月のない夜に

 

 

番外編その2
 〜32のラザーくん泥酔シーン〜

 

 背に重圧を感じる。俺を押し潰そうと意識した何かがのしかかり、恨みや妬みに支配された存在がぴたりとくっついているようだ。酒に溺れた頭を現実に呼び戻し、俺は相手の正体を掴むべくゆっくりと重い瞼を持ち上げる。
「起きろ……」
 つんと香ったのは甘い匂いだ。顔のすぐ傍に淡い唇がある。桃色よりも赤に近いそれはふっくらと膨らみ、かすかに震えながら酒よりも甘い言葉を俺の耳元に送りつけた。よく見るとじんわりと湿っているようだ。相手の唾液が顎に向かって一筋の線を描き、隣に幾本も並ぶ髪の束は暗闇の中でもよく映える綺麗な銀色を放っている。二つの膨らみの間から漂う陶酔の吐息は、彼が意識を手放して単純な快楽に酔い痴れていることをはっきりと物語っていた。
「エダ」
 白い手が伸び、机に突っ伏していた俺の顔をひょいと持ち上げた。そうしてやわらかな唇が俺の頬に触れ、息を吐き、吸い込まれるように唇の方へと滑っていく。直接触れ合ったことにより確信した。彼のキスは酒に毒され、酔った心は身体をも悦びに誘惑しているようだ。相手は俺の唇をちょいと啄み、熱くなっている舌で器用に舐め回してくる。彼の唾液は粘っこくなっており、俺は黙って夢心地の接吻を何もせずに受け止めた。
「おい、ラザーラス。目を覚ませ」
「ん――」
 長いキスを終えて彼は口を離す。俺の目の前でまばたきをした相手はどうやら寝ぼけているようだ。機械のように一定の速度で瞼を持ち上げたり閉じたりして、そこに添えられているまつ毛が女のように長いことに初めて気が付いた。
「エダ……ん、エダ、だろ?」
「そうだぜ、お前は酔ってんだ。大人しく寝ておけ」
「いやだ」
 椅子に座ったまま相手に抱き締められる。狭い室内が幸いして倒れることはなかったものの、これがつらい姿勢であることに変わりはない。ラザーラスは目を開けているが、その焦点が普段のように鋭く整っているわけがなかった。何かを探しているように視線を左右に泳がせていたが、落ち着きのない眼球とは裏腹に、彼の身体は俺を椅子ごと抱き締めたまま決して離そうとはしない。何かおかしなことになっている気がする。俺は恋人に見捨てられた男を優しく労わる趣味はないが、このまま彼を放置しておくとあの子に嫌われてしまいそうで怖くなった。
「いい加減目を覚ませって。ほら、早くベッドに横になれ。ちゃんと立って――おい、だから離れろって!」
 胸の辺りを押して突き離そうとするが、なかなか彼は素直に従ってくれなかった。俺の手を払いのけてますます両腕に力を込め、息が苦しくなるくらい押し潰そうと抱き締めてくる。まともな時の反応が簡単で分かりやすいだけに、酔っぱらった時の態度は想像以上に悪いらしい。ヨウトの話だとラザーラスは酒が嫌いだそうだが、こうなると自覚していたのならそれもよく分かりそうなものだった。
「エダ」
「何だよ」
「抱いて」
 ああ、たちが悪い。
「断る! なんで俺がお前なんかを」
「以前は誘ってきたくせに?」
 どう考えても正気じゃない。俺がこいつを抱くだって。こいつがいなければあの子の心は俺の方を向いていたかもしれないのに。俺からあの子を奪った奴を、頼まれたって抱いてやる義理なんてないじゃないか。
「俺の身体、好きなんだろ? あんたのおもちゃにしていいんだぜ」
 背に潜むのは高い壁だ。俺は彼に迫られ、身動きが取れなくなっていた。赤く火照った顔が頬の下あたりへと接近し、剥き出しになっている首筋に熱い唇が吸いついてくる。
「だから、お前を抱くつもりなんか――」
 意地の悪い相手は俺の肩と太ももに手を乗せていた。そこから伸びる指が服の上から鎖骨を探り、下方では太ももを慣れた手つきで撫でてくる。彼はあの子に捨てられたから俺を利用しようとしているんだ。あの子の代わりに俺の慰めを欲しがり、いや、きっと俺じゃなくても誰でもいいからとにかく愛して欲しいと彷徨している。こんな奴を見ていると二度と立ち直れないくらいに苛めたくなってくるが、どうしてだか今日はそんな気分にはなれなかった。相手の態度が普段とかけ離れているからなのか、それとも生まれて初めて誰かを愛した代償なのか――どちらにしろ、俺は彼の誘惑を避けなければ安眠が得られないらしかった。
