死者には花を供えるべきだ

 

 

 少年はじっとうずくまっていた。床に座り込んで頭を下に垂れ、ただ静かにそこに佇んでいる。俺はそんな相手の姿をぼんやりと眺めていた。顔は長く伸びた髪によって隠されて少しも表情というものが見えなかった。またそれを想像しようとしたところで無駄であった。俺に相手のことが分かるはずがなかった。一つとして、理解できることなどなかったのだ。しかしそれも当然のことと開き直らなければならない。
 外から入る光はなくなり、いつしか夜の帳が下りているようだった。彼を自分の部屋に連れてきたのは昼過ぎだったと記憶している。今になるまでどれほどの時を無駄に過ごしてきたのかと考えると頭痛がした。
「ロイ・ラトズ」
 呼びかけると少年は少し顔を上げた。
「君は力石を探していると言っていたな。それを君の主人が欲しているから、と。では、なぜその人がそれを欲するのか君は知っているのか」
 ゆっくりと少年は首を横に振る。どうやら話は聞いているらしい。
「それすら知らないのに従っていたのか。まあいい、そんなことは……」
「ねえ」
 気づけば相手は顔を上げ、じっと前を見据えていた。その瞳には何の面白みもない壁だけが映っている。
「どうして僕を牢に入れないの」
「なんだ、入れて欲しいのか?」
 少し嫌味を込めて言うと相手は顔をさっと赤くした。
「冗談だ。しかし――自分でもよく分からん、と言いたいところだな」
 相手と目が合う。
「本来なら有無を言わさずお前を牢に入れていた。それが『正義』だと思うからだ。罪を犯した者は償わなければならない。それに改心する為には時間が必要だ。その為の牢獄なら我慢できる。少なくとも俺自身は、だ。だが君は、罪を犯したとはいえそれは命令されてやったこと。君自身の意志でやったことではない。そうだろう? だったら牢獄は無意味だと考えた。それに、不老不死だなんて、馬鹿げているとは思うが――その存在は計り知れない。とにかく俺の知っている常識の範囲を遥かに超えているんだ。そして君は被害者と呼ばれるべきなんだ。被害者の首に首輪を取り付けることなどどうしてできる? そんなことをしたら俺は堪えられなくなり、自ら牢に入るようになるだろう。そうだと分かっているから君を牢に入れることができないでいるんだ。ああ、そうだ。理由としては、そうだとしか言い様がないんだ」
 そこまで言うと俺は口をつぐんだ。これ以上喋り続けると何か言ってはいけないことを吐き出しそうだった。正直なところを言うと、俺はこの不老不死の子供のことを気色悪いと感じていた。その感情はまだ不確かでぐらついているものの、輪廻からはみ出した未知の存在を目前にすると、どうしても軽蔑の念を抱かずにはいられなかったのだ。だがあの時と違うことがあるとすれば、今は彼に哀れみを感じているということだけが挙げられるだろう。
 しかしその哀れみが正しいのかどうかということについては、いくら考えようともはっきりとした答えは得られなかった。むしろ考えるだけ無駄のように感じられた。だが、その意見が正しいとして、不安定な感情を信じ切って走っていくことはこの上なく愚かなことのように思えた。そうして自らを信じ切ることほど危険なことはない。
「あなたは優しい人?」
「そんなことは自分では分からん。だが、俺は正義だけを追い求めている」
「あなたの正義は少し甘いような気がする」
 唐突に相手は不愉快なことを言った。だが、俺が相手の意見を罵る権利などないことも知っていた。
「何故そう思う」
「だってあなたは事実から目をそらそうとしているような気がする。僕が人を殺していろんなものを奪ったことも、家を壊したり生活に困るような悪いことをしたのも否定できない事実であるはず。だけどあなたはそれを『命令されてやったこと』だと言う。それが間違っているとは言わないけれど、それでも罪は罪だとあなたは最初に言っていた。それが、どうして今になって意見を変えているの? あの日だってそうだった。結局僕を逃がしてくれたあの日だって今と全て同じ。あなたの意見はふらふらしていて、一体何が言いたいのかよく分からない。あなたは僕を悪い奴だと言ったり、被害者だと言ったりする。僕はそんなことを言って欲しくてここに居るんじゃない。あなたはとても嘘つきだ。あなたの言う『正義』はまがいものだ」
 それだけのことを言われても平然としていられるほど俺は完璧な人間ではなかった。彼の物言いに腹を立てないではいられなかった。何か一言でも言い返したくてたまらなくなった。だが、そこには『警察』という名の邪魔者がいた。それは俺の全てを妨害して嘲笑うかのようにそびえ立っていた。そうして縮こまってしまった精神は、なかなか元には戻らない。
「あの、分かってください。僕はあなたを非難しているつもりはないんです」
 俺は口がきけなかった。
「ただ、思ったことを言っただけで、別に、嫌いだというわけではないし」
「嫌いだと? 何一つとして好いてもいないくせによくそんなことが言えるな」
 勝手に口が開いたかと思うと何か余計なことを口走っていた。相手は驚いたように言葉を止めた。そしてその表情を見ることによって、俺は相手以上に驚いてしまった。或いはそれは必然だったかもしれない。気を配ることを忘れた言葉は自分の本音に他ならなかったのだから。そうして気づいたこととは、あの妨害者をどこかへ追い払ったのだということだけだった。
 事実は事実のまま降りかかってくる。
「お前は俺を嘘つきだと言ったな。だがそれはお前自身にだって当てはまるということを知っているだろう? 知らないとは言わせない、何があろうと。そして同様に、俺も自分が嘘つきだということを知っている。だがそれは自分に対する嘘のみだ。お前には関係ない」
「どうして。僕に関わっていることなのに」
「少し黙れ」
 少年は怯えたような虚ろな瞳をしていた。俺はいけないことを言ってしまったのだ。しかしそれを否定することはできなかった。何故ならそうすることこそが事実を否定することに繋がるからである。
 そうして黙り込むと急に寒気を感じた。傍に不死身の肉体があることを意識すると吐き気がした。俺はどこかで彼を毛嫌いしていた。そしてその理由すらはっきりしていた。
「馬鹿な奴だ、不老不死になどなるなんて」
 相手は自ら好んでそうなったわけではないことなど熟知している。細かな理由は今でもまだ分からないままであったが、俺はそれ以上先を知りたいとは思わなかった。本来なら全てを底から汲み上げていかなければならないのだが、今回に限っては決して彼の持つ深淵を覗き込みたくなかったのだ。そのくせ俺は少年の身を案じていた。このまま路上に放り出せと命令されたとして、素直にそれに従うことはできなかっただろう。俺はおかしなことをしていた。非常に奇怪なことだった。
 そうして両者はしばらく黙り込んでいた。この静寂が俺には心地よかった。ちょうど心地よさを忘れていた頃だったので、可能ならばそれを失いたくはなかった。
