月のない夜に

 

 

番外編
 〜黄泉からの訪問者〜

 

 二人で一緒にいられる時間はとても楽しかった。
 少し前なら決して考えられなかった幸せがある。何をするでもなく二人で過ごすだけで心があたたかいもので満たされる。それが恋愛というものだとしたら、俺はとても素敵なものを手に入れることができたのだろう。
「ラザー」
「ん? どうした」
 呼びかけて返ってくる声が驚くほど優しい。以前は刺々しかったり素っ気なかったりした相手なのに、状況が変わるだけでここまで近付くことができるなど、世界は不思議なことで溢れている。
「呼んでみただけ」
「おい」
 こつん、と額を小突かれる。
「女みたいに甘えてんじゃねえよ」
 怒られているようにも思える言葉なのに、ラザーはこれ以上ないというくらい穏やかに微笑んでいた。その顔が愛おしすぎて、俺はもうどうかしてしまいそうだ。
 穏やかな時間。繰り返される日常の中にある、幸福で彩られた素晴らしい一時。今ここにあるのは間違いなくそれだった。俺はようやく手に入れることができたけど、一緒に笑っているのがラザーであって良かったと思っている。
 これがずっと続いてくれればいいのに。そんなことを考えながら、俺はラザーの手をきゅっと握っていた。
「やあやあ、そこのお二人さん。まるで恋人同士のようですねぇ」
 深い幸福に満たされていると唐突に前方から声をかけられ、俺は唖然としてそちらに目をやった。俺とラザーがぴたりと身体をくっつけて座っているベンチの前に、赤い帽子を深々と被った男の人が腕組をして立っている。その目立つ色彩をした大きな帽子のせいで相手の顔がよく見えなかった。
「ええと、あなたは?」
「樹、こんな奴は無視だ」
 ぐいと腕を引っ張られてベンチから立ち上がる。俺を引きずるラザーは赤い帽子の男を残して公園をずいずいと歩いて行き、しまいには町なかに出て少し進んだ先にあった飲食店へと連れ込まれた。
「何か食えよ。腹減ってるだろ」
「でも俺、この世界の料理とか知らないし、ラザーが選んでよ」
「このバジリスク風ポテト揚げって結構いけるんだぜ」
「そうなのか? じゃあそれに――」
 はたと気が付いて隣を見る。そこには俺が愛するラザーではなく、さっきの帽子を被った男がちゃっかりと席についていた。
 両手を机に付いてラザーは勢いよく立ち上がる。再び腕を握られたが、今度は逆方向からも見知らぬ男に腕を掴まれ、どちらにも進めなくなった俺は双方から引っ張られることになってしまった。
「いた、痛いって! やめろ――」
「てめえ今更何をしに来たんだ! 俺はこいつと二人きりで過ごしたいんだ、邪魔するんじゃねえ!」
「うるさいうるさい! 俺の樹を誑(たぶら)かしやがって……兄貴としてそんなことは絶対に認めんぞおおっ!!」
 ……え、まさかこの男の人って。
「あのー」
「何だ」
「あんた、もしかして……スーリ?」
 訊ねた途端にぱっと手を離された。おかげでラザーに強い力で引っ張られ、その反動で派手にずっこける。
「せいかーい! さっすが俺の樹、姿が変わっても分かってくれるなんて……こんなに可愛い弟は他にいないね、うん!」
 胡散臭い帽子を片手に持ち、満面の笑みを浮かべて陽気な声を出したのは、確かに死んだはずの俺の誇るべき兄貴だった。

 

 

