76

 わたしをつかむ手がこわかった。
 だけど神は、どこにもにげられないとわたしにいった。

 

 一つだけ、壊れればいいと思った。
 この世に存在しないように、最初からなかったかのように、誰も知らない場所へ消え去ってしまえばいいと願った。
 そうしたら私の中の誰かが言った。それはあなたのわがままにすぎないと。あなたの意志だけで理を変えてはならない、いつかあなたが他の誰かに言ったように、あなたは世界の人形でい続けるべきなんだと。
 また別の方向にいる私は言った。私は身を守らなければならないと。ルピスを消すことができる者は私しか残っていないから、私が消えてしまっては世界が滅んでしまうのだからと。私は守られるべき命だ、他の者は私の為に犠牲になるべきなのだと言った。
 他方ではルイスを罵り、正面からは私を嘲り、後ろには彼女を刺す剣が待っていた。その中央にいたのはルイスではなかった。そこにいたのはエミリアだった。
 エミリアは願っていなかった。エミリアは頷くことも忘れていた。あの子は大きな扉に閉じ込められ、外の世界を知らず、過去に見た白い花畑をずっと夢見てうずくまっていた。誰かが助けに来てくれるのを待っていた。そして誰も扉を開くことができない事実を知っていた。彼女は探し物を忘れていた。胸に宿る銀色の鍵は苦痛しか示さない。彼女に用意された世界は虚ろの中に潜む夢だった。それが現実のものとなった時、彼女は既に眠っていた。
 だから願ったのは私ではなかった。ただルイスは強い意志をあらわにした。たくさんの人の生きたいという欲望、死にたくないという祈り、存在していたいという悲愴がルイスを形作っていた。そうやって私は奥へ追いやられていた。気がつけば誰かの胸にナイフが突き刺さっていた。銀色に光る小さなナイフだった。そしてそれを握っていたのはルイスだった。誰かを殺したのはルイスだった。でも私はルイスじゃなかった。私はルイスじゃなかったけど、誰かを殺したのはルイスだった。ルイスは知らなかった。目の前にいる相手のことを知らなかった。何一つとして知らず、生きる為の犠牲とした。何の躊躇もなく、黙々と、機械的にナイフを突き刺した。そうして事が終わればすっと奥へ引っ込んで、再び私がルイスの外へ追い出されてしまった。
 部屋を照らす蝋燭の明かりがゆらゆらと揺れている中で、私がよく知っている少女は胸から血を流していた。薄暗い空間にいるはずなのに、そこは何もかもが鮮明に映し出された画面の中のようだった。私の手は銀のナイフを握ったままだった。それは実在しないもので、私の一部だった。だからよく分かる。ナイフについた赤い血が、とてもあたたかいものだってことが。
 私の体はうまく動いてくれなかった。ただ視覚だけが異様によく働き、全てのものを憎み殺すかのように歪な視線を送っていた。目に見えるものは夢で、誰も見ていないものが現実だった。ルイスは夢を見ていた。私は現実を見たくないと思った。
 床に横たわるサラは言葉を発した。その中から「友達」という単語が聞こえた。銀のナイフは光となって消えた。同時にそこについていたサラの血が一気に床に落ちて飛び散った。私の手が飛び散った血で染められていた。黒の中に赤がよく映えていた。
「サラ、あんた……どうして!」
 私の前で話していた。
「友達だもの……友達を守るのは、当然のことでしょ?」
 私の前で生きていた。
「友達……あんた、私のことを、まだそんなふうに……」
「友達だから、あなたの間違いを正したかった。今からでもいい、どうか聞いて。あなたの研究は、誰の為にもならないものなのよ……」
 私の前で、死んでゆく。
「サラ、永遠を手にすれば、死の恐怖に怯えることもなくなるわ……だから私は不老不死の研究を続けた。そしてやっと掴んだ手掛かりは、そこにいるルイス・エアーという意識の集合体だったのよ」
「ルイスは……違うよ」
 罪は許されないままに。罰は可笑しい音を奏でながら。
「ルイスは、優しい子よ……ね、ルイス、こっちを見て。私の手を握って、お願い」
 誰かが私の手を縛る。
「どうか、アナのことを――」
 虚無が世界を変える気がした。

 

 

 ***

 

 