 だが、期待を裏切るかのように静寂は唐突に消滅する。誰かが口をきいたわけではなく、何か胸をよぎるようなざわめきと、同時に耳に入った消えそうなほど小さな音が原因だった。それを確かめるべく少年の姿を見つめてみる。
 少年はただ黙っていた。姿勢も表情も一つとして変えることはなく、だが瞳にぼんやりとした光を宿し、静寂を守りながら一人で泣いていた。
 今更だが、俺は彼の気持ちを考えたことがあっただろうか。あの人間らしい同情の気持ちを彼に向けたことがあっただろうか。仕事に囚われすぎてはなかっただろうか。盲目になってはいなかっただろうか。『警察』という立場を盾にして、彼から逃れようと足掻いていたのではないのだろうか。
 それは恥だった。人として恥ずべきことであった。今では非情な人間が増えたと口の中だけで嘆いていた自分が、彼らと同様の逃げ道を探していたことを、彼の悲しむ姿を見てから気づかされることは、この上ない屈辱であり恥だった。正義だけを見つめすぎて、正義だけを追いかけて、何一つとして見えなくなった自分自身にさえ気づかなかったことは、到底許され得るものではないだろう。そのことに気づいただけでも幸福だと思わなければならない。それがたとえ、彼を悲しませることを媒体としていようとも。
 大人は子供を泣かせてはいけない。大人は子供を守らなければならない。大人は子供を正さなければならない。大人は子供を愛さなければならない。
 そんなことは分かり切ったことだった。充分すぎるほど承知していた。身分など関係なく、警察だろうと犯罪者だろうと、親だろうと赤の他人だろうと、人間だろうと他の生物だろうと――俺は何を見ていたのだろう。
 だけど、どうすれば目の前で泣くこの子が泣き止んでくれるのか、俺にはさっぱり分からなかった。俺は子供を知らなかった。子供を知らないまま大人を装っていた。そんな自分にできることなど皆無に等しく、子供は大人の目の前で泣き続けるだけ。声をかけることもできない。慰めてやることもできない。元気を与えてやることも、涙を拭いてやることも、道理に基づいて叱ってやることすらできない。そんなふうに俺は子供の愛し方を知らなかった。もとより人の愛し方すら知らなかった。
 俺は何かを背負うべきだと突然さとった。そしてそれが目の前まで迫ってきているような気がした。このまま形式ばった自分でいることに慣れ、その勢いのまま一生を終えるくらいなら、誰かの為になるような人間になりたいと願いたかった。ふと自由に憧れた。しかしそんなものは全て責任に押し潰されるものであって、どこにも存在しないのだと諦め切っていた。それでも少しだけ、ほんの少しでいいから、自由というものをこの手で掴んでみたかった。このまま全てが加速する前に、たった一度で構わないから。
 どうすることもできないまま俺は立ち尽くした。しかしどうにかしなければならなかった。無理矢理にでも答えを見出さなければここから追い出されそうな気がした。俺はなんだか死人のような心持ちになっていた。
 そんな気持ちのまま少年の前でしゃがみ込んだ。少年は何も見ていないようだった。俺の口は鉛のように重かった。頭は正常に働かない気がした。細かいところまで心を配ることなど途方もないことのように思えた。何をしていいのか分からずに困惑した。これは夢なのではないかと思った。永遠に覚めることのない悪夢なのではないかと。
 俺は自分が許せなくなってきた。
「あ……」
 小さな声が耳元で漏れた。少年は驚いたように体を強張らせていた。しかし本当は、俺の方がずっと驚いていたはずだった。彼の体を抱き締めると何かが切れた。
「俺は決して君の親になることはできない」
 まるで呟きのように響く声は情けない大人のそれだった。自分で何をしているのかさえ分からないまま、胸の内に浮かんできた言葉をそのまま飾りもせずに外へ吐き出す。
「俺は何も知らないから。どうすれば君が泣き止んでくれるのか分からない。どうすれば君が笑ってくれるか分からない。だけどここで足を止めてしまったら、俺は後悔するに違いないから。だけどどうしたらいいか分からないんだ。こんなことをして、何かになるのかどうかと聞かれても、何も答えられないと思う。こうすることが正しいのか、間違っているのか、そんなことしか考えられない。何が正義で何が悪なのか、そんなことしか頭にないんだ、俺は。ずっとそうやって生きてきたから。他のことなど少しも見なかったから。……俺は大人なんかじゃなかったんだ。俺は君と同じで、ほんの子供にすぎなかったんだ」
 言葉を口に出すたびに惨めになった。今まで信じて疑わなかったものが跡形もなく崩壊していくようで、だけどそれを止めるすべすら知らず、壊れていくものをじっと見ていることしかできない自分がいた。それは恐ろしい瞬間だった。同時に、いかがわしい程に煌いている刹那だった。どうしてそう見えるのか、俺には少しも分からなかった。
「俺は世間から大人と呼ばれている『彼ら』の仲間になることはできない。だけど悲しいかな、年だけは何もしなくとも重なっていって止まらないんだ。俺は時に埋もれた死人だ。忘れ去られた過去の遺物かもしれない。自分で言っていてとんでもなく情けない気がする。だけどそれを否定するほどの力はない。そんな力、どこにあるのか見当もつかない。……確かに俺の言う『正義』は甘かったのかもな」
 こうして少年の言葉を肯定することによって幾らか許されるのではないかと期待していたのだろう。しかしそれは俺をさらに奥の方へと追いやるだけだった。
「辛かった?」
 聞いてみても答えは返ってこない。
「辛かったんだろう」
 俺には彼の気持ちを推測することができた。あくまで推測にすぎないが、それでも不死身とは一体どんなものなのか、過去に何度か考えを巡らしたことがあったのだ。そこから出てくる現実はいつも同じ。孤独、暗闇、怠惰、嫉妬。
 死者には花を供えるべきだ。
「薄情だったな。君の気持ちも考えずに一方的な意見を押し付けてしまっていた。君が怒るのも当然だった。――俺の両親は罪人だった。母は死んだ。病気だった。そして、父親は不老不死になると言ってどこかへ逃げた。俺は彼らが許せなくて警察になった。そうして正義とは何かということを腕を組んで考え出したんだ」
 父が不老不死という言葉を口にしたあの瞬間から、俺はそれを毛嫌いするようになっていた。しかし当時はその存在すら信じていなかった。ただ父の考えを否定していただけだった。それでも心のどこかでその精神は生き続け、今になって本物を見せられた時、一気にあの言い様のない憎悪が襲ってきたのだろう。それに覆われて光を見失うとは、俺はまだ子供である証に相違なかった。
「だから、俺は」
「……じゃあ」
 小さな声が言葉を遮る。
「じゃあ、約束してくれるの、ずっと傍にいるって」
 彼が言う言葉の意味は、俺を生かすことでもあるが、殺すことでもあった。しかし俺には花が必要だった。まっすぐには伸びられなくても、誇りを持って美しく咲く花が。
「約束しよう。きっと傍にいると。君の居場所が見つかるまで、決して一人にはしないと」

