。
 だけど時間が経過するにつれて俺は何か言いようのない不安を募らせていた。目に見えない何かが執拗に俺を追い詰めていて、やがて失った出口を求めて彷徨うのではないかという恐怖に気付いたようだった。そしてその理由もちゃんと分かっているんだと思う。俺はきっと、あの「卒業式」という得体の知れないイベントに近付いていることを恐れているんだ。
 結局円先生はそのことについて教えてくれなかったし、亮介にはなんだか聞きづらくて、俺は本当のことを知らないまま不安を抱えていることになる。亮介は知らない方がいいと言うけれど、こうして中途半端に知らされる方がずっと恐ろしいということが分からないのだろうか。
 なんて、亮介を責めたって仕方がないんだけどさ。
「はあ」
「どうしたんだい、ため息なんかついて」
 一人で廊下を歩いていると、後ろの方からはっきりとした声が聞こえてきた。思わず反射的に振り返ると見慣れた顔がすぐ傍にあった。
「絹山……さん」
「何か悩み事でもあるのか? 気分が落ち着くお茶でも出そうか」
「え、いや」
 いつの間にやら仲良くなった相手である絹山幾人は真面目そうな顔でこっちを見ていた。一見いい人のように見えるかもしれないが、俺は彼に襲われかけたことがあるのだ。そう簡単に相手に心を許してはいけない。
「おいで」
 地に足を付けて踏ん張ろうと思った矢先、ぐいと腕を引っ張られて彼の部屋まで誘拐されてしまった。何なんだこの展開は。俺の決意はどこに行ったんだよ、おい。
「あの、俺、別に悩み事なんて」
「悩み事などなくても構わない。とにかく君をこの部屋に連れてきたかっただけだから」
 何やらよく分からないことを言いながら相手は玄関の扉に鍵をかけた。そして俺の背をぽんと押し、部屋の奥へと誘導される。
「安心して、怪しいことをするわけじゃないから」
「そんなこと言われても」
「第一そんなことをしたら加賀見君に半殺しにされかねないからね」
 愉快そうに笑いながら絹山幾人は俺の隣を通り過ぎ、部屋の奥からお茶と茶菓子を出してきた。それらを丁寧な手つきでちゃぶ台の上に置き、俺に座るよう目配せしてくる。仕方がないので俺は相手の望み通りに腰を下ろしてみた。
「それで、何の用なんだよ」
 分からないことはできるだけ減らしておくことが定石なのだろう。いまいち本音の見えてこない相手の目を覗き込み、俺は彼の腹の底を探ろうとする。瞳の奥まで貫き通すほどの強固さなど持ち合わせてはいなかったが、今の彼は何かを警戒しているようだったものの、俺自身のことを敵視しているわけではないようだった。
 彼の言葉の端々に俺への好意が浮かんでいる。
「以前俺は君に忠告したはずだろう、この学園内はそれほど安全な場所じゃないと」
「覚えてるよ」
「気付かなかったか? 君はこの寮に入ってきてから、ずっと細田孝明に跡を付けられていたんだぞ」
 相手の唇から出てきた様々な響きをしたものにより、俺は頬をはたかれたように目を覚ましたのかもしれない。
 頭の中で一つ一つの単語が高速で連想を開始する。細田孝明という名から出発した信号は、やがて俺が最も意識しているあの人の名前へと辿り着くはずだった。
 脇腹がちくりと痛む。
「なんでそんなこと、あんたが知ってるんだよ。あんたも俺のことを尾行してたのか」
「まあ……そういうことになるだろうね。だが君の姿を見つけたのは偶然で、細田孝明の目線を見たのも偶然だったさ。俺はただ心配だったんだよ。彼と彼の同室の高原和希――つまり君のお兄さんの話を聞いてしまったからには、気になってしまうのは仕方がない事実だろう?」
「お節介だな、あんた」
「人間の良心とはそういうものなんだよ」
