Nocturne V 過去の空白

 

 

 誰にも知られないようにと隠すことには必ず理由というものがある。
 それは隠す人を苦しませるものなのか、それともただ知られたくないだけなのか。
 どちらにしても他人は知るべきものではないからこそ隠し続けるのである。

 

「今から約千年前のこの日、世界が創造された年に生まれた『天』が崩壊した。その理由は定かではないが、全てのものに忘れられた時に死が訪れる『神』が消えたことだと推測されている。『天』が闇にのまれた時、同時に最後の『天使』も姿を消したらしく、『神』の代わりになる者の姿もなかったため『天』は安定を失った。よって『天』は滅んだとされている……」
 紙の上に書かれた活字は青年にも読むことができるものだった。大量に置かれた紙の山から取り出した一枚の紙は彼に全てを教えてくれる。
 白と黒の空間の中、金色の髪を持つ青年、アスターは共についてきた天使のアナエルを連れて一つの建物を見つけた。その白い建物の中には高い本棚とばらばらに散りばめられている無数の紙しかなく、人の姿はどこにも見えなかった。この白黒の未来の世界に来てから青年はアナエル以外の人に会ったことがない。それ以前に植物も建物も数が少なく、何日か歩かないと別の建物に辿り着けないほどだった。
「だがもし本当にそうだとしたら、あの後神は全ての人に忘れられたことになる。はたして本当にそんなことがあり得るのか?」
 一人で自分に言い聞かせながらアスターは紙を床に捨てる。ひらひらとゆっくり落ちていく紙をアナエルは無言で見つめていた。
「それに分からないこともある。どういうことなんだよ、最後の天使って。神の代わりになる者ってのは分かるけど……」
「…………」
「アナエルは天使だけど、俺が天にいた頃には他にも天使はいたはずだろ。でなきゃ天は安定しない。意志天使だけでは成り立たない役割ってのもあった筈だし……」
 いくら推測を巡らせてみても何も分かりはしない。青年はそれはよく分かっていたが、そうせずにはいられないほど混乱していたのだ。彼の呟きは全て隣にいる少女にも聞こえてきた。
 そんな時、ふとアナエルの目に一枚の紙切れが入ってきた。それを無言で取り上げ、考え込んで俯いていたアスターに手渡した。
 アスターは少し驚いた表情を作る。が、すぐに真面目そうな顔になってアナエルから紙を受け取った。
「これは……」
 ざっと全ての文字に目を走らせる。声に出さずに黙読していたが、だんだんと表情が驚愕のそれに変わっていくのを少女はじっと見つめていた。
 ぎゅっと紙を握り締め、アスターは感情を殺した声で呟く。
「……『モラリスト』、か」

 

