Nocturne W 自由の代償

 

 

 ほんのささいなものでさえも、いつかは恨まれる時が来るのかもしれない。
 それでもそれに気づくのは何かが起こってからであり、以前に知ることは不可能なのであろう。
 大切なものと同様、失わないとその重大さに気づかないもの。
 常に気にかけることができないからという言い訳では済まされないのかもしれない。

 

 アスターのかつての友人は彼の正体を知っていた。だからこそ何も言わなかったし、すぐに相手の言い分を理解することができた。
「じゃあ君は帰らないんだね、天に」
「お前は帰るのか」
 意見が対立することはよくあった。それでも今回の対立は根本的な部分から違っていた。アスターにはそれが残念に思えてならなくなる。
「帰るよ」
 短く答える青年の顔に迷いは見られない。
 やがて一つのため息が生じる。それを吐いたのは金色の髪の青年だった。
「そこまで言うならお前を巻き込もうとは思わない。元々お前には関係のないことだしな。そういうわけだから俺はもうここを出る。どうやったのかは聞かないでおくけど早く帰れよ」
 いつものような口調の中にも相手を案じる感情がこもる。それはもう相手に会えないと思っているところから来るものなのか。
「うん、じゃあ帰らせてもらうよ。……あ、そういえばもう一つ忘れてたけど」
「なんだよ」
 昔のような会話になる。互いに意識していなかったが、そうなってしまったことに先に気づいたのは言葉に答えたアスターだった。少しだけ表情を歪ませたが、らいにはその意味が分からなかったらしく何も気にせずに続きを付け加えるように言った。
「こっちも上からの命令でね。アナエルは絶対に連れて帰ってこいって」
「はぁ?」
 珍しく驚愕の声を上げても相手は怯まなかった。少しもアスターのことを気遣う様子もなく、ただ自分のやるべきことに忠実であるかのように茶色の髪の少女の傍まで歩いていく。
「……ちょっ」
 慌てた様子でアスターはとっさにアナエルをかばった。自分でもなぜそんなことをしたのか分からなかったが、意志とは関係なく身体が勝手に反応していたのである。
 そんな友人を見てらいは困った顔になった。
「アスター君。君の気持ちは分からなくはないよ。だけどこれは仕方がないことなんだ。上からの命令で、アナエルを連れてきたら彼女を救ってやるって言われたんだから」
「救うだって? そんなことができると思っているのか?」
「そりゃ、最初は疑問に思ったさ。だけど何でも疑うのは君の悪い癖だよ? 神のことはあんなに信用しているのに」
「それとこれとでは訳が違う!」
 次第に青年の感情は高まっていく。
 彼には許せなかった。今まで捨てておいた人のことをなくしてから取り戻そうとするその考えが。同時に責任も感じていたのでそうやすやすと誰だか知らない奴に渡すようなことをしたくなかった。だから彼はアナエルをかばう行動に出たのである。
「お前がそう言うなら、俺がアナエルを連れていく。俺がこいつを巻き込んだんだ。だから俺にはこいつの面倒を見る義務があるんだ」
「それで本当にいいの? さっきは帰らないって言ってたくせに」
「うるさい」
 そのままアスターは背を向ける。その行動が可笑しくなったのか、らいは昔と同じようにくすくすと笑った。金色の髪の青年はますます顔を歪ませる。
「ごめんごめん、やっぱり君はどこに行っても変わらないんだなぁって思って」
「嫌味か、それは」
「そうかな? ……そうかもしれないね」
 らいは笑顔を失わない。薄い笑みを浮かべたままアスターの背中を一押しし、自分は先に建物の中から出ていった。
 まだ不満そうな顔をしていたアスターも事の状況を理解できないほどではない。何も言わずにずっと傍にいてくれたアナエルの手を取り、彼女を連れてらいの後を追って外へ出ていった。

 