 スーリ・ベセリア。俺と同じくアユラツで造られた兵器であり、立場としては俺の兄貴ということになる。彼は俺を鍛える為に自ら悪役を演じ、最期は寿命を迎えて天国へ向かったはずだった。
 その兄がなぜか今、俺の目の前にいる。
「ドウイウコトデスカネ」
「さあ、どういうことだろうなあ?」
 にこにこして答えられる。彼が死んだ時は自分でもびっくりするくらい泣いたってのに、なんで突然甦ってるんだよ。俺の涙を返せ、このヤロー。
「というのは冗談として、実は俺もシンもダザイア様も、魂だけの存在として天国で仲良く暮らしてるんだよなー。それで今日は下界に降りる為に他の人間の肉体を借りてるってわけさ」
「……あっそう」
 あんなに悲しかったのに魂だけでも生きてるなんて。俺は一体どういう反応をすればいいんだよ。
 本来スーリは青い髪を持つカイにそっくりな見た目をしていたが、今は茶髪で眼鏡をかけた若干イケメンっぽい青年の姿になっていた。もちろん声も違っているから別の人間であることは分かるけれど、その口から放たれる言葉の数々は俺に懐かしさを分け与えてくれるものでもあった。
「樹は俺に会えて嬉しくないのか?」
「そ、そりゃあ……また会えたのは嬉しいけどさ」
「おい樹。家族会議なら俺がいない所でやれよ」
 すぐ隣から怒った声が飛んでくる。しかしその音とは裏腹に、厳しい顔をしたラザーの手は俺の腰に回されていた。俺はその手にわけもなくどきどきしてしまう。
「今回お前の前に現れたのは他でもない……樹! お前の恋人について講義しに来たからだっ!!」
 ばん、と大きな音を立ててスーリは机を叩いた。おかげで上に乗っていたコップが小さく飛び、周囲で食事を楽しんでいた客の視線が一気に集中する。
「最初にこれだけは言っておこう。俺は――俺は絶対に、男なんか認めんぞぉっ!!」
「そ、そんなこと大声で言うなって!」
 なんで俺が兄貴の台詞にいちいち気を遣わなきゃならんのだ。周囲の視線が気になってびくびくしてしまう。
「俺は知ってるんだぞ」
 とりあえず落ち着いてくれたスーリは水の入ったコップをぎゅっと握り締めていた。
「何を」
「ずっと見てたんだ。お前たちが学校の屋上やらトイレやら、そして家のベッドの上でやらしいことをしてる様をな」
「げほっ!」
 咳が出た。何を言ってるんだこの兄は。ずっと見てたとか、まさか俺とラザーがいちゃついてたところをすぐ隣で観察していたとでも言うんじゃないだろうな?
「魂ってのは便利だよなぁ、どんなに近くに行っても全く気付かれないんだからさあ。おかげさまで俺は君たち二人のやり方だって覚えちゃったんだぜ?」
 なぜかニヤニヤしながら言ってくる。つーか何気にその行為って変態的じゃねえか?
「とにかく俺は、そんなやらしいことする男との交際なんか認めませんからね!」
 腕を組んでため息を吐くように言ってくる。なんだか厳しい親父に恋人を紹介したら否定された娘のような気分になってきた。いつからスーリは俺の親父になったんだよ。
「おい、スーリ」
 ふと上の方から声が降ってくる。反射的にそちらに目をやると、全く見知らぬ顔が不機嫌そうな表情でそこにあった。
「前にも言ったと思うが、てめえはお節介なんだ。その辺でやめておけ」
「やめるわけないだろぉ? 俺の可愛い弟がケダモノに食われそうになってるんだから」
 ケダモノってラザーのことかよ? ここまで言われるとさすがに腹が立ってくるな。
「……ったく、これだからバカ兄は嫌いなんだ」
 悪態をつく人は全く知らない人だったが、なんとなくその雰囲気で誰なのか分かった。
「あんた、シンだよな?」
「だったらどうした」
 シン・ベセリア。俺の二人目の兄貴。鋭い瞳は青色になっており、短く切り揃えられていたはずの金髪は長くなって後ろで一つに束ねられていた。彼もまたスーリと同じで別の人の体を借りているらしい。本当に好き放題やってるんだな、俺の兄貴たちは。
「シンだってお前のことが心配でここまでついて来てくれたんだぞ。だからヴェイグ、こんなスケベ男とは今すぐ別れなさいっ!」
「ちょっと待てよ、ラザーはスケベなんかじゃねえよ。いくらあんただろうがラザーのこと悪く言うと承知しねえぞ!」
「えっ」
 つい怒って声を荒げてしまったが、それだけで動揺したスーリは何度か目をぱちぱちとさせていた。つーか俺のことヴェイグって呼ぶなよ。
「だ、だってだって! どうせヴェイグはこの男にエロいことされて戻れなくなっちまったんだろ? お前の方から誘惑したわけじゃないんだよな、そうだよな、そうだと言ってくれ、頼むから!!」
 なぜか涙目になって俺の襟首を掴んでくる相手。しかし実際は相手の言った通りだった。元はと言えばラザーが俺を遊び半分で抱いたことが直接の原因だったんだよな。あの頃はすごく混乱してたけど、でも今はあれでよかったと思っている。
「そもそもお前たち二人の関係を良く思っていない人だって多いんじゃないか? お前たちはちゃんと周囲の人たちにその関係を認めさせたのか? それができていないならすぐさま別れてもらうぞ、ええっ!?」
 慌てていたかと思えばスーリは急に強気になった。さっきから何なんだこのテンションは。助けを求めてちらりとシンの顔を見上げるが、彼は呆れた様子でとんでもなく冷たい視線をスーリに絶え間なく注いでいた。
「というわけで、今からそれを確かめに行くぞ、シン!」
「てめえ一人でやれよ」
「駄目だ、さあヴェイグも一緒に来るんだ!」
「え、ええっ?」
 がたりと立ち上がり、張り切っている兄貴はそのまま俺とシンを引きずって店を出ようとした。とりあえずシンが彼の頭をがつんと殴ってくれたおかげで暴走は止められたが、勘定を支払って店から出た後は、もう彼を止められる人間など存在していないことを思い知らねばならなかった。

 

 +++++

 