 世界が崩壊した理由。それはやはり神の死に間違いなかった。
 神が死ぬ時とは全ての者に忘れられた時のこと。つまり二人が未来へ飛ばされた後に神は忘れ去られた存在となったのだ。
 それは『天使』の存在にも影響している。
 天にいた『天使』は、青年の予想とは違ってアナエルだけだった。神の傍にいるべき天使は誰もいなかったのだ。だから最後の『天使』が未来へ飛ばされると神は忘れられた。意志天使は誰も神のことを気にしていなかったのだ。
 しかし全ての『天使』が天に存在しなかったわけではない。『天使』は一度死を迎え、再び何者かの手によって甦らせられた。
「それが人を観察する『モラリスト』ってわけか。俺と同じ観察者なのか」
 普通『天使』は死を迎えてもその精神は生き続ける。ただ存在が認められなくなって天に姿をさらすことができなくなるだけで、完全に死ぬことは不可能と言ってもいいほどなのである。
「さ迷っている天使の精神を利用して作成した? だが何の為に……」
 行きつく先は『神』。
「甦らせようとしているのか? 神を」
 その為に『天使』を利用する。
「それが最も手軽な方法だから?」
 青年は手の中にある紙を見つめた。活字は何も変わらずに、全てのものを彼に教えてくれる。
「観察者……か」
 再び紙切れを床の上に投げ捨てる。書かれてあった文字は全て頭の中に刻まれたため、アスターにはすでに不必要なものと化していたのだ。
「アナエル」
 隣にいるはずの少女に話しかける。相変わらず返事はないが、それでも青年は気にせずに話を続けた。
「俺にはやるべきことが分かったかもしれない」
「へぇ、さすがはアスター君。もう全部分かっちゃったんだね」
 さっと表情を厳しくさせる。
 聞こえてきたのは明らかにアナエルの声ではない。むしろここでは聞くことができるわけがない、さらに混乱を招くような声だった。
 顔を上げずに、姿勢を変えないままアスターはその声の主の名前を呼ぶ。
「……らい」
 目の前に現れたのはかつての唯一の友人であって。
「まったく、探したよ? 本当に君はどうしようもない奴なんだから」
 天では珍しい黒髪を持つ青年はにこりと人がよさそうに笑って見せた。アスターはそれを見て、やはり胡散臭そうに思えてならなくなる。
「なんでお前がここにいる」
 混乱のために自然と声色が厳しくなる。
「まあ驚くのも無理はないか。俺は上からの命令で君を探しにここまで来たんだ。よかったよすぐに見つかって。さあ、一緒に帰ろう」
 笑顔を崩さないままらいは言う。彼はアスターに手をさしのべた。しかしアスターはそれを払いのける。
「悪いけど、俺にはやらなければならないことがあるらしいんだ。だからまだ帰れない」
「何をおかしなことを言っているの?」
 表面こそ静かだったが、二人の間では大きな流れが押し寄せてきていた。それに気づいているのか気づかないのか、かつての友人の考えを否定し続けることは双方とも同じだった。
「らい、お前はこの世界を見て何も思わないのか」
 先に切り出したのはアスターだった。
「ここは俺たちの未来の世界なんだぞ。未来は崩壊するんだ。それにこの資料に書かれたことによると――」
「アスター君は本当に人のことを理解していないんだね。俺がこの未知の世界について何も調べなかったとでも思ってるんだ? 知ってるよ、神の死によって崩壊した天、最後の天使、神の代わりの者、そしてモラリストという観察者」
 黒い髪の青年はつい先ほどアスターの知ったことをぺらぺらと喋る。やはりらいには敵わないか、と思いながらもアスターは平静を取り戻せないでいた。
 彼には理解できなかった。そこまで知っているのになぜそのまま放置したまま帰ろうとするのかということが。
 彼には分からなかった。それが逆に苛立ちに変わってどうしても聞かずにはいられなくなる。
「未来を知ったのはきっと何か理由がある筈だ。だから俺たちは未来を崩壊させない方法を考える義務があるんだろう。このまま帰ったりしたら駄目なんだと思う。それにそうすることがきっと……」
 そこまで言ってアスターは言葉が続かなくなった。なぜかと聞かれても答えられないだろう。自分でも分からなかったが、何か強い視線を感じたのだから。
「また、神の為?」
 前には呆れた顔がある。
 金色の髪の青年は何も言い返せなくなり、口を閉ざす。
「アスター君。君は神に囚われすぎてるよ。何をするにも神の為。それは君自身の為にならないことだよ。君も知ってると思うけど、今の――って言ったらおかしいか、でも今の天で神のことを真剣に覚えようとしているのは君くらいしかいないんだ。だからきっと天が崩壊したのは君がいなくなったせいだと俺は考えてるよ」
 彼の言う言葉に嘘は含まれていない。アスターもそれを心の奥できちんと理解していた。それでもかつての友人に反発したい思いが溢れるのはその事実を受け入れたくなかったから。
「そんなことは分かっている。確かに俺が戻れば世界は崩壊しないのかもしれない。だけど本当にそうなるっていう証拠なんかないじゃないか。それに、それに……」
 一度言葉を切る。相手の青年は何も言ってこなかったのでアスターはそのまま続けた。
「神が死ぬのは決められたことだから。俺がいるって事がそれを証明している」
 心の中ではもう一言付け加える。
『神の代わりの者は俺だから』

 

 青年が自らのことを他人に話さなかった理由は、ただ単に知られたくなかったからではなかった。上から口止めされていたのだ。
 アスターは神の代わりとして生まれた命だった。いつか神が存在を消した時、神の代用品となってその役目をこなすようにと作られた命だった。代用品の青年はその事実を知っていたし理解もしていた。だからこそ口止めされることに嫌気も感じなかったし、何より神に忠実に動いていたのだ。
 何事にも興味を持たないのは神に関係がないからであり、神に忠実になるのは未来の自分の姿かもしれないからと同情していたからだった。
 彼が作られたのはごく最近のことであり、らいと出会うほんの数日前のことだった。そこで彼は意志天使として暮らしていた。自分の存在理由を他の人に知られないように無関心を押し通しながら。

 

 

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