 彼の片腕に手を伸ばす。ぐっと力を込めて掴み離そうとすると、相手は俺の首筋に噛みついてきた。理性が働いているなら加減を知っていたはずだろう、しかし今の彼は正気さえ置き去りにした怪物で、鋭い牙は俺の肌に赤い傷跡を作ったようだった。痛みがまっすぐ頭に響く。それに反応して咄嗟に手の力を緩めると、彼は俺の股間へと手を伸ばしてズボンの上から扱き始めた。
「おい、よせって! 俺が誰だか分かってるのか、お前」
「分かってるよ……エダ。あんたを気持ちよくさせてあげるから。だから、お願い。俺のことも……可愛がって」
 まばたきをするたびに長いまつ毛が空を泳ぐ。彼の顔をこれほど興味を持って眺めたことは一度もなく、だから俺は自身の胸の鼓動が高まっていることに驚いていた。なぜだろう、俺は彼自体を知りたいと感じているらしい。今まで単なるサディストの生贄としてしか見ていなかった人間を相手に、一体彼の何が俺の心理を掻き乱したのだろう? 相手は戸惑う俺の隙をつき、手での刺激を止めないまま唇を重ね合わせてきた。口の中に舌が侵入する深いキスは酒の残り香を彷彿とさせ、油断すると彼の世界に取り込まれて逃げられなくなりそうだった。
「はぁ、あ……んん」
 支配されるかと身構えた途端、何やら甘い吐息を吐きながら彼の身体が下へと落ちた。床に膝をつき、俺の太ももに手を置いてやっとのことで座っていられるようだ。彼が酒を嫌う理由はここにもあるのだと判断し、だとすれば俺は、こいつをラザーラスとして認識しなければいいのではないかと勝手に結論付けることができた。
「立てよ」
「や、だ……あるけない」
「わがままを言うな」
 腕を引っ張り、相手を力ずくで立ち上がらせる。どうにか歩かせようと廊下に連れ出したが、彼は足がもつれてまともに歩くことさえ敵わない状態だった。仕方がないので身体を抱えるようにして引きずっていき、自分の部屋として使おうと考えていた空間へ眠ったままの相手を放り込んだ。
 とりあえず目が座っている相手をベッドの上に寝かせておき、俺は自身の衣服を一つずつ剥ぎ取っていく。そうしている間にベッドの上から衣擦れの音が聞こえ、続いて彼のうめき声に似た息が部屋の中に充満した。全ての衣服を床の上に落とすと、仰向けに寝転んでいる彼の上に覆い被さり、改めて相手の姿をよく観察してみることに決めた。
 黒い服に身を包んだ相手はよく見知った姿をしているはずなのに、服の間から覗く肌が以前よりずっと白いように思えた。漂白された紙の如くとまでは思えないものの、過去に見かけた色白の女よりもはっきりとした色合いを誇り、あろうことか彼女らの数倍は美しいと思わせる不可思議な魔力がそこにはある。眠そうな目で俺の顔を見上げる彼を服の上から押さえ付け、俺はそっと腹に手を伸ばして白い肌を隠している服を丁寧に剥ぎ取った。彼の胸に光るアニスの十字架はどこか不釣り合いに鎮座し、まるで彼を縛りつける鎖のように感じられたのでそれをも相手から遠ざける為に外しておいた。
 身を屈め、俺は彼の肌に舌を這わせる。白い肢体は少年と青年とを混ぜ合わせたような肉付きをしており、その事実が俺の中の何かをざわめかせて止まらなかった。綺麗な色をした乳首を舌で触れると相手が少しだけ反応を示した。それを助長する為に、俺は片方の乳首を指で弄ぶ。
「そこは……好きじゃない、あまり」
「はあ? 俺のやり方にケチつける気か」
「ん、う……んん――」
 何度か首を横に振り、彼は何かを伝えようとする。しかし態度だけで示されても俺にはさっぱり理解できず、仕方がないので手と舌での愛撫はこれまでにすることとした。今度は下半身に手を伸ばし、ズボンの上から彼のものを鷲掴みにする。
「あ! やだ――」
 明らかな反応が返ってきて少し驚いた。酒に呑まれているとしても、自分の嫌なことだけは覚えているらしい。つくづく彼は好き嫌いの激しい奴だ。
「なんだよ、お前から誘ってきたんじゃないか。嫌ってことはないだろ?」
「じゃあ、優しくして」
「どうしようかね」