「お姉さん! あなたはこの可愛い可愛い弟が男なんぞと付き合うことをどうお考えですかっ!!」
「……は?」
 俺とラザーとシンはスーリに連れられて俺の家に来ていた。台所で夕飯の支度をしている姉貴に向かって大声で話しかけ、突然の来客に驚きの視線を注いだ姉貴はすぐさまこっちに目を向けてきた。
「樹、誰なのよこの人は」
「ええと」
 こそこそと耳打ちされる。しかし姉貴には兵器のことを詳しく話していないから一体どう説明すればいいのやら。一から話し出すとそれこそ一日中説明しなければならない気がするし、かといってこの暴走気味な兄を赤の他人として紹介するわけにもいかないし。
「お姉さん、俺はこの樹の本当の家族です、彼を守るべき兄なんです! だからこそこの子が悪の道へ踏み入れたことに多大な不満を抱いているんですよ、あなたなら分かってくれますよね!」
「あれ、あんた本当の家族分かったんだ? よかったじゃない」
 わりと衝撃的な事実だったはずだが、姉貴はそれをさらりと受け流してしまった。しかし姉貴、このタイミングでその台詞は嫌味にしか聞こえないぞ。
「あなただって弟には幸せになってもらいたいと思っているでしょう?」
「そりゃまあ」
 うるさいスーリは置いておいて、姉貴は唇に人差し指をあててうーんと唸った。それからちらりと俺の隣に立っているラザーの姿を見る。
「あたしは樹の意見を優先してやりたいって思ってるな。ラザーラス君ってクールでシャイだけど、女々しい樹にはぴったりな相手だと思うし」
 吐き出された言葉に正直驚いた。今まで怖くて俺とラザーの関係について姉貴に聞いたことはなかったけど、こんなふうに考えてくれてたなんて思っていなかったんだ。初めて告白した時は呆れられてたような気がしたけれど、今になって最も認めて欲しかった人の口から出た言葉はとても優しいものだった。
「姉貴……ありがと」
「ん? いいのよ。自分が恋愛して初めて分かったんだけど、恋愛ほど自由なものって他にないと思うからね」
 俺の選択をまっすぐ見てくれたことが嬉しい。今ここにある感情はそれだけで、俺は泣き出しそうになっていた。
「嘘だ、あなたは自分に嘘をついているっ!!」
 びしりと人差し指で姉貴を指す男がいた。生きてきた年数では彼の方が多いはずなのに、姉貴に比べどうしようもないわがままな子供のようにしか見えない。
「嘘なんかついてないわよ」
「だって相手は男ですよ? 男ってことは結婚もできないし、子供も産めないし、子孫を残すこともできないんですよ! 彼の命をここで途絶えさせてしまっても構わないと言うんですか!」
「そんなこと言われても、こればっかりは本人の意思が大事だからねぇ」
「う――」
 途端にスーリは静かになる。これが恐ろしく思えるのは彼の悪人時代を知っているからだろうか。
「……あなたの気持ちはよーく分かりました。確かに俺もあなたの意見を理解することはできます。しかしこの感情が絶対に許してはならぬと言っているんだ! シン、この人はもういいから次の関係者の所に飛ばしてくれ!」
「てめえでやれよ」
「いいから飛ばせ!!」
 再びうるさくなったスーリは後ろで見物していたシンに食ってかかっていた。あまりの迫力に押し潰されたのか、俺がまばたきをしていた間に身体が靄に包まれ、次に目を開けた時には別の場所に飛ばされてしまっていた。
 これだから強引な兄に付き合うのは疲れるんだ。

 

 

「……なぜそれを俺に聞く?」
 とんでもなく面倒臭そうな目で聞き返してきたのは、偉そうな椅子に座っている警察のヤウラさんだった。
 飛ばされた先はヤウラさんの部屋の中で、姉貴の時と同じようにスーリは早口に問答を開始した。彼自身の主張を身振り手振りを交えて必死にアピールし、息が切れた頃にそれを黙って聞いていた相手に気合を込めて意見を求めた。しかしその返答は無関心という単語より的確に表している言葉はないようなものであり。
「仕事の邪魔だから出て行ってくれないか」
「な――あんた、ラザーラスの親友だろ! 友達が幼い子供を誘惑してることについて何も思わないのかっ!」
「そうだ、俺はそいつの友人だ。だが俺は親じゃねえ。肉親でもないのに好みに口を出すのはお門違いってもんじゃねえのか? 少なくとも俺はラザーラスの選択を信じているさ」
 機嫌が良くなかったのか少々口が悪くなっているが、それでもヤウラさんはまともなことを言っていた。彼はラザーの友人で、良き理解者であり、聞くところによるとラザーが組織で虐待を受けていたことを組織外で唯一知っていた人らしい。またラザーにとってヤウラさんは最後の逃げ道なのだとも言っていた。恋人ではないといえど、やはりその存在の大きさには嫉妬してしまう。だけど彼はいつも正しいことしか言わないから俺は手も足も出なくなってしまうんだ。
「それより貴様が本当にスーリなのだとしたら、さっさと牢屋の中に入って欲しいもんだが」
「さあシン! こんな奴は無視して次だ次!」
 何を焦っているのか、スーリはヤウラさんが懐から取り出した手錠に強く反応していた。後ろで影みたいにぼんやりと突っ立っていたシンの両手を握ってぶんぶん振り、とてつもなく嫌そうな顔をしたシンはしぶしぶ移動魔法を展開させる。

 

 

