月のない夜に

 

 

番外編
 〜餌〜

 

 春休みが近付いたある日、川崎家では深刻な事態が発生していた。
「俺は、もう駄目だ……」
 ぼくの前に座っている樹はばたりと机に突っ伏す。彼の手に握られていたシャーペンがころころと転がり、教科書の上を滑って床の上にぽとりと落ちた。
「弱音を吐く暇があったら頑張れば?」
「頑張っても頑張っても理解できないんだからもう駄目なんだよー!!」
 やけくそになったような彼は涙目になりつつ叫ぶ。
 夜も更け街が寝静まった頃、ぼくは定期テストが迫り焦っている樹に勉強を教えていた。ラザーとのことがあってろくに勉強をしていなかった彼は絶望的な状況に立たされており、得意科目など一つとして存在しない為まるでこの世の地獄にでも落とされたかのような顔でぼくに縋りついてきたのだ。ぼく自身も勉強しないと危ないことは分かっているものの、ラザーや薫より頭の出来が良くない樹は同情してしまいそうなほど危機的で、だから彼の頼みを断ることができなかった。そうして彼の勉強大会が始まってもう三日が過ぎようとしている。
 昼は学校で遅くまで残ってラザーに理系科目を教わっているようで、夜は寝る前にぼくの部屋に押し掛けてきて文系科目を教えて欲しいと迫ってくる。ぼくは仕方なしに彼に暗記のコツやら何やらを一つ一つ教えていくわけだが、どうにも相手は飲み込みが悪く、もはや苛立ちを通り越して不安ばかりが積もっていた。
「テストが終われば春休みなんだから頑張りなってば」
「それは分かってるんだけど……」
 試しに過去の小テストをやらせてみると、五十点中十三点だった。このままでは赤点は確実であると言ってもいい。
「今度赤点取るとやばいんだって、俺進学できないかもしれない」
「またまたぁ、いくらなんでもそこまでは」
「いや……この前先生に言われたんだ、それもかなり真面目な顔で」
 ぼくは何も言えなくなる。それ以上に彼の顔は死人のように生気がない。相当追い詰められてるな、これは。
 こうなったらオペラント条件付け――もとい、物で釣るしかない。
「春休みになったら好きなこと出来るでしょ? ラザーとも遊び放題だよ!」
「分かってるよ。でも」
「春休みが欲しいなら愚痴なんか言わずに勉強する! ほら、もう一回テスト範囲やり直すよ!」
「ええー」
「ええー、じゃない!」
 普段の生活じゃはっとするくらいしっかりしてるのに、樹は勉強に関してだけはどうにもだらしがないようだった。根本的なやる気はあるらしいが成績がついていってないので無力感が襲うのか、とにかくまずは失いつつあるやる気を出させなければならない。
 彼が今までラザーのことで頑張っていたことは知っている。だからこそ彼にはゆっくりできる春休みを掴んで欲しかった。その為の努力なら惜しまないつもりだ。確かにそこにぼく自身の利益は含まれていないが、たまにはこういう他人の為だけの努力もまたいいものだと思うから。

 

 +++++

 

 テスト五日前。ぼくは学校の外に見える空を教室の窓から眺めていた。
 クラスはテスト前の独特の雰囲気に切り替わっており、ピリピリしている人やお互いに勉強を教え合っている人も見られる。そんな中で樹はラザーにべったりとくっついていたが、いつものようにいちゃついているわけではなく、困った顔をしながら樹がうんうん唸っている声だけが聞こえてきていた。
 やがて樹が用事か何かで席を立ち、ラザーの元から離れていく。ぼくはその隙を狙ってラザーに近付いた。
「ラザー、ちょっと話があるんだけど」
「何だ」
 振り返った彼は疲れた表情をしていた。その気持ちは分からなくもない。
「樹の勉強だけど。順調?」
「全然だな。あいつはやる気がないんだ」
 いや、やる気じゃなくて頭の問題だと思うんだけど。ラザーは樹のことを分かっているようでどこか鈍い点がある。それなのになぜあの二人は惹かれ合っているのやら。
「じゃあそのやる気を出させる為にさ、ラザーにもちょっと協力してほしいことがあるんだ」
 ぼくはにこりと笑った。ぼくの顔を見上げる相手は眉をひそめ、あからさまに疑っている表情を見せてくる。ええい、そんなものにめげるものか。
「そういうわけで学校終わったらちょっと付き合ってよ」
「いや俺は」
「春休みに樹と一緒に過ごせなくていいの?」
 彼は口をつぐんだ。これはいい手応えだ。
「今日の放課後ね。忘れないでよ!」
 それだけを相手に告げ、しっかり手のひらで握り締めた餌にぼくは確かなものを感じていた。