 掌に力を込め、彼を少しずつ扱いていく。それに伴い彼は徐々に大きくなってきたようだった。ズボンをずり下ろして確認すると、中途半端に角度を持ったそれが俺の前に姿を現す。すっかり邪魔になった黒いズボンは床の上に放り投げておいた。
「酒に酔って男を欲しがるなんて、お前は最低の男だよ。しかも過去に襲われた相手を誘うなんてさぁ……」
 よく聞こえるように彼の耳元で小さく囁く。相手は目を閉じて眉をひそめ、口の中で何かをもごもごと喋った。そうして再び目を開けるとまっすぐこちらを見つめてくる。俺は手で直接彼のものに触れ、先ほどよりも強い力で扱く速度を上げていった。
「気持ちいい」
 明快な言葉が彼の口から飛び出した。予想していたものと違うことばかりで、なんだか調子が狂いそうになる。
「じゃお前も俺を気持ちよくさせてくれよ」
「うん」
 相手は身体を起き上がらせ、俺もまた身体を起こしてベッドの上に座り込んだ。向き合う形で一瞬間だけ見つめ合うと、彼はうつぶせに寝転んで俺の股間に顔をうずめる。白い手が伸びて長い指が俺のものに絡んだ。抑揚をつけながら彼は力を込め、手で掴んだまま舌を這わせ、口の中へと誘導する。
 過去に無理矢理やらせた時よりもずっとそれは上手くなっていた。おそらくあの時は手加減でもしていたのだろう、だけど頭がすっかりやられた今となっては、彼の部分的な知識と技術が赤裸々に漏出しているようだった。纏わりつく舌と指が俺に確かな刺激を送ってくる。今まで何人の相手を悦ばせてきたのかなど知る由もないが、悲劇の中で得たものは小さな少年を夢中にさせるには充分すぎる要因だったらしかった。
「お前、こういうの好きなんだろ」
 嫌味のつもりで訊ねると、相手はあっさりと一つ頷いた。
「過去に抱かれた男たちに比べて、俺のはどうだ?」
「美味しい、です」
「……へえ」
 なんとも苛めがいのない返事でつまらない。従順なのは女だけで充分だ。見下ろした先にある二つの瞳は完全に覚醒状態から遠ざかっていた。自我も忘れた身体だけの存在など、人間の欲望を満たすにはあまりにも安すぎる。
「もっと音、立ててみろよ」
 相手は素直に俺の命令に従った。何度も頭を上下に振り、溢れた唾液で淫らな音を演出する。彼は夢中になって俺のものをしゃぶり続けた。何か大切な物を目の前にしているかのように、至極丁寧に舌と唇とで俺の興奮を高めていく。
 白銀の髪が闇の中で煌めいていた。彼が頭を動かすたびに小さく揺れ、光の粉を撒き散らかすかの如く輝いている。俺はそれについても間近で眺めることはあっても、注意深く観察することは今回が初めてであったので驚いてしまった。そっと片手を彼の頭上に伸ばし、撫でるように髪を触ってみる。知っているはずの懐かしい感触が肌の表面から伝わってくるが、糸のように細い髪の束が高値で取引されるほど出来の良いものだとようやく気付いたほどだった。
 無意識のうちに口内に唾液が溜まっていた。彼は興味をそそる相手だ。髪を撫でるとなんとも心地良かった。そのまま剥き出しになった肩に触れ、白い肌をもっとよく見たい衝動に駆られてくる。
「もういい。お前、うつ伏せになって寝ろ」
「んっ……うん」
 プログラムされた機械のように従順な相手は俺の全ての命令に反応する。言われた通りベッドの上にうつ伏せになり、かつて踏み潰した背中が俺の視界に飛び込んできた。それはとても綺麗で、傷跡など一つだって残っていない。手で触れると滑らかな質感が伝わり、大人のようなごつごつとした体格ではなく、やはりどこか少年の無邪気さを思い起こさせる儚げな体つきをしていることが分かった。ケキさんがロイを手放さなかった理由はここにあるのだろうか。あの人はこの子供をいたぶると言っておきながら、本当は彼を愛してやまなかったのではないのだろうか。そう思わせる魅力が確かに彼の身体には存在していた。更に言うとするならば、現在のラザーラスとしての半端な体つきよりも、ロイの頃の成熟された「少年」の身体が目当てだったとすると、あの人が彼に夢中になった気持ちも分かるかもしれないと感じられた。この青年の身体は、どうしてだろう、欲深く汚い大人にこそ愛されるべき宝石なのだと決められているみたいだった。あの子もそれを感じ取ったのだろうか? おそらくラザーラス本人は気付いていない、彼自身の身体に秘められた妖艶な印は、彼の望まぬ誘惑を知らぬ間に周囲へ浸透させていたのだろう。