 次にやってきたのはエダの家だった。狭い部屋の中に突然大勢が押し掛けたせいで、床に散らばっていた絵の具の瓶は転がり、作りかけの彫刻みたいなものを踏み、机やベッドの上にばら撒かれていた紙が風に乗せられて宙を舞った。そこで静かに絵を描いていたエダが呆然とこっちを見上げてくる。
「な、な」
 我に返ったようにエダはさっと描きかけていた絵を布で隠した。
「いきなり何しに来たんだよ! つーか家に入るなら玄関から入ってこい!」
 それはもうごもっともなご意見で。
「……おいシン、何なんだこいつは」
「この家から強い繋がりを感じたから飛ばしたまでだ」
「こんな奴見たことないけどなぁ。見た目からして悪そうだし、樹の知り合いではないだろうな」
 相変わらず勝手なことを言う兄である。とりあえず俺だってエダとは知り合いなんだけどな。
「まあいいか。俺は樹の兄のスーリだ。お前は樹とラザーラスの交際についてどう思っている?」
「はあ? スーリは死んだはずだろ、どうなってんだよ樹君」
「ええと」
 話がぐるぐる回っていて誰が何を言っているのか分からなくなりそうだ。とりあえずエダの質問に答えることにしようか。
「なんか魂だけの存在になってて、今は別の人間の体を借りてるとか何とか」
「そりゃまた、うぜえな……」
「おい! 俺の質問に答えろ、この不良が!」
 間違ってはいないとはいえ、会ってすぐの人を不良呼ばわりするのはどうかと思うわけだが、俺の兄貴は一度暴走すると誰の力でも止められなくなる。俺はもう好きなようにやらせるのが一番だと気付いたのだ。だから黙っておく。
「ああ? 何だよ質問って」
「この二人の交際についてどう思うかと聞いてるんだ」
「どうって言われても。別にいいんじゃね」
 うっわぁ、軽いな、おい。
 などという問答をしていると部屋のドアがぱたりと開いた。そちらに目をやると、大勢を見て面食らっているヨウトの姿が見えた。片手に古そうな革袋を持っており、その中からは何本もの絵筆が顔を出している。
「エダさんどうしたの、こんなにたくさんの人を呼んで……パーティでもするの?」
「俺が呼んだんじゃねえよ、こいつらが勝手に入ってきやがったんだ」
「ん?」
 ふわりと宙を浮いてヨウトはスーリの前に立つ。大きな身体を下から見上げ、幾度かぱちぱちとまばたきをした。
「もしかしてこの人、スーリ?」
「そうらしい」
「うわぁ、エダさん僕らきっと食べられちゃうんだよ」
 幽霊だからだろうか、ヨウトは見た目が全く違うはずのスーリが分かったらしい。ちらりとラザーの顔を見ると彼もまた驚いているようだった。俺はちょっと微笑んで見せる。
「俺のことはどうでもいいから、樹とラザーラスの交際についてだなぁ……」
「さっきからお前そればっかりうるせえんだよ。本人たちが納得してんだから、もうそれ以上言うことなんてないだろうが。ま、もしラザーラスが樹君を振ったらその時は俺がもらってやるけどな」
「ちょ、エダ! スーリの前でそれは禁句だって!」
 思わず突っ込んでしまったが遅かった。俺の前に立つ兄の背から異様なオーラを感じる。
「真犯人は貴様かぁぁあああっ!!」
「きゃーエダさーん!!」
 両手でエダの首を絞める兄が目の前にいた。それを見てヨウトが騒ぎ、狭い空間で小さな乱闘が起こる。それを収める方法はもう一つしかなかった。
 ぱっと光が部屋じゅうに溢れる。

 

 +++++

 

「ふげっ」
 間の抜けた声と共に床に尻餅をつく。
 きょろきょろと周囲を見回すとどうやらここはカイの家らしかった。見覚えのある木造建築の壁やら机やらが視界に入っている。とりあえず立ち上がろうと身体に力を込めたが、まるでそのタイミングを見計らったかのように上から何かが降ってきた。
「ぐっ――」
 あまりにも重すぎる。床に突っ伏しつつも上を見ると、どうやら俺の上に誰かが乗っているらしかった。ラザーの匂いは感じられないからスーリでも乗ってるんだろうか。
「重いから早くどけっ!」
「あ、すまない」
 ――へ。
 すっと身体が楽になる。慌てて起き上がり隣を見ると、そこには堅い表情をしたままのシンが立っていた。まさかさっき俺の上に乗っていたのは彼だったのだろうか。
 なんてどきどきしているとすぐ傍にあった玄関の扉が勢い良く開かれた。外から雪崩れ込むようにスーリが侵入し、それに続いておどおどした様子でラザーも入ってくる。
「おいシン、ここはどこだ!」
「この場所から強い反応を感じたから飛ばした」
「そんなことはどうでもいい、さっきの赤髪の男をぶっ殺さなけりゃ俺の気が済まないんだよっ!」
 うわぁ、すんごい悪人に戻ってるよこのお兄ちゃん。俺もう近付きたくねぇよ。
 そっとスーリに気付かれないようラザーの方へ寄っていく。複雑そうな目でスーリを見ているラザーの手を取り、彼を安心させてやるために俺はまた微笑んだ。ラザーは俺にぎこちない笑みを返してくれる。まだ完全には落ち着いていられないらしい。
「おう、おかえりー」
 廊下の方から声が聞こえた。しかしそれはこの場に似つかわしくない声で、俺はびっくりしてそちらに目を向ける。
「き、清明さん?」
「おや樹君も一緒か。こりゃ今夜はパーティだな。よし二人とも、父ちゃんに何でも好きなものをおねだりするとよいぞ」
 エプロン姿で意味不明なことをのたまう相手は確かに真の兄でありアニスの父である人だった。その手にはなぜかおたまが握られている。いつも曲がりくねっているくせ毛が今日は一段とくるくるしているように見えた。
「清明、あんたここで何してるんだよ」
「いやぁ、それがなぁラザーラス、聞いてくれよ。俺はお前に話したいことがあって訪ねて来たんだけどさぁ、カイさんって人が今晩は出かけたいからって俺に留守番とお前のお守を頼んできたんだよ。しゃーないから承ったんだけどさっきまで暇で暇で死にそうだったんだぞっ、だから早くお前の要望を聞かせてくれ、我が愛しき息子よ」
 ちょっと待てよ、いつからラザーは清明さんの息子になったんだ! 前々から変な人だとは思ってたけど、真面目な時とのギャップが酷すぎてついていけないんですけど、俺。
「樹、お前は何か食いたいものとかあるか?」
「ええっ? た、食べたいものっ?」
 いきなり話題を振ってきたのはラザー。あの目がすわっている人が料理をしてくれるとでもいうのだろうか。正直言ってとんでもないものを作られそうで怖いんですけど。
「はいはーい! 俺ナポリタン食いたい!」
「ミネストローネ」
「おっけー。んじゃ準備してくる」
 外野の意見を聞いた清明さんはすたすたと廊下の奥に消えていった。いや、何なんだこの展開は。スーリはまだいいとして、ぼそっと低い声でリクエストしたのはあの兵器一族で最もクールな誇るべき次男だったように聞こえたんだが、そんなことがまさか起こるわけが――。
「ところで樹。さっきの人、誰?」
 なぜか機嫌が良くなっているスーリが無駄に可愛らしく聞いてくる。
 ……なんだかため息が出た。

