月のない夜に

 

 

番外編
 〜破壊〜

 

「……真?」
 機械越しに聞く声は懐かしいものではなかった。まだよく知らない相手の声、だけどそれを発している人間を私はおそらく知っている。
「どうしたの、ロイ。あんたから電話を掛けてくるなんて珍しい」
「お前に話しておきたいことがあるんだ」
「そっちに行こうか」
「いいや、時間がある時にお前の家に行く」
 静まり返った家の中はどんな暗闇よりも不気味だ。そこで見えない相手と話をすることもまた恐ろしい。
「時間なら……今あるよ」
 床の上に座り込み、私は何も映さない壁だけを見つめる。
「だったら今から向かう」
 話が苦手な相手はそこでぷつりと電話を切った。後に残るのは空虚だけ。

 

 

 ロイはすぐにやって来た。彼の行動を邪魔する人間はもういないのだ。私は彼を家に迎え入れ、自分の部屋へと案内する。
「何か飲む」
「いや」
 ぱたりと部屋の扉を閉める。空気が出口を求めそうだったから窓を開けておいた。外から清々しい風が入り込んでくる。カーテンがなびいて部屋の中に新しい音が生まれていた。
「それで話って何」
「清明に会った」
 私の身体が強張った。
「やっぱりあんたもう帰って」
「ちゃんと話を聞け、真」
「話なら聞いたよ。あいつが父さんを殺したんでしょう」
 相手は反論しない。少しのあいだ口をつぐみ、だけどその瞳に宿った光は見たことのないものだった。誰が彼をここまで変えてしまったのか。
 想像ならできる。
「清明が慶一郎を殺したのは、身を守る為だったんだ」
「それで?」
「一から説明する。彼はお前を守る為に必死だった。慶一郎はお前の身体を狙っていて、代わりに清明が強姦されていた」
 家庭を知らない者が私たちの話をする。私はそれを信じられるほど甘くはなかった。だって私はここで育ったのだから。
「それで」
「ずっと襲われてたんだ、断れば真を襲ってやると脅されて。強要されることのつらさなら分かるだろ、彼は精神的にも追い詰められていって、それで」
「だから何なの。あんたはあいつに同情して、可哀想だから殺人だって許されるって言いたいの」
「そういうわけじゃ」
「あんたが言ってることはそうとしか聞こえない」
 知らない事実を知ることが恐ろしかった。それを私は認められないと分かっていたから、ずっと知らないままでいたかったのに。
 彼が私の世界を壊す。
「真」
「私にとってあいつは兄じゃない。ただの人殺しなんだ」
 認めてしまえば私は崩壊する。だから否定するしかないんだ、どうか分かって。

 

 +++++

 

「だから言っただろう」
 目の前にある黒い瞳は何も映していない。世界中にあるたくさんの美しいものを知っているはずなのに、彼はそれを見ようとしないから。
「あの子は同情なんかしないよ。もしそうしてしまったら、あの子の世界は壊されてしまうから」
「……どうしてそんなことが分かるんだよ」
 彼の手が肩の上に乗せられている。俺はそれに縋りつくように呼吸をする。彼の脈拍だけが俺の息を許しているのだから。
「親ってのは子供のことを理解できないんだ。だけど、兄妹なら分かるものがある」
「本当に?」
「本当さ」
 嘘のようだ。彼はいつだって嘘を言う。ただそれが嘘だということに彼自身は気付いていない。だから周囲の人間は彼の言葉が真実だと理解する。
 くいと身体を寄せられ、広い肩幅に押し潰される。
「あんたのこと、これからも清明って呼んでもいい?」
 額に軽くキスされた。それが肯定なのか否定なのか、分からない。
「答えろよ」
「好きに呼べばいいさ、ラザーラス」
 今度は唇にキスされる。あの頃味わっていたものとは違う、薄っぺらくて味気のない接吻だった。だけどそれがとても心地いい。
「こんな場所で、こんなことしてていいのかよ」
「幸助は夜にならなきゃ帰ってこないさ」
「ふん、そうかよ」
 俺はそっぽを向くが彼の瞳は動かない。哀しみに心を奪われた人間の瞳だった。俺はそれをよく知っている。今の彼のことは誰よりも理解できると思い込んでいるから。
 彼を愛していたい。恋人として愛するんじゃなくて、一人の人間として愛したい。同情したからそうするんじゃない。傷つけられたから仕返しをするわけでもない。これからの彼と同じ空の下で生きたいから、愛していたいんだ。
「もう一回」
 ねだると清明はすぐに応じてくれた。別の角度からもたらされたキスを受け止め、俺の心はひどく揺さぶられる。
「淋しくないの」
「うん、何が?」
「真に認めてもらえなかったこと。つらい思いをしてきたのはあんたの方だったのに」
「……あの子に罪はないよ」
 彼の前では皆が子供のようだった。俺だって子供にしか見られていないだろう。だけどそれが色の付けられたガラスの壁ということは知っている。優しい清明は幾重もの壁を自ら作り上げてしまったんだ。
「その代わりお前がいてくれる。お前と、樹君と、ついでにエダやヨウトが俺のことを知ってくれている。俺はそれだけでもう充分救われたんだよ」
「――幸助は?」
「彼は俺のことを心配する必要はない。彼は彼の人生を歩むべきだ、俺に囚われていてはいけない。そう思っているんだけど……あいつ、なかなかそれが出来ないらしいな」
 儚げな顔が微笑みで染められた。それはとても美しい。俺は彼の表情の中に哀しみ以外のものが存在することを知らなかった。いいや、怒りで隠された哀しみにさえ気付いていなかったことを忘れてはならないんだ。
「なあ、また真に会って聞いてみてもいい?」
「何を聞くんだ」
「清明のことをどう思ってるか。時間が経てば、考えも変わってるかもしれない」
 ぎゅっと彼の服を手で掴む。背中に相手の腕が回され、彼の体温の中に包み込まれた。
「どうしてお前がそんなに気にするんだ。これはお前には関係のないことなのに」
「俺は真に分かって欲しいんだよ、このままじゃあんたが悪者になっちまうから、それはどうしても嫌なんだ! もうあんたにも真にも傷ついて欲しくない! 昔のことは知らないけど、そりゃ俺は何も知らないけど! それでもあんたたちにはもう一度『兄妹』に戻って欲しいんだ!」
 彼の瞳がかすかに揺れた。その瞬間を見逃さなかった。俺の言葉が彼の心に直接突き刺さった証拠だ。
「もう戻ることはできないよ」
 ふいと彼は顔を窓の外へと向ける。その横顔はこの世のものとは思えぬほど美しく、だから俺は息を殺された。
「一度壊れたものは、二度と元には戻らないのだから」
 涙が溢れる。
 彼にしがみついた。顔をそむけたままの彼に体重を掛けた。張り裂けそうな痛みが胸の中を行き来する。零れ落ちそうになる涙を必死になってこらえながら、俺は彼にしがみつき続けていた。

