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16

 もっと夢を見ていられれば良かったのに。
 それすら叶わない私の中には鏡の破片が散らばっている。



 よく人は目の前に見える景色を「美しい」と表現しようとする。それについては否定しないし、本当にそう感じられる場合だってあるので嘘ではないはずだ。
 私の目前に広がる景色は一言で言うと「白」だった。真っ白で何もない。だけど悲しいかな、本当に白しかない空間なんて存在しないんだ。よく見てみると何かの影だとか、その他にも余計な物が無造作に混じっていたりする。それでも人はこの景色を美しいと言うのだろうか。私には彼らと同じ言葉を同じ意味で使うことはできない。
 だって。
「ここがシーズって世界?」
「あの旦那がそうだって言ってたんだから、そうなんだろ」
「あらあら、とっても素敵な景色ねぇ」
 隣からは愉快そうな台詞しか聞こえてこない。でも私の心にはそんな気分に便乗するほどの余裕はなかった。
「で、この世界の北の方にあったっていうウィン国とハテイラ国の戦争のことについて調べりゃいいんだな」
「こんな幻想的な景色を楽しみながら調べられるなんて、楽しみだわぁ」
「よーしじゃあさっそくそのウィン国とやらに行ってみよう!」
 駄目だ。もう駄目だ。体が動かない。それなのに隣に立っている三人組はぴんぴんしている。なんでそんなに平気なんだよあんたら。
「ここから近いのはハテイラみたいだな。これだけ見晴らしがよかったら魔物も襲ってこないだろう。まあ襲ってきてもまた俺が守ってやるから安心しな」
「さっすがハウアー、頼りになる!」
「それじゃあよろしくね、ハウアー君」
「ああ。……で、さっきから一体どうしたんだ、マスターは」
 ようやく声をかけてくれたのはいいものの、こんな状態じゃ喋るのもつらい。それを彼らはこれっぽっちも気づいてくれないのだろうか。
「……寒い」
 腹の底から絞り出したのはそれだけで。伝えるべきことはこれ以上ない。他に何を言えばいいというのか。
 目の前に広がる「白」の正体は雪だった。地面の上にも草の上にも木の上にも深々と積もっており、視界の九割以上が白く染まっている。ところどころ黒い何かが見えたりするものの、ほとんど雪に埋もれてしまって何も見えなかった。それだけなら全然構わないのに、追い打ちをかけるように襲ってきたのは冷たい風。もう冷たいとかそういうレベルじゃない、寒いという言葉すら超越するほどの寒さ。なんだかこんな所にいると南極大陸に置き去りにされたような気分になってくる。誰か助けてほしい。
 なんて。
「人間は寒暖に弱いってのは本当だったんだな。だったら――」
 私の弱音を聞いたハウアーは何やら魔法を使い始めた。光が溢れたかと思うと、彼の手の中に赤い玉のようなものが現れる。
「これを持ってろ」
 そのまま玉を手渡された。途端に周囲の冷たさがかき消され、体の震えもぴたりと止まる。これなら普通に息ができそうだ。
「ありがとう。で、一つ聞きたいんだけど、そっちの魔物じゃないお二人さんはどうしてこの極寒の地でそんな平気そうな顔をしていられるんですか?」
 なんだか一人だけ弱々しいイメージを植え付けられそうで腹が立った。魔物であるハウアーは寒さなんて全くこたえないのかもしれないけど、キコとリンゴさんは仮にも人間、もしくは人間に近い存在なんだから。そのくせにぴんぴんして笑っていられるなんて、普通に考えて非常識だ。納得できる答えを提出してほしい。
「まあ真ちゃん、私これでも雪国で滞在してた経験があるのよ。あの場所の方がもっと寒かったわぁ。こんなに真っ白な景色は初めて見たけどねぇ」
 おっとりと答えるのはリンゴさん。顔には満面の笑みが彫り付けてある。
「真は知らないだろうけどさ、魂っていうのはそういう寒いとか暑いとかいう感覚を感じないものなんだよ。だからいくら寒かろうと暑かろうと平気だってこと」
 いささか自慢げに語るのはキコ。その顔を見ていると殴りたくなってくる。
 なんだ、結局私が一番虚弱なんじゃないか。でもこの場合はこっちの方が常識があるように感じられるのでそれほど悪い気はしない。
「それじゃ真の疑問も解決したことだし、ウィン国へ向かおうじゃないか!」
「ウィン国じゃなくてハテイラだろ」
「そう、そこへ。いざ!」
 いい加減な台詞を言ってからキコは先陣を切って歩き出す。なんとも気合いの入っていることで。私はまたやる気がマイナスの方向へ向かっているんですけどね。
「元気ねぇ、キコちゃんってば。ところでハウアー君、ハテイラに行って何か分かるかしら?」
「そればかりは行ってみないと分からねぇな。ま、今は進むしかないってこった」
「そうねぇ」
 私より年上の二人組もキコの後を追って歩き始める。しかしキコに『ちゃん』なんて付けるなんて、リンゴさんもお茶目と言うか、何と言うか。
 三人にならって私も一歩前へと踏み出してみると、深々と積もっている雪に足の自由を奪われてしまった。予想はしていたがかなり重い。私の住んでいた街では雪なんて滅多に降らなかったのでこの光景は嬉しくもあるわけだが、実用性だけを見てみるともう勘弁してほしかった。などと文句を腹の底でこしらえていても仕方がないので、無理矢理にでも歩いていくことに決める。
 今回私たちがここへ訪れたのは他でもないヤウラさんの手伝いのためだった。この世界――名前を『シーズ』というらしい世界の北方には、ウィンとハテイラという名の二つの国があった。ヤウラさんの話によるとつい最近、この両国が戦争を始めたらしい。警察の調べでは戦争は平和的に終結したということになっているが、実際は両国とも跡形もなく消え去ってしまったそうだ。そこに例の組織の陰がちらついているとはヤウラさんの推測だが、たったこれだけの情報では何も分かりはしない。とにかく行ってみるしかないようだ。
 でも、両国とも『跡形もなく』消え去ったのだとしたら、行っても意味がないような気がしているのは私だけだろうか。
 それ以前に私たちはなぜこんな仕事を引き受けたのだろう。もちろんヤウラさんとの約束もあるけれど、彼が鍵のことを思い出すまで何もせずにぼんやりしていたっていいはずだ。ずっと動き続けなければならないのはリンゴさんだけであるはず。私もキコもハウアーも、それぞれ別々の目的に向かって歩いているんだから、共に行かなくても支障はないに相違ないんだから。
 いくら疑問を投げつけてみたって答えはちゃんと私の中に存在していた。私たちは馬鹿だから、他人のことを放っておけないから、だからリンゴさんと共に行くと決めた。ハウアーと共に魔石を探すと決めた。同じ目的を持っているのは私とキコだけ。それでも構わないと思えたのは紛れもなく自分だった。今とあの頃とで違うのは何だと言うの? そんなものはありはしない、私が私である限り、何か強い力で引っ張られない限り、大きな意志で突き飛ばされない限り。
『お前らはただ目的のことだけを考えていればいい』
 いつかの誰かの言葉を思い出す。ほんの数日前に聞いたはずの声なのに、もうずいぶん昔の記憶のように響いてきた。
 私は変わっちゃいけないんだ。