 

 

「……これでいいのか?」
「ええもうばっちり! さっすが上官、頼りになるぅ!」
 放課後、樹から無理矢理ラザーを奪い取ったぼくは彼と共に上官の部屋を訪ねていた。いつだってぼくの望みを叶えてくれる上官は今回もまた光り輝いていた。普段の姿からは想像もつかない服だって押入れの奥から姿を見せ、ぼくはますます彼に心を寄せてしまう。
「さあラザー、これを着るんだ」
「……嫌だ」
「君がこれを着ないと樹が赤点取って春休みが消滅するかもしれないんだよ!」
「う――」
 ぼくの脅しにラザーは渋々それを受け取り、隣の部屋に引っ込んでごそごそと着替え始める。
 恋する乙女――じゃなかった男は扱いやすくて助かるものだ。樹の名前を出せばそれだけで相手を支配できるんだから、なんと便利な口実だろう。なんてことをしているぼくはまるで悪役の如き立ち位置だけど、これも樹とラザーの平穏を願ってのことなんだからむしろ正義に近いはずなんだ。
「で、アスラード。あれは何なんだ」
 落ち着いて椅子に座った上官はラザーが消えた扉を指差しながら聞いてくる。
「正の強化子ですよ」
「あんなんで本当に強化子になるのか?」
「大丈夫。樹はラザーにメロメロですから」
 一緒に住んでいるからこそ樹の感情はよく理解できるようになった。短い時の中で具体的に何があったかは分からないけど、二人は本物の恋人のように仲が良い。樹はラザーを求め、ラザーは樹を求めるけど、その裏でお互いにお互いの知らぬ相手の姿を求めているところもあるはずだと思っている。それだけの刺激を与えるとどのような変化が訪れるか、そんなものはもう考えるまでもないくらい明確だ。
 控え目な音を立てながら扉が開く。そこから現れたラザーは全く新しい姿に変貌していた。
「こ、これでいいのか」
「うん、よく似合ってる! それじゃ行こうか」
 準備は完璧に整った。後はラザーが樹を落とすだけだ。
 ぼくはすっかり綺麗になった彼の手を取り、いそいそと樹の家へと向かった。

 

 

 ラザーのその姿を見て樹は絶句した。
 扉の裏からすっと入ってきたのは普段の黒い服を着た彼ではなく、上官に借りた白くてお洒落なスーツ姿のラザーラスだった。おまけに髪は後ろで一つに束ねられており、まるでどこぞのホストみたいな見た目になっている。
「ほら樹、ラザーも君の為にこんな格好になってくれたんだよ。彼の為にもテスト頑張らなきゃならないでしょ!」
「うん俺頑張るよ!!」
 とても分かりやすい反応をした樹は頬を赤く染めながらもぐっとシャーペンを握り締め、何やらすごい勢いで英単語をノートに書き始めた。あまりにも単純すぎて泣けてくる。本当に扱いやすい奴なんだから。
 などと思っていたのは最初だけだった。初めこそ勢いのあった樹は順調そうに勉強を進めていたが、途中で普段と同じ程度の速度になり、一時間も経ったならいつもよりダラダラと進めていることに気付く。その原因はラザーに見惚れているというわけではないらしく、何やら幾度もため息を吐いて気力を失っていっているようだった。
「どうしたの、まだこれだけ残ってるよ。早くしなきゃラザーも帰っちゃうよ?」
「わ、分かってるよ! でも……やっぱり俺、無理――」
 また弱音か。こんなものに付き合っているといつまでたっても終わらない。
 ぼくはそっとラザーに耳打ちする。
「ラザー、樹の肩を抱いて甘い文句を言ってやって」
 彼は一度は渋い顔をしたが、それでもぼくが言った通り樹の肩を引き寄せて抱いた。そして相手の耳元に唇を近寄せる。
「お前が頑張ったのなら、一緒に旅行にでも行ってやるよ」
「俺、頑張るよラザー!!」
 なんとも早い切り替えである。見ているこっちが呆れてしまった。
「頑張るから、その……お願いがあるんだけど」
 ラザーに抱かれたまま樹はわがままを言っていた。この状況でよくもまあそんなことが言えるもんだ。さすが恋愛をしている人間は違うってことか。
「できればずっとこのままの姿勢でいて欲しいんだけど」
「は? 何言って――」
「今日だけ! 今日だけでいいから、お願い!」
 二人のやり取りを見てぼくは改めてラザーが可哀想に思えてしまったのだった。