 

 +++++

 

「は、あ――」
 汗で湿った身体が冷たくなる。そのすぐ後に落ちてくるのは生命によってもたらされた温もりだ。
「清明? 平気か」
「ん――」
 成長した彼の身体は青年のものになっていたが、それでも特有の妖艶さは失っていなかった。汚い俺は彼を利用する。内にある痛みを抑え込む為に、何も知らなかった彼を都合の良い人間に仕立て上げてしまった。
 俺の内部で彼が息をしている。その方法を教えたのは他でもない自分だった。
「痛かったら言えよ」
「……苦しい」
 白いベッドに爪を立てる。相手に押し潰された俺は呼吸の自由さえ奪われた人形だ。それなのに彼は俺を愛すると言う。
「やめた方がいいんじゃないのか」
 愛して欲しい。子供としてじゃなくて、親としてじゃなくて、男としてじゃなくて――人間として愛して欲しかった。ずっとずっと愛して欲しくてぼくは我慢を繰り返していたんだ!
「続けて、ラザーラス」
 素直になれない俺は決して望みを口にはしない。相手は黙り込んで続きを始めた。それを一身に受けるしかない俺は彼の為の道具となる。
「ふ、はあ……」
 息がうまくできなくて苦しい。
 この苦しみをぼくは知っている。ぼくは毎晩おそろしい夢を見る。それから逃げる為にロイを利用した。力を手に入れた俺は大人として彼の前に君臨していた。そして彼を襲う。何度も襲う。彼の精神が壊れてしまうように、二度と元に戻らないくらいずたずたになってしまうように、何度も何度も彼を底へと突き落とす。彼は思惑通りに落ちてくれた。だけどそのすぐ後に地上に辿り着いた。彼一人が上に行くのに、俺は地の底で取り残される。それがこわくて仕方がないから再び彼を底へ突き落とすんだ。
 彼が俺の前から消えた時、ぼくはいよいよ全てに見放されたのだと感じた。
「ら、ラザーラス……」
「何?」
 俺の声を聞いた相手は動作を止めて待つ姿勢になる。最も見ていたかった彼の顔は目の前にあり、美しい銀髪は俺の肌の上に垂れていた。
「いつかは、俺も――こんなことしなくても、普通に、生きていられるようになるかな」
「大丈夫」
 そっと彼の手が頬に乗せられる。
「一度壊れてしまって、元に戻らなくなったのなら……新しく作り直せばいいんだよ」
 彼は知っていた。おそらく経験したのだろう。だけど俺だって知っていたはずだ。創造は破壊の後にしか生まれないのだから。
「その時が来るまでは、俺も一緒に悩むから。痛いことも、汚いことも、何もかも全部教えて欲しい。そして一緒に新しく生きよう」
「……うん」
 身体を起こし、彼の持つ小さな柱にしがみついた。相手は何も言わず俺を受け止めてくれる。たとえこれが甘えだとしても、俺はこの関係を手放したくなかった。アニスの遺してくれた光を直に感じていたかった。
「大丈夫」
 同じ言葉が降ってくる。
 彼のその言葉を聞くと心が安らいだ。おそろしいもので埋め尽くされていた精神が安定を取り戻したようだ。だけどまだ身体は支えを欲していて、俺は彼から離れることができなくなってしまったのだ。
 いつか生まれるその時まで。

 

 

 

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