77

 私はあなたを愛しています。

 

 

 目に入る色は透明で、地下に見えたあの宇宙が今は頭上に広がっている。遠い地には誰も知らない場所があって、本当はそこが私たちの故郷なのかもしれないという幻想が聞こえてきた。しんと静まり返った大地はただひたすら大人しくて、私の背中を押してくれているようにさえ感じられた。
 一つ踏み出す度にあの人に近付く。怖くなって足を止めて、振り返っても誰もいない。私を呼ぶ声がずっと聞こえている気がした。大地の下から、天の上から、深淵と永遠の狭間の時空からの声が、生まれる前からずっとずっと続いているみたいだった。私はそれに返事をしたことがない。
 渦巻く空は手招きしている。早くおいでと誘ってる。ルイスの罪は私の罪。共に散った生命は感情を残し、ルイスという生命を形作っている。
 ただ一つだけ残った街から離れ、海の方へと歩いていく。波の音も潮の香りも分からない場所で立ち止まる。地面に綺麗な魔法陣が描かれていた。ここは彼が――豊がキーラにより召喚された地点だった。
 彼らは何も知らなかった。知らせる義務もないのだから、私はずっと黙っていた。だから私だけが知っていた。この地面の下にこそルピスが眠っているという事実を。いや、本当は知っているのかもしれない。知らなくとも感づいているかもしれない。時に人間は驚くほどの鋭さを見せる。そして彼らは私を変える原因となった人々だった。だから彼らがルピスの眠る地を知っていたとしても、それは何もおかしいことではないのかもしれない。本当におかしいのは、ここまで来て足がすくんでエアーの言った通りになっている自分の方だった。
 私が彼女の名を呼べば、優しい相手は答えてくれるだろう。私が何かを求めれば彼女はそれを探す。私が悲しみに涙を流すと彼女は私を慰める。幼き日々の幻影が痛々しい。私はずっと彼女に甘えていたんだ。
 彼女は優しすぎた。親切にも限度が必要だった。彼女の行動は同情を通り過ぎ、自己犠牲の域に達していた。冷たい雪にさらされた彼女の金髪が、かつて赤色に燃えていたことをどれだけの人が知っているだろう。
 私は知ってる。だから、苦しくなる。
 だけどそれはいけないこと。苦しみに迷い込んでは何もできなくなる。私は出口を失う前に、彼女を地の底から引き上げねばならなかった。それがかつての姉に対する、妹としての義務だから。
 描かれた白い魔法陣の上に立ち、深呼吸する。
 大丈夫。私なら大丈夫だった。今度ばかりは失敗しない。怖気づいても、懐かしくても、ここで引き返したら私は居場所を失うから。もう居場所を求めてさまようのは嫌だった。帰るべき場所がある頃が輝いてしまうから、過去にすがりたくなって立ち上がれなくなるから、私はルピスと同じ所へ行くべきだったんだ。だから、もう大丈夫。大丈夫だから、心配はいらない。
「ルピス」
 空に浮かぶ月がきらりと光った。それと同じ色の長い髪が私の前で揺れる。
「ルイス……やはり、来てくれたのね」
「ええ」
 整った顔の、大人びた、背の高い女性。それが光の意志の総括者。姉の姿をした意識の集合体。
 私がやるべきことはただ一つ。
「ルピス、私はあなたを消滅させねばなりません。どうか分かってください」
 分からなくても構わない。だって私も、彼女の考えがもはや分からない。
 だって私たちは違う個体。別の存在である限り、分かり合えるはずがなかった。
「ルイス、どうしてそんな悲しいことを言うの? 私はあなたをこんなにも愛しているのに。ああ、そうだ、あなたは淋しかったのね」
 何も考えなければうまくいく。相手の言葉は私を揺さぶる誘いなんだ。騙されてはいけない、誰だってどんな時でも、いつ裏切ろうかと腹の底で企んでいるのだから!
「本当の名前で呼んでくれる人がいないから、本当のあなたを知っている人がいないから、あなたはずっと淋しかったのね、ルイス。だから私の元へ逃げてきたのね。だからあの家に住む人々を壊そうと思ったのね。それは間違っていないわ、あなたはそうするべきだったのよ。そうするよう神様が仕組んでくださったんだわ。これは必然の結末なのね、あらゆる運命が働き合って、あなたを私の元に届けてくれたんだわ。私あなたに会えて嬉しいわ。本当よ、たった一人の妹なんですもの。だからお願い、ルイス。まずは私の手を握って」
 すっとルピスは手を差し出す。
 私の目の前で止まった彼女の手。闇の中で薄い光を纏っている、紙のように真っ白な手だった。この手が私の頭を撫で、白い綺麗な花を摘み、私の手を取って長い距離を歩いていた。見ているだけで引き込まれそうだった。理由もなく素晴らしい手だったのに、どうして! 私はこれを壊さなければならなかった。
