これは遥か昔に起こった物語。

 

そしてこれは、哀しくも暖かくもある物語。

 

 

Nocturne T 青年と天使

 

 

 大地に、一人の人が立っていた。
 いいや、大地と言ったら語弊があるかもしれない。
 なぜならそこは、天にある空間のことを指しているのだから。

 人は遥か下に見える世界も気にかけずに、何もなくなった空間を見つめている。
 それは故郷を懐かしんでいるのか、それとも自らの生を皮肉っているのか。

 そして彼は思い返す。
 大地で過ごしていた光に溢れた明るい日々を。

 

 

「アスター君!」
 青年は自分の名前を呼ばれてがばりと起きあがった。枕にしていた開かれた本にしわができている。
 慌ててそれを隠すように本を閉じ、声が聞こえた方へ顔を向けた。
「なんだ、らいか……」
 相手の顔を見て青年はほっとした。胸をなでおろすと一気に緊張が解けて、机の上に積まれていた本に手が当たったことにも気づかなかった。そのまま何も考えずに閉じた本を取ろうと手を前にのばすと、絵に描いたように本の柱が崩れて青年の頭の上へ雨のように降った。それによって完全に目が覚める。
「いってぇ……なんだってこんなに本があるんだよ」
 青年には身に覚えがなかった。確かに机の上に本を置いて読んでいたが、こんなにも多くの本を積んだ覚えはない。誰か他の人が置いたのなら青年の近くに座っていればいいのだが、彼の周りには誰一人としていなかった。ただ一人、彼の友人を除いては。
「ほら、そんなにぼけっとしてるから雪崩に遭うんだ。ちゃんと片づけといてよね、それ俺の本だから」
「あー……、なんだお前のなのか」
 頭からかぶった一冊の本を手に取る。なんだか難しそうなことを書いている、青年にとっては興味も何もないつまらない本だった。
「お前ってなんでこんなつまらなさそうな本ばっかり読むんだよ。俺には理解できないね」
「アスター君はただの『観察者』だもんね。分からなくったって当然さ」
 にこりと相手は微笑む。青年はそれを胡散臭そうに見ていた。

 青年の名前はアスターというらしい。正確には分からないとされている。なぜなら、彼がどこから来たかとか、どんな生活をしていたかということを誰も知らないからである。
 自分自身では全てを知っていると言われているが、アスターは誰にも何も話そうとはしなかった。そのため人付き合いは悪かったが、青年はそんなこと気にするような性格ではなかった。彼は独りで生きる覚悟もできていたし、何より他人と馴れ合うことを嫌っていた。だから誰に嫌われようと好かれようと、そんなことは彼にとってどうでもいいことに他ならなかった。
 そんな思いを抱くようになったのはいつからなのか分からない。だが、その思いが崩れるようになったのは一人の青年に会ってからだった。
 その青年というのが今彼の隣に立っている、らいという名の青年である。
 彼だけはアスターの許せる人物であった。どうして彼に惹かれたのかとか、彼のどこが好きなのかは分からない。むしろ嫌なところや理解できない部分の方が多いようにも思える。それでも彼は、どういうわけからいにだけは心を開くようになっていた。
 無論、それでも全てのことを話すようなことはなかったが。

「アスター君はまた神様の本でも読んでたんだ?」
「お前の読む本より遥かにためになるだろ」
 崩れた本の柱を一から作り直しながら、アスターは面倒そうにらいと会話をする。ぽいぽいと適当に投げる本も、面白いように上に積みあがっていってらいはそちらに目を取られていた。
「俺たちを創ったのは神なんだから。だから誰も神のことを忘れてはいけないだろ」
「誰も忘れようなんて言ってないだろ」
「お前が言ってることは同じようなことだろ」
 あっという間に本の柱は元通りになる。再び椅子に座って腕を組み、アスターは一つため息を吐いた。
「皆して誰もを忘れ過ぎなんだ。それがどういうことに繋がるかも分かってるくせに」
 そして目を閉じる。
「またそんなこと言って。アスター君だって俺がいなかったら誰にも覚えてもらえなかったくせにさ」
「うっさい」
 青年はすぐに目を開けた。目の前にいるのは友人のすました顔。らいは軽く微笑んでから本の柱の一番上に手をのばした。
 一冊の本を手に取ってそれを開く。アスターはその動作をずっと胡散臭そうに眺めていた。どうにも彼にとってはらいの行動は全て胡散臭く見えてしまうらしい。
「俺もアスター君のように神様の本、読んでみようかと思ってるんだ」
「へぇ、そりゃいいや」
 らいは静かに本のページをめくる。そしてあるページに行きつくとそこで動作を止め、本の中にある活字を追い始めた。
「遥か昔――……」

