月のない夜に

 

 

番外編
 〜新しい日常〜

 

 清明が来てからもう一週間が過ぎようとしていた。
 アパートの一室で静かに座り込む姿は一人の大人のようにしか見えない。ただその心は深い傷に侵されており、まだまだ彼には救いが必要なのだとラザーラス君は言っていた。知らないうちに大人になっていた彼はどこか近付き難い雰囲気を漂わせていたが、共に暮らすようになってからはその偏見を見事に破壊されることとなった。
「幸助」
 部屋の中に清明の控えめな声が響く。
「どうしたんだ」
「これは何だ」
 相手の目の前にはテレビがあった。今は使っていないため何も映っていないが、ずっと同じ場所に置いてあったものをなぜ今更気にするのだろう。
「テレビだけど、それがどうかしたのか」
「テレビ? これがか?」
 彼はこつんと画面を叩いた。何が不満なのかいまいち分からない。
「こんな薄いのに本当に映るのか」
「今は液晶の時代だぞ」
 床に転がっていたリモコンを手に取り、テレビの電源を入れてみる。何の問題もなく映った映像は清明の興味を強く惹いたらしかった。
「ほー」
「な、ちゃんと映るだろ」
 まるで過去からタイムスリップしてきた人間のように彼は感心してテレビを眺めていた。どうにもその薄さが珍しいらしい。彼は別世界に行っていただなどと言っていたが、そこではどんな生活を強いられていたのだろう。
「液晶といえば、携帯もこんなのになってるんだぜ」
「……薄い」
 俺の携帯電話を相手に見せると的確な感想が返ってきた。それから彼は首をひねり、何かを考えているような仕草を見せる。
「十年か二十年かしか経っていないはずなのに、技術は進歩するもんだな」
「そりゃあ、まあ……」
 進歩が真に良いものなのかどうかは分からない。それでも進まなければならない理由はきっと誰の中にも存在していて、だから人々は常に未来を模索しているのだろう。そこが明るく暮らしやすい場であるようにと願う。自らの手で切り拓き、他の者に負けぬほどの高みを目指す。歩みを止めた者は滅ぶしかないのだ。
「こんなに薄いと踏んだらすぐに壊れそうだな」
「踏まなきゃいいだろ」
「事故なんてものはいつ起こるか分からないんだ」
 昔に比べ薄くなったテレビを清明はもう一度ごつんと叩いた。今まで見ていたはずの物に反応を示したことは、彼の中で何らかの変化があった為と考えてもいいのだろうか。ようやく周りの物に興味を持ったのだとすればそれは喜ぶべきことだった。
「あ」
 相手の手の中にあった携帯が鳴り始めた。誰かから電話が掛かってきたらしい。それを察した清明はすぐに携帯を俺に返してくれた。
 電話を掛けてきたのは玲奈だった。俺は清明の隣で電話に出た。
「もしもし……」
『幸助? ねえ今日は休みでしょ、どこか遊びに行かない?』
「あ、いや……今日はやめておくことにするよ」
『――もしかして、忙しかった? ごめん』
「そういうわけじゃないけど、また今度な」
『うん。それじゃ……』
 ぷつりと電話が切られる。
「彼女?」
「え」
 まだテレビと向き合ったままの清明が話しかけてきた。
「電話の相手。お前の恋人なのか」
「まあそんなとこだな」
「ふうん」
 質問はきっちりしているのに、彼はまるで興味がないと言わんばかりの態度を見せてきた。俺はどう反応していいか分からなくなってしまう。
「これから買い物に行こうと思ってるんだが、何か欲しいものはあるか?」
「んー」
 清明は視線を窓の外に向けた。話しているのは俺なのに、彼の視界には俺の姿など存在していないのだろうか。
「お前のこと、彼女から奪っちまいたい」
 そうして出てきたのは理解に苦しむ言葉であって。
「おい、清明」
「冗談だよ」
 真顔でそれはないだろう。俺には冗談なのか本気なのか判断できない。
「で、何も欲しいものはないんだな?」
「納豆が食べたい」
 ……左様ですか。
 湧き出ようとする感情を押さえつつ、目的を持った俺は財布を握ってアパートの外へと飛び出した。