 

 +++++

 

 テスト三日前。樹の勉強は順調に……とは言い難いが、彼にしては順調に進んでいた。どうにかこうにか彼を奮い立たせる餌を提供してきたが、この大事な時期にそのネタが切れてしまった。食べ物じゃ彼は釣れないし、ゲームや漫画といった娯楽要素は興味がない様子だし、やはり今の樹にとって絶大な効果を発揮するのはラザーだけのようだった。しかしそれも何度か使ってしまい、これ以上何をちらつかせばいいというのか。
「そんなわけで君の意見を聞きたいんだ、薫」
「あー……そういうこと」
 休み時間、ぼくは廊下で薫に相談を持ちかけていた。一見馬鹿そうに見える彼だが、学力だけは普通であり、成績も中より上あたりを彷徨っているので今の時期は余裕でいられるらしい。話によると勉強するべきところは全て終わらせてしまい、逆に暇になっているんだとか。
「考えられることは全部試したんだよ。ラザーを白スーツ姿にさせたり、歌を歌ってもらったり、手紙を書いてもらったり、色仕掛けさせてみたり」
「そりゃまた大変だったんだな……」
「でもこれ以上何も思いつかなくて。そのくせ樹の奴はやる気が落ちてきてやがるし」
 この間の過去小テストは三十四点だった。簡単な小テストなんて満点くらい取れなきゃ意味がないってのに、彼はなぜここまで残念なことになっているのか。なんて苛々しても仕方がない。樹はもともと欠陥品として造られてしまったから、今のレベルに達したことは彼自身の努力の賜物であることも分かっているのだ。だからぼくはもっと彼を成長させてやらなければならない。
「そうだ、あれはやってないのか?」
 何やら悩んでいたかと思うと意味深な台詞を薫は吐き出した。あれと言われても何を指しているのか分かるはずもない。ぼくが見逃している何かがあるとでも言うのだろうか。
「何なの、あれって」
「女装」
 ――へ。
「な、何だって?」
「だから女装。ラザーにフリフリのスカートとか履かせてみろよ、あいつきっとそれ見ただけで五十点くらい上がるぜ」
 いくらなんでもあのラザーに女装は無理があると思う。少年時代ならともかく、今の彼はなかなかいい体つきをしているし、そういうのは女性っぽい人がすれば映えるもので彼みたいな男らしい人がしても気持ち悪いだけなんじゃないだろうか。ていうか樹はそんなもんを見たがるだろうか――いや、見たがるか、樹の場合は。ぼくは絶対見たくないけど。
「まあまあ、そんな嫌そうな顔せずにさ、一回試してみろって!」
「えええ」
「あーでも興奮しすぎて気絶しちまうかもな、あいつ」
 そう言って薫は明るくけたけたと笑った。こっちとしては全然笑えないんだけど。
「貴重なご意見有り難う……」
「おうよ、その後の報告楽しみに待ってるぞ!」
 全く乗り気ではないものの、彼の意見も一つの案として受け止めておくことにした。

 

 

