月のない夜に

 

 

番外編
 〜不器用な人〜

 

「エダさん、どこ行くの!」
 大声で呼び止められ、俺は思わず立ち止まってしまった。
 後ろに顔を向けると怒った表情のヨウトがいる。朝から何が気に食わないのか知らないが、このまま無視しようにも尾行されそうな勢いだったのでとりあえず応じてやることにした。
「散歩に行くだけだよ」
「そうやっていつもエダさんは僕を家の中に押し込めておくんだ、僕だってたまにはお出かけしたいのに!」
「お前が出かける所なんてないだろ」
「それはエダさんだって同じじゃない!」
 甲高い声が目の前でキンキン響いて鬱陶しい。今の相手には何を言っても神経を逆撫でするだけだろう。しかしそれでは何の解決にもならないので、少しばかり相手の心に針を差し込んでやろうと思った。
「まあ、こういうことさ。俺はお前をこの家から出したくないんだ」
 一歩踏み出して相手との距離を詰める。片手で彼のやわらかい頬に触れ、愛しいもののように優しげな手つきでゆっくりと撫でた。
「お前は俺に従わなければならない。俺以外の人間の言うことを聞いてはならない。なぜなら俺がお前を所有しているからだ」
「そんなこと、いつ決めたのさ! 僕はエダさんのものじゃない――」
「いいや、お前は俺のものだ」
 ぐいと顔を近付けて小さな唇にキスをする。彼の奥底まで噛み切る為に乱暴に、自身の唾液を細胞に染み込ませる為に舌を滑り込ませていく。相手は驚いた様子で身体を離そうとした。それを力ずくで抑え込み、床の上に押し倒す。
「エダさんのケダモノ!」
 唇を離した途端に不愉快な言葉を吐き出し、ヨウトはさっと姿を消してしまった。俺は一つ息を吐いて立ち上がる。そうして厄介事を追い払い、ようやく外の世界に飛び出すことが可能となった。

 

 

 すっかり歩き慣れた道を通り、今日もまた変わらない公園へと足を運んだ。広々としたそこにはちらほらと人の影が見え、大きな噴水が涼しげな空気を作り出している。緑の草を踏み締めてはしゃぐ子供たちの声は遠くからでも聞き取ることができ、小さなベンチにはカップルらしき男女が仲睦まじい様子でお喋りをしていた。俺はその前をのんびりと歩いていく。
 綺麗に整備された花壇の隣で足を止め、ぼんやりと空を見上げた。今日の青空は薄いカラーを彩っていたが、それを邪魔する雲がなく清々しさを感じさせるものだった。太陽の光は全世界に行き届き、無償の愛情で全生命を包み込んでくれている。ただそれは灰色の愛だった。俺たち人間は色のついた愛じゃなきゃ納得できないことを知っている。
「こんにちは」
 後ろから声が聞こえ、俺は目線をそちらにやった。知らない女が立っている。先ほどの声は彼女のものだろう。
「昨日もここに来られてましたね。お散歩ですか?」
 相手はその手に古そうな袋を持っていた。感付かれないよう中を覗くと、そこにたくさんの野菜が詰め込まれていることが分かった。
「家にこもっていると不健康になりかねないのでね。あなたは買い物の帰りですか?」
「あら、よく分かりましたね」
「ふふっ」
 愛想笑いならいくらでもできる。それを目の当たりにした女はぱっと表情を崩した。付け入る隙が多い人間は、それだけ平和を舐め尽してきたのだろう。
「ところでお嬢さん。俺はこれでも絵描きを目指している身でね、よかったら絵のモデルになってくれませんか」
 だけどきっと逃げられる。
「え? いいんですか、私なんかで」
「当然! あなたはスタイルも良さそうですし、ただ裸になって立っていてくれたらそれだけで」
 また失敗だ。顔の上に警戒心が現れ、俺を傷付けない言葉を瞬時に探し当てるだろう。
「ごめんなさい、裸はちょっと……」
 申し訳なさそうに彼女は身体の前で手を合わせる。そうして俺の返事を待たずにこの場を離れてしまった。俺は彼女の後ろ姿を目で追って立ち尽くしていた。逃げた人間を追いかけようとは思わなかったが、視界が黒いもので染められていく様を静かに感じる。
 目を閉じた。風が頬を叩き、手で髪を握り締める。
 次に目を開いた時、もう黒いものは消えてしまっていた。

