月のない夜に

 

 

番外編
 〜Melody〜

 

 一体いつからだっただろう、ふと気が付けば、外はもう風が冷たい季節に変わっていた。
 あれから数ヵ月が経過し、自分の中ではたくさんの大きな変化が訪れた。俺はそれら全てを受け入れ、共に歩んでくれる彼に感謝をする日々を続けていた。ずっと一緒にいられないとは分かっているけれど、それでも同じ時間を共有していたい。同じ感情を抱いていたい。そんな単純な願いが成就するかのように、この数ヵ月は平穏な期間だったように記憶している。
 彼の痛みが甦った日からもうすぐで一年が経過しようとしていた。俺がそれに気付いた日もまた近付いており、冬の木枯らしがあの日々を否応なしに思い起こさせる。
 今でも目を閉じればまぶたの裏に浮かぶ光景があった。俺はそれを生涯忘れることはないだろう。散らばった銀髪は束縛の証であり、それに紛れて落ちていたナイフは希望の一閃でもあった。あの刹那こそが未来を変えた選択肢だったんだ。感情に任せてそれを選び取った俺は、もうひとかけらの後悔もしていなかった。
 一人きりで行動する機会はぐんと減り、だけど今日は時間が合わなくて一人で町の中を歩いていた。雪が降ってもおかしくないほど冷たい空気に包まれている町は、今やどこを見回してもクリスマスモードだ。デパートも商店街も煌びやかな装飾が光り輝き、サンタの格好をした店員さんがいたり、クリスマスツリーを飾っていたりする。
 いつもは家族内で楽しむだけだったクリスマスだが、今年からはこれまでと同じ過ごし方では駄目だと分かっていた。なぜなら俺には恋人と呼ぶべき存在ができたからだ。そう、今年は彼と――ラザーと一緒に聖なる夜を迎えるんだ。
 そう考えただけで楽しくなってきたが、ただ一緒に過ごすだけなんて芸がない気がしてきた。しかし何かサプライズをするにしたって、俺はこれまで誰ともお付き合いをしたことがないのでどうすればいいのか見当もつかない。かといって恋愛経験が豊富な知り合いなんていないし、一体どうすればいいというのか。
 すれ違う人々は誰もが楽しげに笑っていた。やがて訪れるであろうクリスマスをわくわくしながら待っているのか、その笑顔から見えるものは幸せに他ならない。俺はそれを眺めてなんだか置き去りにされている心地になった。
 彼らの持っている幸せが、俺には決して手に入れられないもののような気がして――それでも俺は大きく首を振り再び歩き出した。伸ばした手が掴むものは、たとえばとんでもなく汚いものだったとしても、きっとラザーと二人で手に入れれば、どんな宝石よりも綺麗なものになると信じているから。

 

 

「ねえ樹、ちょっとあんたに話があるんだけどさぁ」
 クリスマスの前々日、部屋の電気を消して寝る準備を進めていると、姉貴がドアの隙間からひょいと顔を出してきた。ついでに聞こえたのは猫なで声で、その顔に貼り付けられた素敵な笑顔が嫌な予感を彷彿とさせる。
「なんだよ」
「クリスマスの予定だけどさ。あたし彼氏とデート行くことになったんだ」
「ふうん。それで?」
「ついでにあちらさんの家に泊まることになってさぁ。それであんたに家の用事を頼んでおこうかなーって思って」
「……別にいいけど」
 何か面倒な事を押し付けられるのかと思いきや、愛想のいい顔をした姉貴の口から出てきたのはごく普通の頼み事だった。留守番しなきゃならないならラザーを俺の家に呼んで泊まってもらえばいいわけだ。特に不自由なことなど感じられない。
「あんたさ、もしかしなくてもラザーラス君と一緒に過ごすつもりでしょ?」
 唐突に相手の顔が真面目なものに切り替わる。
「そ、そうだけど」
「デートとか行くの?」
「そりゃまあ」
「じゃリヴァセール君も一緒に連れて行ってあげなさいね」
 続いて聞こえてきたのは耳を疑うようなものであり。
「ちょ、なんでそうなるんだよ! つーかそれじゃデートって言わないんじゃ」
「だってあんた、あの子を一人きりで家に残すなんて可哀想じゃないの! あたしはあんたをそんな薄情者に育てた覚えはありませんわっ!!」
 何なんだよその口調は。ふざけてるのか真剣なのかいまいち分からない。
「だいたいリヴァだって出かける予定があるかもしれないし、そもそも俺とラザーの間に挟まれるのなんて嫌だと思うだろうし」
「うるさいわねー、あんた自分の幸せしか考えてないでしょ」
 姉貴の一言にどきりとした。確かに俺は自分のことしか考えていなかったかもしれない。でもなんか、それって――卑怯じゃないか?
「そういうわけで、あたしがいない間よろしくねー」
 どんな言葉を言い返しても歯が立たないだろうと考え、俺は機嫌よく引っ込んだ姉貴を見送ることしかできなかった。