 壊すって、でもどうして? それは世界の平和の為。私たちは人間の為に作られ、人間の為に生き、人間の為に死んでいく魂。ルイスとして初めてあの人と言葉を交わした時、それが私の存在理由なのだと理解した。そこに戸惑いなどなく、諦めもなく、一方的に享受する姿勢で世界を眺めていた。これから自分が生きる世界を、失った感情に別れを告げるかのごとく。
 私はルピスの手を握った。
「ああ! ルイス――エミリア! あなたがあなたで良かった」
 壊す?
 掴んだ手が動かない。
 動かない。動かない、何もかもが動かない! 時と空間が切り離されたかのように、ここにある全てのものがぴたりと足を止めて私を見ていた。私たちの姿を見ているんだ! 私は、この人を消さなければならない。この人の妹として、闇の意志の総括者として、同じ石から生まれた魂として、この人の責任を私が負わなければならない。それは義務だった、私がこの世で生きる為の通貨、生かされる存在の恩返しにすぎなかったんだ。だから神は私を信じた――追い出すこともなく、幻滅する前に、ただ一言「信じる」と言ってくれたんじゃないか!
「ねえエミリア。私あなたの為なら何だってできるわ。光の意志になることも、ルピスとして生きることも、あなたに消されることだって。そりゃあね、消えるのはちょっと怖いけど、それがあなたの望みなら、私は頑張って消されるわ。だって私はあなたを愛してるんだもの。あなた以上に愛する人なんて誰もいないわ!」
「や、やめ――」
「私はあなたを愛してる。あなただけを愛してるわ。私はあなたの為だけに存在するの。私の世界にはあなたしかいないわ」
「やめて、やめて!」
 これは何、これは何? なぜ彼女はこんなことを言う? 私を動揺させようとしているの? 私を諦めさせようと企んでるの? 愛してるだなんて、そんな安っぽい言葉で、ルイスをうまく丸め込もうと考えてるの? そして私は……震え始めてる。彼女がいなければ何もできなかったエミリアは、まだ彼女の愛を求めていたというのだろうか!
 馬鹿なことを! 彼女の愛を求めてはならなかった。だってそれは純粋な愛じゃない、薄汚れた見返りの愛だから! 私はそれを嫌ってたはず、アイザックを遠ざけた理由として、私じゃなく私の向こう側にあるものを見ていたから、彼を信頼の糸から切り取ったんじゃなかったのか! 信じてはならない、ああ、信用なんて捨てなければ! 裏切られる、捨てられる、忘れ去られる、永遠に取り込まれた私だからこそ、一つの意志が留まらない私だからこそ、皆は私をルイスと呼んでいる――私の目を見て、ルイスって口を揃えて呼ぶんだから!
 そんな言葉、少しだって求めてなかった。私が欲しかったのは、そんなものじゃなかった。だけど私が願うことが一体何なのか、分かっていたことは惨めなことだった。他には捨てるものだけで、持って行くべき大事なものは、風のように消えてしまわないよう抱き抱えていなければならない。それは分かってる、本当に必要なものだけを持ち、要らないものには同情を寄せるのではなく、残酷な瞳で拳を振り下ろさなければならないんだから。
 私にとって必要なのは義務。ルピスにとって必要なのは義務。そして生命は完成する。レーベンスは、ルピスの呪縛から解放され、やがては残された空っぽの街になるけれど、それがルピスやルイスになることはないだろう。だってルピスが消滅すれば、あの街からレーベンスの名は消え、他の土地と同じように朽ち始めていくんだから。あの街はルピスによって支えられていた……他の土地から力を奪う代わりに、ルピスはレーベンスを活性化し続けてきたのだから。
 私がルピスを消滅させれば世界は破滅から逃れられる。それは変わらぬ事実だけど、もし世界をレーベンスに限定するとなれば、私のやるべきことは世界を破滅させることに他ならない。この状況を見て神は何を思うだろう。どんな考えを持ち、どんな命令を私に下すだろうか。そんなことはもう、分からない。分からないし聞こうとも思わない。だってそれは私の意志じゃない。私は私を見つけなければならない。
「ルピス。私はあなたを消滅させます」
「なぜそんな名で呼ぶの。昔みたいにお姉ちゃんって言って。それが嫌なら、名前で呼んで。私の本当の名前を呼んで」
「……」
 開きかけた口が閉じていた。私は、その名を呼ぶことができない。だってあなたはもう、ルピスだから。何も感じないルピスを、大好きだった姉と同じように見ることなんてできない。
 そう、私は。
「エミリア」
 私は。
「エミリア!」
 ……何もできない

