月のない夜に

 

 

番外編
 〜これまでとこれから〜

 

 足の裏に粉々になった何かがくっついている。
 静まり返った空間は広々としていて、数日前には多くの人々が暮らしていたなど想像できぬほどそこは廃れてしまっていた。俺はゆっくりと前へ進み、誰もいなくなった組織の壁を睨み付ける。
 ラザーラスからの話によると、彼の友人である警察の手によりこの組織は壊滅したらしい。警察はこの地で暮らす人間を捕らえ、しかし一部は逃げ出し、今は誰一人として残っていない。後に本格的な捜査が行われるそうだが、俺の目の前にある空間は誰にも触れられていない、まだ真新しい生々しさが漂うものだった。そこへ入り込み、ぐるりと周囲を見回してみる。
 自分が今まで生きてきた世界だった。あの男によって創造された、皆が縋り付き無心のまま堕落へと突き落とされる場所。
 憎み続けてきたはずなのに、いざなくなるとなるとなぜこうも淋しさが積もるのだろう。ようやく解放された魂はどこへ行けばいいのか、あの空へ飛び立つ為の羽は一体どこにあるというのか?
 黒い廊下を歩いていると一つの部屋に辿り着いた。窓のあるその部屋はかつてロイが使っていた部屋に他ならない。そこの主人は新たな道を見つけ旅立ってしまった。俺は彼が羨ましくて仕方がなかったのかもしれない。
 更に歩くとヨウトの部屋の前に着く。そっと扉を開くと、中はがらんとして物など一つも落ちていなかった。彼は何も必要としなかったのに、子供であるが故に繋がりを求めていた。その感情が彼とロイを引き寄せていた。それを眺めても俺は特に何も感じなかった。
 奥の方まで歩いて行くと、扉が開け放たれたままのエダの部屋に辿り着いた。ロイやヨウトの部屋よりも広いそこには立派なソファがあり、机の上には大量の紙が散在している。エダの存在は俺にとって救いとなっていたのか、それとも自身を追い詰める為の材料となっていたのか、そんなことは自分では分からない。だが彼の行動が今回の事件を巻き起こしたことは事実で、だとすれば俺は彼に感謝しなければならないのかもしれない。
 エダの部屋を通り過ぎ、広い空間の隅に追いやられた場所にある扉を開く。
 見慣れた空間が広がっていた。俺にとって安息の地とでも呼ぶべきだろうか、自分の部屋に帰ってくるとその空気に溶け込んでしまいそうになる。奥へと歩むと俺がずっと集めていた武器が綺麗に整頓されていた。あれから誰にも触られていないようで安心し、それを一つずつ手中に収める。
 出かける前に幸助に貰った袋を取り出し、大切な物を全てその中へ押し込めていった。俺にはこれがなければならなかった。しかしこれだけでは足りなかった。どれほど多くの武器を用意してもあいつは何度も甦り、俺を殺しにやって来るから。壁に掛けてある槍や斧、棚の中にしまってあるナイフや銃器――そのどれもが俺に力を貸してくれる。殺されないようにする為には、それに抵抗できるほどの力がなければならないんだ。
 全ての武器を袋に収めると安心できた。袋は一つでは足りず、結局幸助から借りた全ての袋を使い切ってしまったが、それで俺はようやく心を落ち着かせることができた。
 用事は済んだからもう未練など存在しないが、ふと思い立って奥の部屋へ向かうことにした。すっかり重くなった両腕を引きずるように歩き、組織の奥底へと足を向ける。
 扉の前で袋を置き、部屋の中へと入っていった。
 懐かしい部屋だがそこは俺を歓迎してくれない。きっちりと並べられた家具は設計図通りの位置に設置され、机の上に乗っている紙やペンまでもが定位置を持っている。ここの主であるティナアさんはもういない。俺が彼女を駄目にしてしまったから、彼女はもう俺の元に戻ることはないのだろう。
 彼女に同情したことは事実だが、俺は彼女に縋っていた。彼女に自分を救って欲しかった。だから必要以上に近付き、二人で前を向こうと何度も話した。最初はうまくいっていた、だが俺は無知な子供にすぎなかった。俺の無責任さが彼女を過去に縛り付ける結果となってしまったのだ。
 ティナアさんの部屋にあるもう一つの扉へと近付く。自分から近付くことが厭わしくて仕方がなかった扉を開き、暗闇に閉ざされていた部屋へと足を踏み入れた。
 そこは晴れていた。光が満ち溢れ、見たこともない光景が広がっていた。
 詳細はラザーラスから聞き知っていたが、自分の目で眺めるとそれはやはり異常であり哀しかった。彼の過去に何があったかなど知る由もないが、俺やロイを執拗に誘っていた彼は男というものを求めていたらしい。その根源が痛みだったのか悦びだったのかは分からない。彼はいつだって微笑み、また仮面で素顔を隠していたから本音など一度だって聞いたことがなかったんだ。救って欲しいならそう叫んでいればよかったはず。それができなかった俺と同じで、彼もまた閉ざされた空間に押し込められていたのかもしれない。
 彼の創造した桃源郷を後にし、俺は俺を待つ友人の元へと帰った。