 朝から忙しかった。まずサラの遺体を家の外へ運んだ。これはソルが一人で運ぼうと考えていたが、ヴィノバーとカチェリが無理に手伝った。家の近くにある地面に穴を掘り、ヴィノバーが十字を切ってサラを埋めた。街の住人はサラに土を被せた。みるみるうちにサラの体は消えてゆき、何もない土だけが残っていた。サラが眠る地面に十字架を建てた。その前に立ったアナが泣いた。キーラも泣いた。ソルもヴィノバーも泣いていた。カチェリはそっぽを向いたまま口をきかなかった。その様子をルイスは少し離れた場所から見ていた。
 太陽が昇り、大地を明るく照らし終え、美しいオレンジに変わる頃まで人々は祈りを捧げていた。二度と会えない別れの悲しみは終わりを迎えなかった。誰もが空を見上げていた。そこに死んだ者が旅立ったのだと信じているかのように、悲しい瞳で空を見上げていた。
「ルイス」
 私を呼ぶ声が聞こえていた。ルイスは何も言わなかった。感情は変わるべきではなかった。ずっと同じことを繰り返した方が永遠に近づける気がしていた。
「ルイス、おい」
 視界を遮るのは水色の髪。いつも私を叱りつける瞳。私が子供であることを知っている眼差しは、ルイスが見ているものとは違っていた。
「悪かった」
 頭を下げる相手がいる。
「何故」
「あの時私が起きていれば、こんなことにはならなかった……いや、こんなことにはさせなかった。だから、これは私の責任でもあるんだ。悪かった、本当に」
「何故」
 オレンジの優しい光は私たちを包み込んでくれる。平等に、差別せず、皆と同じものを与えてくれる。
「私は言ったんだ……アカツキに。あいつがいない間はお前を守るって、そう約束したんだ。でも私は約束を守れなかった。お前にのしかかるつらい事を壊すことができなかった」
「あなたの助けなど要らない」
「お前が必要としてなくたって、私は――」
「私はあなたが嫌い。あなたがいなければ、私はルイスとして生まれることはなかった」
 ルイスは一つの魂だった。ルピスと同じ魂だった。外の世界を知らない、無邪気な、罪のない魂だった。完成して整っている正しい旋律だった。何の脈絡もなく途切れるべきメロディではなかった。
「あなたが目覚めなければ良かった。あなたが覚えていれば良かった。然しあなたは起き上がり、全てを忘れたままクロノスのマリオネットになった。あなたは消すべきだった。あの時を司る十二柱を消滅させれば良かった。然し記憶さえ持たぬあなたは神の鼓動を忘れ、ティターンの世界を自らの庭とすることを恐れて逃げ出した。あなたさえいなければ、あなたにティターンの神としての自覚があったなら、私はルイスに取り込まれることもなかった。私をルイスにしたのは他でもないあなただった」
「……何を、言っている?」
 無知は醜い。無力は卑怯。
「あなたはディオネの娘。ティターンの神」
「ティターンの神?」
「あなたがルピスとルイスをウラノスに運んだ。あなたがルピスとルイスを目覚めさせた。あなたがルピスとルイスから自由を奪った。あなたがいなければ良かった。あなたがいなければ、ルピスが犠牲になることも、ルイスが闇を覗くこともなかったのに、あなたが存在してしまったから、二人の姉妹は人であることを否定された」
「ルイス、お前――」
「違う」
 首を振ると景色が左右に揺れた。
「私はルイスじゃない」
 だけどルイスでしかない。
「な、何言ってるんだよ……」
「私は何も言っていない。何かを言っているのはあなただけだ」
「私……だけ?」
 青い爪痕が空を割る。
 ルイスは歩き出した。長い間立ち止まったままだったが、今この瞬間にようやく歩き出したのだ。それを恐れる者は愚かだった。触れられぬ夢に頼り切った、切ない子供の遊び道具にすぎなかったんだ。

 