 

 

 そんなこんなであっという間にクリスマス・イヴは訪れた。
「……おい樹」
「なっ、何?」
 俺の隣からラザーの低い声が響いてくる。若干低すぎるような気がしたが、それはおそらく気のせいではないだろう。
「なんでこいつまで一緒にいるんだよ」
 まだ太陽が空で輝いている下、俺はラザーと共に日本の町を歩いていた。今日もまた風が冷たいので俺はコートとマフラーを完備した格好で歩いているが、ラザーは相変わらずいつもの黒服に一枚コートを羽織っているだけだ。ついでになぜかラザーは頭に帽子を被り、顔には黒く丸い眼鏡をかけている。長い髪はゴムで束ねて帽子の中に押し込んでいるらしく、遠くから見ると彼が異国人だとは分からないような姿になっていた。
 それだけなら全然構わない。ちょっとラザーが泥棒っぽく見えて複雑だという点を除けば何の弊害もなく、たくさんのカップルや家族連れに紛れてデートを思う存分楽しめるはずだったのに、どうしても忘れられない問題点が一つだけあった。
「……だって、一人で家にいるなんて嫌だもん」
「はっはっは、いいじゃないかラザー! 夏祭りの時だって一緒だったのに、今更何を言ってんだよ!」
 俺は姉貴の脅しに負けて結局リヴァの同行を許してしまったわけだが、俺の家に来たラザーを連れて三人で道を歩いていると、ちょうどそこを通りがかった薫と鉢合わせしてしまったのだ。おかげで今や完全な四人行動となっている。つーかこいつら俺たちの邪魔をしたいだけなんじゃないのかよ? せっかくのクリスマスなのになんてこった。
「それで樹、これからどこに行くんだ? ゲーセンか?」
「あほっ、なんでデートでゲーセンなんかに行くんだよ!」
 横から飛んでくる野次がうるさくて仕方がないが、ここで怒ったらラザーに迷惑をかけるので我慢するしかない。しかし俺の想像していたクリスマスと全く違う現実になり、俺はこれをどう処理すればいいんだろう。
「ゲーセンって何だ」
 などと考え込んでいたらラザーが口を開いた。しかも俺じゃなく薫に話しかけてないか? ちくしょう、なんでデート中なのにこんな嫉妬に駆られなきゃならないんだよ、自分が惨めすぎて泣きたくなってくる。
「ゲームセンターだよ。ゲームがいっぱいある所。ラザーはゲームとかしないのか?」
「したことないな」
「じゃあちょっとやってみねえ? ほら、ちょうどあそこにゲーセンあるし!」
 薫が指差した先には確かにゲーセンがあった。ただ俺はあそこには行ったことがなく、ラザーを楽しませてあげられる自信がない。しかもラザーは薫に手を引かれてさっさと俺から離れていってしまった。
「君も災難だね……」
「そう思うなら少しは助けてくれよ」
「ふふ、どうしよっかな」
 意味ありげに悪戯っぽい微笑みを浮かべ、リヴァは二人の後を追った。俺もまた彼らからはぐれないように慌てて三人の後を追う。いろいろ思うことはあったが、確実な事実が一つあるとすると、この四人行動は間違いなくデートと呼ぶべきものではないということだろう。
 果たして俺は今日一日を無事に乗り越えることができるのだろうか。

 

 