 

 

 近所のスーパーに行き買い物を済ませて帰ると、清明は俺が家を出た時と変わらない姿勢で床に座り込んでいた。そこから一歩たりとも動かなかったのかという恐ろしい疑問が浮かんできたが、俺はそれに気付かないふりをして通常を演じることにした。
「ただいま」
「うん」
 なんとも可愛らしい返事が来たもんだ。俺は冷蔵庫に買ってきた物を一つ残らず押し込め、のどが渇いたのでウーロン茶を取り出す。
「お前も飲むか」
 清明は首を横に振った。彼のくせ毛が音も立てずに揺れていた。
 ガラスのコップにウーロン茶を入れ、それを持って清明と向かい合う床の上に腰を下ろす。目の前には小さなちゃぶ台があり、その上には開かれた本が置かれていた。どうやらそれは清明が置いた物らしかった。
「なんだ、本を読んでいたのか?」
「え」
 何気なしに聞くと相手は少し目を大きくした。
「だってここに置いてあるじゃないか。俺が置いたんじゃないぞ」
「ああ、これ……別に読んでない。文字を眺めてただけだから」
 ウーロン茶をのどの奥に送り届ける。きんとした冷たさが身体を強張らせていった。
「そんなんで楽しいのか?」
「文字が大きいから読む気になれない。文章というより、文字一つ一つが主張しすぎてるせいでただの文字の羅列のようにしか見えない」
 どう返していいか分からなくなる。
 昔に比べ本の文字が大きくなったのは読み易さを追求した為と聞いたことがあったが、彼の意見はそれを根底から覆すものに他ならなかった。普通の人間なら文字が大きい方が読み易いだろうが、彼の見解は一体何を意味しているのだろう?
 相手はぼんやりとした目をしていた。改めて彼の姿を観察してみると、子供の頃の面影は確かに存在していることが分かる。憂いを帯びた表情も、人形のように綺麗に巻いているくせ毛も、不健康そうに思えるくらい色白な肌も、俺が知っている彼と何一つ違わなかった。彼の義父である慶一郎は清明を真の代わりとして利用していたが、彼自身が持つ言葉で表せぬ美しさだとか儚さだとかを感じ取ったからこそ、慶一郎は清明を追い詰めるほど舐め尽くしたのではないだろうか。そう思わせるほど彼ははっとする美しさを持っていた。そしてそれは今も変わらないようで、彼に襲われていたと言っていたラザーラス君からもまた同様のものを俺は感じ取っていた。
 体つきはしっかりしているのに、彼の背は折れそうなほど弱々しい。大人の男らしく筋肉が付いているはずなのに、彼の両腕は長い間包帯で巻かれていたように真新しい。まつ毛が長いわけでもなく、唇が瑞々しいわけでもないのに、どこか女性よりも妖艶な雰囲気を漂わせる彼はやはり俺の知る相手であった。幼い頃は気付かなかったが、俺はずっと彼のことをそういった目で見ていたのだ。
 だからといって恋愛感情があるわけではない。彼を愛しているのは友情があるからであり、同性間での性交渉を許容することはお門違いであることを意識していた。それでも今、俺は恋人より友人を優先していた。付き合って長い玲奈からの誘いをはねつけ、彼女に気を遣うこともできず清明の行動を監視している。誰かに頼まれたわけでもないのにそれを続ける理由などはっきりしていた。俺は清明を救ってやりたいから、彼を元の明るくしっかりした男に戻してやりたいから、個人的な感情だけで動いているのだ。清明が俺のことをどう考えているかなど分からない。彼は何も語ろうとしないから、もしかしたら邪魔だと思われているのかもしれない。たとえそうだとしても、俺はもう彼から離れたくはなかった。靄がかかった暗闇の中に手を伸ばし、ようやく掴んだ彼の手を離そうものなら、俺はこの生命ごと失ってしまう気がしたのだ。
 手を掴んで離さない。何があろうと、俺が必ず行き着く場所へ送り届けるから。