 一歩ずつ落ちていく感触が心地いい。地中に近づけば近づくほど、あの人の眠る息が隣に感じられそうだ。底まで行けばあの人に会えそうだった。あの人に会ったら、惜しげもなく抱きついて、頭を撫でてもらおう。そうしてあの全てを包み込む優しさで私を壊してほしかった。もうそろそろ限界が近づいているんだ、私は。
 一つの扉を開くと、床の上に宇宙が見える。かつて背中合わせに語り合った人は、故郷に帰って何を思っているだろう。新しいものを見つけただろうか。過去に拘って変化を恐れているだろうか。何か望むものを得られただろうか、そして憧れていた地に辿り着いただろうか? そんなことは、私の知ったことじゃない。怖いなら、知らぬふりをし続ければいいだけのこと。自分を偽って真実を確かめるくらいなら、見ようともしない人に非難を浴びせる無神論者に蹂躙された方がいくらか気が楽だった。
 すっかり小さくなった蝋燭は炎を拒む。常に流れていく床の下の宇宙は淡白で、若い召喚師によって散らかされた本の全てから人間の音が聞こえてきていた。
『理想は、どこまで行っても――』
 本が開かれたまま机に置いてあった。暗闇の中でも読めるほど綺麗な字が書かれてあった。そこに『夢』という単語を見つけた。私はなんだかその文字に見覚えがある気がした。
「……ルイス?」
 手が本の紙に触れた時、後ろから小さな声が響いてきた。振り返ると部屋の入口に神を信じる青年が立っていた。光を失った瞳が光を砕いた私を見ていた。私は触れていた本を閉じずにはいられなかった。
「ここってキーラの部屋だよな? 確か前にもこの部屋に来てたよな、アカツキと一緒に」
 無罪の心は美しすぎるから嫌い。
「この部屋、好きなのか?」
「覗くことができるんです」
「え?」
「他人の思考の中を。他者の負の感情を。あなたのものもたくさん見てきた。私の前に立つ者すべての意志を、ただそこにいるだけで私に覗かれてしまうのです」
「ルイス」
 彼は一歩近づいた。彼との距離が少しあいた。
「その、うまく言えないけど……苦しいなら苦しいって言ってくれよ。俺はアカツキやルイスとは違って、隣にいるだけじゃ何を感じているかすら分からないから」
「あなたは嫌い……」
「え?」
「神を――あの人を信じているあなたは嫌い。あなたの強さの半分以上があの人への信仰心だと分かっているから、私はあなたが嫌い」
 あの人は、私を叱る人。叱ってくれるのは大事にされている証拠だと言う人もいた。でもあの人の目に光などない。私を見るあの人の目は、世界よりもつまらないものを足蹴にする軽蔑だけが煌めいている目だった。
「アスターさんは傷つけた。アスターさんは、微笑みかけてくれる優しいあの人を傷つけた。そのせいであの人は機械に埋もれてしまった。やっと逃げ出せたはずなのに、求めるものは遠ざかっていくだけだった。私はあの人を傷つけるアスターさんを許せない。あの人を救えるのはアスターさんだけなのに、それに気づかない愚か者を信仰する人は嫌い」
「ルイス、お前、あいつを侮辱するつもりか?」
「ほら、あの神の為にあなたは熱くなる……いとも容易く、熱くなる。あなたはあの神に逆らえない。私もあの神に逆らえない。エアーの名を持つ者は皆、楔に縛られた可哀想な一族なのかもしれないね」
 重く、重い鎖だった気がする。だけど縛られている私は知っている。あの神もまた誰かによって縛られた存在だと、あの人が教えてくれたから。
 あの人はずっと神を見ていた……私たちよりも、あの神のことばかりを気にかけていた。自分は神の親友だと言っていた。でも神にそれを否定されたと悲しそうに語っていた。
「おや、こんな所にいたのか」
 部屋の外から明かりが入ってくる。それを運んできたのは召喚師の青年だった。彼の青い髪が闇に簡単に染まっていて、恐ろしかった。
「ルイスよ、ソルが呼んでいるぞ」
「行かない」
 あの人は嫌い。顔も見たくないほど嫌い。
「しかし、呼んでいるのだ。大事な話があると言っていたのだ」
「だったらそっちから来たらどう? 大事な話なら、私は何もせずに逃げ出すよ?」
 呼んでたって行ってやるもんか。困ってたって助けてやるもんか。勝手に世界と一緒に滅べばいい。大地に眠るルピスに魂ごと喰われてしまえばいい。
「ルイス、怖いなら俺が一緒に行ってやるよ。だから、とりあえず話を聞きに行こうぜ。な?」
「怖い」
 何を言っているの、この青年は?
「怖がってるのはあなただ」
 二つの青い目が大きく開かれる。
「怖がっているのはあなたの方だ! あなたはルピスが怖いんだ、あなたはアスターが怖くて仕方がない! でも本当は、それ以上に、ルイスのことを忘れられないくらいに怖がっている! 私がソルを恐れているだって? 私が人間を怖がってるだって、ええっ? 私は意識の集合体だ、その怖いという感情がどこから来ているか、あなたはそれも知らずに私が怖いと言ったのか!」
 違うはずだった、それは断じて違うはずだった! 負の感情は周囲の力を吸い込んで膨れ上がっていく。私の中の私たちが彼らになりかけている。彼らは節操を知らぬ浮いたままの感情の塊だったんだ!
「ルイス、落ち着け!」
「お、落ち着けだって、落ち着けだって! それは、ああ、あなたのせいだ! 私が、わたしが取り乱すのは、わたしのせいだと言っているのか! それは間違いだ、異なっている、わたしはあなたにすぎない、あなたの感情がわたしをこうさせているんじゃないか!」
「それは、でも違う!」
「違わない! わたしはあなただ、あなたは鏡を見ているんだ、ルイスに与えられた、既に壊されて粉々になった鏡の破片を!」
「ルイ――」
 あまりにうるさいと、ルイスが怒ってしまう。
 机の上にあった本が床に落ちた。床に広がっていた埃が宙を舞った。魔法の弾に貫かれた身体が空中に投げ出されていた。でもそれを見てもルイスは、少しも悲しいとは思わなかった。
「ルイス! なんということを……」
「あなたも欲しい? 永遠が」
「要らぬ!」
 心配が信頼を壊した。
「私だって要らない!」