 冷たさを感じさせなくなった風でも、吹き付けてくる様は冷淡に見えて仕方がなかった。世界は私を知らないし、私も世界を理解していない。それを咎めるように風は吹いた。その先に何が待っているかなんて知るすべもなく。
 視界に入ったのは黒い塊だった。それほど長いこと歩いた記憶はないので、まだこの世界の姿をよく知らなかったのだけど、近づいていくとその黒い塊が何なのかが分かってきた。どうやら墓らしい。それも一つや二つじゃなく、数え切れないほどの墓が雪の中で場所を陣取っていた。規則的に綺麗に並べられているが花はなく、それらの傍には一人の女性が何も言わずに立っていた。
 女性はじっと墓を見つめたまま動かない。私たちがすぐ傍に近づくまでこちらの存在に気づく気配はなく、雪の中からいきなり現われた四人に対していくらかの驚きをもって振り返ってきた。
「こんにちは、あなた達も彼らの為に祈ってくれないかしら」
 女性は驚きを顔から消してそれだけを言い、手を合わせて目を閉じた。私たちも目を閉じ、祈った。どこの誰かも知らない人のために祈りを捧げた。そうして目を開くと、女性は少し目に涙を浮かべて微笑した。
「ありがとう。彼らはこの地に住んでいた人たちだと思うけれど、実際は何も分からないわ。私がここへ来た時にはもう、彼らの意思はここにはなかった。誰一人として存在しなかった。だから私、ここにお墓を作ったの」
「あの、ここってもしかしてハテイラなんですか?」
「ええそうよ。もう何もかも雪に埋もれてしまったけどね」
 相手はとても淋しそうに微笑む。彼女の短い茶色の髪が冷たい風に遊ばれていた。
「ハテイラには私の友達が住んでいて、彼女に会おうとここへ来たんだけど――私の知っているものは何もないわ。あったのは見るに堪えないものばかり。友達の姿も変わり果てていて、まるで悪夢でも見ている気分になったわ。ああ、戦争は終わったって連絡があったのに、どうしてこんなことになっているの? 彼女たちが一体何をしたっていうの? 彼女たち、ただ生きていただけなのに、また会おうって約束してたのに、まるで世界から切り離されたみたいに――」
 相手の嘆きがまっすぐに伝わってくる。それがあまりにまっすぐすぎたので、私は目をそらしたくなってきた。こんなものが見たいんじゃない。私が見たかったのは、こんなものなんかじゃないんだ、きっと。
「戦争は終わればいいというものじゃないのよ。ねえ……」
 地面に積もった雪を踏んで、リンゴさんは墓の傍に立つ女性に近づく。
「戦争が終わったからといって、必ずしも平和が訪れるとは限らないの。あるいは国は平和になるかもしれないけど、個人の問題となると、家族や友達や恋人を失う人だって現れるわ。本当は戦いなんてしたくなかった人だっているはずだし、何もかも根こそぎ奪われる人だっている。確かにこんな結末になってしまったのは残念だけど、悲しんでばかりいちゃ亡くなった人たちに心配されちゃうわ。だから、ねえ、あなたはこの現実を受け止めていかなきゃならないんじゃないかしら? 戦争があるという限り、その覚悟はきっと必要なんだわ。嘆くのはここでおしまい。さあ、笑ってみて?」
 リンゴさんは微笑んだ。とても美しい笑みだった。絵に描いたような赤い瞳が優しげに見つめる先には、白い景色に溶け込みそうな悲しい女性の姿があった。女性はまた微笑もうとしたのか、少し顔を緩ませたものの、なかなか巧くいかない様子だった。微笑はぎこちなさを残したまま終わる。
「駄目よぉ、そんなんじゃお友達に笑われちゃうわ。ねえ、真ちゃんにキコちゃんにハウアー君、この子を笑わせてあげて」
 不意打ちのように無茶なことをリンゴさんはおっしゃる。ちらりと横を見ると、困ったような表情のハウアーと、ぽかんとした顔のキコが目に入った。彼らもまたリンゴさんの不意打ちに少なからずのダメージを被ったらしい。
 しかし相手を笑わせるなんて芸当、私にできるわけがないんですけど。
「えーと」
 一言吐き出すと女性はこっちを見てきた。おまけにリンゴさんとキコとハウアーまで見てきた。いや君らに用事はないんだけど。
 私はふと思いついた言葉を口に出して言ってみた。しかしそれは厳密に言えば歌詞だった。ある一節を読むと次の一節が頭に浮かび、それをも口に出すとまた次が出てくる。気づけば私は歌を歌っていた。どうにも止められなくて、結局最後まで歌い続けてしまった。
『光は誰にでも降り注ぐ。わけ隔てのない無償の愛情を、感じられなくなったら目を閉じて、知っている名前を口に出してみて』
 歌い終えると不思議な沈黙が支配していた。私にはそれが分からなかった。頭の中では絶えずメロディが流れ続け、曲は終わったのにまだ続きがあるように感じられた。だから私には沈黙が、静寂が聞こえなかった。
 それでも構わないと言わんばかりに、悲しげだった女性は微笑んでいた。ぎこちなさをどこかに置き去りにして、追ってくる感情と優しさとに身を委ねたようだった。その顔を見ると私も、ああよかったと思えるんだから不思議だ。
「やっぱりそうだった。あなたは笑顔がとても似合うわ」
 まるで女性を包み込むかのような言葉だった。それを発したリンゴさんは、いつものように穏やかな笑みを顔に浮かべていた。それは決して壊れないもののように、内に秘めた愛情を周囲に示していた。彼女に愛せないものなどないのだと感じた。
「いつまでも悲しんでいられないってことは分かっていたけど、花も供えてあげられなかったから、余計に悲しみが襲ってきてしまったの。でも大丈夫よ、ありがとう。私はこれからも彼らのお墓を守っていくわ」
 この言葉を最後に私たちは別れた。後に残ったのは言葉にならないようなものばかりで、しばらく誰も口を開かずに歩いていた。だけど心は春の風のように穏やかで、戦争という響きすら美化できそうな気持ちに包まれていた。