 ゲームセンターに足を踏み入れたラザーと薫は入り口近くで俺とリヴァを待っていたらしい。俺たちが近付くとまた歩き出し、薫はラザーの腕を掴んであれこれと説明しまくっていた。その役くらいは俺に回して欲しかったのに、幼馴染みが俺の気持ちに気付く気配は全くない。
 駄目だ駄目だ、このままだとただの友達同士の遊びになっちまう! どうにかしてラザーを取り戻さなければ!
「どれやってみる? 俺は格ゲーとか好きなんだけど、初心者じゃちょっと難しいかもな。そうだ、ラザーって数学得意だしパズルゲームとかどうだ?」
「……」
 薫の矢継ぎ早な台詞を完全にスルーし、ラザーラスはぴたりと足を止めた。どうやら何かを見ているらしく、俺はその視線を追ってそちらに顔を向けてみる。
「どうしたラザー、何か気になるものでもあるのか?」
 視界に映ったのは箱形の機械――いわゆるUFOキャッチャーだった。ラザーの視線は明らかにそれに注がれていた。興味の対象が全く予想できてなくて俺はまた落ち込んでしまう。
「あれはUFOキャッチャーだぜ。俺は、うーん、あれ苦手なんだよなぁ。まあ樹よりは得意だけど」
「中に入っている物は何だ」
「何って、景品だよ。あれは景品を上手いこと取るゲームなんだ」
「ふうん……」
 ラザーはそこから一歩も動こうとしない。そればかりかUFOキャッチャーをまじまじと見つめ、とんでもないほどの興味を示しているようだった。まさかラザーがあれに興味を持つだなんてこれっぽっちも考えていなかった。しかも彼が見つめている台の景品は可愛らしいクマのぬいぐるみであり、いささか少女っぽい趣味のようで彼らしくないように思える。
「ちょっと樹、何をぼんやりしてるんだよ!」
「へ?」
 俺がラザーとUFOキャッチャーとを見比べていると、後ろからリヴァに小声で囁かれてしまった。彼の表情はどうしてだか不満そうに見えなくもない。
「これはチャンスじゃないの! ここで君が頑張ってラザーの欲しがってる物を取ったら、ぐんと好感度が上がるはずだよ!」
「お、お前、俺にあのクマを取れって言ってんのかよ? 俺は自慢じゃないけどUFOキャッチャーは苦手なんだぞ!」
「馬鹿だね、そこをなんとか頑張るのが男だろうがッ!」
 最後にはばしりと背中を叩かれ、その拍子に俺はラザーの目の前に立ってしまった。顔を上げると相手とばっちり目が合ってしまう。
 ええい、こうなったらもう、どうとでもなれだ!
「ラザー、俺があのクマ取ってきてやるよ」
「えーお前が? 無理無理」
「うっさいな、薫は黙ってろっ!」
 早速お邪魔虫の横槍が入ったが、そんなものを気にしている場合ではない。ラザーはただびっくりしたように目を大きくしていたが静寂を貫き通していた。俺はそっと彼の手を取り、二人で一緒にUFOキャッチャーの前まで歩いていく。
 財布を開くと百円玉は五枚しか入っていなかった。一回百円なので五回しかチャンスはない。しかも悲しいことに俺は過去に景品を取った経験が一度きりしかなかった。リヴァに乗せられてついあんな宣言をしてしまったが、もし取れなかったら大恥をかくことは間違いないだろう。
 俺の隣でラザーはじっとクマを見ていた。あんな女の子が欲しがるようなクマのどこがいいというのか、焦りと緊張のせいであのクマが恨めしく思えてくる。そんな密かな思いを抑えつつ、震える手で俺はついに百円を一枚投入した。
 気の抜けるようなメロディが鳴り、台全体がぴかぴかと光り始める。俺は一度深呼吸をし、それから一つ目のボタンを押した。
 のろのろと動くクレーンを目で追いつつ、ここだと思った瞬間にもう一つのボタンを押す。
 クレーンが下りた先には目当てのクマがあった。まさかの一発で成功かと期待していると、世の中そんなに甘くはないと言わんばかりにクマはクレーンからぼとりと落ちた。何も掴んでいないクレーンがのんきに初期位置へと戻っていく。
「……」
