Nocturne U 闇の先の未来
天と地には決して消すことのできない隔たりがある。
空の上にあるのは地を見張るため。
空の下にあるのは天から逃げるため。
消えかかった光も、闇も、世界は助けてはくれない。
大地に立った青年は黙って空を見上げ続ける。
自分を見下す人々を許すために。
「アスター君!」
「またらいかよ! 今度は何しに来たんだ!」
天にある建物の中で二つの声がうるさく響いた。一人は部屋の中に駆け込んできた青年で、もう一人は静かに本を開いて読書の真似事をしていた青年だった。
読書をしているふりをしていた青年、アスターはそのままぱたんと本を閉じた。そして胡散臭そうに駆け込んできた青年、らいの顔を見る。
「あのさ、さっきから君のことを呼んでいる人がいて……って、こんにちはアナエル。君もいたんだね」
その場にいたのは二人だけではなかった。椅子に座ったアスターの隣には無表情のまま何も言わずに立っている少女、アナエルがいた。少女はらいの言葉を耳に入れてゆっくりと彼に視線を投げる。
「…………」
無論、何も喋らないが。
「珍しいね、アスター君が俺以外の他人と一緒に行動するようになるなんてさ」
「いいだろ別に」
手に持っていた本を机の上に放り出し、アスターはすぐにそっぽを向いてしまった。
「……もしや、照れてる?」
「う、うるさいな! どうでもいいけどあっち行けよお前!」
「いやいや、冗談だってば」
そんなことを言いつつもらいはくすくすと笑い声をあげていた。アスターにはそれが面白くないらしく、ますます機嫌が悪くなる。
「……で? 今日は何の用だよ?」
「あ、そうだった忘れてた」
らいは手をぽんと叩く。本気で忘れていたらしく、アスターはそんな相手の様子を見てすっかり呆れてしまった。
「外で呼んでたんだ、君のことを。確か『観察者』のお偉いさんだったと思うけど。早く行った方がいいんじゃない?」
淡々とした言葉を聞きながらアスターは目を閉じる。その顔には不満さがありありと溢れていて、明らかに嫌そうな表情をしていた。
「仕方ねーなぁ……」
しばらくは行くか行くまいか悩んでいたらしく何も喋らなかったが、少し時間が経過すると青年は椅子から背中を離した。机の上に置かれてあった本を手に取って面倒そうに歩き出す。
「アナエル、行こう」
それでも無表情の少女を呼ぶことは忘れなかった。
「ったく面倒臭い。なんで今更になって観察者の仕事があるんだよ。どうせまた別の仕事でもさせられるんだろうな」
天の建造物の上を歩きながらアスターは愚痴をこぼしていた。その後ろからは何も言わずに茶色い髪の少女がついて来る。建造物の空に面した場所へ辿り着いた時、アスターは手に持っていた本を空に向かって放り投げた。
「忘れられないように、か」
空に捨てられたものがどこへ行きつくのかは誰も知らない。一説では地に落ちると言われ、また別の一説ではそのまま消滅すると言われていた。
二人はまた歩き出す。天に降り注ぐ光は絶えず二人の姿を照らしていた。
「あーあ。何か変わったことでもないかな……」
いくら言葉にしてみてもそれが現実になるとは限らない。それを知っていても青年は自分の思いを口に出すことをやめようとはしなかった。
「どうせならこのまま空へ逃げていってしまおうかな……」
口に出してみてから空を見つめる。手を前に差し出して空に触れようとしたが、空とは手で触れられる存在ではない。彼はなんでも知っていたが、それでも何かが変わることを望み続けていたので何でも試してみた。その度にらいに笑われていたが。
「――あれ?」
ふと疑問の声を上げる。
青年はさっと顔色を変え、のばしていた手を引っ込めた。そしてその手を自らの体で包み込むように胸の前へ持っていく。
「あれ?」
再び疑問の声を上げるのは心を落ち着かせるためなのか。
「空って……触れられるものだったっけ?」
彼の手には、何かに触れた感触が生々しく残っていた。
思わず目を泳がせる。右へ左へ動く瞳は何を探しているというのか。どこへ視線を当ててもそれは見慣れたものばかり。彼が探し求めているものとはそんなものではないはずだ。決して見つからないものを探すかのようにアスターは目を泳がせる。