 

 +++++

 

「おかえり」
 質素なアパートは狭苦しく、人が二人入るだけで窮屈な印象しか与えない。それでも笑い続ける幸助は俺の両手に収められた袋を見て驚いた表情を作っていた。
「清明の必要な物って、そんなにたくさんあったのか」
「場所を借りる」
 彼を押しのけて奥の部屋へと突き進む。簡易ベッドの隣にある机を動かし、新たに作られたスペースに武器を押し込めた四つの袋を置いた。本来ならきちんと並べて管理したいが、部屋を借りている身でそんなことができるわけがなかった。
「それ、何が入ってるんだ?」
 後ろからついてきていた幸助が横から袋を開く。剣や鎌の刃が煌めき、それを目の当たりにした彼は瞳孔を拡大させていた。
「これってまさか、剣――」
「俺にはこれが必要なんだ、俺のことは放っておいてくれ」
 袋を閉じる。彼の驚きが理解できないわけではない。しかし俺にはどうしても必要な物だった。こればかりは決して譲れなかったのだ。
 俺の言葉を聞いて幸助は大人しくなった。俺を叱ることもなく、部屋から追い出すわけでもない。ふと何かに気付いたかのように立ち上がり、玄関の方へと引っ込んでいった。やがて戻ってきた彼の手には二つのコップが握られていた。
 小さな机の上にそれらを置き、相手は一つを手に取って中に入っている液体を喉の奥に流し込む。
「ウーロン茶。飲めよ」
 言われた通りに俺もそれを飲んだ。つんとした痛さがある冷たさだった。まだ春は訪れていない。
「清明、あのさ……」
 彼の眼がこちらを向いていない。それなのに彼は俺の名を呼ぶ。
「まだ義理のお父さんのこと、恨んでるんだよな」
 俺の手が机を叩いた。驚いたコップが飛び上がり、だけど何事もなかったかのように机の上に着地する。何より驚いたのは俺自身だった。
「あいつは俺を殺しに来るんだ」
「何を言っているんだ、彼はもう死んだだろ?」
「死んでなんかない! 奴は何度でも甦るんだ、俺を殺すために何度でも、何度でも! そのたびに俺は奴を殺さなければならない。殺さなきゃ俺が殺されるから!」
「まさかその為にそれを――」
 幸助は分かっていない。分からない奴にいくら説明しても無意味だ。所詮自分の身は自分で守るしかないということか。誰かに助けを求めたところで、結局は自分でしか解決できなかったということか――。
「清明、俺はもうお前の意見を跳ね飛ばしたりしない。お前がそう言うのなら、そうだと信じることを努力しよう。だから俺には正直でいてくれるか」
「いいさ」
 彼と目が合った。遠い過去に存在していた瞳だった。俺の姿をまっすぐ見つめる眼。その奥底に潜む光は計り知れなくて恐ろしい。
「じゃあ聞かせてくれ。ラザーラス君から聞いたんだ、お前が父親になっていたこと、そしてあの子を虐待していたこと」
「何を聞きたい」
「お前の本当の気持ちを聞きたいんだよ! 娘のことは愛していたのか?」
「愛していたさ」
「それじゃ、なぜラザーラス君を虐待なんて」
「お前さ、男に襲われた経験なんてないんだろ?」
 そっと彼の肩に手を乗せる。彼は目を丸くしてこちらを見てきた。その顔を俺は知っている。