 はっとするとラザーの視線を感じた。彼は普段と変わらない目をしており、怒ってないことを確認するとほっとした。しかし非常に何か言いたげな顔をしているような気がする。
「よ、よーし! 次こそ絶対に取ってやるぞ!」
 気合いを入れ直してもう一度挑戦してみた。二つのボタンをタイミング良く押した結果は、先程と似たような光景が目の前で展開されただけだった。無駄に百円を費やしてしまったらしい。
 おそるおそる隣に目をやると、ラザーは俺じゃなくクマを見ているようだった。なんでそんなにあのクマが気になるんだよ。あんな気の抜けるような顔したクマより俺の方がいいに決まってるだろうに!
 ――いや、何を考えているんだ俺は。もう一度深呼吸だ。
 大きく息を吸って落ち着きを取り戻し、再度挑戦してみたがやはり結果は同じだった。なんだかこれ一生取れない気がするんだけど。
 気が付けば百円玉は二枚になっていた。チャンスはあと二回ってことだ。このまま同じ方法で挑んでもきっと無様な姿をさらけ出すだけだろう。とはいえその別の方法ってヤツを俺は知らなくて、結局また無駄な百円玉が消費されてしまったのであった。
「おい樹、お前本当にやる気あんのか?」
「う、うるさいな……次こそ取れるって!」
「付き合ってらんね。なあラザー、あっち行こうぜ!」
 すっかり大人しくなっていたラザーラスはあっさりと俺の隣から姿を消してしまった。正確には薫に引きずられて移動してしまったわけだが、置き去りにされたこっちとしては深すぎる悲しみを味わってしまうことになり。
「樹……」
「うるせー! まだあと一回あるんだ、今度こそ!」
「いや、あのね」
 入れようとした百円玉を後ろから現れたリヴァにひょいと奪われてしまう。こいつまで俺を惨めにさせる気なのか、そうなのか? だから一緒に出かけたくなかったんだよ、ちくしょう!
「返せよ!」
「嫌だね。どうせ君がやっても結果は目に見えてるし。こういうのはね、コツがあるんだよ」
 何を思ったのかリヴァはその手で百円玉を投入してしまった。おかげでUFOキャッチャーはぴかぴかと光り出し、気の抜けるメロディが流れる。そして彼は俺を押しのけて一つ目のボタンを押してしまった。
 クレーンは俺の時と同じようにのんびりとした速度で動いていく。じっとそれを眺めていると、リヴァはクマからちょっとずれた位置で二つ目のボタンを押した。その命令を受けたクレーンはゆっくりと下降を始める。
 こんなの絶対無理だと思って見ていたが、なんとそれはクマの腕と胴体の間に滑り込んでいき、上手いこと持ち上がってしまったのだった。そうして最後まで危なげな様子もなく、無事に手元に転がり込んでくる。
「ま、ざっとこんなもんだね」
 自慢げにリヴァは俺にクマを見せてきた。つーか俺の百円で取ったよな、こいつ。やっぱり百円返せよ。
「はい」
「え」
 恨めしく思ってリヴァの顔を睨み付けていたが、どうしてだか彼は俺にクマを手渡してきた。動揺して受け取れずにいると目で合図を送ってくる。しかしその表情に微笑みはなかった。そのせいでますます相手の意図が分からなくなる。
「あの」
「君たちの邪魔しちゃったことは事実だからね、これでチャラにしてよ。このクマは君が取ったんだ。それでいいでしょ?」
 彼はふいと顔をそっぽに向けた。
「リヴァ、お前って……本当にいい奴だよな! 最高の家族だよ、お前は!」
「あ、あのねえ! お世辞はいいから、早くラザーのとこに持っていきなってば! もう……」
「へへっ。ありがとな」
 いつもは小言をぶつけられたり文句ばかり言われたりするけど、こういう優しい面もあることを知っているからこそ、俺は彼のことが好きだった。そしてその感情はきっと友達というより家族に近いものなんだろう。兄のようで弟のような存在、それが俺にとってのリヴァセールだったんだ。
 若干頬が赤くなっている彼からクマを受け取り、俺はやっとのことでUFOキャッチャーの前から離れることができたのであった。