 

 遥か昔、一人の神が世界を創造した。
 世界には表と裏の二つの顔があり、表には光が溢れ、裏には魔力が溢れていた。
 二つの世界は決して繋がることがなく、互いに行き来することは不可能だった。
 神はその二つの世界を見て悲しんだ。なぜ一つの世界であるのに二つに分かれてしまったのかと。
 そして神は新しく世界を創った。今度は互いに拒絶し合うこともない、本当にたった一つである世界を。
 しかしその世界と昔に創った世界は決して繋がることはなく、後から創った世界は空の上へと昇っていった。
 神はそこを天と呼んだ。
 天で神は生命を創った。最初にできたのは天使と呼ばれる者だった。
 天使に心はなかった。天使は神の道具にすぎなかった。
 神はそれをも嘆き悲しんだ。次第に神は天使を創るのをやめた。
 代わりに別の天使を創り始めた。彼らには心があり、感情があった。神は彼らを意志天使と呼んだ。
 天使は忘れられていった。
 それから下の世界に人が創られた。人が創られ、生命が大きくなり、大地に光が溢れていった。
 これが世界創造の始まりである。

 

「つまり、神様は俺たち意志天使を創ってくれた人であり、創られた俺たちは神様に背くことは許されない。たとえどんなことがあろうとこの気持ちを忘れるようなことがあってはならない。そういうことだよね、アスター君?」
「分かってるなら俺に聞くなよ」
 一通り本を読み終えてらいはぱたんと本を閉じる。隣に座っているアスターは机に肘をついて面白くなさそうに彼の話を聞いていた。
「じゃあアスター君、そろそろ外に出よう。いつまでも部屋に閉じこもってたら忘れられるよ」
「面倒だな……」
 にこやかに言ってくるらいを胡散臭そうに見ながら、アスターは渋々と立ち上がる。本の柱をそのまま残したままらいに引っ張られて部屋の中から出ていった。
 建物を出る前に誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「忘れるか、忘れられるか――」

 

 建物から出ると眩しい光が二人を照らす。明るい外の光は暗闇から出てきた二人の目を痛めた。少しだけ光に慣れるための時間が必要となってくる。
 外と言ってもそこは建造物の一部にすぎなかった。神の呼ぶ『天』とは、一つの建物にすぎなかったのだ。その建物の中で多くの『意志天使』と呼ばれる人々が生きている。
 天は書物にある通り空に浮いた存在だった。地上と繋がることはなく、ただ一つの世界として存在するだけ。地上と違うことと言えば、神と意志天使と天使以外に誰もいなかったということくらいである。
 無論大半は意志天使で溢れている。神は一人だけだし、天使の姿を見ることなどほとんどない。これも書物と同じように、天使とは忘れられている存在だったのである。
「アスター君、今日は何をする気?」
「寝たい」
「またそんなこと言って……」
 二人は外に面した建物の中を歩く。
「本当にアスター君は面倒臭がりなんだから。そんなんじゃあすぐに誰にも忘れられるよ?」
「いいだろ、お前が覚えてるんだか――」
 ふっとその場で足を止めた。顔を上げて、どこか遠くを見ているように視線が飛ぶ。
 らいは横からその動作を訝しげに眺めた。そしてアスターと同じ方向へ視線を投げる。
 そして同じように、動作を停止させた。