 

 

 

 目を閉じていれば、何も見ずに済んで幸せだった。耳を塞いでいれば、何も聞かずに済んで幸せだった。口を閉ざしていれば、何も言わずに済んで幸せだった。ううん、違う。そうじゃなく、言葉を知らなかったら、何も理解できずに済んで幸せだった。だけど私は違っていた。私が当てはまっていた幸せは、真っ暗な闇ではなく、音のない世界ではなく、声の聞こえない静寂でなく、何も出てこない自分の喉が作る二枚の膜の空間だった。
 だから目を閉じても耳を塞いでも、私には起こっている全てが理解できてしまった。目を開けても閉じていても同じだった。耳を塞いでも音は聞こえるし、黙っていても言葉は伝わる。それを幸福と呼ぶ人もいれば、地獄でしかないと嘆く人もいる。私は幸福を知らない……そんなもの、どこに行っても見つけられず、どんな色でどんな形なのかさえ知らなかった。それを想像すると吐き気がした。それは私が知るべきものじゃないと教えられた気がしていた。
「ルイス」
 怖かった。私はずっと怖かったんだ。幸福を知ることが、それを目にして一瞬間でも手にすることが、私の大好きだった何もかもを壊していく気がして、立ち止まったまま崩れていく自分の価値観を見ることを恐れていたんだ。
 何も変わらない自分でいたい。少しも変わらない世界が欲しい。つまらなくてもいいから、単調で構わないから、何も悩むことのない、ただ存在するだけで許される世界があってほしかった。何も知らなければ苦しまなくて済むから。何も与えなければ悲しまなくて済むから。だからもう義務を与えないで。そんなに多くのものを背負わされたら、重すぎて潰れてしまうような気がするから。
「ルイス」
 私を呼んでいる。ああ、私をその名で呼ぶのは誰? 誰だって構いやしない、そんな作られた名前で私を縛る人なんて、誰でも同じ価値しかないんだから。だってあなたたちは私の名前を知らないでしょ? 遥か昔から親しんできた、意味を与えてくれたもの、永遠さえ凌駕するあの響き……知らないでしょ、知っているはずもない! だって教えてないんだから。私は誰にも教えなかったから!
「エミリア?」
 夢を見ている心地だったら、何かが変わっていただろうか。
「顔を……顔を見せてほしい」
 目を開く。暗くて何も見えない。私はうずくまっていた。そして背中にあたたかいものを感じていた。
 もう一度目を閉じる。
「駄目だ、そんなことをしては。目を開けるんだ」
 それは嫌。何も見たくない。だっていろんな美しいものの影に、どうしようもない悲しいことがたくさん溢れているんだもの。それを目の当たりにするくらいなら、眩しいものも綺麗なものも二度と見えなくなってもいい。私に向けられる痛い視線も、誰かを足蹴にする無慈悲な怒りも、絶えず渦巻く負の感情がある限り、それは全ての人に矛を向けている。無条件に殺されるのは嫌。理由がないまま殺すのも嫌。だって私は、私は……。
「ルイス!」
 頭上からの声に驚き、目を開ける。どこか明るさが増した気がした。
 胸から光が漏れている。金色に煌めく強い光。そこに手を当ててみると、硬くて冷たい鍵が潜んでいることが分かった。ぐっと掴むと指をすり抜ける。だけど無造作に引っ張り出すと、生きているように光を放つ金色の鍵が私の手の中に存在していた。
 ゆっくりと頭を持ち上げる。同時に一粒の涙が頬の上を滑り落ちた。
「よお」
「……豊」
 いないはずの人がいる。これは夢? 幻影にしろ、願望にしろ、私の前にいるのは豊だった。他の誰でもない、故郷に帰っていた、私の名を知っている人。彼に頼りたくなくて逃げ出した私は今、相手の体に包み込まれていた。
「なぜ……」
「なんで帰ってきたかって? そりゃお前、ここに俺の鍵があるんだから。そいつが何の塊なのか知ってるだろ? 俺の心、精神そのもの。身体だけがあの世界に帰ったって、結局はまたここに戻ってくるのが必然ってもんさ」