 

 

 夜が来ると一緒に夕食を食べた。スーパーで買ってきた惣菜を机の上に置き、昨日の残り物を冷蔵庫から引っ張り出してくる。清明の席には彼から頼まれた納豆を置いておいた。素直に席に着いた彼は机上にある物をじっと見ていたが、表情一つ変えなかった。
「ねぎ」
「は?」
 いただきますと言うよりも早く、相手はぽつりと単語を漏らす。
「ねぎがない」
「……どうしてねぎが必要なんだ」
「俺、納豆にはねぎを入れる派だから」
 口数が少ないことは昔と変わらなかったが、中学生の頃より違和感が更に大きくなっているような気がした。とりあえず俺は冷蔵庫からねぎを取り出し、納豆に入れられるくらいの大きさに刻んでいく。
「これでいいのか」
「んー」
 清明は小さくなったねぎをぱらぱらと納豆の上に振りかけた。それを箸で器用に混ぜ、次第に出てきた粘り気を楽しむようにぐるぐる回していた。充分に混ざった後、ごはんの上に四分の一だけ乗せ、そのまま口の中へと運ぶ。
「……」
 絶句とでも言えばいいのだろうか、彼は驚いたように目を大きく開いた。
「美味い」
「それは……よかった」
「美味い」
 二度も言わなくていいだろうに。よっぽど感動したのか、彼は無言になってがつがつと納豆ごはんを頬張った。そんな相手の前で俺は惣菜に箸をつける。
 凄い勢いで食べていたはずなのに、彼は唐突にぴたりと箸を止めた。お茶碗の上に箸を乗せ、両手を机の下に隠してしまう。
「どうかしたのか?」
「もう要らない」
 お茶碗の中にはまだ彼の好物が残っていた。俺はわけが分からなくて言葉が出てこなかった。あんなに夢中になって食べていたのに、どうしていきなり態度を変えるのだろう? 彼は俺をからかっているんじゃないだろうか?
「欲しくないんだ。身体が、要らないって言っている」
「……メロン食うか?」
「え」
「貰い物のメロンがあるんだ。そろそろ食べないとやばいから」
 箸を置き、冷蔵庫の中から既に切ってあるメロンを取り出す。それを適当なお皿に乗せ、清明の前に置いた。そうして彼にフォークを差し出す。
「メロンなんて食べたことない」
 彼はメロンにフォークを突き刺し、口の中へ入れた。甘い香りがこちらにまで漂ってきている。
「食べたことないのか? でも美味いだろ?」
「美味い」
 先程と同じように清明はぱくぱくとメロンを口の中へ放り込んでいたが、二切れを残してフォークを皿の上に乗せた。
「もういいのか?」
「要らないって言ってるから」
 また似たような台詞を吐き出し、彼は動作を停止させた。見えているのかどうか分からない瞳を前にして俺は食事を続ける。俺が全て平らげるまで清明は席から立たなかった。彼が残した納豆ごはんとメロンは俺の胃の中へ押し込まれた。
 彼の言葉の意味、言動、反応から推測し、俺は清明の精神状態を知ろうとしていた。結果として行き着いた考え方は、清明は多重人格者なのではないかということだった。おそらく不安定な精神が生み出した人格が多数あって、たとえばそれは幼少期の人格だったり、汚れた世界の住人としての人格だったり、驚くほど素直で純真な人格だったりが彼の中に存在しているのだろう。しかし俺はそれがおかしなことだと認識しているわけではない。人間のように感情や知性を持ち合わせている生命に幾つもの側面があることは当然のことで、当人が気付いていないだけで本来ならば全ての人々が多重人格者であることが真理だと考えていた。ただ清明はそれが顕著だった。自身で精神の操作ができなくなっていて、だから各人格の間にやんわりとした波を形成することができていない。彼が「普通」に戻るには、それを制御する力を手に入れねばならないということか――。
「おやすみ」
 食器を片付けていると清明は口を開いた。そのまま奥の部屋へと消え、俺は一人だけ取り残される。
 またうなされる夜が来るのだと考えると憂鬱な気分になった。

