月のない夜に

 

 

番外編
 〜交錯〜

 

 鮮やかに彩られた卒業式の日、私の傍には母親の姿があった。
 それは当たり前の光景であり、恥ずべきことでもない。穏やかな風が私たちを包んでくれるのならそれでいい。それ以上に望むものなど何もなかった。私は人並みの幸福を手にすることができたのだから。
 桜色の息吹が頬をかすめ、二人きりで活気の燃えかすを踏み付けながら家への小道を歩く。私を支配するものは虚無ではない。私を生かし続ける存在は後悔ではない。そこに煌めくのは単なる遺影だ。徐々に忘れてゆく旧い世界は、新たなものの礎となるしかない。
「真ちゃん」
 家の扉に辿り着いた後、母が中に入ってからふと私を呼び止める声があった。振り返ると小奇麗なスーツを着込んだ男が立っている。しかし私には彼に見覚えがなかった。
「誰」
「覚えてないかな……いや、忘れていても無理はないか。僕は加藤幸助だよ。中学生の頃の清明の友達で、君とも話をしたことがあったんだけど」
「その加藤さんが私に何の用?」
 目覚めかけた記憶に蓋をする。私はそれに囚われてはならない。
「今日が高校の卒業式だって聞いたから、写真を撮ってきてくれって清明に頼まれたんだ。一枚ここで、いいかな?」
「やめてよ」
 相手の意思を振り払うように私は背を向けた。そのまま家の扉に手をかけるが、後ろからぐいと手首を掴まれる。
「お願いだ。彼とちゃんと向き合ってくれ」
 純粋な黒い瞳が私の顔を覗き込んでいた。おそらく彼は私の為ではなくあの人の為にここまで来たのだろう。ただ私はあの人を許してはならなかった。あの人の犯した罪はまだ生きており、それを認めてしまったなら彼に殺された父は楽園から追い出されてしまうだろうから。
「加藤さん。私は兄のことが嫌いなんです。兄は父を殺したことに責任を感じていない。その事実を笑いながら私に告げてきたんです。私はそんな人間のことを許す気にはなれない」
「だが清明は――」
「それが私の為だったとしても、そんなものは何の理由にもなりません。それが犯罪であることに変わりはないのですから」
 たとえこの装飾された意見が身を守る為の盾だとしても、ある種の破壊を止める為の最後の砦だったとしても、私はそれを間違いだと否定することができなかった。どうしたって私にはそれが必要だったのだ。そこに明確な理由などない。
「もう帰ってください」
「だが」
「帰って!」
 彼は私の前から姿を消した。

 

 

 月のない夜にメールが来た。誰からアドレスを聞いたのかは知らないが、それはどうやらあの人からのメールのようだった。
 真っ白の画面の中に質素な活字が並んでいる。
『卒業おめでとう。お前はお前の人生をお送り』
「なんだ、これだけ?」
 つい零してしまった本音が暗い部屋に命を宿した。機械的な文字からは感じられるものが何もなかった。彼の感情などここには含まれていない。美しく着飾った文字など紙切れみたいに薄っぺらくて、まるで本の中の物語のように現実味がなかった。
 闇夜に包まれた家にはもう二人しかいない。義父はあの人に殺され、姉は行方をくらまし、私を引き取った義母だけが傍にいてくれる。つい先日、行方不明になっていたあの人が日本に帰ってきたという報せを受けた。姉の行方は分からないままで、父が帰ってくる日は永遠に訪れない。ばらばらになった家族は同情の対象となるだろう。だけど私はそれが嫌いで、だから何も感じないふりをしていた。
 なぜあの人が父を殺さねばならなかったのか、その理由だってちゃんと聞いて理解できた。幼かった私の知らない場で進行していた虐待も、彼の環境が尋常じゃなかったのだと私に理解させるには充分な効果をもたらした。何より彼が私を庇ってその身を捧げていたことに重い苦痛を感じなければならなかった。無知であり無力でもあった愚かな私は彼の悲しみや怒りに気付くこともなく、偽りの日々をただ平和な日々として認識していたことを罵りたくなったことも事実だった。
 それなのに私は否定をする。そうしなきゃ壊れると知っていたから、私たちを保つには彼の境遇に同情してはならないんだ。
 私はすっと目を閉じる。瞳の奥に浮かぶあの人の姿を眺めながら、深いため息をつく。大きな手が私を守ってくれていたことを思い出す。優しい微笑みが私を安心させてくれていたことを思い出す。
 あたたかい時間も、安らかな家庭も、その全てが嘘だというのなら、私は何を信じればよかったのか?
 それを知るには私はあまりにも幼すぎたのかもしれない。彼が父からの虐待に耐えていた当時、私はまだ小学生だったのだから。ただそれが何の言い訳になる? 年齢や性別など関係ない、重要なのは、大好きだった兄が義父から性的虐待を受けていたことに私が微塵も気付かなかったということだけなのだから。
 どんな痛みが浸み込み、どんな悲しみが渦巻いていたのか。
 いつかはそれらをまっすぐ受け止めることができるかな。そしてその時になったなら、私は彼をもう一度「兄さん」と呼ぶことができるのかな。
 目を開けると涙が頬を伝った。そうして視界に映った美しい夜空を見つめ、ここにはいないあの人の面影を想う。
 ぱっと燃え始めた灯は私にどんな十字架をもたらすだろう。