 

 

 ゲームセンターを抜け出し、薫の提案で行ったラーメン店で昼食を食べ終えると、特に目的もなく町の中をぶらぶらと四人で歩いていた。楽しそうに笑い合う人々と何度もすれ違い、彼らを眺めているラザーの瞳が何を語っているのか考えていると、時間はあっという間に過ぎて空は闇に染められ始めていた。仕方がないので町から離れ、薫を家まで送ってから三人で俺の家に帰ってきた。
 家の扉を開けると中はしんと静まり返り、冷たい空気が俺たちを迎えた。すっかり暗くなっていたので電気をつけ、とりあえずラザーを俺の部屋に案内した。彼は部屋に入るとすぐにベッドの上に腰を下ろしてしまった。
「ラザー、もしかして疲れた?」
「……いや」
 彼の手にはまだあのクマが握られている。よっぽど気に入ったのか、どうやら手放したくないらしい。しかしどうしてそこまで気に入ったんだろう。そもそもラザーが物欲を示すなんて珍しいことだった。今まではびっくりするくらい何も欲しがらない人だったから。
「そのクマ。気に入ってるんだ?」
 マフラーとコートを脱ぎながらさりげなく聞いてみる。ラザーは頭から帽子を取り、丸い眼鏡も外してクマをじっと見つめた。
「なんとなく気になっただけだ」
「それにしてはずっと手放さないよな。やっぱり気に入ってるんじゃないのか?」
「……よく分からないな」
 軽い質問を投げかけたつもりだったのに、返ってきたのは重すぎる返答だった。
 ラザーラスは世間の常識が分からないと言っていた。自分は特殊な空間で育ってきたから、一般の人々が常識とすることを理解することができないのだと言った。そして彼の内側にあるあらゆるものは強い力により歪められ、時折はっとするようなことを言うことがある。それは彼の罪ではない。理解しようと努力をしている彼を支えようと、そう願って俺は彼の隣にいる道を選んだ。だけど彼の「分からない」という言葉がとても痛々しく頭に響くんだ。まるでその言葉と共に彼の全てが粉々になってしまうかのように思えてしまうから。
 抱き締めたい衝動をぐっと我慢しながら、俺は彼に向かってやわらかく微笑みかけた。
「きっと気に入ってるんだよ。ラザーはそれが欲しいって感じてたんだ。だから俺が取ったんだけど……迷惑だったかな」
「そんなことはない! お前に取ってもらえて嬉しいと思っている」
 俺は彼の隣に座った。そして相手の手をぎゅっと握り締める。
「ラザーはもっとわがままを言ってもいいんだよ」
「だけどそれだと、お前に迷惑がかかる」
「迷惑だなんて思わないよ。俺はもっとラザーにわがままを言って欲しい。ラザーに振り回されたい。そうやっていろんな思い出を作っていきたいから」
 ラザーは黙り込んだ。ただ彼の瞳は俺を見ていた。そこに映った自分の目には彼の顔が映っている。俺はそっと顔を近付け、彼の唇にキスをした。
「愛してる」
 もう何度目になるか分からない告白を口にし、俺は彼と共にいられるこの瞬間にひたすら感謝していた。