 

 

 結局今夜はカイの家で泊まらせてもらうことになった。家に電話するとリヴァにくどくど文句を言われたが、それを聞き流しても次に待ち受けていたのは決して帰ろうとしない頑固な兄の処理だった。今は夕食を終えて皆がラザーの部屋に集まり、非常に狭苦しい状況になっている。
「久しぶりに会えて嬉しいよ、樹君。キスしてあげる。んー」
「わっ! よ、よせって!」
 ラザー曰く「普段通り」になった清明さんが目を閉じて唇を寄せてくる。それを必死に押さえつつ、前方から発生した兄貴の燃えるような視線をびくびくしながら受けることになってしまった。
「おい清明、お前あんまり樹にちょっかい出すなよ」
「ええ、なんで?」
 ぐいと俺の身体を引き寄せたラザーは少し呆れたような声を出していた。そんな中、俺はラザーに抱かれる一歩手前のこの姿勢に不思議な魅力を感じている。この寸止め感がなんとも……って今はそんな場合じゃないだろ、自分。
「なんでって、こいつはあんたのものじゃねえだろうが」
「でも息子であるお前の恋人ってことは、将来俺の息子になる子じゃないか」
「その息子設定やめろ」
「お前の方から言い出してきたんじゃないか! 俺は覚えてるぞ、ロイの坊主!」
「だからロイって呼ぶなっ!」
 なぜだか口論が発展していたが、それはもう無視することにしよう。うん。
 なんてことを考えているとすっくとラザーが立ち上がった。俺を置いて部屋の外に出て行こうとしている。
「ラザー、どこに――」
「風呂に入るんだよ」
 立ち止まったラザーは律義に答えてくれた。そういえばまだ風呂に入ってなかったんだっけ。窓の外はすっかり暗くなっているからもう寝るだけだと錯覚してしまっていた。
「俺も一緒に」
「一人で入るからついてくんな!」
 バタン、と勢いよく扉を閉められる。
「やーい、振られてやんの」
 すかさず野次が飛んできてちょっと腹が立った。それを言ったスーリの方にまっすぐ向き直る。
「ラザーはいつも一緒に風呂に入りたがらないんだ、だからこれは振られたわけじゃねえの!」
「フーン? ま、そーいうことにしておいてやるよ」
 あくまでスーリはそう思い込みたいらしかった。ちくしょー、ニヤニヤした顔しやがって。隣にいるシンの痛烈なほど鋭い呆れ視線に気付いていないのかあの長男は。
「おっと、俺ちょっとトイレ行きたいんだけど、どこにあるの?」
 唐突にくるりと表情を変えたスーリはやたら庶民的なことを言っていた。ゆっくりとした動作で立ち上がり、誰かが答える前に扉の前まで移動している。
「廊下ずっと歩いて行った突き当たり」
「さんきゅ」
 俺が教えてやるとあっさり外に出て行った。ぱたりと扉が閉められ、それに続いて清明さんも部屋を出て行こうとする。
「え、あの、どこ行くんですか?」
 呼び止めると彼はこちらを見下ろした。その瞳が先程までののんきそうなものと異なっていることに気付く。
「俺も便所」
 彼を引き止めることはできず、何かを漂わせている男を見逃してしまうことになった。よくないことが起こらなければいいけど。
「あ」
 はたと気付いて声が漏れてしまったが、今この部屋の中にいるのはたったの二人になっていた。俺とシンだけが残っている。思わず相手と目が合ってしまい、俺は慌てて何か話題を絞り出そうとした。
「な、なんか突然人が減っちゃったな……あんなに狭苦しかったのに」
「……そうだな」
 素っ気ない返事が飛ばされる。しかし、会話が続かない。
 相手は窓の外に視線を投げかけていた。外見は異なるが、彼はあの頃見ていた兄と同一人物なのだ。
 話したかったことがたくさんある。聞きたかったことも、教えてやりたかったことも、本当は胸の内に山ほどあった。それを伝えたくて彼の元を訪れると拒否された。もう会いたくないと言われて、俺は素直に従っていた。
 それなのにどういうわけだか機会が再びめぐってきたのだ。彼はスーリに引きずられたとはいえ彼自身の意志で俺の前に現れた。出来の悪い弟を否定せず、幾らかの好意を持ってここに来てくれたんだ。
 だとしたら、俺はどうしても伝えたい。伝えられなかった想いを。教えてやりたい幸福を。
「あのラザーラスって奴」
「え」
 彼の方から話しかけられた。びっくりして相手の顔を見る。シンは俺の目を見ていた。俺の瞳の奥をやわらかな光でまっすぐ貫いていた。
「お前にとって、信頼できる奴なのか」
 彼からの質問。それだけで俺にはたくさんの意味があり、価値があった。
「信頼してるよ。ラザーは俺の一番大切な人だ。お互いに綺麗な部分も汚い部分も見せ合った。それでいてまだ一緒にいたいって思う人だから、俺は彼をずっと守っていきたいと思ってるんだ」
 シンは少し黙っていた。静寂に意義のある間を置いてから、小さな声で「そうか」とだけ言う。
 俺はそっと身体を彼に寄せた。彼は逃げなかった。その場でじっと座り込み、だけど今は俺の顔を見てくれる。
「シン」
 名を呼ぶと心が震える。手を伸ばして彼の頬に触れた。別の人間の肌だったけど、そこにあるのは間違いなくシンのぬくもりだった。
 ずっと伝えたかったこと。伝えられなくて、話し切れなくて、もしかすると後悔していたのかもしれない。もっと一緒にいればよかった。もっと正直に、わがままになっていればよかった。
 俺はぎゅっと彼を抱き締める。
「また会えて嬉しい。大好きだよ――兄さん」
 彼は黙っていたが、やがて俺の背に腕を回し、先程よりも小さな声で「そうか」と言った。