 

 

「真、起きなさい」
 全身に降り注ぐゆったりとした光を肌で感じ、私は重い瞼を持ち上げた。やわらかな朝の空気が部屋の中に充満している。それを口から吸い込みつつ、身体を起き上がらせると一つの影が私の前に姿を現した。
「やっと起きたね。ねぼすけさんは昔から変わってないんだなぁ」
「な――」
 曲がりくねった艶やかな黒髪に、ともすれば美しいと言わしめる長いまつ毛が作る笑顔。昔に比べ遥かに大きくなった身体を椅子に乗せている相手は確かに私の兄である清明であった。そんな彼がどうしてだか私の部屋でにこにこと笑っている。
「あ、あんた、なんでここに」
「悪いのは真だぞ? 幸助に写真なんか撮らせないって言ったそうじゃないか。兄ちゃんからの頼みを拒否するなんて酷い子だな。ぼくはお前をそんな子に育てた覚えはないよ」
「私だってあんたに育てられた覚えなんか――」
「さ、起きたなら早く着替えて。朝ご飯も準備できてるよ」
 ひょいと相手は私に服を放り投げてくる。こいつは勝手に私の部屋のタンスを漁ったのだろうか、だとしたらとんでもない趣味の持ち主だな。いや、それ以前に朝食の準備もできているとか言っていたけど、この状況は一体どういうことなんだ? まるでわけが分からない。
「……とりあえず、あっち向いててよ」
「え、なんで」
「着替えるからに決まってんでしょ!」
 枕を相手の顔面にぶつける。
 私に背を向けた相手のすぐ隣で服を着替え、彼が勝手に用意していた朝食を二人で頬張る。母さんはこの時間じゃもう仕事に行っているだろうし、今はこの家には私と彼しか居ないという事態になっていた。じっと相手を睨み付けるように見つめつつウーロン茶を喉の奥へ押し込んでいく。
「こうして真と二人きりで食事をするのって久しぶりだね。いつ以来だったかなぁ。確か……遠くへ行こうとして失敗したあの時以来じゃなかったかなぁ」
「何それ、そんなの私覚えてない」
「うん? そうなの? ぼくは覚えてるよ。ずっと覚えてる」
 彼の瞳の中にある光が消えていた。私の思い出に生きる彼と今の彼とではあまりにも何もかもが違いすぎている。だから私は彼を兄だと認識する気分になれなかったのかもしれない。
「それで、今日は何をしに来たのさ」
「真が高校を卒業したお祝いに来たんだよ」
 そう言って彼はウインクしてきた。はっきり言って、似合っていない。
「あんた馬鹿じゃないの。私はあんたのこと嫌ってるんだよ?」
「だけどぼくは真のことを愛しているから」
 恐ろしいまでに汚れのない言葉だと思った。そこに貼り付けられた表情は偽りなのに、彼は怖いものなど何もないと言わんばかりの顔で私に接する。遠い昔から変わらない癖だった。私を安心させる為には彼は何だって作り上げてしまうんだ。
「真はどこか行きたい場所とかない?」
「ないよ」
「じゃあやりたいこととかは?」
「別にない」
「欲しい物なら何かあるでしょ」
「そんなものはない!」
 彼と関わることが怖かっただけだ。私を否定されることが怖かっただけだ! 私は私を見つめているのに、彼は私のことばかりを気にしている。私は彼の産出する愛にすっかり騙されてしまっていた。
「困ったなぁ。お祝いのつもりで来たのに、ぼくは何をすればいいんだろう」
「何もしなくていいんじゃないの……」
 なんだか疲れてしまった。私が見てきた兄は真面目な人だったのに、ここにいる彼はまるでとぼけた人間だ。事前にこの変わりようを知らされていなければ彼が清明だなんて嘘だと決めつけてしまうところだった。私の中にいる彼は大人しすぎて、大きな力によって掻き消されてしまう稀有な魂でしかない。
「よーし分かった! それじゃ今日はぼくとお話をしよう、真」
「はあ? なんで私がそんなこと」
「お前が一番知りたがっていたことを話してあげるよ。どうしてぼくがあの下種野郎を殺したのかってことを」
 優しい兄だった。今でもその面影がある。だけどそれは私に向けられた表面だけ。本当の彼は一体どんな顔をしているというのか?
「……私だってそれくらい知ってるよ。あんたは父さんに――虐待されてたんでしょ」
「あれは虐待じゃないよ。彼はぼくを人間として扱わなかったからね、ぼくは彼に与えられた玩具にすぎなかった。虐待とは人間が人間に対し行うことを言うだろう? 人間が都合のいい道具を使うことは虐待でも何でもない」
「あ、あんた馬鹿じゃないの!」
「そうだね」
 彼はすっと目を閉じた。相手の長いまつ毛が白い肌の上に浮いている。それと似た顔を持つ少年のことを私は知っていた。