 

 

 町をうろついていると服屋が目に入った。何気なしにそこへ足を踏み入れ、俺は財布を持っていないことに気付いた。ちょうどすれ違った学者風の男のポケットから財布を頂戴し、俺は何食わぬ顔で店内を闊歩する。
 客はあまり来ていなかった。上着を見てズボンを見て、その後にベルトを発見する。壊れやすい物だから新しく買っておいてもいいと考え、俺はそこから白いベルトを一つ手に取った。
「いらっしゃいませ」
 レジに持って行き、手に入れたばかりの財布を開く。そこから提示された金額を支払い、新品のベルトを持って店を出た。
 適当に歩いていると貧民街へ入り込んでいたらしい。家の壁にもたれかかって座り込んでいる少年と目が合い、俺は彼に向かって財布を放り投げた。子供は不思議な顔をしてこちらを見上げてくる。俺はそこから目をそらし、また前へ向かって歩き出した。
 雑音の渦巻く騒ぎがあり、野次馬根性で見に行くと道端で二人の男が殴り合いをしていた。通り過ぎようと一歩を踏み出し、もう一度二人に目をやると片方が知っている男だということに気が付いた。
 他でもない、組織の一員だった男がいたのだ。黒い髪を持つまだ若い男が大声で怒鳴り散らしながら相手を殴っている。知らない方の男は頭から血を流しており、どうやら組織の男が優位な場所にいるらしい。俺はそのまま立ち去ることができなくなって、仕方なしに野次馬連中を押しのけて二人の前に立ちはだかった。
「おい」
 声をかけると組織の男はちらりとこちらを一瞥した。しかしすぐに殴り合いを再開しようとし、俺は彼の腕を横から掴んで引っ張る。そうして野次馬の隙間を通り過ぎ、誰もいない路地裏へと誘導した。
「何だ、お前は」
「あんたさ、ケキさんの部下だったろ」
 相手はきゅっと顔を堅くする。俺は一歩近付き、彼のごつごつした頬に手を添えた。
「こんな所で一体何をしているんだ? せっかく自由になれたってのにさ、その自由を警官に追われる不自由に売り渡す気か?」
「お前には関係ないことだろう!」
「ふふっ」
 頬から首へ、首から鎖骨へと手を滑らせていく。更にもう片方の手で腰の辺りを撫でるように触った。それはやはり弾力が少なく、がっちりした大人の体つきをしている。
「いい身体してるな」
 服の上から身体のラインを確認する。相手は渋い顔をして俺を突き放そうと肩に手を置いてきた。俺は彼の腕に手を伸ばし、力ずくで相手をあらかじめ確保していた空家へと連れ込む。
「何をする気だ」
「遊んで欲しくてさ」
 先ほど買ったばかりのベルトを床の上に置き、現在付けている黒のベルトをゆっくりと外す。まだ何一つとして理解していない男は無防備な姿勢で立ったままで、俺は彼に向かって握り締めたベルトを勢いよく振りかざした。
 鋭くも鈍い音が部屋じゅうに響き渡る。
「貴様、何を――」
「ははっ、服従しろ! お前は俺のものだ、お前に自由など存在しない!」
 身体を床の上に押し倒し、俺は幾度も彼の上にベルトを振り下ろす。
 止められなかったし、止める気もなかった。俺の中にくすぶるたくさんの黒いものを追い出す為には犠牲が必要だったのだ。留まって動かなかった感情が休むことなく流出する。捌け口を見つけたそれは勢いを追い風として吹き荒れ、蓋を失ったまま空になるまで噴き出し続けた。
 激情が止まると身体も止まった。その頃になって窓の外を見るともう夜になっていた。俺はどうやら一日中男を打ち続けていたらしい。だけど何も思うことはなく、どす黒い血にまみれた男の上につばを吐き捨てた。
「これ、あげる」
 彼に向かって黒いベルトを放り投げた。それは宙を舞って相手のすぐ隣に落ちる。床に突っ伏したままの男はぴくりとも動かず、俺は置いてあった新品のベルトを握り締めて家から出て行った。