 

 +++++

 

「ん……」
 寝苦しい。何かが激しく俺の睡眠を妨害しているようだ。冬だというのにじんわりとした汗を感じ、痙攣する瞼をゆっくりと持ち上げてみる。
「え――っ」
 白の掛け布団が身体の上に乗っていない。そればかりか身体の火照りとは裏腹に、下半身があり得ないほど冷えていた。驚いて足に手を伸ばすと、何かやわらかいものに触れたことに気付く。
 暗くてよく見えないが、俺の頭は必要以上に回転してくれたようだった。
「き、清明?」
「ん……っ」
 手で触れていたのは彼の曲がりくねった髪だった。やがて暗闇に慣れてきた瞳が世界をありのまま映し出す。
 俺の下半身に手を伸ばし、そこを口に咥えているのは清明だった。既に硬さを持っているそれを相手は丁寧に舐め続けている。驚きのあまり放心したように彼の動作を眺めてしまったが、そこから感じる刺激があったおかげで俺は自我を取り戻すことができた。
「お前、一体何をして――」
「あ……ふっ」
 両目を閉じ、清明は俺のそれを根本から先端にかけて舌を滑らせた。彼の唾液が太ももの付け根に垂れている。
「や、やめろって、そんなこと――俺はして欲しくないから!」
「だって、あの男に言われたから」
 舌の動きを停止させ、清明は不可思議な言葉を吐き出した。それが消えるとすぐに行為を再開する。開かれたはずの目は俺の身体を映していたが、視界は焦点を失って死人のような眼と化していた。彼は寝ぼけてこんなことをしているのだろうか。
「う――」
 認めたくない思いが頭の中にあるはずなのに、彼は玲奈よりも男の悦ばせ方が上手かった。俺が感じる部分を知っているかのように攻められ、刺激が送られるたびに大きくなったそれが反応を示してしまう。しかしこれは悲しいことだった。清明は男の身でありながら、男に奉仕する技術を身に付けねばならなかった事実を物語っているのだ。
「んっ、はあっ、ふうっ……」
 何度も息を吐き出し、それに伴って漏れる声が余計に色を助長していた。相手は男だと分かっているのに、どうしてだか俺は興奮を治めることができないでいる。おそらくこれも彼が学んだ技法の一種なのだろう。大量の唾液を滴らせ、声を漏らし、息を乱す。それを肌で感じる男は清明を女のように錯覚する。
 理性が吹き飛ばぬよう気を付けなければならなかった。性的な快感が頭の中を駆け巡り、何もかもを手放してそこへ飛び込んで行きたくなっている。俺はゆっくりと身体を起き上がらせた。
「ど、どう……気持ちいい?」
 下から見上げられ、その瞳の純粋さに胸が締め付けられた。ただ彼の少年らしさの裏側には妖艶さがあって、どちらを信じればいいか分からず混乱してくる。
「……気持ちいいよ」
「よ、良かった」
 俺の素直な感想を聞いた清明は再びそこへ唇をくっつけ、今度はきゅっと吸い付かれた。予想外の刺激に少しだけ声が漏れてしまう。
「まだ口で続ける? それとも、もう……」
「清明」
 彼の名を呼んでも、彼はそこにいないのかもしれない。
 身体を折り曲げ、床の上に座り込んでいた相手をベッドの上へと引っ張った。俺が使ってぺしゃんこになっている枕に彼の頭を乗せ、びっくりした顔をしている相手の上に覆い被さる。そうして彼が何かを言う前に唇を奪ってしまった。
「んっ、こ、幸助――」
「なんだ、夢の中にいるってわけじゃないんだな」
「抱いて! ぼくを――壊してくれ!」
 背中に両腕を回され、俺は彼から逃げられなくなる。
「ああ、いいよ」
 言葉の後にキスをした。俺の唇に吸い付こうとする彼にはまるで生気がない。
 これはあの時のやり直しなのだ。彼が抱いて欲しいと迫ってきたたった一度のあの機会、それが俺の前に再び降臨してきたということだろうか。俺は彼の身体から邪魔な衣服を剥ぎ取った。お返しにとばかりに彼の敏感な部分を手で触り、形を確かめつつ刺激を送る。相手は苦しそうな表情をした。それでも腕は俺の背に回されて離れなかった。