 何も重要じゃないと言わんばかりの口調で、彼は普段と変わらぬ様子で話していた。
「さ、分かったらその鍵を返してくれ」
 すっと手を差し出す相手。一つ一つの動作に懐かしさを感じる。もうどのくらいの時を、彼を見ずに過ごしていただろう。すっかり忘れてしまえばよかったのに、こうやって改めて目の前に提示されると、以前の平穏に戻りたくなってしまう。私は鍵を渡したくなかった。このまま相手の言う通りに鍵を渡すと、彼が本当に手の届かない場所に行ってしまいそうな気がしたから。
「なんだ、お前、俺の心を囲ってどうする気なんだよ」
「それは――」
「別に、いなくなったりしないから」
 どこかで聞いたことのある台詞だった。私は相手に鍵を返した。
「ありがとう」
「……え?」
 はっとして彼の顔を見る。違う。これは、この表情は彼じゃない。彼は一度だってこんな顔をしなかった。こんなに穏やかそうで、でも底に悲痛な欲望を湛えている表情など持っていないはずだった。どうして分かるかって、それは、だって私は彼を――。
「か、返して……」
 相手の腕を掴む。
「返してください!」
 奪われてはならなかった。彼じゃない人が所持してはならなかった。
 鍵に向かっていくら手を伸ばしてもそれに到達することはなく、相手の身体からかすかな緑の匂いを意識もしていないのにはっきりと感じた。空中の風が騒がしく掻き回され、相手は一つの植物に変わっていく。たくさんの木の葉を撒き散らし、葉と葉が擦れる音を周囲に響かせ、めきめきと幹を伸ばして巨大化していった。これは知らないものだった。だけど私は知っていたんだ、ああ!
「やめて、どうしてこんな」
 葉の重なりと伸びた枝により鍵はすっかり隠されてしまっていた。更にそれだけでは満足できなかったのか、相手は私の身体をも取り込もうと枝を絡ませてくる。
「どうしてこんなことを、ねえ、お願い」
 私が私であるうちに取り返さねばならなかった。枝の間に手を入れても、触れて分かる形は葉と枝のものだけだった。私のせいだって言われたくなかった。全てを諦めたあの目を向けられるのは、もう耐えられないことだったから! あの人なら許してくれるって分かってる。でもどうして私が許せるだろう! 私は一度だって許したことがない。ルイスという存在を、ルイスの選んだ言動を、ルイスが抱くこの意志を、ルイスである私が許せるわけがなかったんだろう。だからエミリアは扉を閉めた? ううん、あれは、意図的なものなんかじゃなかった。エミリアの気持ちはそこにはなくて、あの人によって作られた「私」がじっと立っていただけだった。
 あの人。私をつくった人。私の幸福を願ってくれた。幸せになれるようにって、白い花を摘んでくれた人。あの人が祈った望みの欠片は砕け、私は金の光を銀色に塗り替えようとしているのか。豊の鍵、彼によって隠されてしまったあの正と負の感情は、私の助けを待っているの? 私が必要とするその時を、じっと黙って待っているっていうの? そして私は何を願う? 私が求めたのは、単なる回転なんかじゃない。
「豊。白石豊」
 相手の顔が見えなければ平気で、向き合うと相手に吸い込まれてしまいそうで。
 顔を隠して会った時も、初めて顔を見られた時も、彼の精神に食われることをずっと恐れていたのかもしれない。少しでも心を許せば彼の色に染まりそうで、憎悪という感情で特別に意識していれば私は彼じゃないと理解できる気がしたんだろう。だけど未来の世界まで追いかけていったのはルピスを封印する為じゃない。ティターンの過去で彼の変化を見つめていたのは、私自身の鏡が濁っていたからだったのだろう。
 あなたの軌跡が私を教えてくれる。
『そう。だってそれは、君の為に存在していたのだから』
 緑の防壁は、もう要らない。欲しいのは、失った金色、取り戻すべき銀の片割れだけ。
 そのために私から紡ぐこの祈りは。
『幸福の意味なんて、知らなくったっていい』
 光が世界を駆け巡る。