 相手の優しさは嬉しかった。現に彼に呼び止められ、この部屋へ連れ込まれなければ俺は細田孝明に何をされていたか分からない。もし細田孝明の部屋まで連れ攫われたなら、そこに待っていたのはきっと。
 すうっと息を飲み込み、俺は深くそれを吐いた。
「今日はどうして加賀見君と一緒じゃないんだい」
「……あいつは客と話をしてたんだ。だから、一人で先に部屋に帰ろうと思って」
「彼も薄情だな。恋人を放って他の男とつるむなんて」
 絹山幾人の口から出た「恋人」という単語が妙な反響を生み出していた。
「もういいだろ。俺、部屋に帰るよ」
「まだ駄目だ。せめて加賀見君が部屋に帰ってからここを出なさい。部屋の外は化け物が徘徊する恐ろしい世界なのだから」
「まるでその化け物に襲われたことがあるかのような言い方だな」
「おや、そう聞こえたかい?」
 それだけを言った絹山幾人は何も映さない顔を綻ばせた。彼の表情からはずっと何も見えてこなかったけれど、今の表情以上に何も分からないものなど俺は見たことがなかった。ただそれは美しかった。性別など関係なしに、顔の一つ一つの形から作り出された空気はやわらかく、この世のものとは思えないほどの美しさを周囲に漂わせていたんだ。……

 

 +++++

 

 部屋に戻ると亮介はベッドに寝転んでいた。それは見慣れた光景で、なんだか俺はほっとしてしまった。最後に見かけた時にはファンらしき連中と話をしていたが、今は一人きりで気持ちよさそうにベッドでごろごろしている。ファンに捕まると何時間も話し込む場合がある彼にとって、今日はやたらとすっきりした関係を抱いたらしかった。
「よお、遅かったじゃないか」
 そしてなぜか相手の機嫌もいいようだった。俺は細田孝明に尾行されてたらしいし、そこまで愉快な気持ちじゃないんだけどな。
「ご機嫌だな、亮介」
「そう見えるか? 実はファンの連中と喧嘩しちまったんだけどさぁ」
「えっ」
 ぐいと身体を起き上がらせ、ベッドに座り込んだ相手はやはり顔を綻ばせていた。そのくせ口から出るのは不穏な響きを持つものでしかなくて、相手の考えがさっぱり見えなくなってしまう。
「あいつらお前と別れろってうるさくてさ。いい加減腹が立って怒鳴っちまったんだよ。そしたら今日の予約をキャンセルしたんだぜ」
「はあ」
「おかげで今日は一晩中フリーさ。久々にのんびりできるってもんだ」
 ああ、そのおかげで機嫌がいいのか。でもそれはなんだか不可解な態度だった。俺がよく見てきた相手ならきっと、客に逃げられたと言って怒っていただろう。なのになぜ今日の亮介殿はこんなに客を失ったことを喜んでいるのだろうか。
 その理由が分からないほど俺は鈍くないつもりだ。
「お前ってさ、たまに可愛いとこあるよな」
「な、何を言ってんだ。別にお前と別れたくなかったから喧嘩したわけじゃ……」
 相手の否定は最後まで続かなかった。俺はそれを見て嬉しくなっている。今更だけど、本当にどうしてこんな関係になってしまったんだろう。ただの友達同士じゃ駄目だったのか? 浅い友人関係で満足できないなら親友という固有名詞もあるはずなのに、俺たちはそれ以上を求めてしまった。先の見えない未来を共に歩む道を選ぼうとしているんだ。一体何が俺たちをそうさせているのだろうか。
 それ以前に、もしかしたら俺と亮介の解釈は根本的な部分から異なっているのかもしれない。俺が求めるものと亮介が求めるものは全く別のもので、目先の光景だけを見てそれがぴたりと重なっているように見えるから、ただ一時的にお互いが惹かれ合っているだけなのかもしれない。恋愛などそういうものだと割り切ることもできるだろうけど、仮にこの関係が俺たちの全てを決めてしまうのなら、こんな刹那の感情に委ねてしまって構わないのだろうか。好きな人と一緒ならどんな困難も乗り越えられるとはよく聞くけれど、その困難とは本当に必要なもので、避けて通っても害がないものではないのだろうか。
