月のない夜に

 

 

番外編
 〜ある少女に捧げる物語〜

 

 俺は何度もその扉をくぐる。呼び出されてもいないのに、何一つ望むものなどないのに、どうして自分がそこへ向かわねばならないのかさえ分からないままその扉の先に吸い込まれていく。
 視界に映るのは暗闇だけ。その中から音も立てずに現れるのは金髪の男。
「清明」
 彼の声を聞き何度も理解する。俺は本当の名を呼んでくれる人を求めてここへ来たのだ。立ち止まったまま相手のキスを受け取り、抱き締められると抵抗できなくなる。彼のことをひどく憎んでいるのになぜ?
「お前はいい子だね。私が欲しいと思った時に来てくれる。お前を愛しているよ、この組織の中で一番に」
 甘い言葉を囁かれ、俺は全身から力を奪われた。俺から娘を奪った男が俺を愛していると言う。小さな子供を道具のように使っている男が俺の身体を抱き締める。そしてキスをする。溶けてしまいそうな接吻は、いつだって震えている。
「あ――はぁっ!」
 手首を縛られ、後ろから犯される。彼の顔は俺の斜め後ろにあった。その口から吐息が漏れ出し、彼の飾られていない本音が零れる。
「清明。清明。お前を愛している。お前は似ている。私を救おうとしてくれた少年たちに似ている。とても似ているんだ、不思議なくらいにね。だけど本当はアキラに似ている。いや実際はセンセイに似ているのかもしれない。ねえ清明。お前はね、私の懐かしい友人たちに似ているんだ。私の愛すべき人たち、今でも決して忘れられない心の支え――彼らとお前はとても似ている。ああ、お前はいい子だ。いい子だよ、愛しい愛しい清明君――」
 アキラ。センセイ。何度も聞かされた名前。俺の知らない、彼だけが抱えている思い出に生きる人たちの名前。
「ああ――ヒロキ! ヒロキ――リョウスケ! ああっ! 会いたい――お前たちに、また会えればいいのに!」
 ヒロキ。リョウスケ。その二つの名前は特別だった。ただ質問することは許されていない。俺は彼の流れ出る感情が治まるまで無抵抗に犯されるだけ。
「ふ、ふふ……ねえ、清明。お前は私を疑っているだろう? 私がいつも言っている名前は、一体私の何を表しているのかと。でもね、この名前を教えているのはお前だけなんだよ。お前は私の最大の秘密を握っているのだよ」
 俺だけに教えたと彼は毎度言っていた。彼がそこまで言うのならロイやティナアさんにも話していないのだろう。いや、もしロイに話していても彼は覚えていないだろう。ロイはこの人とセックスした記憶を消されているし、ティナアさんはこの人とセックスした経験すらない。
「どうしたんだい、哀しそうな顔をしているね」
 それはあなただということにどうして気付かないのか。
「愛しているよ、清明。いつでも、いつまでもね……」
「ん――」
 その言葉の意味を知るのは、俺が彼の元から離れた後だった。

 