 

 

 

 葉や枝の隙間から輝かしい金の光が溢れ出し、それは大きく弾けて植物を吹き飛ばした。あれは実体のない精神だけのものだったから、塵一つ残さずこの世から完全に追い出されてしまっていた。弾けた光は私たちの周囲に飛び散り、ばらばらになって、幼きエネルギーが大地に吸収されていく。光は収束して弧を描き、鍵を握る一人の人間が金の後光を携えていた。
「……よお」
「豊」
 豊だった。間違いなく豊だった。見つけた天のない願いの先端、私が守った永遠のくぼみ。手を伸ばせば受け取ってくれる人、あの人と同じ黒い髪の、深淵を覗き込んでも色褪せることのない精神の持ち主。それは、確かに彼だった。そして私の前に立っている人が、私の想う『彼』と同じ人であることは間違っていないことだった。
「豊」
「ああ」
 同じ声が聞こえる。同じ香りがする。記憶の中の彼は甦った。私の前に甦っていた。
「豊」
「なんだよ、そんなに呼ばなくても聞こえてるっての」
「私は、サラを殺しました」
「知ってる」
 いいえ、知らない。あなたは何も知らない。迷子のような瞳で私を見ていたじゃない。負の感情に紛れた顔で私を叱りつけていたじゃない。
「でも殺したのはルイスであってエミリアじゃない。そうだよな?」
「……どうしてそんなことを。私の中にエミリアの意志はありません。私はルイスでしかないのです」
「そうさせてる環境があるからそうなってんだろ。でも実際君の世界を覗き込んだら、今ここで話してるその意志はエミリアのものだと思うんだけどなぁ」
 何か一つ、とても奇妙な言葉が聞こえた気がした。
「ほら、皆が見てるのはルイスの姿だから、エミリアもその他の奴らも全員ごちゃ混ぜに理解してしまうってことだろ。だから今回の件だって、皆はルイスがサラを殺したって思ってる。でもここにいるのはエミリアで、サラを殺したルイスとは別人だ。それでもエミリアもルイスであることに違いはないからややこしくなってる。連中はルイスの中に大勢の人間がいることを知らないんだ。無知が罪だって言いたいわけじゃないけど、それは君や俺だけが知っている事実。俺たちが口にしない限り、そいつが周囲に知れ渡ることはないだろうよ。だからあいつらが馬鹿になることはないし、俺たちが狡猾になることもない。ただこの現状を変えたいって思うなら、立場が逆転することも大いに有り得ると思うけどな」
 何が言いたいのか分からない。でも、彼から離れられない理由の方がもっと分からなかった。
「……なぜここにいるの。もう誰もあなたを必要としていない――」
「なに言ってんだよ。俺を必要としてる奴ならここにいるじゃないか」
 頬に体温を感じる。触れた手が薄い光を纏っていた。彼は存在していないと感じた。私や人々とは何かが違う、大事なものを落としているままの魂のような気がした。
「私はあなたを必要とした?」
「したんじゃない、してるんだ。でもそれを恥じることはないぜ。俺だってルイスを必要としてたから」
「どうして? 笑う為?」
「馬鹿。存在する為だっつーの」
 頭が混乱してくる。彼は一体何を言ってるの? 彼が言おうとしてることの意味が全く読み取れない。私が彼に何をしているって?
「俺さ、故郷に帰っただろ」
「え、ええ」
「目を開けたらさ、家の近所の道に立ってたんだ。だからふらっと家に帰って、なんでか知らないけど財布を手に取って、心のままに家を飛び出した。近所の公園で知らないガキに金をくれてやって、通学路の橋の上で夕日を眺めて、レーゼ兄さんに似た奴の代わりに身投げして、ルイスに似た奴に手を引かれて鏡を見た。なあ、その鏡に何が映ってたと思う? 普通なら自分の姿が映るだろうけど、そこに映ってたのは金色の髪の子供……つまり君だったんだよ。それを見て俺は、ああ俺は存在してなかったんだって理解したんだ」
「理解? 理解って、一体何を……」
「自分のことを。俺はもともと身体のない精神体だったってこと。そして俺に過去はないってこと。俺の過去はイギリス旅行の飛行機の、キーラの呼びかけを聞く直前から始まっていたってことさ」
 彼に纏う金の光が増していく。それは大きくなったり小さくなったりして、何かを形作ろうとするけど気まぐれで、一つのものに留まることを知らない様子できらきらと煌めいていた。それがあるなら空だって飛べる気がした。
「いいえ、あなたは普通の人間。精神体なら私には分かる。あなたには身体がある、生命がある、帰るべき場所がある。あなたが精神体なんて、そんなことはあり得ない」
「否定しないでくれよ。だったら確かめてみるか?」
 彼は手を差し出した。また鍵を求めているのかと怖くなった。でも私が躊躇して立ち尽くしていると、彼の方から私の手を掴んできた。
 それは通常の感触。血の通った生き物の手。細胞の並んだ肌。握り締めると骨を感じ、滲み出るあたたかさが恋しくなる。