「そーいうわけで、この際もう何でもいい気がするんですよ。とはいえあのラザーが素直に女装してくれるとは思えないんですけどぉ」
 ぼくは再び上官の部屋を訪れていた。半ば投げやりな意見を彼の前に提示してみるものの、そこから返ってくる答えなど想像に難くない。上官の声を聞く前からため息が出た。
「俺は恋愛とは縁のない人生を送ってきたからよく分からないが、そういうものを見ると恋人ってのは喜ぶもんなのか?」
「さあねぇ、でも樹はラザーにぞっこんだから嬉しいんじゃないですかぁ?」
 我ながらいい加減な意見だとは思う。でも本当にそう思ってるから仕方がない。
「しかしあいつが女装とか……想像しただけで吐き気がするんだが」
「ですよねぇ」
 上官は蒼い顔をしていた。口に片手を当て、吐き気を堪えているようにも見える。いや、そんなに気持ち悪くなるなら想像しなきゃいいのに。
「だが、そうだな。昔の姿なら確かに似合うかもしれんな」
 ぱっと上官の顔から蒼さが消えた。どうやら別のものを考え始めたらしい。上官ってこんなに分かりやすい人だっけ?
「それはぼくも考えたんですけど、昔のことを引っ張り出したってどうしようもないじゃないですか。過去から彼を連れてくるなんてことができるわけでもないですし」
「わざわざそんなことをしなくとも、身体を昔の体型に戻してみればいいんじゃないか?」
 ――ええと。
 上官は何やらぼくの常識を超えたことを言っていた。彼の言葉の真意が全く分からない。
「おや、分からないか? あいつは少年の頃から不老不死だった。だが今は青年の体つきをしている。つまり彼は少年から青年に成長したということになるが、当然不老不死である彼にとって肉体の成長は有り得ない。ならばなぜ彼は成長を得られたのか? ――答えは簡単だ、彼の身体を無理矢理成長させる方法があったということだ」
「そ、そうなんですか?」
 自分のことじゃないから全然気にならなかったけど、言われてみると確かにラザーは不思議な人だった。ぼくはどこか心の底であれが普通だと思い込んでいたんだ。
「じゃあその方法を応用すれば!」
「ああ。たまにはあいつに恥をかかせてみるのも面白い。俺も協力してやるよ」
「本当ですか?」
 胸の内に喜びがぱっと広がったが、それはぴたりと波紋を止める。手伝ってくれるなんて予想してなかったから嬉しいんだけど、上官ってばまた仕事をすっぽかす気なんじゃないだろうか。ただでさえ上の人に睨まれてるってのに……でもこのフリーダムさが魅力の一つでもあるんだよなぁ。
 そんなわけで上官の力をも得たぼくは意気揚々と計画を立て始めたのであった。

 

 +++++

 