「おい」
「なに……」
 声はどうだろう。彼の声も誘惑に上乗せされていただろうか。
「前からされるのと、後ろからされるの、どっちがいい?」
「どっちでもいい。好きなようにして」
 嫌がって泣き叫ぶ声も、どうしても抗えない場に吐き出す声も、サディストである俺にとってはありがたい要素であることに変わりはない。しかしもし人間が生まれついてのサディストであり、或いは人間の根幹に嗜虐的な本能が備わっているとしたならば、それらは無条件のまま全ての人々に受け入れられるものとなる。彼はそういった声を発する際、女のように高いキーを苦しみの只中から絞り出すことがある。耳に入るだけで痛々しいそれは彼の苦痛を真向から表現しており、それを聞くことを一つの愉しみとすることだって可能だった。俺はラザーラスの声しかじっくりと聞いたことがなかったが、今よりも少年らしく高い声をしていたロイの嗚咽や悲鳴が目の前に迫ったなら、幾度も踏み倒し声を絞り出す行為を抑えることができただろうか。彼はその声で虐待を呼び寄せたと解釈することが間違っていると言い切ることができるだろうか?
 見えてくる断片が何よりも恐ろしい。俺が破壊しようと使っていた生命は、想像以上に出来すぎた都合の良い人形だったとでも言うのだろうか。砂糖よりも甘い罠? それを知っていて尚放置していた――いいや、おそらく「彼」は、この哀れな魂を利用できるまで利用するつもりだったんだ。
「とんでもない御方だ、あの人は」
 この子の信頼を得た彼は好き放題やっていたということか。もし彼が俺の行動を観察していたのなら、暴力で心を支配するよりも簡単だと言って俺のやり方を嘲笑っていただろう。一度形成された信頼が強ければ強いほどそれは長持ちをする。そしてこの子供は異常なほど彼のことを信頼しているようだったから、いよいよ抜け出せない螺旋が二人の間に張り巡らされていたのだろう。
 静かになったラザーラスの上に覆い被さり、俺は手と舌とで彼の背中を愛撫する。まどろみの中に沈んだ相手はそれでも小さな反応を何度も繰り返し、時々は呻き声を上げながらベッドのシーツを手で握り締めていた。片手で肩の形を確認しつつ、もう片方の手は下半身へと向かわせる。俺はがっちりとしていて尚且つ繊細さと柔らかさとを持ち合わせる肉体を味わいながら、この動けなくなっている青年に差し出された稀有な運命とやらを憐みの中に感じていた。
「あ、うぅ……ん?」
 彼の中に入り込もうとすると相手はちょっと頭を持ち上げた。こちらを振り返り、訝しげな瞳で何かを探しているようだ。
「入れるぞ。大人しくしてろよ」
「入れ……?」
 本当に理解できていないのだろうか、相手は何度かまばたきするだけで逃げ出そうともしていない。以前は中に入れるとしかめっ面で睨みつけてきたのに、頭がやられるとそんなことさえ忘れてしまえるのだろうか。彼が阻止しないから俺は簡単に相手の中に入ることができた。多くの男によって押し広げられたそこはあっさりと俺を受け入れ、何の障害もなく根元まで埋めることに成功する。
「おい、ちょっと腰上げろよ」
 身体を起こして相手の腰を上げさせた。ちょうどいい姿勢になったところで俺は彼を突き始める。
 もう何度目かの性交だったが、彼の身体を真剣に味わおうと思ったのは今回が初めてで、だから俺はこの白い身体が過去に抱いた誰よりも心地いい肉体だと気付くことができた。もともとの身体がよく出来ていたのか、それとも成長期に大人たちによって弄ばれた結果なのかは分からないが、余計な感情を視野に入れないとすると彼の身体は最高の出来と言って良いかもしれないのだろう。白い肢体の適度な細さも、肌に垂れる美しい銀髪も、程よい硬さの筋肉も、苛めやすい性格に加算されて至高のものに近付いている。だが最も彼を性の奴隷へと陥れた原因は、他でもないあの組織という環境そのものだったのだろう。いや、それ以前に彼があの人に拾われたことがいけなかったのかもしれない。世の中に本当に悪い人間はいないと言うが、この場合はどうしたってあの人が――クトダム様がロイをおかしくした諸悪の根源なのではないだろうか。