「幸助」
 舌で乳首を攻めていると消えそうな声が俺の名を呼んだ。俺はピンクに染まったそれにきゅっと吸い付いてから返事をする。
「何だ?」
「もう、入れて」
 火照った顔でねだられ、悪い気はしなかった。そればかりか他の感情までもが喚起されてしまいそうだ。
「さあて、どうすっかな」
「入れて! 早く……あ、あんたの楔を、身体の奥にも打ち込んで!」
 女のようにやわらかくなっていた入り口に容赦せず俺の剣を突き立てた。阻む要素のないそこは、簡単に奥へと案内してくれる。
「く――っ!」
 俺は清明と繋がった。それを望んでいた、彼に迫られたあの時から、こうなることをずっと心の底で期待していたのだ。夢が叶った子供は夢中になっておもちゃで遊ぶ。清明の身体を手に入れた俺は、玲奈とする時より大いに興奮し、止まらぬ欲望を自身の動きから発見しつつも幾度となく清明の身体を貫いた。それは快感だった。これまで体験した性行為よりも遥かに魅力的な、背徳感から得られるえも言われぬほどの快楽であった。口内に溢れた唾液が飛び散り、汗に濡れた身体が何度も同じ動きを繰り返し、相手の内部で弾けそうになるものを必死になって我慢していた。その代償として俺は彼を貫く我慢を放棄したのだ。
 身体を揺らすたびにベッドが軋む音が聞こえた。相手が同性であることが一層淫らさを引き立てていた。くるりと身体を回転させ、彼に上になってもらい俺は下から突き上げた。彼は泣きそうな声で幾度も喘いだ。それが心地よくて身体の動きを素早くさせ、より激しい行為で彼を乱れさせる。次第に乱暴になってくる自分自身に気付いたが、それを止めようなどという考えはこれっぽっちも出てこなかった。
「あ、あ――ああっ!」
 何度も体位を変え、体力が続く限り彼を突いていた。そこに付きまとう彼の反応があまりにも出来すぎているもので、俺は傲慢になり更なる反応を彼に要求した。今の俺にとっては使い古された手段でも充分に楽しめるものであり、何もかもが新しくて昔に戻った気分になっていた。俺の初めての相手は清明だったのだと、そんな勘違いをしてしまいそうだった。
 やがて彼の中で果てた俺は地位も名誉も手放した愚かな男に成り下がっていた。ただ清明は何も言わなかった。俺の一部を身体の中に浸み込ませられても、道具のように快楽の手伝いをさせられても、清明は何も言わなかったのだ。一度出したばかりなのに俺はまた彼を抱いた。彼の涙が止まるまで続けていようと、自分勝手な理由だけで彼を抱いていた。
 闇の中ではどんな汚れも見えなくなってしまうから嬉しい。

 

 +++++

 

「おはよう」
 きちんと挨拶をしてくる相手は清明らしかった。その几帳面さは子供の頃から変わっていないようだ。
「ああ」
「昨日は疲れたな」
 彼の一言を聞いて思わず手に持っていたタオルを床の上に落としてしまう。
「お、お前、昨夜何したか覚えてるのか!」
「……何を当然のことを言ってるんだ?」
 全身から力が抜けて床の上に座り込んでしまった。
 昨夜は彼の意識がどこかに飛んでいると思っていたからあんなことをしたのに、彼が覚えているだなんて完全に計算外だった。いいや、彼の意識があったかどうかなど関係ない、俺はとんでもないことをしてしまったんだ。
「清明、昨日のことは、その――悪かった」
「お前下手だから今度からはラザーラスに頼むことにする」
 すたすたと俺の隣を通り過ぎて相手は部屋の奥に引っ込む。
「ちょ、ちょっと待てよ! 下手ってお前――」
 慌てて彼の後を追い、相手の腕を掴んだ部屋の中は暖かい光で満たされていた。

 

 

 

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