 

 

 悲鳴があった。
 驚いて廊下に飛び出すとその原因がすぐに分かった。廊下で床に突っ伏しているスーリが発したものらしい。
「た、助けてくれええ」
「黙れ、この悪党が!」
 ばしり、と爽快な音が廊下に響き渡る。
 理由など知らないが、そこではスーリが怒った清明さんによって打たれていた。後ろから背中を踏み付けられ、清明さんのベルトでびしばしと打たれている。
「痛い、痛いって! この身体俺のじゃないから全然鍛えられてないんだよぉ、だから打つのやめてってば!」
「元はと言えば貴様が悪いんだろうが! 悪人は黙って罰を受けろ!」
 なかなか見るに堪えない光景であることは事実だったが、打たれている人がスーリだからか、あまり危機感がなかった。俺はとりあえず二人に近付いて声をかけてみる。
「清明さん、何してるんですか?」
「悪人を打ってるんだ」
 訊ねるとそのままの答えが返ってきた。いや、そんなことは分かってるって。
「なんで打ってるんだよ」
「こいつがアニスを虐めたから」
「え」
 はっとしてスーリの顔を見る。
「そんなこと、昔の話だってば!」
 スーリは言い訳じみた言葉を吐き出す。彼は俺を鍛える為に仕方なく悪人を演じていたが、まさかアニスにまで手を出していただなんて知らなかった。アニスを大切に思っていた清明さんがそれを知れば、この行為の理由は納得できるものがある。だって清明さんはアニスのお父さんなんだ。娘を虐めていた奴が現れれば、半殺し状態になるまで殴りたいと思っても無理はないだろう。
「ご愁傷様だな、兄貴!」
 俺はとてもいい笑顔でスーリに言った。そうしてくるりと踵を返す。
「い、いつきいぃぃっ! こんな時だけ兄と呼ばないでくれぇぇええ」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ、このクソ野郎が!」
 まるで以前のシンのような暴言が飛び、再び廊下に身体をベルトで打たれる音が響き始めた。

 

 

 就寝時間になってもスーリとシンは帰ろうとせず、仕方がないので一緒に眠ることになった。それだけならまだいいが、スーリの主張で部屋割りが勝手に行われ、ラザーと清明さんが本来のラザーの部屋を使用、そして俺とスーリとシンがカイの部屋で眠ることになってしまった。
 確かに俺も再会した兄たちと共に眠ることに抵抗はなかったが、せっかくの休みなんだからラザーと一緒に寝たかった。ついでにいちゃいちゃしたかった。それなのに俺はスーリとシンに囲まれるような位置でベッドに寝転がっている。心底嫌そうな顔をしたシンは左に、俺の腕を抱き枕代わりにしてくっついているスーリは右側を陣取っていた。
「いーつきっ」
 そしてやたらと話しかけられるし。
「何だよ」
「へへ、樹の髪からいい匂いがする」
 ぐいと顔を髪に近付けられる。この兄貴は何なんだ、いつの間にか怪我も治ってるし、変態か。思わず身体を動かして彼に背を向けた。
「耳、噛んでもいい?」
 ごろごろと甘えてきてよく分からん要望を持ち出してくる。しかし俺が答える間もなく耳を噛まれた。
「バカ、やめろって」
「照れちゃって可愛いなぁ。いや、本当に……お前は可愛い弟だよ」
 頬にキスされる。そのまま背から身体を抱き締められた。
 いつかのことを思い出してしまう。
「ずっとこうしたかった」
 故郷で事実を聞かされた時のこと。絶望と混乱の中にあった俺を後ろから抱き締めてきた兄の姿。忘れようとしても覚えていなければならない感情がそこにはあった。それが今、過去の記憶と重なって再現されようとしているのかもしれない。
「お前が望むなら、お兄ちゃんどんなモノにでもなるよ」
 心がざわめく。甘い誘いは俺を騙す為のものなのか、それとも。
「お前にとって必要なモノになろう。召し使いでも、奴隷でも、神でも構わない。生きていない俺は何にでもなれる。お前をずっと守っていくことができるんだ」
 背に額が当てられているようだった。彼ではない頭蓋骨の厚みを感じる。それがとても重く、身体を離すことができない。
「こうしたかった……本当に、一度でいいから、お前をこうしたかったんだ、ヴェイグ」
 彼の手に力が込められた。身体が折られてしまいそうだ。
「スーリ」
 シンはそっぽを向いている。気を遣ってくれているのか、もう眠ってしまっているのか、そんなことは分からない。
「確かにあんたは馬鹿で、どうしようもないくらいまっすぐな馬鹿で……俺のこと過剰に気にするブラコン馬鹿だけど、それでも俺、あんたのこと好きだよ。あんたとまた会えて……嬉しいよ」
「ヴェイグ」
「その名前禁止」
「ん」
 くるりと身体を回転させ、相手の顔を見る。少し戸惑っている青年の顔に、昔の彼自身の顔が重なって見えたような気がした。
「樹」
 がばっと相手が胸に飛び込んでくる。おかげで顔が見えなくなり、彼の感情が何一つ分からなくなってしまった。
「さこつ」
 ――へ。
「樹の鎖骨。あああ可愛いなぁぁああ、舐めていい? ねえ舐めていい?」
 つい、と指で俺の鎖骨をなぞっている。
 ああもう、この兄は!
「俺に触るんじゃねえよっ!」
「なあ樹、俺お前の為ならこの身体捧げてもいいんだぜ? だから俺と気持ちいいことしない?」
「うわあああシン、助けてくれええっ!」
 明らかなオーラを感じたので思いのまま叫んでしまった。隣で寝ているシンに手を伸ばし、ぎゅっと腕を掴むと凄い勢いでこっちを見られた。
「てめえらそれ以上騒ぐとどうなるか分かってんだろうな、ああ?」
 赤くはない瞳が放っていたのはナイフよりも鋭い殺気であり。
「ハ、ハイ……」
 彼の一言により平和な夜が訪れたことは言うまでもなかった。