その気持ちは混乱していくばかり。次第に何かにすがりたくなってくる。
「ちょ、ちょっと待てよ。何かおかしいぞ、これ」
彼は隣にいる少女に話しかけていた。少女は何も喋らずに青年の顔を見る。
「アナエルも知ってるだろ、空っていうのは空気の塊だから、手で触れられる物質みたいなものじゃなくてだな、そうだよ触れられるはずないんだから。でもなんで――」
青年はそこで言葉に詰まった。なぜなら天に降り注ぐ光が途切れたから。
はっとして空を見上げた。空は今までの青さを捨て、天では決して見ることのできない黒に染まっている。
「な、なんだよこれ!」
一度も経験したことのない唐突な事実にアスターは慌てる。
「黒……?」
混乱する頭の中でその名称を唇に乗せた。
黒。天では存在しないもの。光と相反するもの。大地にのみ存在する、天では忌み嫌われているもの。そんなものが目の前の空間を支配している。
やがて黒い色は反発でもするかのように意志天使に襲いかかる。アスターには黒に染まった空が吼えているように見えた。空は黒い色を変えないまま、二人の人だけを飲み込んでいった。
+ + + + +
目を開けるとそこには白と黒があった。
言い換えれば、白と黒しかなかった。
どこかで聞いたことがあった。白と黒しかない世界があると。
それがここだというのか。それが俺が今いるこの場所だというのか。
白と黒の中にも光が見える。
白い光は誰を呼んでいるのだろうか――……。
青年が目を覚ました場所は天ではなかった。そこは多くの生命が生活をしている大地の上だった。天とは決して繋がらない世界。そこに放り出されたアスターは座ったまま、しばらくぼんやりとして白い光を見つめていた。
視界に入ってくるものは白と黒ばかり。高い空も遥か彼方へ続く地面も、光をもたらす太陽でさえも白と黒の色彩しか持っていなかった。
しかし青年を驚かせていたのはそれだけではなかった。いや、それだけなら青年はそう驚いたりはしなかっただろう。彼を驚かせていたものとは、崩壊した世界の姿だった。
世界は崩壊していた。青年の周囲に散らばる何かの破片がそれを物語っている。どこへ目を向けても何の生物の気配もないこともそれを物語っている。世界は完全に崩壊していたのであった。
彼の足元に転がっているものはもはや原形をとどめていない。アスターは何とはなしにそれを拾い上げ、じっと見つめて正体をあばこうとした。
それは時計だった。針で示すものではなく、デジタルの数字が示してくれる文明の業で作られた時計だった。そこには時間だけではなく日付も表示されている。
アスターのぼんやりした瞳の中に数字が入ってくる。そこに示された数字は、彼を納得させるには充分なものだった。
初めて彼は自分が未来の世界にいることを知った。
崩壊した未来。
飲み込まれた先の絶望。
照らしてくるのは色のない光。
理解できない空白の過去。
青年は立ち上がった。そして歩き出した。
ふと気づくと隣に茶色の髪の少女がいた。白と黒しかない中、二人の色彩だけが目立って強調されていた。
「アナエル」
名前を呼ぶと、声を出すと急に恐怖が押し寄せてくる。しかし同時に彼の中に別の感情が溢れてきた。
「どうする? どうやらここは未来の世界らしい」
「…………」
少女は何も言わない。それも慣れたことだったのでアスターはそのまま話を進める。
「俺には信じられない。あの均整のとれた世界が崩壊するなんて」
彼が話すのは自らの価値観。
「過去に何があったかなんて知らないし、未来だけを見せられても俺には何も理解できないんだ」
彼が話すのは自らの正義。
「だから俺は過去を調べる。過去を、世界の均整がとれ始めた頃からの過去を全て」
彼が話すのは自らの決意。
「全てが分かるまでは何にでもなるつもりだ。観察者でも、意志天使でも、感情のない天使でも、それでもない何だか分からないものにでもなるから」
溢れてくるのは感情の渦だけ。それを必死になって抑えながら、アスターは最後まで聞いてくれたアナエルの手を握った。
「できれば君にも協力してほしい」
アナエルは青年の瞳を見た。それは不思議な輝きに満ちた、強く何かを望んでいる瞳だった。
ふわりと風が二人を包む。
それに合わせるかのように、少女の顔に一つの笑みが宿った。