 

 

「エダさん!」
「ただいま」
 家に帰ると頼んでもいないのにヨウトが出迎えてきた。大きな瞳が不安げに揺れており、今にも泣き出しそうでわけが分からない。
「何だ、俺の顔に何か付いてる?」
「その血……どうしたの」
「血?」
 顔を下に向けると自分の服が見える。それはヨウトの言った通り黒ずんだ血で染められていた。こんなもの全く気付かなかった。俺は盲目にでもなってしまったというのだろうか。
「ねえ、今日はロイが泊まりに来てるよ」
「ラザーラスが? そりゃまたどうして」
「カイさんの家じゃ息が詰まりそうだからって言ってた。今はエダさんの部屋にいると思うよ」
「へえ」
 ヨウトを広間に残して廊下へと突き進む。自分の部屋の前に立つと人の気配がした。扉を開き、物怖じしないふりをして中へと入る。
 部屋の中には床に座り込んでいる青年の姿があった。長くなった銀髪が床に垂れて渦を巻いている。俺はそっと扉を閉め、こちらを振り返った彼の元へと歩み寄った。
「こんな遅くまでどこに行っていたんだ?」
 話しかけてきた彼は落ち着いていた。俺は作り物の笑みを見せ、彼の隣に腰を下ろした。
「散歩だよ」
 顔を近付けてキスをする。
「血の味がする」
「気のせいだろ」
「嘘だ」
 ラザーラスは俺を睨み付けた。大事に抱え込んだ秘密を全て暴こうとする目がそこにあった。また笑みを作ろうとしたが失敗する。俺は知らないうちに唇を噛み締めていた。
「エダ?」
 彼を抱き締めたかった。そして何もかもを忘れていたかった。だけどそれは許されないことだと知っていたから、俺はただじっと耐えることしかできない。
「どうしたんだ、今まで何を――していたんだ」
 俺を見つめる青年は心配そうな表情をしている。この人には全てを打ち明けねばならないのか。主人というわけでもないのに、なぜこんな気分になるのだろう?
「組織にいた男を見つけて、そいつが男を殴っていたから、罰を与えるつもりで……ベルトで打った」
「その血が?」
「ラザーラス」
 相手の目をまっすぐ見つめる。赤い眼は孤独と悲劇を知っており、また愛も理解しているはずの光を持っていた。その目で俺を殺して欲しかった。跡形もなく粉砕してくれれば俺はまた甦ることができるのだ。
「俺を打って」
 手に持っていた白いベルトを差し出す。彼は目を大きくしてベルトを見た。そうしてくっと顔を上げ、今度は俺の目を覗き込んでくる。
「どうして」
「俺は悪いことをしたんだ、だから罰を受けなければならない」
 しばらく彼はじっとしたまま動かなかった。数分が経過した後ようやく動き出すと、考えが見えてこない手のひらで俺の身体を抱き締めてきた。
 それでもベルトは受け取ってくれた。俺はなんだかそれが嬉しくて、彼に全てを任せようと考えてしまう。
「お願いだ、打ってくれ」
「打たないよ。そんなこと、俺じゃ無理だ」
 傷付けることが怖いのか、それとも一人として傷付けることができないほど優しいのか、そんなことは分からない。彼が誘ったのでベッドの上に移動した。力なく座り込んだ俺の前に彼が緊張した面持ちで向き合う。そうしてゆっくりとした動作で口づけされた。
「どうしたんだ、あんたが弱気になるなんて珍しい」
 耳のすぐ近くで彼の息が吐き出されている。湿っぽくてくすぐったいのに、俺はそれに縋りつきたくなっていた。
「……駄目なんだよ」
「え?」