「ほら、やっぱりあなたは普通の……」
「決めつけんの早いって。これならどうだ?」
 何かが地面に落ちた。それは彼が手放した金色の鍵。彼の精神そのものって話だったけど、それがなぜ地面に転がっていたのか、そんなことは誰にも分からない。ただ私に分かったことは、今まで感じていた彼の全てが一瞬にして失われてしまったということだけだった。
 手を握っているのに感触がない。強く握り締めると空を掴む。そこにあるはずのものがない。見えているものだけが真実じゃないのか。見えないものを感じ取るのは、難しすぎて嫌になるのに。
「分かってくれた?」
 彼は笑ってた。どうして笑っていられるのか、少しも理解できない。
「おいおい、そんな顔しないでくれよ。俺はこのことを嘆いたりしてないぜ。つーかむしろ気が楽になったっていうかさ。いや、楽にはならないか。だって精神体が生きる為には、誰かに必要とされなきゃならないって分かったからな」
「だから、私が必要だって……」
「そう。俺は帰りたかったんだ。この世界や君のことが心配だったから。でもここにいる連中は皆、もう俺のことは要らないって思ってしまった。最後まで俺のことを必要としてくれてた君も俺から顔を背け、俺はその時から完全に消えていた。俺が故郷で見てきた景色は全て夢。現実にはお金もないし、崖もないし、鏡もない。思い出すべき母の顔もない。ただ黒い髪の――ウェーブのかかった黒い髪の、孤独を噛み締めた幼い子供の姿が、俺が見るべき過去と未来の境界線だったんだって分かったんだ。そして俺は守るべきものを必要としていることに気付いた」
 私は彼によって守られるべき意志だというのだろうか。私が彼に守られることにより、彼がここに存在できるというのなら、私の存在が彼を生かすというのだろうか。それは彼に頼ることにならない? いいや、それ以前に、それって私を利用してるってことじゃないの?
「なあルイス。先に言っとくけどさ、決して君を利用してるってことじゃないからな」
「嘘ばかり……嘘ばかり! あなたは私を利用してるじゃないか、あなたが存在する為に、私の意志を利用してるんじゃないか!」
「そういうふうに見えるかもしれない。だけど見えないものがあるってことだけでも察してくれ。俺がいつも示してきたのは、俺というもののほんの一角に過ぎなかったんだ」
「一角……あなたは隠してたの、え、隠してたの。わ、私に見えないものを作って、それで隠してたの。え? 隠してたって言いたいの? 何を隠したの? ねえ何を隠していたの!」
「おい、落ち着けよ――って無理か。俺がそうさせてんだもんな。悪いな、けど、聞いてくれ。ルイス、自立ってのは、誰かに頼らずに生きるってことじゃないんだ」
 何を、何を言っているの? 彼は何を言おうとしてるの? 自立がどうしたって? 頼らずに生きるってことが何だって? 私は何を聞こうとしてた? 私は何を聞いたら良かった?
「いくら孤独を感じても、どんなに人から離れても、結局は人恋しさに人の中に戻ったり、誰かが心配して近付いてきたりする。そうじゃなくてもこの世界、いやここじゃなくても構わないんだけどさ、とにかく人の手によって作られた世界――と言うより、社会だけど、それは人が生きるように作られてるものだ。人々が押し込まれた箱みたいなもんかな。その隅っこでうずくまっててもさ、箱の外への逃げ道は閉ざされてて、幾つも伸びてる道の先は人々の生活する空間に繋がってる。つまり、どんなに孤独を描こうと頑張ったって、君が人として生きている限り、人との繋がりを完全に除去することはできないってことだ。もし自立を他人に頼らないことだと考えているなら、それは自立なんかじゃなく、その生命を終わらせることに繋がってしまうだろうな。本当の自立ってのが何なのか、それは俺にだって分からない。だけどこれだけははっきりと分かる、君の思い描いている自立した世界は、悲しすぎる物語の結末のようになってしまっているんだってことが」
 溢れてくるものがある。離れられない理由がある。見ようと思ったものがある。捨てようと頑張ったものがある。
「ルイス、どうか聞かせてほしい。その素顔を見せてほしい。俺は嘘を言わないって誓う。だからどうか、お願いだから、君の苦しみを教えてほしい」
 既に死んだ人に向かって、ねえあなたは何を言ってるの?
「君の苦しみを、悲しみを、怒りや嫉妬や憎悪を包み隠さず見せてほしい。そしてもし可能なら、それらの一握りを俺の心に送ってほしい。それまで俺は手を繋いでいよう。決して離れないように、永遠を掴む気持ちで、君をきっとどこかに導くから」
 私には理由がある。私には義務がある。私が私でいる為には、その理由と義務を捨て去ることはできない。
