月のない夜に

 

 

番外編
 〜無知と無力〜

 

 私は愛というものを知らない。なぜなら誰も教えてくれなかったから。ただ密かに感じるものはあった。それを愛と呼んでいいかどうかは分からないけれど、もしかしたら本当にそれがそうだったのかもしれない。
 ただそれが事実だとして、私にはもう何も残されていない。だけど私は後悔していない。これが私の選択だとすれば、私は自由に生きたと言うことが可能だから。
「遠い場所だ、誰も追いかけてこないほど遠い場所、そこまで逃げれば大丈夫だから。どうか僕を信じていて」
 私を心配してくれる人がいる。いつだって私に優しくしてくれる人。私は彼に手を握られ、彼の口から放たれる言葉によりいろんな所へ旅立った。彼が作り出す言霊に思いを馳せ、うっとりするような時間を共にする。彼は私の不自由さを知り嘆いていた。そして私を外に連れ出そうと何度も誘われた。
 私はそれを一つ一つ否定する。彼の手を握り返しながら、それでも決して頷かない。
「だって――私がいなくなったら、お父さんは独りぼっちになっちゃうから」
 私には共に行くことができない理由があった。それを置き去りにしてまで自分の幸福を選ぶ権利などなかっただろう。
「アニス」
 大きな身体に抱き締められる。私と同じ黒い髪は、あの人とは釣り合わない色合いをしている。
「愛しているよ」
 父親という存在であるという以前に、不安定な彼は私の心をひどく惹きつけて離さなかった。だから私はお父さんを見捨てたくなかった。何が彼を苦しめているのかは分からない、どうしていつも悲しそうな顔をしているのか、時々後ろからついてくる男の人をなぜ憎んでいるのか、身動きが出来ない無力な私には何一つとして理解できなかった。
 その一方で私はロイもまた苦しんでいることを知っていた。私を助けようと身を挺し、声を張り上げて抵抗を繰り返す少年の痛みも確かに感じていた。彼もお父さんと同じで私には何も話そうとせず、一人きりで全てを解決しようと心を内側に向けている。
「もうあの子と会ってはいけないよ」
 私の髪を撫でながらお父さんはそう言っていた。私は「どうして」と聞くことができなかった。たった一言、それすら出てこなかったんだ。私にとってはお父さんだけが私の世界だったから、それを壊すことが怖かったのかもしれない。
 お父さんと約束をしながら私はロイと会っていた。彼の方から会いに来てくれて、私は嬉しかったから話をしていた。ロイはいろんな話をしてくれる。外の世界のことをたくさん教えてくれた。それはとても魅力的で、だけどそこへ行くことは禁じられていた。ロイは絶えず私をそこへ連れ出そうとしてくれた。それでも私は首を横に振ることしかできない。
 ロイに会うとお父さんに怒られた。大声で怒鳴られて、顔を殴られて、ぐちゃぐちゃになった彼の感情をまっすぐぶつけられた。私はそれが怖かった。だけどそれ以上に悲しかった。私の知らない何かに脅えて幾度も心を乱されているお父さんの姿を見たくなかったんだ。
 子供である私は無力で、何がお父さんを追い詰めているのかさえ知ることができない。それが悔しくて仕方がないのに、小さな館に縛られた身体は私の言うことを聞いてくれなかった。崩れそうになる私をロイが支えてくれていた。私は本当は彼に向かって大声で叫びたかった。
 二人の人間を一度に助けることはできないけれど、私にはたった一人すら助けることができなかったんだ。だったらせめて私のせいで誰かが傷付くことがないようにしようと考えた。お父さんは上の人に命令されて私を殺さなければならないと言った。それに逆らえばお父さんが傷付いてしまうことは明白だった。その為の命なら、私は何の躊躇いもなく差し出すことができる。
 誰かが幸福になる為には、必ず何かが犠牲にならなければならないのだから。
 初めて死を意識した時、それはあまりにも恐ろしく感じられなかった。その時私の中にあったのは「母の元へ還っていく」という感覚だけだった。私を引き止めるものは何もなかった。私が私のままで消えゆくのなら、それほど安心できることはなかったから。
 ただロイはそれで納得しなかった。私の手を握る彼はどうにか私を止めようと必死になっていた。
 彼は手を放そうとしない。握り締めた手に力を込める。私を放さないよう強い言葉をぶつけてくる。私を根底から揺さぶるような力のある言葉だけを選択し、ぶつけてくる。
 その時私は叫びたかった。彼に向かって叫び出したかった。だけど私の気持ちを彼にぶつけたなら、私は彼を傷つけることとなってしまう。私は彼を傷つけたくなかった、それが甘い考えということも分かっている、だけどこんなに壊れそうで消えそうな生命を前にして、どうしてその魂を絶望の淵へ叩き落とすことができるだろう?
 私は自ら手を離した。私を「幸福」へ導く手を離し、そして母の元へ還るのだ。
「せめてあなたの力で、壊して」
 最後の願いを託し、私は目を閉じる。
 いつか彼が彼を救ってくれる人と出会うことを夢見ながら――

 

 +++++

 