 

 

 怒ったルイスは二人の青年をはねつけた。しかし二つの命は精霊の力によって守られていた。死を免れた身体は床に転がっている。それを見て初めて私は、恐ろしいことをしてしまったと静かに苛まれ始めたのだろう。
 私は部屋を出た。階段を上がると廊下に出て、その狭い空間でアナとすれ違った。彼女は空白を抱いていた。その後にすれ違ったソルは強い負の感情を内側に隠していた。
 もう戻れなくなっていた。離れねばならなかった。自立とはこういうことなのか。世話になった者を平気で傷つけ、命を奪い、皆に嫌われて追い出されることが自立なのか。それはつらいことだった。とてもつらいこと、だった。
 だけど、私はそれを望んでいた。ルピスを失い、アイザックから守られているうちに、誰かに頼ることが当たり前であるかのように生きていた。怖くなったら逃げ出して、悲しくなったら背を向けて、帰るべき場所を作って待っているアイザックの自由を奪い、その毎日こそが私である証だと思っていた。それなのに、ふと私は何かがおかしいと気づいた。この繰り返しの中に気味の悪いものがあると感じた。その正体が何なのか、それはまだ分かっていないけれども、私の考え方自体が変わっていることだけは確かだった。そしてそのきっかけを与えてくれたのは言うまでもなく、アカツキとして召喚された白石豊という青年だった。
 私は変わっていた。彼に会うことにより変わっていた。その変化が正しいことなのか、いけないことなのか、それを判断できるほど私は博学ではなかった。だから私はじっとしていた。じっとして、ただ自立だけを望んでいた。――ううん、違う。私が望んでいたのは違うこと。それはきっと、自立と同じことだった。だけどそれを自立と呼ぶことはできなかった。
 色のないものに惑わされて、私はレーベンスから自立した。
「自立」
 歩けば歩くほど街は遠ざかる。そして街の反対側にある、ルピスが眠る地に少しずつ近付いていく。一人きりで大地を歩くと淋しかった。でも私の涙を見る人は誰もいなかった。
「当然だもの、悲しむことなんてない」
 沈みかけた夕日が怒っている。今からでも遅くないから引き返せと。だけどそれはできない相談だった。だって私から離れてしまったんだもの。
 引き返したくないと言えば、それは私でも分かる嘘だった。俯いた時に背中をさすってくれる人を、空を見上げた時に共に泣いてくれる人を、私はずっとずっと探し続けていたのだから。それを自らの手で断ち切らねばならないなんて、私には幸福の意味が理解できなかった。だからこそ私は、ただひたすらに、ルイスと名付けられたこの身体が忌々しかった。
 憎むことはやめようと思っても、恨むことは忘れようと考えても、誰かに近付くと私はルイスであることを思い出さねばならなかった。私は負の感情の総括者であり、それらの代弁者でなければならなくて、いつの間にか全ての人間を内に取り込み、彼らにこの身体を分け与えるべき存在だった。だから私のこの意志は、都合のいいものになるべきだった。それを拒むことはできないはずなのに、今まで私が平気でいられたのは、取り込んだ彼らを部屋に閉じ込めて逃げていたからだった。そしてその限界がすぐ傍まで迫っていることにも気付かぬふりをし続けていた。こんな私では、普通の人と付き合うことなどできるわけがなかったんだ。
 今更絶望したところでもう遅い。全ては走り始めてしまった。これを止めることができる人なんていない。もしいたとしても、彼はもう、夢に消えた。
 また一人からやりなおし。
「さようなら」
 私と同じ名を持つ街に、最後の挨拶を届けよう。
 二度と会えなくても構わないと思っても、震える意識は解放を求めた。
 だけど、ねえ、誰がそれを許すの?

 

 

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