 考えるほど分からなくなる。純粋に他人を愛することは初めてではないはずなのに、俺が今まで経験した「恋」は存在しなかった為か、どうしていいか分からなくなっているんだろう。だけど俺がいくら悩んだとしても、この胸の痛みは亮介には伝わらないのだ。俺が口を開いても、相手に縋りついて涙を流しても、二人が一つになることは決して有り得ない。だからこそ人間は他人に惹かれるのかもしれないけど、その一方で手を繋ぎ合っても孤独を感じることがあるんだろう。
 そして目の奥にあるもの、肌の隙間に存在する感情――それらは言葉や仕草には成り得ない。どれほど近い存在でも、他の誰よりよく知っていると思い込んでいる相手でも、全ての切れはしを見逃さずに生きることはかなわないんだ。俺が聡史兄さんのことを分からなくなっているのと同じように、いつか亮介のことも分からなくなるのだろうか。共にこの学園から脱出したとして、その先にある未来を同じ目で見ることはできないのだから。
「どうした弘毅。バカなくせに難しい顔してるぞ。お前はバカなんだからそんなことを考える必要はない、何も考えず俺の言うことを聞いてればいいんだ」
「……あのなあ」
 人が真面目に考え事をしているとすぐこれだ。亮介の科白のおかげで自分の悩み事がどうでもよくなってしまい、盛大なため息と共に俺は彼の隣に腰掛けた。そして相手の顔を覗き込む。
 目の前にあるのはやはり綺麗な輪郭だった。皆が羨むその曲線が、今は俺だけのものになっているらしい。
 俺の隣にいる彼は何を考えているのだろう。俺のような何も持たない人と秤にかけられて、迷惑だって思ってはいないだろうか。気持ちが不安定になりやすい俺はどうすれば彼を幸せにできるだろう。自分自身でさえ幸福の色を知らないのに、俺が彼の手を握ることはあまりにおこがましいことではないのだろうか。だけど、俺はもうこの手を離せなくなっていた。彼の背が小さく見えたあの日から、彼の声が震えていることに気付いたあの瞬間から、救いを求めて伸ばしている手を握ったのは俺の方だから、終わりのない迷宮から脱出するまでは繋いだ手を守り続けていきたかった。たとえそこにどんな悲しみが待ち受けていようと、決してこの手を離さない覚悟だってあるはずだったのだ。
 どれほど現実が俺たちに牙をむいても、身を引き裂かれそうな苦しみが二人の上に降りかかったとしても、俺はそれに押し潰されてはいけない。誰かと共に歩むと決めたなら、自分の中にある負の感情は全て闇に葬り、まるでそこには最初から何もなかったかのように演じなければならないから。
 それがきっと、誰かを救うということなんだろ?
「もう寝るか」
 相手の呟きが俺の中にすっと入ってきた。気が付けば空は黒く塗りつぶされ、煌めく星たちが淋しげな月を取り囲んでいる。亮介は寝間着にも着替えず靴下だけを脱いでベッドの中に潜り込んだ。枕の上に広がった彼の黒髪が妖艶な光を放っていた。
「風呂は?」
「もう入っちまったっての。お前はまだなのか?」
「いや……」
 繰り返される日常が刺々しかった。俺は腰を上げてその場から逃げたくなっていた。でも彼の目の奥に何かを感じたから、俺を誘う相手の隣からどうしても離れることができなかった。手を伸ばすと彼の髪に触れたらしい。それは想像していた通りに艶やかで、でも夢とは違い驚くほど繊細に絡み付いてきた。川のように零れ落ちるものだと思っていた。俺は何を考えていたんだろう!