 

 

「こんばんわー。こんばんわー!」
 俺が作ったクリスマスケーキをラザーとリヴァの三人で食べていると、玄関の方からやたらとうるさい声が響いてきた。しかしその声には非常に聞き覚えがある気がする。
「こんな時間に誰が来たんだろ」
「あ、ちょっと……」
 何も疑わないリヴァはさっと席を立ち、止める暇もなく玄関へと歩いて行ってしまった。心配だったので俺も後ろからついて行くことにする。
「メリークリスマース!」
 扉を開けた途端に高い声が飛んできた。それを発したのは仮装をしたヨウトであり、彼の隣にはエダまでいる。
「な、な、何だよあんたら! ていうか貴様、スイネ――」
「邪魔するぜぇ」
 混乱するリヴァを押しのけて泥棒の二人組は素早く家の中に上がり込んできた。まあせっかく訪ねてきたんだから追い返すようなことはやめておこうか。俺は目を白黒させているリヴァを連れ、ラザーが一人で待っている台所まで戻った。
「ようラザーラス、シャンパン持って来てやったぜ。一緒に飲もうや」
「うわぁ美味しそうなケーキ! 僕も食べていい?」
「お前ら……」
 台所では二人がラザーに絡んでいる光景が見られた。二人とも既に席を陣取っており、仕方がないので俺は隣の部屋から椅子を運んでそれに座った。
「うん、これ美味しいねっ」
「ほら樹君も飲めよ。ついでにそっちの警察の坊やも」
 ヨウトはケーキに手を伸ばし、エダは持って来たらしいシャンパンを皆に配っていた。確かラザーはお酒が苦手だったと思うけど、それは大丈夫なんだろうか。
 しかしこの状況で納得できないことが一つだけあった。
「あのさ、ヨウト。その格好は何なんだ」
「あ、これ? ふふっ、僕こっちの世界の行事について勉強してきたんだよ! クリスマスではこういう格好をするのが普通なんでしょ?」
「いや、その……」
 ヨウトは仮装をしていたが、その仮装はクリスマスじゃなくハロウィンのものだった。頭にはカボチャの帽子を被り、いつもの空色マントの上には紫色のマントを羽織っている。一体誰から教わったのか知らないが、それは明らかに間違いだった。
 しかし困った。間違いを指摘するのは簡単だが、それを言うときっとヨウトは落ち込むだろう。機嫌がよさそうにきらきらした笑顔でいる彼に事実を告げるのは酷な気がして、俺はついつい黙り込んでしまった。ラザーもそれを知ってか知らぬかヨウトの格好については何も言おうとしていない。ということは、ここは黙っていた方がいいんだろう。
「ばっかじゃないの。それ、クリスマスじゃなくてハロウィンじゃないか」
 などと考えていた矢先にこれである。俺は呆れた目でヨウトを見ているリヴァを一瞬だけ睨み付け、すぐさまヨウトの方へと向き直った。
「ひ、酷い……」
 彼の瞳にじわりと涙が浮かび上がる。ああもうリヴァの奴、余計なことしやがって!
「ヨウト、あのさ――」
「酷いよ酷いよ、エダさんの嘘つきー!」
「げほっ!!」
 涙目になったヨウトは何を思ったのか、優雅にシャンパンを飲んでいたエダの頭を殴った。それによってエダはむせ返る。げほげほと何度も咳をし、頭を殴った犯人を睨み付けた。
「ヨウトてめえ、何しやがる!」
「それはこっちが言いたいよ! エダさん言ってたじゃない、クリスマスはこういう格好をするんだって! エダさんは僕に嘘を教えたんだ、この格好はクリスマスじゃなくてハロウィンだって言われたもん!!」
「あれ……そ、そうだっけ」
 確か去年だったか、リヴァに聞くと異世界ではクリスマスやハロウィンはないということを教えてもらったことがある。どんな手段でエダがクリスマスの情報を得たかは知らないが、いつの間にかそれがハロウィンの情報と混ざってしまっていたのだろう。だからたぶんエダに悪気はなかったんだと思う。しかし今のヨウトにそれを伝えたところで効果はないだろう。
「うわあああんロイー! エダさんに意地悪されたー!」
「おいこらエダ、てめえヨウトに嘘教えてんじゃねえよ」
「いや、間違ってたのは悪かったけどわざとじゃないって! おっかしいな、ちゃんとした情報だったはずなのに……」
 一気に騒がしくなり、俺のケーキは完全に無視されていた。おまけにヨウトの奴がラザーを占領してやがるし。ラザーもラザーでなんでヨウトの頭を撫でてるんだ。撫でるなら俺の頭を撫でろっての。
 ――って、何を考えてるんだ俺は。とにかくこの場をどうにかしなければ。
「ま、まあまあヨウト。それにエダも。過ぎたことはもう気にしないでおこうぜ。それよりこのケーキさ、俺が作ったんだ。よかったら食べてみてくれよ」
「えっ、樹君の手作りなの? さっきちょっとだけ食べたけどね、すっごく美味しかったよ! お店で売ってるケーキかと思っちゃった!」
「なあ樹君。セレナにも食わしてやりたいから、持って帰ってもいいか?」
「あ、うん――」
 俺がエダとヨウトにケーキを切り分けてやると、どうやら二人の喧嘩は収まってくれたらしい。準備がいいエダは小さな箱にケーキを一切れ詰め込んでいた。セレナってのは確かエダの家に住んでる女の人だっけ。俺はよく知らないけど、話によるとラザーは何やらお世話になったことがあるらしい。
「んー。美味いケーキを食べながら飲むシャンパンは格別だね。ほら樹君もラザーラスも、遠慮せず飲めよ」