「はっ、んうっ!」
 後ろから突いていると彼は小さく声を漏らしていたが、ふとひときわ大きな声が俺の耳まで届いてきた。彼に触れている掌がじわりとした汗で湿っていたが、どうやらそれは相手の汗だったらしい。呼吸を整える為に大きく息を吐き出し、そして吸い込む様は見下ろしているだけでも絶景だった。俺の支配下にある彼の姿が何よりも優越感へ導いてくれる。
「あ……もっとして」
「――何をして欲しいって?」
 彼は顔だけで振り返り、俺の目を眩しそうに見てくる。
「つ、突いて……気持ち、いいから」
「……」
 酒は気分を高揚させるものだ。しかし感情と正反対のものを引き出したり、嘘を連ねさせる効果があるとは思えない。だとすれば、彼が普段から感じていた性交渉に対する感情とは一体何なのか。先程の消え入りそうな言葉が彼の本音だったなら――いいや、おそらくは。
「お前さ、セックス、好きか?」
「う、ん……好き」
「どこが好きなんだ?」
「だって、気持ちよくなれる」
 そうだ。これは、心と身体とがばらばらになっているということなのだろう。身体では性に対する欲望を抱いているが、過去に受けた苦痛が精神を支配して心だけが極度に性交渉を拒否している。その強い否定は一種の思い込みの類でもあるが、あまりにもそれが強固である為に、身体的な快楽を得ても悦びを感じることができないか、或いは快楽自体が脳の信号によりかき消されてしまうのだろう。彼にとってセックスとは犯す又は犯されるということであり、愛を確かめ合う行為だと認識はできても納得することができないんだ。しかし酒が入った頭ではどうやら精神は眠りについているようで、だから目が覚めている時では決して言わないような台詞を軽々しく吐き出したのだろう。そしてそれが本音だとして、俺はこの子に対し何をすればいいんだろう?
 体勢を変えようと身体を動かす。一度彼の中から出て、ほんのりと赤くなっている相手の身体を仰向けに変えて起き上がらせた。
「そこの壁に背中付けてろ。それで、脚を開け」
 相手は言われた通りにした。俺を受け入れる体勢になり、にわかに潤んだ目でこちらを見上げてくる。そんな相手の中に俺はもう一度入り込んだ。快楽と苦痛とで歪んだ顔と吐息が目の前まで迫っていた。
 すっかり緩くなった彼の内部は心地いい温度で俺を迎えてくれている。入口付近を擦るように引き抜き、再び中へ貫くと局所的な快感が脳まで上り詰めてきた。壁に背を付けた相手は何も抵抗しないままで、その態度が俺の中のサディスティックな血を目覚めさせる手伝いをする。自分でも気付かないうちに俺は少し乱暴になっていた。両手に相手を脅す為の力を込め、彼を突くたびに壁に打ち付けられた彼の背が騒音を奏でていた。
「おく……」
「ああ? 何だって?」
「んっ、うう――」
 片手で腰を押さえ付け、もう一方の手は相手の肩に置く。まるで磔にでもされたかのような彼は何か言いたげに声を漏らしていた。しかし肝心な言葉がなかなか出てこなくてじれったい。
「言いたいことがあるのならはっきり言え」
「もっと奥じゃなきゃ、いや……奥の方が、きもちいい」
「……へえ」
 仕方がないので俺は彼の注文に従うことにした。相手の肩を胸元へと引き寄せ、彼の全身をしっかりと受け止める。
 出来る限り彼の奥へと自身をねじ込み、俺は相手の白い肌が赤く染まっている様を肩の上から見下ろしていた。今の二人はまるで仲の良い恋人同士がきつく抱き合っているかのような姿勢で留まっている。俺は彼が嫌いではなかった。単なるサドの対象、苛められれば誰でもよくて、ちょうどいい相手として彼を選んだだけだった。だが彼をあの小さな子供が助け、愛したことにより、俺は彼に少し執拗になっていたのかもしれない。だからあの子に優しくされた時、表面では疑いながらもその愛に酔いしれ、あの子を彼から奪った快楽に転がり落ちたのかもしれなかった。それは容易だった。驚くほど容易だった! 俺はあの子に愛されたことが嬉しかっただけじゃない、彼より優位な待遇を受けたことがただただ嬉しかっただけだったんだ。だとすれば、あの子じゃなくてもよかったのか? 俺に優しくしてくれて、俺のことを一番に気遣ってくれる人なら、俺よりもラザーラスを愛しているあの子じゃなくても満足できるとでも言うのだろうか。