「おいバカ弘毅、勝手に髪に触るなと前にも言っただろうが」
「そうだっけ」
「この俺がどれほど髪の艶やかさに命をかけているか知らないだろう」
 ベッドに座ったまま身体を折り曲げ、俺は相手の顔に自身のそれを近付ける。長いまつ毛が肌に触れそうになった時、相手はゆっくりとまばたきをした。俺はそれを間近で見て、やはり綺麗だと感じた。彼の細胞の一つ一つが芸術作品のようにひたすら美しかった。
 その美しさの裏側にどれほどの悲しみがあったことだろう。人知れず進行していた水面下の孤独が彼を闇に落としてしまったのなら、一体誰が陽の元へ彼を案内することができるだろうか? ここまで踏み込んでもその瓶を手放さないというのなら、俺が内側から彼を壊してしまいたかった。それでも彼が彼を保ち続けたいと願うならば、もはや祈ることしかできなくなるだろうけど、もうそれでもよかった。あんたが笑っていてくれるのなら、俺などどうなっても構わないから。
 ――視界がぶれている。焦点が合わなくて何を見ているか分からない。俺の目に映るのは亮介のはずだったのに、頭の中で意識しているのは憧れていた兄でしかなかった。一体いつまで俺は彼に縛られるのか。誰もが羨むその関係を、どうして失わなければならなかったんだろう。
「亮介、好きだよ」
 言葉を口にすると視点がぴたりと立ち止まった。
「気色悪い奴だな」
「一緒にこの学園を出よう」
「……」
 沈黙は俺の全てに絡み付く。深いところにある蒼が呼んでいるはずなのに、歯止めが利かなくなるからと知らんふりをしてるんだ、彼は。だから白い錠剤を手放さない。愛のない深淵に沈み込むことで、他の誰でもなく自分自身を騙し続けている。
 俺がやめて欲しいと叫んだとしても、彼は振り返りもしないのだろうか。
「うわあああ!」
 くぐもった悲鳴が部屋じゅうに響き渡る。驚いた俺の心は急激に現実に舞い戻ってきた。どうやらそれは廊下の方から聞こえたらしい。
「今の声……井上か?」
「誰だよ、それ」
「俺が今日喧嘩した客。同級生だ」
 のそのそとした動作で亮介は身体を起き上がらせる。裸足のままスリッパを履き、俺を残して玄関の方へと歩いていった。
「ちょっと様子を見てくる。お前はそこで大人しくしてろよ」
 彼の背中が小さくなって、俺が何かを言う前にすっかり見えなくなってしまった。玄関の扉が閉まる音だけが聞こえ、しばらく静かになった後でまた大きな音がここまで届いた。それは何かが壁にぶつかったような鈍い音だった。誰かが誰かと言い争っているような声も聞こえたが、その内容までは把握できなかった。
 俺はじっとしていたが、何かに急かされるように突然立ち上がった。それから自分でも驚くほど機敏な動きで亮介の足跡を踏み潰し、確かに何かが起きている現場へと足を運んだ。ドアノブに手を伸ばすと静電気が俺を叱った。亮介の言い付けを守らなかったから、神さまが俺に罰を与えたのかもしれない。だけど俺は痺れる指で扉を開けた。廊下を照らす電気が必要以上に眩しく感じられた。
 そして視界に映し出されたのは様々な形をした「赤」であり。
「馬鹿、お前は大人しくしてろって言っただろうが!」
 俺を叱るのは神さまではなく亮介だった。彼は赤くなった腕を押さえて俺に背を向けている。その隣にいるのは見たことのない同級生の姿で、彼は地に膝をついて腹の辺りを片手で押さえていた。二人とも衣服を赤く染めていて、床には同じ色の水滴が幾つか飛び散っているようだった。それは鉄の臭いがする液体で――そうだ、これは血液じゃないか。二人は何かに傷付けられたから血を流しているんだ。
 傷付けられたって? 何が生徒を傷付けるんだよ、ここは安全な学園の寮の中じゃなかったのか?
『部屋の外は化け物が徘徊する恐ろしい世界なのだから』
 絹山幾人の科白が頭の中でぐるりと回った。
「安心して」
 雨の如く唐突に降り始めた声にはっとする。反射的に顔を持ち上げると、人工的な光に祝福されている大人の姿を見つけられた。
 それはあまりに眩しすぎて。
「お前を苦しめる奴らは全員排除してあげるから。だから安心していいんだよ、弘毅」
「あ――」
 亮介と見知らぬ同級生が向き合っている化け物は、他でもない聡史兄さんだった。俺が知っている彼とあまりに違い過ぎるから、声を聞くまで彼が誰なのか少しも分からなかった。あの日と同じように手には包丁を持っていた。赤く汚れたそれは食べ残しを滴らせ、空を切る度に彼の顔を赤く染めていく。
 怖い。
 足が震えて一歩も動けなかった。鼓動が速まって声すら出てこなかった。目の前には守るべき人がいるのに、俺は彼に手を伸ばして共に逃げることすらできない。躊躇する要素なんてないはずなのに、どうして今更破壊を恐れているんだろう! どうしてだって――そんなの――決まっている、だけど認めたくなかった。それを認めれば全てが駄目になってしまいそうだから!