 アニスが清明を助けたいと願っていたことは知っていた。ただ俺はその時無知だったから理解できなくて、彼女を死に追いやった清明のことを恨んでいたのだろう。
「愛している」
 黒いシャツにしがみつき、俺は彼の顔を見上げる。
 二人を包み込む本の群れが過去を知っていた。この場に居たくないのだろう、清明は複雑そうな顔で俺と目を合わせてくれなかった。
 なぜアニスが死ななければならなかったのか。いや、なぜ彼女は生まれなければならなかったのだろう。
 彼女が生まれたことで何が変わった? ティナアの感情か、ロイの気力か、それよりも大きく変わったのは、きっと清明の支配だった。
 清明にとってアニスは守るべき存在だった。何を犠牲にしてでも守らなければならなくて、だから自身の不幸と引き換えに彼女をあの人から守っていた。アニスもそれに感づいて、清明の為に心を痛めていた。僕はそれを知っている。ただ当時の僕にとってケキはアニスを虐める悪い奴で、アニスをケキから遠ざけることが彼女にとって真の幸福だと思っていた。だけど違った。僕は何も知らない子供だったんだ!
「愛してる、愛してるから」
 大きな身体を正面から押し、後退を繰り返した彼はやがて本棚に背中を付けた。逃げ場をなくした彼にキスをする。
 顔を離した時、清明は涙を流していた。やはり目を合わせてくれることはなく、さっと顔を横に向けてしまう。
 態度も言葉も感情もどこか似ている。僕と彼は同じ人間だったんじゃないかと思えるほどよく似ている。過去や境遇など関係ない、同じ瞳を持っていることが重要だったんだ。
 僕も彼もあの頃は、深い絶望の淵で彷徨っていた。二人ともあらぬ方向へ手を伸ばすが、誰も僕らの手を掴む者はなかった。だから俺は上を見上げ、声を上げた。外へ向かいかけた俺は下方へも手を伸ばし、闇の底で見つけた清明の手を掴んで引き上げた。
 大人だとか子供だとか、そんなことは関係なかった。深淵で見つけた光が俺だというのなら、俺は喜んで彼の元へ堕ちていこう。
 手を伸ばし、相手の涙を指で拭う。つま先立ちになり舌で涙を舐める。曲がりくねった黒髪に指を絡ませ、白い耳に歯形を残す。首筋に舌を這わせ、服の上から身体を触る。欲しいのはそれだけだ。お互いに歪ませ合った「愛」の姿が露呈していただけだった。
「ラザーラス、俺は、間違っていたんだろうか」
 彼が俺の手を握っていた。それはアニスの手とよく似ていた。
「間違いなんて初めからなかったんだ」
 彼が生まれたこと、アニスが生まれたこと、ティナアと出会ったこと、ロイと話をしたこと。それらは全て正解であり、また間違いでもあった。この世にあるものは何もかもが正解であり間違いでもあった。全てが正解なら正解なんてなくなるし、全てが間違いなら間違いは存在しなくなる。
「俺もあんたも生きていてよかったんだよ」
「アニスが死ぬことも、間違いじゃなかった?」
「そうなんだ。この世に正解も間違いもない。愛も憎しみもない。存在するのは、無知と無力だけだ」
 ずるりと彼の身体が崩れ落ちる。床の上に倒れるように座り込んだ彼はいつかの僕とそっくりだった。俺は彼の前でしゃがみ、相手をゆっくりと抱き締める。その震え方も僕がよく知っているものだった。
「許してくれるのなら、もう愛なんて要らない」
 彼の涙は止まらない。それを止める方法なんてきっと誰も知らない。
「俺は欲しいよ。許しより、愛の方が欲しい」
「愛なんて――」
「俺を愛してよ、清明」
 相手の手首を掴む。それを動かして俺の頬へと手をあてがわせる。そこに触れた彼は彼自身の意思で俺の頬を撫でた。お互いの傷跡が生々しく浮き彫りになっていた。
「う、う――ああっ!」
 倒れ込んできた相手を全身で受け止めた。彼は肩を震わせながら声を上げて泣いていた。小さな身体をぎゅっと抱き締め、俺は溢れそうになる涙をこらえる。唇が震えてうまく言葉が出せなかった。
 何が善かったかとか、何が悪かったかとか、そういうものは何一つ存在しない。そういった理屈なら分かっているけれど、それだけじゃどうしようもない感情があった。俺も清明もアニスも人間だから、どうしても納得できないものだって存在するんだ。
 だから誰かを責めてしまいそうになる。何かのせいにして楽になりたくなる。それを必死に我慢して、我慢して、我慢して――破裂しそうな感情を抑え込み、零れ落ちそうな怒りをどうにかして鎮め、その後に付け加えた表情にはどんな価値があるだろう? 内部に溜まった負の感情を一体どうすれば、僕らはうまく生きていくことができるのだろう?
 泣いている彼を見ていると分からなくなる。全身が震えて、どうすることもできなくなる。
「清明。約束しよう」
 お互いを縛るものがあればいいのかもしれない。それは気休めだ、分かっているのにどうして縋りたくなる?
「たとえ何があったとしても、『恨み』は表に出さないようにしよう」
 彼は頷いた。泣きながら承諾した。
 僕と彼はよく似ている。まるで生まれる前は同じ存在だったかのように、二人はそっくりだった。
 アニスから受け取った十字架は彼女のものじゃなかったということか――。

 

 

 

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