 テスト一日前。
 持てる力の全てを集結させ完成した最大の餌を握り締め、ぼくは樹の部屋に押しかけていった。いつもは彼の方から迫ってくるのだが、今日だけは決して見られてはならないものが部屋に隠されている為、彼より先に相手を留まらせる必要があったのだ。そうして彼の部屋に入り込むと、樹はびっくりしたような顔でやわらかくぼくを迎え入れてくれた。相変わらずのお人好しっぷりがなんだか懐かしく感じられる。
「ねえ樹。今日はとっておきのものを用意したんだ」
「……またラザーに何かしてもらったのか?」
 さすがに何度も似たような餌を与えると彼の勘も鋭くなってくるものだ。しかし今回のものだけは決して予想していないだろう。驚きが過ぎて薫が言ったように失神しなきゃいいんだけど。
「ま、それを見せるのは一通りテスト範囲の見直しを終わらせてからね。それじゃ、いつも通り最初からいくよ」
「よーし」
 単純な樹はやる気が出たようだった。ぼくはそんな彼に一つ一つ横から口を挟む形で教えていく。
 これまで暗記の仕方以前に勉強の仕方が下手な彼にいろいろな助言をしてきたが、テスト前日にまでなるとなかなか要領よく勉強を進められるようになっていた。ぼくのつっこみの数も減ってきて、彼が成長した証がちらほらと見え隠れしている。いくら欠陥品といえどやはり努力の成果は表れるものらしい。ぼくはなんだかそこにえも言われぬ達成感を抱いていた。
「おっ、これはまた……」
 一通り範囲の見直しを終わらせた後に過去の小テストをやらせてみると、なんと五十点中四十八点という素晴らしい結果が返ってきた。それを相手に見せるとほっとしたような表情に変わる。この調子だと赤点は免れられそうだけど、まだまだ油断は禁物だ。
「なあリヴァ、そろそろラザーを……」
「そうだ、忘れてたよ」
「おいっ!!」
 ばん、と机を両手で叩かれた。冗談の通じない奴だなぁ。
 しぶしぶ席を立ち、ぼくは自分の部屋へと向かう。そこで待っていたラザーに事情を話し、彼を連れて樹の部屋の前に立った。
 まずはぼくだけが部屋に入っていく。
「ふふ、今回はびっくりすると思うよ」
 とりあえず警告をしてみたものの、彼の意識は既に扉の外に向けられているようだった。もうぼくのことなんてどうでもいいってことですか、そうですか。本当にもう、以前より全然分かりやすくなっちゃったんだから――。
 ぼくは扉の向こうに声をかける。
「入ってきていいよ」
 小さな音を立て、扉がゆっくりと開いた。
 そこから現れたのはラザーであり、しかしラザーではない。
「えっ――」
 樹の目がくっと大きくなる。扉の奥に隠れていた瞳は、ちらちらと周囲を彷徨い、なかなか焦点が定まらないようだ。それでも部屋の中に身体を入り込ませ、愛しい人の前にその姿を解放する。
 少年の身体になったラザーはふわふわしたスカートのワンピースを着込んでいた。純白の布地が彼の動きに合わせて揺れ、恥じらいで真っ赤になっている頬はぷっくりとして愛らしい。もともと広かったであろう額と鋭さの消えた大きな瞳が少年特有の可愛らしさを形成し、肩の辺りまで伸びている髪と合わせてもその服装はよく似合っていた。
 上官の話によるとラザーが青年の身体に成長したのは師匠さんの魔法によるものらしく、だから今回も彼に頼んで身体の構成を元に戻してもらったのだ。年齢としては十歳から十四歳といったところだろうか。
「……よ、よお」
 彼の口からぎこちない声が零れ落ちる。しかしそれもまた聞き慣れたものではなく、声変わりをする前のボーイソプラノで彩られていた。
「……」
 樹は絶句していた。初めてラザーの「餌」を使用した時と同じ反応だった。しかし大きく横にかぶりを振り、素早い動きで彼の元に詰め寄る。そうしてさっと少年ラザーの両手を握った。
「ラザーなのか? ラザーなんだよな?」
「そ、そうだ! こうしたらお前が喜ぶって言われたから――」
「可愛い……」
 ラザーは少年の姿になったが、それでも樹より少し小さいくらいだった。ただそれはラザーが大きいわけではなく、樹がやたらと小さいだけだ。こんなチビだったのにあんなに大きくなるなんて、彼は凄い成長をしたもんだなぁと感心してしまう。
「ほら、明日テストなんだから、休憩はこれくらいにして早く勉強しろよ」
「うーん」
 小さい手を握りながら樹は何やら考え込んでいるようだった。またおかしな提案をしないかどきどきする。ラザーのこととなると急に人が変わるから不安なんだ。
「喋り方も変えてみてよ。ほら、昔みたいにさ」
「昔みたいって……ああいうのがいいのか?」
 ラザーは更に目を丸くして相手に聞き返す。
「うん、だからさっ」
 わくわくした様子の樹をしばらく見つめ、ラザーは一つ咳払いをした。くるりと樹に背を向けて、一つ呼吸をし、それからまた樹の方へと向き直る。
 そこにあったのは輝かんばかりの微笑みであり。
「それじゃ、昔の調子で接することにするね」
 しかしそれはとんでもなく胡散臭い笑みだった。
「うんうん、可愛いなぁ」
「可愛いとか言わないでくれる? 気色悪いだけだから」
 その笑顔は崩れない。その笑顔は壊れない。
「いやラザー、俺は本当に――」
「無駄な話なんかしてる暇があったらさっさと教科書の文でも読めば? やることならたくさんあるでしょ、数字の羅列を追いかけるもよし、知識を頭に焼き付けるもよしなのに、君はそれさえ忘れて自分の欲望に正直になるんだ? ま、僕はそれでも構わないけどね……結局損をするのは僕じゃなくて君だけなんだから。そのくせ人間ってのは狡猾なものでね、過ちに気付いた時は自分の失敗を転嫁して何かのせいにしようと必死になるんだ。自らの罪を認めようとしない人間ほど愚かな生命はないよ、そういう奴らは見ていて可笑しいったらありゃしない! 君もまたその一人なのかな? 僕とのふれあいを楯に細い小路でも探すの? そこに逃げ込んだって無駄だよ、君みたいな一人きりじゃ何もできない人間なんて、醜い大人たちの足元に転がる骸(むくろ)になることくらいしかできないんだからさぁ! あはは、無知な人間ってどうしてこれほどにまで滑稽なんだろう! 生にしがみ付く人間なんて、広大な時間の流れではいかにちっぽけな存在かということに全く気付いていないんだから!」
 突然の長演説。これは一体何が起こっているのかな? 誰か優しい人、ぼくに説明してくれないかなぁ?
「あ、あの、ラザー?」
「ええ、何? 何か用なの、出来損ないの兵器さん? 君が僕に質問する意義はあるのかな? 君がここにいる意味はあるのかな? 君なんかに何が出来るだろう? 君が造り出すことができるものなど果たしてたった一つだって存在するのかな、欠陥品と呼ばれていた君なんかが、この世界にとって有益な何かを生み出すことが本当に可能なのか? 君はこの世界に必要とされているのか? 世界は君を見捨てようとしているのではないだろうか? 君を必要とする人はいるかい? 君が必要とする人は、本当に、腹の底から、君だけを必要としているのか?」
「うわあああ、ごめんなさいっ!!」
「何を謝っているんだい! 謝れば全てが解決するとでも思ってるの? それはどうしようもなく浅はかな考えだよ、軽率すぎて使い古された過去の人間の逃げ道に過ぎないよ! 君が謝るたびに君の望むものは背を向けて走っていくよ、君に愛想を尽かしてどこかへ逃げて行っちゃうんだ。謝罪とは、他の全てを失くしても構わないという覚悟がなけりゃ行なってはならない行為だ。それしかできない君は馬鹿だね、何の役にも立たない大人たちの木偶の坊だ!」
「うううっ、俺は、俺はどうすればいいんですかっ」
「それを僕に聞くんだ、へえ! だけどね、僕はそれを教える気はないよ。最良の答えは知ってるけど、君みたいな馬鹿に教えたって理解できるはずがないんだもの。君なんかそこで一生うずくまって全ての扉を閉ざしてりゃいいんだよ! あははっ!」
 そろりそろりと後退していく。後ろ手でドアノブを掴み、陶酔したように樹を馬鹿にしまくっているラザーと彼から言葉の暴力を受けている樹を残し、ぼくは気付かれないよう部屋から出た。なるべく音を立てないよう廊下を歩いて自分の部屋へと引っ込んだが、壁越しに聞こえてくる声はラザーのものだけであり、時々樹の悲鳴に似た呻き声が聞こえてきた気がしたが、ぼくはもうそんなものは聞こえないふりをして眠りにつくことにした。