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 扉をくぐっても彼はもういなかった。警察に連れられ、今は牢の中で大人しくしているらしい。俺は暗闇が消えて赤裸々になった部屋で立ち尽くす。
 少年の人形。青年の人形。ありとあらゆる男の人形が部屋いっぱいに並べられている。その全てが服を着ていなくて、汚らしい染みができて不潔そうに見える。
 彼は何も語らなかったが俺にだって想像できることがあった。彼は「男」に捉われていた。男という存在そのものに何らかの感情を持っていて、だから俺やロイを執拗に犯していたのだ。
 もしかすると元は彼が犯される立場だったのかもしれない。俺と同じでそれがいつの間にか逆転して、誰かを犯すことで昔のしがらみから逃げ出そうとしていたのかもしれない。ただいくら考えてもそれらは全て予測にすぎなかった。結局俺は彼のことを何も知らないままなのだ。
 最後に受け取った唇が震えていたことを思い出す。
 涙が出た。彼の悲哀がこの部屋の中に残っているんだ。誰もそれを見ようとしなかった。俺もロイも自分のことで必死になって、どうして彼があのような行為に走ったのかということに本気で向き合うことを怠っていた。
 力が抜けて膝が床に付く。
 他の誰よりも助けを求めていたのはあの人だったんじゃないだろうか? 仮面の下に隠された素顔を見つけて欲しくて、だからあれほどたくさんの人々を自らの元へ集めたんじゃないのだろうか? 俺はそれを考えていたか? 彼を憎み、恨むことしか頭になかったんじゃないだろうか?
 手が届かなくなってから分かったって遅いのに。声を届けられない場所に行ってしまったあの人は、もう二度と俺の感情を知ることはないのだ。
 あの震えが忘れられない。だから涙が止まらない。
「――ケキさん?」
 はっとして振り返る。扉の前に立っていたのはエダだった。彼は俺の顔を見て驚いた表情を作っている。
「泣いている、のか?」
「そうだよ」
 ゆっくりと歩き、エダは俺の隣に立った。そこでしゃがみ込んで俺と同じ位置の目線になる。
「どうして泣いているんだ?」
「お前は知らなくていいことだよ」
「教えてくれ。俺だってあんたのこと、もっと知りたいんだ」
 彼らしくない科白だった。外の世界に出て変わったとは聞いていたが、ここまで静かな変化も珍しい。俺はきっと心を許しそうになっている。
「あの人のことを考えていた」
 正直にぶちまけることで彼を取り込もうと思っていたのかもしれない。たとえそうだとしても、彼は受け止めてくれるような気がしていた。黒い感情じゃなく染み一つない真っ白な感情で包み込んでくれそうな気がしていた。そっと彼の手を握り、その匂いを嗅ぐ。
「……絵の具の香りだ」
「ああ、うん――俺、絵描きになったから」
「あの人も、よく絵を描いていた」
「俺は見たことないけど、あんたは知ってるんだ?」
 本当はロイに聞いただけでこの目で見た経験はなかった。それすら知らない俺が彼の為に涙を流すなど、これほど滑稽で無意味なことが他にあるだろうか? これは俺の我儘なのだ。自分の為だけに流す涙、それは決して美しくなんかない。
「お前はここに何をしに来たんだ? もうここに残るものなんて何一つとして存在しないのに」
 訊ねてから気が付く。エダの手には分厚いファイルが握られていた。相手はちょっと表情を崩し、どうしてだか俺に笑いかけてくる。
「これを取りに来てたんだ。俺の仕事道具」
「ファイル?」
「そ。最近いろんな所から噂が飛んで来ててね……警察の手から逃れた組織の連中が好き勝手やってるらしくて。俺はそいつらを鎮めようと思って」
 まるで警察の真似事だ。そのファイルは身元確認の為の資料というわけか。彼はいつから正義に染められてしまったのだろう。そんな見せかけだけの感情など、大勢の前では踏み潰されるしかないということを分かっていないのか。
「無謀だ」
「あんたの意見なんて聞いてねえよ。俺とヨウトとで、やれるところまでやるまでだ」
「――ヨウトも一緒なのか?」
「だってあいつ暇そうだし、使ってやらなきゃ干からびちまうだろ」
 彼の手を握る者がいる。その事実があまりにも眩しくて、俺は遠い地にいる心地になっていた。ぎゅっと手のひらを握り締める。
「また声をかけてくれ。力になることなら……できると思う」
「へえ、協力してくれるんだ? 意外だな」
 それは嘘だった。彼との繋がりを失いたくなくて持ち出した精一杯の言い訳に過ぎない。この関係が過ちから作られたものだとしても、それでも俺はその中で生きていたかった。いくら表面が汚れていても、内側で描かれた世界だけは清らかなものとして続いていくのだと信じていたかったんだ。
 くいと手の甲で涙を拭う。そうして立ち上がり、改めてあの人の部屋を見回した。
「まるで絵だな」
「え」
 小さな呟きに思わず声を漏らしてしまった。俺の隣に立っているエダはまっすぐ部屋の奥を見つめている。
「部屋の中にいるはずなのに、俺もあんたもここに入り切れてないような感じがする。凄い作品だ」
 そう言って彼はくくっと笑った。
 俺は再び部屋を見た。そこには動かない人形が並べて置いてあり、時の流れがぴたりと止まったまま存続している。
 彼は何を望んでいたのだろう。この部屋を離れ、それを手にすることができたのかな。
 今更になって俺は彼に会いたくなっていた。彼の手に触れ、その体温を確かめたくなったんだ――。

 

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『ある少女に捧げる物語』
 彼はそう言っていた。だから私を赦した。私を利用し、束縛した。
 私は私の理想を掴むことに成功した。しかし同時にそれは彼の理想でもあった。二人の理想が共鳴し合い、彼は私を取り込んでしまった。
 死すら赦されぬこの存在。永遠という名の牢獄。
 ああ、この物語は、いつになれば終焉を迎えられるのだろう?

 

 幾許かの時間。残された頁は、最早――

 

 

 

 

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