「……元は唆されたから、だった。あの組織の頂点であるクトダムという男にロイ――ラザーラスを紹介され、元々彼のことは知っていたが、それでもあの男が彼を抱くと心がすっとすると言っていたから、黒いもやもやを消したかった俺は簡単に罠にはまってしまった。彼は非常に都合のいい反応をしてくれたから、俺は彼を手放せなくなった」
 相手の肩から手を離し、コップのつるつるした表面を指でなぞる。くるりと一回転させると水面がいびつに動いた。
「都合のいい反応って、可哀想とか思わなかったのか――」
「幸助」
 彼の名を呼ぶと相手はすぐに大人しくなる。従順な召使いのように俺の言葉を待ち、それが放たれる瞬間を嬉々として待ち続けるのだ。その顔を俺は彼じゃない人の上に見ていた気がする。ただそれが誰だったかということはどうしても思い出すことができない。
「お前が思っている以上に、俺は頭がやられているんだ」
 正直でいようと思っていた。約束したように、彼には赤裸々な姿を見せようと思っていたんだ。彼は俺の言葉の意味がよく分からなかったのか、ぴくりとも動かなくなってしまう。ただその表情が徐々に崩れ始め、嫌悪とも戸惑いともとれぬ感情が相手の細胞一つ一つに浮き彫りになってきた。
「分かってるよ」
「分かっていない」
「いいや、知ってるんだ! お前がどれほどの苦痛を受けてきたかってことは」
「苦痛だけじゃない。快楽だって同等だ」
 彼は何も分かっていない。俺の経験を知っているだけで、それを理解したわけではない。いや、理解することは可能だろう。だがそれだけでは分からないものがあることを彼は知らない。
 そう、彼は何も分かっていないんだ。
 身体を彼の方へ向け、よく見えるようになった相手を床の上に押し倒す。肩と背中を打ちつけて痛かっただろう。驚いている顔に付いている唇に接吻する。混乱と恐怖とでその味など分からなかっただろう。
「清明、やめ――」
「お前は知らないだろう」
 彼の身体を押さえつけ、下半身に手を伸ばす。そこを触られた彼はどうにかして逃げ出そうと身体をよじる。それを上から体重で押し潰した俺のことは恐ろしい怪物のように見えただろう。彼のベルトを外し、ズボンの中に手を侵入させる。そうやって直接彼のものに触れたなら、いよいよ固まり巨大化した恐怖が身体を強張らせてしまっただろう。
 身体じゅうが震えていた。中心から指先までが震え、それを収まらせる為に俺は首を横に振る。
「怖かったか?」
「え」
 ズボンから手を引き出し、彼の身体から離れた。やがて起き上がった相手は呆気にとられたような表情をしている。
「怖かったかと聞いているんだ」
「……ちょっとだけ」
「それを俺は中学生の頃に感じていたんだ」
 幸助は口を閉ざして俺の顔を見ていた。昔のあどけない彼の顔を思い出す。
「今まで心配してくれていて、ありがとう」
 感情があちこちに奔走する俺では本音がどこにあるのかなど分からない。だけど彼に伝えたこの言葉だけは、誰にも否定されない正直さであって欲しいと願っていた。
「友達なんだから当たり前だろ」
 そう言って彼は俺の肩に手を置き、そのままそこへ顔をうずめてしまった。

 

 

 

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