 意志を持つから意志天使と呼ばれる。
 じゃあ、意志を持たない意志天使などいるのだろうか?
 いいや、俺たちはそんな奴らのことを天使と、そう呼んでいるはずだ。

 二人の視線の先にあるもの。それは、一人の少女のような人だった。
 明るい茶色い髪を持ち、薄い紫色の衣で身を包んでいる人。
 それだけなら何も問題はなかったが、問題があるのはその表情だった。少女には一つも表情が見られなかったのである。ぼんやりとしたような顔つきで、ぼんやりとしたようにどこか遠くを眺めている。そこから感情が少しも感じられないのだ。
「まさか、『天使』……」
 呟いたのはらいで。
 何も言わずに足を踏み出したのはアスターだった。
 ゆっくりとアスターは少女に近づいていく。らいも慌てて彼の後を追い、少女に近づいていった。少女はそれにすら気づかない様子でぼんやりと空を眺め続けている。
「こんにちは」
 あっという間に少女の隣に着いたアスターはすぐに彼女に話しかけた。
 しかし、何の返事も返ってこない。
「おい、聞いてるか? お前」
 アスターは少女の前に立って顔を覗き込む。少女の顔は相変わらずぼんやりとしていて、感情など微塵も見られなかった。
「お前、天使か?」
 率直な質問。それにも少女は答えなかった。
 何を言っても無駄だと分かったのか、アスターは一つため息を吐いた。少女の横に並ぶように立ち、同じように空を眺め始める。そうしているうちにらいが隣に来て、見るからに難しそうな顔をして立っていた。
「アスター君。この人きっと創造の天使だ」
「は? なんだそりゃ」
 聞いたことのない単語にアスターは反応する。彼に話しかけた青年は難しい顔を崩さないまま、自分自身を納得させるためでもある話を続けた。
「創造の天使、つまり、地上にあらゆるものを神様の代わりに創る人だ」
「そんな奴いたっけ?」
 少なくともアスターの頭の中には自分のことと神のことしかなかった。自分以外の天使の役割など少しも覚えていない。彼はらいの役割すら忘れるような人だったのだ。そのため天使の名前など、『意志天使』と『天使』以外には何もないことになっている。
「じゃ、天使なのか」
 それが意味することは、忘れ去られた存在だということだけ。
 感情のない存在。忘れられそうで忘れられていない存在。意志天使以上に難解な役割を担っている存在。そんな人が今、二人の意志天使の目の前にいるのである。
「…………」
 アスターは静かに隣に目をやる。そこにいる少女は何も言わずにただ空を眺めているだけ。
「なあ」
 静かに、ほとんど聞き取れないほど静かにアスターは少女に言う。
 少女はやはり何も示さない。
「なんでこんな所にいるんだ? 天使なら、神の傍にいるはずだろ」
 そうでなければ誰からも忘れられてしまうから。
「知ってるのか? 忘れられたらどうなるかってことを」
 次第に気持ちは膨らんでいく。
「知らないのか? 忘れられた天使がどうなったかということを」
 何も答えない天使が憎らしくなってくる。
 アスターはがっと両肩を掴んで少女の視線を自分に向けようとした。それでも少女の瞳はぼんやりしていて焦点が合っていない。
 かっと頭に血が上ったように、アスターは手に力を入れて少女に向かって叫んだ。
「死ぬんだよ! 忘れられたら!」
 知らないはずがないと思っていた。だけど相手は何の反応も示してくれなくて、アスターには何も知らないように見えてならなかったのだ。
 だから最初から全てを説明し始める。
「天使も意志天使も神も同じだ、皆永遠の命を持っている。だから永久に死は訪れないかといったらそうじゃないんだ。死は訪れる。誰からも忘れられた時に。たった一人でも覚えてくれている奴がいたら死なない。だけど誰にも覚えてもらえなかったらすぐに死ぬ。それは天使も意志天使も、神でさえ同じなんだ。神は自分が忘れられないようにと、天使や意志天使を創ったんだよ!」
 言い終わってから手を放す。そして少女の顔を見た。
 少女の瞳は、目の前にいる青年の瞳を見つめていた。
「俺は『観察者』のアスター。こいつは『管理者』のらい。そしてお前は、『創造主』のアナエルだ」

 

 

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