「……」
 そっと相手を抱き締める。火照った身体は愛を求め、性別など関係なしに純粋な愛情を彼は多くの人から得ようとしていた。今彼を愛しているのは俺であり、そして俺はまた同じ時刻に、自分自身の求める愛の姿が見えてきたような気がしていたんだ。
「ラザーラス」
「ん……?」
 肩に埋もれていた相手の顔を引き離し、真正面から何度目かのキスを贈る。
 鼻と口とから漏れ出る息がくすぐったかった。
「もしも、もしもだけどさ。俺がこれから心を入れ替えて、人の為に何かが出来るような人間になれば――こんな俺でも、愛してくれる人が現れるだろうか」
 相手はまばたきをした。目を大きく開き、何を言っているのか分かっていないような表情をしている。
「うん」
 頷いた。大きく、一つだけ。
 おそらく彼の中で俺の言葉に対する理解は充分に行われていないだろう。明日になれば夢から覚め、俺の言ったことなど全て記憶の奥底へ封じ込めてしまうのだろう。そうだとしても、俺は嬉しかった。彼に認められたことが嬉しかったわけではない。何の条件もなしに頷いてくれることが、嬉しかったんだ。
「そうか。はは……」
 生命がすぐ傍にあると、感情的になっていけないと思う。
 溢れてきた涙を強引に拭い、俺は精一杯普通でいられるよう努めようとした。もう一度彼の身体をぎゅっと抱き締める。両手を背中に回し、ゆっくりとさすりながら、俺はこの手の中にある鼓動を愛しく感じていた。
「変わったな。あんたも、俺も」
「エダ?」
「どうせ明日になれば忘れてるんだ。だから、特別に今夜は優しくしてやるよ」
「あ――」
 彼の身体をベッドの上に横たわらせ、俺は自身の良心に戸惑っていたのかもしれない。それでもそいつを否定したくはなかったから、何のしがらみもない今宵の交わりを愉しみとし、彼と共にいい夢でも見ようと願うことにした。彼が自分の口で秘められた感情を吐き出したのだから構わないんだ。キスやセックスを畏怖の対象とするのではなく、生物らしい性欲を剥き出しにした今の彼に付き合ってやればいい。一時的でも今夜限りでも、俺との行為が何かを改善する先駆けとなる可能性だってある。そして汚れを知らぬ人々の元へ帰ることができる日が近づいてくるのなら、この綺麗な魂が身体と共に存在する手伝いを俺は決して惜しまないだろう。
 彼を救うと言っていた少年は、今はもうここにいない。
 大切な宝物を扱うように、俺は出来る限り優しく彼を愛した。彼もまた俺の愛を歪みなく受け入れてくれ、その双眸が深い眠りに落ちるまで、俺は彼を「慈愛」と名付けられたもので包み込み続けていた。

 

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 無音の暗闇に包まれた青年は静かに呼吸を繰り返している。その意識は既に夢の中へと誘導され、抜け殻となった身体だけが俺の隣に沈んでいた。
「樹君」
 月光に照らされている銀髪を眺めながら、俺はここにはない小さな生命の名を呼ぶ。
「目覚めさせてくれてありがとう」
 生き返らせてくれて、ありがとう。
 君に出会わなければ俺は破滅していただろう。君と言葉を交わさなければ、人を愛する意味など知ることもなかっただろう。
 今宵の慈愛を見出せたのも、ラザーラスの悲劇に気が付いたのも、全て君が俺をまっすぐ見てくれたからだ。
 本当は君と一緒にいたかったけれど、君がこの子を守ってくれるのなら、俺はそれで構わないと思う。
 どうかこの憐れな生命を救済してやって欲しい。かつて俺を目覚めさせ、生き返らせてくれたその光で、この子を幸福へと導いてやって欲しい。
 その為に俺にできることって何だろう。
 窓の外から見える月は眩しいほどに輝いている。俺は誰かに見つけられたような心地で、ただひたすらに溢れてくる感謝の気持ちをラザーラスの横顔の上に注ぎ続けていた。

 

 

 

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