「ぼくは馬鹿だよ。あの男に踏み付けられ、それで納得していたんだから。ぼくはもっと早くにあいつを殺すべきだったんだ。ぼくの身体が汚れていく様をじっと見ていなけりゃならなかったなんて、その手でお前の手を引くことも知っていたのに、ぼくは何を迷っていたんだろうね。あいつの頭が吹っ飛ぶ瞬間をお前にも見せてやりたかった。快感だったよ、ようやく手中にした力でねじ伏せられたんだから、ぼくの精神は解放され嬉しさのあまり悲鳴を上げていた。お前はそれを聞いたかい? 美しかっただろう、彼の嗚咽とぼくの嗚咽が混じり合った瞬間だ。素敵だっただろう? 逆らえない力に服従する時よりも、限界の狭間で射精する時よりも、ぼくはそれまでに感じたことのない光明にも似た快楽を得ていた。そうしてぼくはぼくの世界を見つけることができたんだ、彼の身体を壊してしまうことによってね」
 表情はずっと変わらなかった。相手は懐かしむように言葉を噛み締めながら私に向かって喋っている。動かない顔は絵のようで、震える唇は映像のカラーだ。その薄いピンクが口付けした十字架は愛すべき娘のものだっただろうか。
「ねえ、あんたさ……断れなかったの? その、父さんからの誘いってヤツを」
「お前を人質にされていたのに? はは、どうして!」
「だって中学生だったとしても、あんたは男じゃない! 父さんだって焦ってただけで、冷静になればあんたを襲おうだなんて考えなかったんじゃ」
「真、あれは父さんじゃないよ。あれは怪物なんだ。ぼくやお前を食い潰してしまう恐ろしい怪物だ」
 ふっと大きな身体が近付き、私は彼に抱き締められる。
「さ、触らないでよ!」
「ぼくが汚れているから?」
 彼は力を緩めなかった。自由に曲がっている黒髪が私の頬に触れている。そこから懐かしい香りが漂っていた。
「お前はぼくが男に抱かれたからぼくを嫌うのか? 何日も大人の男と性的な関係を持ったからぼくを嫌うのか? それともぼくが大人になり、娘をつくったから俺を嫌うのか? 或いは俺が自分とは無関係だった少年を何年も強姦し続けたから俺を嫌っているのか?」
「違うよ、私は――」
「あれはお前が知らなくていい痛みなんだ。合意の上での凌辱がどんなものなのかお前は知っているか? 恥辱や俯瞰では処理し切れない感情が狂気となり、それが育った末路が殺意になる。俺はお前にそれを味わって欲しくなかった。ただそれだけのことだ、他に望んでいたことなど何もない。もし俺の行為でお前を傷付けてしまったのならそれは詫びよう」
 それから彼は「ごめんな」と言った。私の頭の中で彼の言葉がぐるぐる回った。耐えられない思いが破裂してしまわないように、彼の胸に頭をうずめる。
「謝らないでよ」
「お前はいい子だ。お前に罪はない。たとえ誰かがお前のことを臆病者だと責めようとも、俺はいつだってお前の味方だよ」
「そんなこと言わないで」
「愛している、真」
 くいと顔を持ち上げられ、額にキスされた。
「泣かないでおくれ」
 両の目から涙が止まらない。安っぽく見せるべきじゃないはずなのに、それを隠す気持ちにもなれなかった。
 彼の責任が足枷となっていた。強い意志は彼の中で石化したように根を張り巡らせ、金の鍵でも使わないと貫通することはできなかっただろう。彼が自己の中で解決しようとする限り、私は単なる人形でしかない。重要なのは彼が兄であり私が妹であることだけだったのだ。
 私がいつまでたっても泣きやまないから彼はもう一度キスをした。今度は額ではなく唇に触れられた。私は彼の服にしがみついてしばらく泣いていた。そうやってこの空間が世界から切り離されてしまうことを夢見ていたんだ。
 だけど夢など訪れない。やがて私の目を覚まさせた声は現実のもので、だから私はもう思いの淵を見失ってしまっていた。

 

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 彼がひとりで抱えていたものは、私がいくら手を伸ばしても届かない場所にだけ存在していた。
 苦痛の要因も怒りの根幹も私の頭では理解ができる。それでも私は彼とは違う生命だったから、それらを本当に理解することはどうしたって不可能だった。
 だから話して欲しかったのかもしれない。彼が大事に隠していた傷跡を、私にも見せて欲しかったのかもしれない。
 今更気付いたところで何も変えられないけど、それが生み出すものは無駄じゃないと言い切ることはできるだろうか? 今後変わっていく現実があったとして、それは私たちにとって優しいものなのだろうか?
 ただ今でも感じる願いは明確だ。あの頃と同じ、子供らしくて大人じみた言葉が頭上を交叉している。
 ああ、兄さん。
 どうしてあなたは、私に少しも話してくれなかったの?
 たった一言でもいい、教えてくれていたら。私に喋ってしまっていれば。
 頼って欲しいとまでは言わないけれど、私にもあなたの理由をあなたの言葉で伝えて欲しかった――。

 

 

 

 

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