 

 +++++

 

 テストは終わった。
 後の授業で教科ごとのテストが返され、ある人はがっくりと肩を落とし、またある人は嬉しげに鼻歌を歌っていた。
 ぼくはいつも通りの点数だった。薫も普段と変わらない結果だったらしい。ラザーは相変わらず数学だけはいい点数で、文系科目は平均点以下だった。
 そして問題の樹はというと。
「見ろよリヴァ、俺だってやればできるんだぞ!」
 嬉々としてテスト用紙を見せられる。そこに描かれた赤い数字は九十四。しかもその教科だけでなく、今日までに返された全てのテストが八十点以上という恐ろしいことが起きていた。
「なあ、樹の奴は一体どうしちまったんだ……」
 まるでこの世のものとは思えないものを見ているような顔で薫に問われた。しかし、そんなことはこっちが聞きたいくらいだ。
 確かに樹のテスト勉強は調子よく進んでいた。それでも彼の実力では九十点はおろか八十点にも届かない程度のようにしか見えなかったのに、これはどういうことなのか。
 考えられる原因としては一つ――いや、もうこれしかなかった。
「よく頑張ったな、樹」
「えっ!!」
 ぽんと樹の肩に手を置いたのはラザー。ただそれだけなのに樹は大きな声を出して驚きの表情になっている。
「う、うん。俺、頑張ったよ! これで少しは利口になれたと思うからっ!」
「……そ、そうなのか?」
 何も分かっていなさそうなラザーラスと、びくびくしたように言葉を連ねる樹。
 褒美として用意したはずの少年は彼にとってあまりにも刺激が強かったらしい。ぼくは彼を成長させる為に餌や甘いものをちらつかせる手ばかりを考えていたが、何よりも人間を強く突き動かすことができるものとは、負の感情に彩られた罰や脅迫といったものなのだと改めて分かったような気がした。

 かくして、川崎家には平穏なる春休みが訪れたのであった。

 

 

 

 

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