 曝け出して楽になってしまいたい。相手の肩に顔をうずめ、両手でしっかりとしがみ付く。
「どんな人にでも優しくしていようと思ったんだ! でも駄目なんだ、心のどこかではいつも誰かを踏み躙りたくて、誰かの悲鳴や嗚咽を望んでいて、それを抑え込むたびに欲望が爆発しそうになる! そしてこの感情をどう処理すればいいのか分からない! なあラザーラス、教えてくれ。俺は一体どうすればいい? どんなふうに暮らせば普通の人間として生きていられる? お前なら知っているんだろ、外の世界でずっと生きてきたお前なら!」
 頭を上げて彼の顔を見る。
 美しい顔だった。その輪郭から唇や鼻、眉毛に至るまで全てが闇に紛れて人間とは思えない美しさを放っている。長いまつ毛に包まれた赤い瞳は吸い込まれてしまいそうなほど限りなく澄んでいた。
 感情が今にも壊れそうで怖い。
「エダ」
 背中に腕を回され、優しく抱き締められる。
「ごめん。俺もどうすればいいか分からない」
 俺はもう唇をきゅっと噛むことしかできなかった。いつしか溢れ出していた涙が流れないようこらえ、まばたきができなくなる。
 普通の人間として普通に生きることがこれほど難しいことだとは思っていなかった。今まではサドである自分のことを認めていたが、それが覆された時、俺はどんな目で自分を見ればいいのか分からない。過去を否定する気はないし、この性癖だって受け入れて生きていくつもりだった。だけど俺の望む理想とここにある現実はあまりにも違いすぎて、それらの間で板挟み状態になり動けなくなってしまったのだ。
「ラザーラス、頼みがある」
「何?」
 今の彼はとても優しい。その優しさを利用して、俺は汚い人間に成り下がろうとしている。どうかそれを許してくれないだろうか?
 相手の首筋にキスをする。髪から甘い匂いを感じ、そこに頬をこすり付けた。
「欲しい」
 目を閉じて相手の返答を待つ。
「……俺がするのか?」
「そう」
「分かった」
 身体を押され、ベッドの上に寝転んだ。彼の長い髪が顔の左右に落ち、その間にある顔がゆっくりと近付いてくる。
 月光が彼の髪を煌めかせ、俺はそれが綺麗だなと考えながら彼に抱かれた。

 

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 全てが終わると相手はすぐに眠ってしまった。警戒心など忘れたかのような表情で目を閉じており、俺は彼の美しい銀髪をそっと撫でる。
 胸の内に抱えていた黒いものは性欲と共に放出されたらしかった。これは一時しのぎでしかないことは分かっているし、いつまでも彼に頼ることはできないだろう。だけど彼の優しさに包まれた時、俺はこれまでに経験したことのない心地良さを感じていた。この夜が永遠に続けばいいとさえ思っていた。そんな夢が叶うはずがないのに、俺は彼を手放したくないと思っている。かつて俺が愛したあの子にすら取られたくないと考えていた。
 目を閉じて首を横に振る。
 不器用な人間はたくさん見てきたが、真に不器用な人がこんなに近くにいるなど想像さえしていなかった。
 時はいつだって止まることがない。だからこそそれに置き去りにされないよう、常に走り続けなければならないのだ。
「……」
 窓の外にある月を見上げた時、俺は新たな何かを見出したような気がした。

 

 

 

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