「ちょっと……」
 すっかり機嫌が良くなっているエダはまるで酔っ払いみたいだった。隣に座っていたラザーの肩に後ろから腕を回し、まるでキスでもしそうなほど顔を近付けてシャンパンを勧めている。ヨウトの次はエダがくっつくなんて、こいつらは俺の恋路を邪魔しに来ただけなんじゃなかろうか。
「俺は酒なんかいらない」
「酒じゃねえよ、ノンアルコールなシャンパンなんだから。ガキでも飲めるものなんだぞ」
「分かったから離れろって」
「やーだよ」
 目の前で繰り広げられる光景は見るに堪えないものだった。いいや、おそらくそう感じるのは俺がラザーを恋人として意識しているからだろう。もしこれが一年前にあった景色だとしたら、ただ同僚とふざけ合っている友達を眺める心地でいられたんだろうな。
「ちょっと樹、こいつら何なの。君の知り合いならさっさと追い出してよ」
 横からこの場での唯一の良心とも言うべきリヴァが耳打ちしてくる。俺だってそれができるならそうしたい。だけどエダもヨウトも俺にとって大事な人になってしまったから、彼らを嫌な気分にさせることはどうしても避けたかったんだ。
 調子に乗ったエダはラザーにくっついて離れないし、ケーキに夢中になっているヨウトは目を輝かせながらどんどん口の中にケーキを押し込んでいる。
 これは一体何なんだ。想像してたクリスマスと全然違うんだけど!
「あれぇ、樹君。誰か来たみたいだよ」
「へっ?」
 ヨウトの声に驚いて玄関の方へ振り返る。扉は閉まったままで誰の姿も見えなかったが、正面へと向き直る前にチャイムの音が部屋じゅうに響き渡った。今度は誰が来たってんだよ。
 仕方がないので席を立ち、おそるおそる玄関の扉を開いてみた。
「ああ、樹君!」
 途端に抱き締められ、目の前が真っ暗になった。あまりにぎゅうぎゅうと締め付けられるせいで息ができない。つーかこの声は聞き覚えがあるぞ。
「清明さん……何の用ですか」
「聞いてくれよ! 真にメリークリスマスって伝えようと家に帰ったんだけど、俺の姿を見るや否や「帰れ」だの「変態」だの「ストーカー」だのって言って無理矢理追い出されちゃったんだよ!! 酷いと思わないか、たった二人きりの兄妹なのにさ!!」
「そ、そう……」
 きっとこの人は俺の家が近所にあったから寄ったんだろうな。大人しく幸助さんのアパートに帰ればよかったのに。
「おや、なんだか奥が騒がしいが、パーティでもしているのかい?」
「え――」
 俺に聞いておきながら清明さんはさっさと部屋の奥へと歩いて行ってしまった。慌てて彼の後を追うと、相変わらず無茶苦茶やっているエダたちの姿が目に映る。
「あれっ、ケキさん? なんであんたがここにいるんだよ」
「たまたま近くを通りかかってね。それよりエダ、それは酒か? 俺にもちょっとくれよ」
「酒じゃねえよ、シャンパンだ」
「ケキさぁん、このケーキ食べてみない? 樹君の手作りなんだけど、とっても美味しいんだよ!」
 いつの間にか清明さんまでもが椅子に座って騒ぎに混ざり、狭い台所はぎゅうぎゅうになってしまった。こいつら絶対ここが俺の家だってことを忘れてるな。本当にやりたい放題な奴らだ。
 元泥棒たちの陽気な騒ぎに呆れたリヴァは黙って冷たい目で彼らを眺め、エダと清明さんに囲まれているラザーは困ったような顔で三人の様子を見ていた。俺はそっとラザーの後ろに回り込んで彼の肩に手を置く。
「なあラザー、二階に行かないか?」
「ひっでえな樹君、客人を無視して部屋に引っ込むつもりか? おいラザーラス、どうでもいいからお前さっさとこれ飲めよ」
「だから俺はいらない――」
「ああ? 俺の酒が飲めねえってのか? ごちゃごちゃ言わずに黙って飲め!」
 いきなり乱暴になったエダはラザーの口にコップを押し付け、中にあったシャンパンを無理に飲ませてしまった。やっぱりこいつ確実に酔ってるよ。なんとかエダの手からコップを奪い取ることに成功したが、それによりエダの機嫌が一気に悪くなったことが顔を見ているだけで分かった。
「なんだよてめえら、人の前で仲良くしやがって――俺だってなあ、これでも人に好かれようっていろいろ頑張ってんだよ! それなのにお前らは俺を退け者にしやがって……」
「うわぁエダさんってば酔っ払っちゃってるよ。樹君、こういう時は何を言われても無視した方がいいよー」
「酔っ払ってなんかねえよ! また襲ってやろうか、ええっ!」
 今にも暴れ出しそうなエダを後ろからヨウトが押さえ付けていた。ああもう、これってどうすればいいんだよ。頼むからこれ以上話をややこしくしないでくれ。
 ふとケーキを食べ続けていた清明さんがさっと立ち上がった。彼はエダの右腕を掴み、懐から怪しげな注射器のような物を取り出した。それをエダの腕にぶすりと突き刺してしまう。
 そうしてうるさく喚いていたエダは急に黙り、ぱたりと机の上に倒れてしまった。
「麻酔を打っておいた」
 注射器を懐に戻し、清明さんはまた椅子に座ってケーキに手を伸ばした。
 ……あまりにも非常識というか、行動に予想ができない連中なのでいちいち驚いている暇がなかった。というか驚いてたらこいつらとはまともに付き合えないと思う。そんな連中の仲間だったラザーは机に突っ伏したエダを見つめており、何を考えているのか分からない表情を皆に見せていた。