「あなたがどんなに私を理解しても、どれほどルイスやエミリアのことを知ったとしても、あなたには私の義務を壊すことなどできない。あなたじゃなくても、これに勝る精神など存在しない。だって、ねえ、もしそれを否定したなら、あなたは私を否定することになるんだよ。あなたは私を消したいわけじゃないんでしょう、え、殺したいわけじゃないんでしょう?」
「当然だ、俺は、むしろ君を救いたいって思う。救うなんて大それた言葉だけど、他にこの思いを表現するすべが思い浮かばない。なあルイス、君は、ルピスを封印することを義務としている。それは君が闇の意志であり、ルピスの妹だからだ。俺はそれを否定しようって言ってるわけじゃない。ただ君の本当の気持ちが聞きたいだけだ」
 本当の気持ちだって。私のそれを知ったとして、あなたは一体何をしようとしているの?
「君はルピスを愛してたって言っただろ。優しい姉、自分を守ってくれた人、だからこそ自分のせいで光の意志となり、その精神を食われてしまったことを悔やんでいる。情けないって思ってる。彼女を消すのが自分の責任だって考えてる。でもそれは、なあルイス、君を押し潰すべき要因じゃないはずだ。君は確かにルイスだ、だけど、それ以前に今の君はエミリアじゃないか。エミリアはルイスだけど、闇の意志じゃない。エミリアは一人の人間、嬉しいことがあったり、楽しいことがあったり、悲しいこと、苦しいこと、いろんな感情を直に感じることのできる、この世でたった一人のここに存在する人間じゃないか。それを否定できる奴がどこにいる? もしいるってんなら、その時は、俺がそいつを殴ってやる。ここに存在してるものを否定できる精神なんてどこにもない。たとえ今生きていることがつらくてつらくて、どうしようもないくらい追い詰められているとしても、俺たちは既に存在してしまっているのだから、それを自分の力や他人の力、他のあらゆる全ての力によってかき消されることは間違ってる! それは単なる逃げにすぎない、存在という事実に負けた、臆病者の選択にすぎない! ルイス、君がルピスを消そうとしているのは、それは君の弱さが見せる幻だ。君は姉を消そうと思っていない、違うか? 君が消そうとしてるのは姉の姿をした光の意志、それだけだ。君は彼女を――ルピスを、自分の姉として見ないことにより、姉を消すという行為を否定し、自分が傷つかないよう細工し続けてきたんだ。それなのに今まで一度だってそれに成功しなかった。何故だか分かるか、え、分かるはずだ。それは君がルピスと向き合った時、真正面から彼女の顔を、目を、全てを覗き込んだ瞬間に、君は彼女を自分の姉だと認識するからだ。だから足がすくんで、恐ろしくなって、後ろめたさから何もできなくなる。そうだ、君は本当は、姉を消したくなかった――この世界で生きているたった一人の肉親、その人を消すことが耐えられない、人として当たり前の感情を君は持っているはずだ。……そうだよな? 俺の解釈、間違ってるか?」
 伝わってくる感情。鋭い刃物のように、切れ味が良い言葉。ああ、この人は一体何なのか。この人は私の何だって言うの?
 深く深い地に埋めた感情が、今更掘り起こされたようで恐ろしい。でも私はもうそれに戸惑うことはなかった。うずくまっていた身体は起き上がり、下に向いていた頭を上げ、私の方を向いている彼の顔を見る。そして彼に纏う金の光の中に、どこかルピスの面影が漂っていることに気がついた。いいや、それだけじゃなく、彼の中に自分を見た気がした。自分を――ルイスでもエミリアでもない、私という存在を彼の中から見出した。
 彼女は微笑んでいた。私の忘れた表情で、違和感なく自然なままで、あたたかく微笑んでいた。彼女の中にたくさんの幸福が詰まっていた。そして私に絶えず話しかけていた――青い瞳が湛える涙は、もうずっと流れ続けていたようで、それが金色の光に浄化され、やっと帰るべき場所に辿り着いたみたいだった。彼女は私であり、私は彼女だった。私はまだ、幸福の色を覚えていたんだとようやく理解した。
「最愛の人……この世で最も大切な人、それが私の姉だった」
 すっと目を閉じると、暗闇しか見えなくなる。
「姉とルピスは別人。姉は既に死んで、ルピスが新しく生まれたんだと思っていた。そう考えなければ重くて耐えられなかった。だって私、私は、どうして一番好きな人を殺さなければならないのか、ほんの少しだって理解できなかったから」
 暗闇の中に光が見える。たった一つの、ぼんやりとした、球のように固まった白い光。
「だけど、理解できなくても、私は頷かなければならないんですね。あの人は別人じゃなくって、ルピスじゃなくって、私の愛すべき姉そのもの。私が言葉を発せないばかりに犠牲になった、悲しい姉の末路なんですね」
 光は教えてくれる。私がどこへ向かっているかを。
「ああ、私は――」
 正義も憎悪もない場所へ。正も負もない場所へ。
「私は、エミリアだったんだ……」
 地平線から光が溢れた。