「お前もさっさと逃げろ、井上! 円先生にこのことを知らせてくれ!」
「駄目だ、俺は亮介君を守るって決めてるんだから! ここから逃げるなんてことはできない!」
「馬鹿!」
 大きな手が井上の腕を掴み、天から降り下ろされた銀の刃が彼の中へ食い込んだ。何も聞こえないはずなのに彼の悲鳴が聞こえた気がした。後から血液が飛び散り、それはその場にいた全てのものを黒く染め上げる。
「この、気狂いめ!」
 亮介が睨んだ先にいる兄さんは口元を歪めていた。その瞳孔はぎらぎらと煌めき、この世のものとは思えない異彩を放っている。彼は俺を見ているが、彼に見られているという感覚は得られなかった。そのことに気付いた時、俺は全身から力が抜ける刹那を感じた。
 身体が崩れて地面に座り込んでしまう。兄さんはこちらに一歩近付いた。腕を押さえた亮介は倒れかけた井上の身体を支え、憎むべき犯人の姿を見上げている。そんな目で兄さんを見ないで欲しい。俺が見てきた聡史兄さんは、人を傷付けるような人じゃないんだから。俺を守ってくれる頼りになる人なんだから!
「どうして」
 喉の奥から滑り落ちたのは本当に俺の声だっただろうか。
「こんなこと、俺は望んでない」
「こうしなければお前が傷付くんだよ。他人を信用しちゃいけないんだ。だって連中は、容易く悪者になることができる」
「じゃあ、悪者でもいい!」
 目を閉じて首を大きく振った。暗闇が俺を呼んでいたけど、そんな声はきっと俺には届かなかった。
「悪者が怖いなら、俺も悪者になってやる! 俺のことを守りたいなら、同じ悪者の仲間であるこいつは――亮介だけは傷付けないでくれ、兄さん!」
「駄目だ! 彼だけは何があろうと許さない! 彼だけは、彼だけは地の果てまで追いかけてでも殺してやる! 必ず殺してやる、どんな手を使っても、誰に守られようとも、俺が殺されない限りはどこに隠れようが見つけ出して殺してやる、殺してやるんだ、必ず!」
「どうして、そこまで――」
 目を開けた時には相手の表情が変わっていた。彼は俺の知らない顔をしていた。全てを知り得たと感じていたはずなのに、どうしてこんな気持ちにならなければならないのだろう! もう彼に俺の声は届かないんだ! 俺のわがままも、親切も、悪戯も、今の彼には何の影響も与えずに消えてしまうんだ――。
「や、やめろ」
 兄さんは亮介の前に立った。彼の細い腕を持ち上げ、痛みで顔を歪めている彼を見下ろした。唇を噛み締めて彼の腹を蹴り飛ばした。俺の隣の壁にぶつかった人間は、何か恐ろしい音を立てて地面に転がった。
「やめろ……」
 髪を引っ張り上げて刃物で切り裂いた。黒ずんだ衣服を引きちぎり、露わになった肌に見えた歪な跡が微笑んでいた。
 そして彼は大きく手を振り上げて。
「お願いだから、もうやめてくれ!」
 それでも彼は一かけらの躊躇さえ見せず、その手を勢いよく振り下ろした。

 

 生きている人間の血潮は凄まじいものだった。壁や床だけでなく天井にまで飛び散り、視界全てを真っ赤に染め上げた。
「……無事かい」
 胸を貫かれた彼は振り返り、やわらかく微笑した。はっとすると、天井には赤い染みなどできていなかった。倒れたのは亮介ではなく兄さんの方で、俺たちの前に立ち塞がって刃物で胸を突き刺されたのは陰だった。
 彼の胸にはまだ銀の煌めきが存在している。そこから流れ出る血液は幾つもの線を床に向かって引っ張っていた。
「少し暴れすぎだね、彼は」
「待ってくれ! 兄さんは――」
「安心して、他の生徒たちには黙っておくから。学園長にも知らせない」
 陰のその言葉を聞いて俺は安寧を得た気がした。すると唐突に緊張が解き放たれ、そのまま闇の呼び声に耳を貸してしまった。……

 

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system