 

 +++++

 

 一人一人に身体が冷えないよう毛布を被せていく。騒ぎ疲れた清明さんとヨウトは台所で居眠りをしており、麻酔で気絶しているエダはぴくりとも動かず、仕方がないので俺とリヴァの二人で後片付けをしていた。ラザーはエダに飲まされたシャンパンのせいで酔いが回ったらしく、今は俺の部屋のベッドで寝転んでいるはずだった。
「本当に迷惑な連中だよね。人のことなんかこれっぽっちも考えてない」
「悪く思わないでくれ。これでもいいところはあるんだから」
「……分かってるよ」
 お皿を洗いながらリヴァは文句を垂れていたが、無理にでも彼らを追い出さなかったことを考えると、彼もまたこの泥棒たちに理解を示し始めていることは明確だった。俺はそれが素直に嬉しいと思う。
 机の上を布巾で掃除し、洗い物も全て片付くと台所はすっかり元通りになった。時計を確認するともう十二時が回ろうとしているようだ。
「じゃあぼくはもう寝るね。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
 眠そうな目をしたリヴァと別れ、俺は一人で二階へと上がっていく。そうして音を立てないよう気を付けながら自分の部屋の扉を開いた。
 ラザーラスはベッドの上に座り込んでいた。まだ酔いが醒めていないのか頬は紅くなっており、長いまつ毛の下にある瞳もぼんやりとしていて焦点が合っていない。
「ラザー、早く寝た方がいいよ」
「雪が降っている」
「え」
 彼の呟きを確認するかのように窓の外へと視線をやった。しかしいくら目を凝らして見ても、雪が降っている様子などない。
「雪なんて降ってないよ」
「……」
 相手はすっと立ち上がり、黒いコートを着て部屋の外へと出てしまった。とりあえず俺は彼を追いかけていくことにする。
 しっかりとした足取りでラザーラスは一階へと下り、鍵のかかっていた玄関のドアを開けて屋外へと出た。冷たい風がこちらにまで届き、思わず身震いしてしまう。外へ一歩出たところでラザーは立ち止まっていた。そして俺が彼の隣に行くとこちらに目線を送ってくる。
「雪が降っていたんだ」
 再び彼は前を向いた。そこには暗闇しかなく、だけどラザーは空を見上げる。
「師匠の家で――真と二人で、寒いのに外に出ないかって誘われて、そこで空から降ってくる雪を見ていた。俺はあの時、真のことをアニスの姿と重ね合わせて見ていたんだ。だからあいつを大切に思っていた」
 日本の四角い空は何も語らない。箱庭のようなこの世界は、誰に監視されるものでもなかった。ここに生きる俺たちは自らの力で生き抜かねばならないのだから。
「だけど最近になって分かるようになった。俺がアニスを大事に思っていた気持ちと、エダやヨウトたちに向けている気持ち、リヴァセールやアレートたちに向けている気持ち……それらは全てよく似ている。ただ一つ、お前に向けているこの感情を除いて、きっと同一と見ても構わないものなんだろうと思う。ああ、それが俺の知らなかった愛の一部であり、そしてお前に捧げている愛とは異なるものなのだと気が付いたんだ」
「そっか」
 吐く息が白くなっていた。あの日々も白い息を吐いていた気がする。寒空の下で走り続けていた俺たちは、ようやく二人の道を見つけることができたんだと実感した。
「寒いか?」
「ん、ちょっと……」
 ラザーはコートを広げ、それを俺に掛けてくれた。その瞬間に二人の身体が一つになったような気がした。
「あたたかくなった」
「俺もあたたかくなったな」
 目と目が合い、お互いに微笑み合う。そこにはもう脆さや儚さは存在しなかった。一人きりじゃ壊れてしまう生命でも、こうして寄り添うことで未来を見つめることができる。二人が一緒にいられる未来だけを見つけることができるんだ。
「もう少しで一年だな」
「……ああ」
 冷たい風が吹いていたあの日。まだお互いの何も見えていなかったあの日。彼が伸ばした手を俺が握り返し、それでも迷いながら走っていたあの日々は、凍えそうなほど冷たくて熱い季節だった。ばらばらだった二人は惹かれ合い、そしてようやく歩き出せるようになった。
「大丈夫だよ。今度は俺も一緒にいるから。今年も来年も、その後ずっと先の未来でも、二人で冬を乗り越えていこう。そして雪が溶けて春になったら、今度は花が開く瞬間を二人で見届けるんだ」
 そっと彼の手を握る。それはとてもあたたかい。
「お前の言う「大丈夫」って言葉、すごく好きだ」
 手を握り返してきた彼は穏やかで、どうしてだか目に涙を浮かべていた。夜の闇のせいでそれはきらりと光り、冬の風がどこか遠くへと運んでいく。
 だけどラザーラスは微笑んでいた。安心したように、確信しているように、一抹の「希望」と呼ばれるものを持っているかのように――ただ俺に向かって微笑みかけていた。
 俺はおもむろに身体を寄せる。相手は俺を支え、優しく包み込んでくれる。
 ふと空から白くて冷たいものが降ってきた。手を伸ばすとそれは俺の中で溶けてしまったが、支えてくれている彼があたためてくれたおかげで身体が冷えることはなかった。
 空からの贈り物は時間と共に幻想的になり、俺は隣に並んでいるラザーと共に夜が明けるまでずっとそれを見つめていた。決して冷たくはないその雪は、たくさんの足跡を消し去ろうと降り積もっていくけれど、溶けてしまうとまた傷跡は露わになるのだろう。過去を完全に消すことはできないし、否定することもできない。自分の中にある鏡と正面から向き合い、その破片の全てを愛することにより初めて前に進むことができるんだ。
 俺は何を見ているのだろう? そして手を握っていてくれる彼は、俺の傍で何を見つめているのだろう?
 静かに目を閉じて俺は祈ろう。二人の間に生まれたこのメロディが、永遠に流れ続けてくれますようにと。

 

 

 

 

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