 

 +++++

 

 思えばあの時、何故すぐに口が動いたのか不思議でならなかった。彼との約束がどんな結末になるかということすら分かっていたはずで、そしてそれが昔からただ嫌っていた存在であることも忘れたかのように、俺は流されるままに彼と途方もない約束をした。それを後悔しているというわけではないが、子供とは変化が早いもので、今でも彼があの日のことを覚えているかどうかさえ怪しいものであった。
 彼が尊敬している主人の正体は今でも分からないままであるが、力石については大体の予想が可能であった。要するに力石とは、強い魔力が込められていて人を不死身にすることさえできるもの、ということらしい。だから警察はそれを保管しているのだと言う。
「まったく、つまらんな」
 しかしそう言い捨てることも難しくなってしまった。俺はその力を借りて、少年との約束を果たす為に不死身になったのだから。
 自分は大人になっただろうか。子供を理解できるようになっただろうか。まだあの日のままで、死人のような目をしてはいないだろうか。
「――いいや」
 そんなことばかりを気にしていてはいけない。俺にはやるべき仕事が残っているのだから。どうやらまた『あいつ』が動くらしい。何か事が起こる前に止めなければならない。
 青い制服をきちんと着込み、手でしわを直し、白い手袋をはめる。
 そうして扉を開け、俺は現場へと足を向けた。

 

 

 

 

 

 

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