 

 

 

「どうしてあなたはそんなにも、私の思いを分かってくれたの?」
「分かったんじゃない、俺は君じゃないからな。ただ知っていたんだ」
「知っていた?」
「そう。もしかしたらそれが、俺のルーツなのかもしれないな」
「……」
 あなたの言葉が渦を巻いている。あともう少しで朝が来る。私は地面に立っている。そしてあなたは私の目を見ている。
「私はやはり、ルピスを消滅させるべきです。私が彼女を光の意志にしたことは事実だし、このまま彼女を放置して、今以上に彼女の心を喰わせるわけにはいかないですから。……」
「うん」
「だけど、私の思いのままルピスを消滅させたら、レーベンスは持続できなくなる……あの街は、ルピスの名を受け取ったから生き残った街だから。ルピスの守護がなくなれば、周囲の自然と同じように街は滅ぶ。私は世界を守る為にルピスを消滅させるのに、それによって世界にたった一つしか残っていない街を滅ぼすことは、矛盾してることなんじゃないかって思うんです」
「うん」
「それに……それに」
 光は私を救ってくれるだろうか。闇は私を表してくれるだろうか。私は何を持っている? 手にしたのは、小さな小さな望みの欠片だったかな。
「きっと彼女の前に立ったら……また迷ってしまう。足がすくんで、手が震えて、声が出なくなってしまう。アイザックにも言われたんだ、今の私のままではルピスを封印なんかできないって。私ね、それだってちゃんと分かってるよ。分かってるけど、どうにかしようって頑張っても、どうにもならなかったんだ。ねえ本当にどうにもならなかったんだよ――」
「分かってるさ。だから、一緒に行こう」
「一緒にって、どこへ?」
「決まってんだろ。ルピスが目覚めた地へ、君のお姉さんの目の前へ。大丈夫、今度は一人じゃない。一人じゃないから、だからもう大丈夫」
 そう言って手を握る。私に向かって笑いかける。彼の言った「大丈夫」という言葉が頭の中でぐるぐる回った。それは甘くて恥じらいのある言葉で、だけど悲しいほどに美しい、弱さを隠さない優しさの満ちた言葉だった。私は彼の手を見た。
「な、怖くないだろ?」
「……どうして」
 可笑しなことを言う。
「お、やっと見えた」
「え?」
「ルイスの笑った顔」
 思わず相手の顔を見る。
「あ、消えちまった。黙ってりゃよかったなー、残念」
「私が笑っていた?」
「嘘なんかじゃないぞ。でも、見るのに本当に時間かかったなー。さっきのが初めてなんだからな、俺が見た君の笑顔って」
「わ、私だって……ルイスになってから、初めて笑ったから……」
「ああ、やっぱり。そんな気がしてたんだ」
 笑った。私が笑った。闇の意志である私が、正の感情を失ったエミリアが、ルイスの身体を借りて笑った。それは罪だろうか、罰を受けるべきだろうか。だけど私は失いたくなかった。そうだ、もうずっと昔から、闇の意志であることに対し諦めたくなかったんだ。
「ねえ、豊」
「うん?」
「私も……人なのかな? 人と同じように、笑っても許されるかな?」
 どうしてだろう、目の前の景色が滲む。
「俺は別に、人じゃなくてもいいと思うぜ。ここにいるのはエミリアって魂なんだって分かったら、人だろうがそうでなかろうが、エミリアであることに変わりはないんだから。……認識するのは外見でも、価値を決めるのは見てくれに限られたことじゃない。自分が夢じゃないって考えれば夢じゃなくなるし、存在しないと思えば存在しないことになる。俺たちが何かを残そうと創造するのはきっと、自己の存在を証明したいからだと思うんだ」
「うん――」
「そうして創られた魂が俺や君だとしたら、俺たちは俺たちを創った人の証明に繋がってる。そして俺たちは存在を主張する為に何かを創ろうと努力する。なあ、そこに理由なんて必要だろうか? 要らないよな、理由なんて、ここに未来があるのだとしたら」
 もう言葉が出てこなかった。
 私は頷いた。ただひたすら頷いた。彼の言葉を肯定した。相手の全てを肯定したかった。
 涙が止まらない。光が眩しくて、そこに飛び込んでいきたくなる。でも私は支えられていた。豊に、私が必要とした人に、私を必要としている人に、身体全体で支えられていた。彼の心臓の鼓動が聞こえた。規則正しく聞こえる音楽。それは彼が生きている証。また私が彼を認識している証でもあった。
 理解してくれる人がいることが、こんなにも救われることだなんて思わなかった。自分のことを知ることも、相手のことを知ることも、確かに何かの救いとなる可能性を見た。
 たったひとひら。光の花びらは、私の手に舞い降りた。
「豊」
「ん?」
 あなたに伝えたいことがある。まっすぐ伝えたい想いがある。
 本当はまだ分からない。この感情を表す言葉が見つからない。だけど伝えなければならないと思った。伝えなければ伝わらないと、私にもようやく分かったから。
 だから、私は口を開く。そして本当の気持ちをあなたに伝えよう。
「私はあなたを――」

 

 

 そして私は目を閉じた。
 今ならきっと、笑えるから。

 

 

 

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system