 

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「おっはよー」
 翌朝、眠い頭を持ち上げつつ広間に行くと気の抜けるような声が聞こえてきた。それを言ったのは清明さんで、寝起きだからか更にくせ毛がぐるぐると渦巻いている。
「サンドイッチの具、何がいい?」
「あ、適当でいいです」
「うんじゃあ適当にするね」
 相手は俺の返事を聞くとさっさと台所に引っ込んでいった。後から不安が押し寄せてくる。何か変な物を入れられそうで怖くなってきた。
 広間の席には既にラザーとシンが座っていた。俺が目を覚ました時にスーリはまだ隣で爆睡しており、なんだか嫌な予感がしたので起こさずにここへ来てしまったのだ。とりあえず俺はラザーの隣の席に腰掛ける。
「おはよう、ラザー、シン」
「ああ」
「……」
 ラザーは軽い返事をしてくれたのにシンは黙ったままだった。ただ目で合図をくれたのでほっとする。
 しばらく待っていると先にサンドイッチが運ばれてきた。遅いスーリは無視して四人で朝食を食べ始める。俺のサンドイッチには分厚すぎるスライスのトマトが二枚ほど押し込められていた。おまけにマスタードがたっぷり塗られており、一口食べただけでもう欲しくなくなってしまった。こんなもん食えねえよ。
 がぶがぶと水を飲んでいると廊下から足音が聞こえた。スーリがやっと起きたらしく、そちらに目をやるとふらふらした足取りで近付いている様が見える。
「おいシン、お前先に起きたんなら俺も起こしてくれよぉ」
「知るか」
「はあ……おにーちゃん超悲しい」
 まるでどこぞの酔っ払いのようにスーリは寝起きが悪かった。髪はぼさぼさで、目はしょぼしょぼしており、今にも転びそうなほど足取りはヨレヨレだ。こんな姿を見たのは初めてなのでなかなか新鮮だ。
「あれっ」
 ぱっちり開かれた目と目が合った。その時になってようやく覚醒したのか、彼は慌てた様子で周囲を見回す。
「そっそうだ、俺は現世に戻って樹と――」
「おはよ、スーリ」
「ああ、ヴェイグ!」
 突然元気になった相手に椅子ごと抱き締められた。朝から無駄にハイテンションな兄貴だ。
「お前昨日大丈夫だったか? 俺さ、心配で心配で泣きそうになってたんだぞぉ」
 俺の身体に腕を回したままよく分からないことを相手は言う。これはもしかして、昨日散々俺たちを振り回したことを後悔してるんだろうか。それにしては自分で迷惑をかけていたのにおかしな発言だ。
「とりあえず朝飯でも食えよ」
 このままだと彼の抱擁で窒息しそうだったので相手が離れるよう誘導する。素直に助言を聞いたスーリはちゃっかりと俺の隣の席に座った。
「な、ヴェイグ。昨夜は痛くなかったか?」
 横から心配そうな声が聞こえてくる。しかし意味が分からない。
「痛いって何が?」
「だってお前、あんなにはあはあ言ってたじゃないか」
 ……待て、これは一体何の話をしているんだ。
「はあはあって」
「俺、ああいうの初めてだったからぎこちなかったかもしれないけど、これからはもっと頑張るから」
「何を!」
「え」
 ふと気付けばここにいる全員の視線が俺とスーリに集中していた。ラザーもシンも清明さんも俺たちを見ている。その表情は様々で、だけど全員に一致する感情としては、スーリに対する呆れだったに違いなかった。
「樹……お前は昨日の夜、こいつに抱かれたのか?」
 震えているようなラザーの声が隣から響いた。溢れ出る殺気をひしひしと感じ、俺は彼と目を合わすことができない。
「誤解だ! なあシン、俺たち昨日は平和に眠ってたもんな! スーリは――何か知らないけど幻でも見てたんだろ!」
「幻じゃないって! 俺といちゃいちゃしたじゃんか、ヴェイグ!」
「してない!!」
 真実を語っているはずなのに隣から放たれる殺気が濃さを増していた。駄目だ、このままじゃ俺、確実にラザーに殺される!
「樹、貴様――」
「うわああ違うんだラザー、俺は無実だああっ!」
「こんなブラコン変態野郎の言うことなんざ信用に値しねえよ。昨夜は何もなかった。……これで充分だろ?」
 ため息混じりのシンの声が静かに広まり、それでようやく殺気がやわらいだ気がした。俺はほっとして胸を撫で下ろす。
「えええ、でも俺本当に」
「貴様は夢でも見てたんだろ、このクソ兄」
「そうかなー」
 スーリとシンが話している隣で俺は恐る恐るラザーの顔を見た。相手は腕を組み、普段のように目を鋭くしているが、どうやら怒りで頭が支配されているわけではないようだった。目が合うとより相手の心を知ることができた。彼はいつだって俺を信じてくれていたことを忘れちゃならないんだ。