「リンゴさんは戦争を見たことあるの?」
 歩きながら気になったことを聞いてみる。彼女の話しぶりには確かにそう思わせるものがあったのだ。私は何も知らないから、あんな話をすることなんてできない。
「戦争は見たことないけどねぇ、似たような光景なら見たことがあったわぁ」
 相変わらずのおっとりとした口調で、どうにも内容と噛み合ってないように聞こえてしまう。それでも一応事実らしいからそういうことにしておこう。
「似たような光景って何?」
 隣から口を挟んできたのはキコ。こういう話にはあまり興味がなさそうな顔をしているけど、わざわざ尋ねているところを見るとそうでもないらしい。しかし私はそこまで突っ込んだ話は聞きたくないんだけどな。
「あぁ、えっと……ほら、私ってスーリに追いかけられてるでしょ? だからいろいろあるのよ、分かる? それに――あの子も」
 リンゴさんは静かになり、顔から笑みも消えた。何か聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと心配になってくる。あるいは嫌なことを思い出したのかもしれない。どちらにしろリンゴさんじゃない私には分からない。分からないことをあれこれ考えていたって仕方がないんだから、もうこれ以上何か言うのはやめておいた。私と同じことを考えたのか、キコもハウアーも彼女に何も尋ねなかった。
 足元で踏まれる雪だけが音を発し、無風になった空を見上げると青が綺麗だった。

 

 

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