 

 

 朝食にはそれほど時間を費やさなかった。どうにも俺以外のサンドイッチにもおかしな具が入れられていたようで、まだ残っているパンを勧める清明さんをなだめて強引に切り上げてしまったのだ。清明さんは文句を言っていたが無視することにした。
「お前らもう帰れよ」
 椅子から立ち、どこに出かけようかと計画していた兄貴二人にラザーの冷たい台詞が飛ぶ。それに対しスーリはむっとした表情を作った。
「だって俺たちが帰ったら、お前たち二人でデートでもするんだろ。ふーんだ」
「あんたガキかよ」
 俺のつっこみは華麗にスルーされた。後ろからスーリが抱きついてくる。
「今日一日もヴェイグと一緒にいるもんね。なあシン、お前だってそうしたいだろ?」
「デートだか邪魔だか知らんが、てめえ一人でやってろよ」
 皆にぼろくそ言われるスーリはそれでも引き下がらないことを俺は知っている。だから彼の腕から逃れ、相手と向き合って目をまっすぐ見た。
 そこにあるのはとても綺麗な瞳。
「ん、どうしたのかな、ヴェイグ?」
 にこりと笑う顔は素敵だった。俺はそんなスーリが――いいや、そんな兄さんが好きだ。
 そっと顔を近付け、相手に口付けする。
「――!!」
 息を呑んだような音だけが聞こえた。
 スーリ・ベセリア。異常なほどブラコンで、実はファザコンでもある彼は確かに変人だけど、それでも俺にとって家族であることに変わりはない。故郷で一緒に過ごした日々の記憶はなくなってしまったけど――この胸の内に残っているあたたかいものは、彼が教えてくれたものだから。
 本当はずっと苦しんでいた人。他人を殺めることを苦痛に感じ、だけど世界の為にその道を進むしかなかった人。ここにいる皆に負けないくらい優しくて、繊細で、些細なことで壊れそうなくらい脆くて――だから誰かを求めているのかもしれない。彼にとって救いとなる存在が俺だというのなら、俺は彼に愛されることを受け入れていようと思った。彼の愛を全身で感じ取ろうと考えた。そうすることでしか俺はこの感情を表すことができない。それこそがたった一つの、この感情を彼に偽りなく伝える方法なのだから。
 唇を離すとスーリは目を丸くして固まっていた。微動だにせず、まるで銅像のように直立している。
「……兄さん?」
 バタン、と清々しいまでに大きな音が部屋じゅうに響いた。
 スーリは床に倒れていた。仰向けになって天井を見上げている。その顔は真っ赤に火照っており、開かれた瞳孔から考察するに、俺のキスで気を失い倒れてしまったという結論に至ったのであった。

 

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「やっと帰ったな、あいつら」
「うん……」
 俺はラザーとベランダで並び、空に浮かぶ月を見上げていた。
 兵器の兄二人が帰ったのは夜になってからであり、そうせざるを得なかった理由として、気絶したスーリがなかなか目を覚まさなかったからだった。挨拶のつもりでしたキスが彼にとっては相当強烈だったらしい。昨夜はやたらくっついてきたり、おかしな夢まで見てたらしかったのに、キスくらいで気絶するなんて変な話だなと思う。
「なんかごめんな、せっかくの休みだったのにあんなことになっちまって」
「お前が謝る必要はないだろ」
「でも」
 くっと息が苦しくなる。ラザーのキスだった。
「俺よりもお前の方が大変だったんじゃないのか?」
「それは、まあ……当たってるかも」
「だろ? だからお前が気に病むことはないんだよ」
 夜の彼はとても優しい。俺はそれを知っているから、甘えたくなってしまう。
 相手に気付かれないよう身体を寄せた。
「で、お前は実際あいつらのことをどう思ってるんだ?」
 夜空を見つめながらラザーが訊ねてくる。俺もまた彼の真似をして空を見上げた。いつかの夜を思い出す。
「スーリは馬鹿みたいにブラコンで周囲に迷惑掛けまくって久々に会ったら変態度が増してたし、シンは無口だけど口が悪くて些細なことですぐに怒る人だけど、それでもあの二人は俺の兄貴だから。とても大切な、俺の……家族だから」
 失ってしまった絆も、魂も、何もかもが元に戻ったわけじゃない。だけどここにある思いが本物なら、俺はそれを信じて生きていくことができる。俺にとって二人の兄は標(しるべ)だった。手を握り合い、光へ向かって共に進む俺の一部だったんだ。
「……じゃ、俺はどうなんだ?」
 傍にいるラザーが俺の顔を覗き込んでくる。彼の長くて綺麗な銀髪が月に照らされて輝いていた。
 俺はそっと彼の手を取る。
「この世で一番愛している人、だよ」
 月の光で照らされた暗闇の中、二人の影が一つに重なった。

 

 

 

 

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