 過去の天にはすぐに帰ることができた。その方法は上から口止めされているから言えないということだったが、アスターは言葉で説明されなくても実際に体験したので自分の目で見て理解することができた。今後の為にと思って青年はその方法を頭の中に押し込んでおいた。
 それは一言で言えば魔法の力によるものだった。天で暮らす意志天使は皆当たり前のように魔法を使って暮らす。当然アスターも魔法を使うことができたが、彼はあまりそれが好きではなかったので滅多に使うことはなかった。好きでない理由としては、『神がそれを使わないから』である。
「上って、お前の――管理者の奴らの命令なのか?」
 久しぶりに帰ってきた天には何の関心も表さずにアスターは気になったことだけを聞く。らいは相変わらずだと思ったのかまたくすくすと笑い出し、それでもいつものように友人に説明した。
「君のことを知っているのは俺しかいなかったからね。だから俺に頼まれただけだから、管理者の上の人からの命令ではないよ」
「ふーん」
 自分で聞いておきながら興味のなさそうな返事を返す。たとえそんなことをされても怒らないのがらいという人だった。
「ほら、ここだよ連れて来るように言われたのは」
 そう言って目の前に現れた建物を指差す。
 三人の前にある建物は、アスターにとっては見慣れたものだった。
「おい、これ」
「俺も驚いたよ。最初はね」
 それはアスターの役割である『観察者』の本部の役割を持つ建物だった。いつも嫌々ながらもここに通っていた本人が見間違えるわけがない。アスターはなぜか嫌な予感がした。
「なあ、らい。やっぱりやめないか」
「どうして? ここまで来たのに今更」
「そもそもこの中で何をするつもりなんだよ」
 嫌な予感は焦りに変わりつつあった。らいはそんな友人の姿をあまり見たことがなかったので少し驚く。
「君が君の上の人を信用していないのは知ってるけど。でも俺は信用していいと思ってるから」
 静かに相手を諭すように言う。
「そんなの、何の根拠もない」
「そうだね。分かってるよ。でもそれ以外に彼女を救う方法を俺は知らないから」
 アスターはまた口を閉ざす。今日は調子が悪いらしく、相手に何か強い言葉を言われると言い返せなくなってしまうらしい。
「いつまでもそんなこと言ってないでさ、ほらもう行こう?」
 再び背中を一度押され、アスターは仕方なく建物の扉を開けた。そして踏み慣れた床をしっかりと踏みしめ、警戒したような心構えで中へ入っていった。
 無論、アナエルの手を離すことなく。

 

 聞こえてきたのは嘘か本当か、善か悪か分からないことだけだった。
 アスターは完全に混乱した。頭の中で何もかもを考えすぎて逆に何も分からなくなり、知りたくもないことだけが理解できていくようで恐怖に襲われた。
 考えれば考えるほど分からなくなった。相手の言っていることの意味が。相手の考えていることの根本的な部分が。
 だから彼は焦った。焦りは恐怖と混乱を増幅させた。しかし同時に憤りも生んだ。その憤りは彼を行動に移させるには充分な力を持っていた。
「どういう意味なんだ」
 彼の輝かしい金色の髪が揺れる。
「アナエルは『天使』だ、お前らとは違うだろ」
 静かに長く息を吐く。
「お前らなんかにこいつを支配する権利はない! ふざけたこと言うな!」

 アスターが聞いた話はアナエルを救う方法ではなかった。逆に不幸の中へ落とすような話だった。
 相手側はアナエルを『モラリスト』にすると言った。理由は簡単なものだった。アナエルは『天使』であるのにもかかわらず感情を持った。それはほんの一瞬のことだったが、不必要なものを持つことは『天使』にとっては最大の罪だと言った。
 青年にはそれが許せなかった。相手側が知っている人だったので尚更。

「お前らの言っていることの意味が分からない」
 彼は一度感情を殺して本音を言う。
「天使は感情を持ってはいけないって言うのかよ。意志天使は感情を持ってもいいくせに天使は駄目だって言うのか。天使がいなければ意志天使なんて生まれなかったというのに」
 天使である少女に出会ってからアスターには分からないことが増えていた。自分自身の感情についても説明できないものが多かった。今もそれと同じ状況になり、それでもアスターは怒りを込めた声で続けて言う。
「お前らがやっていることは、神だけじゃなく天に背いていることだ」
 理解できない考え。なぜ彼は神にも関係ない一人の天使の為にこんなにも必死になれるのか。なぜ自分にも関係ない一人の少女の為にこんなにも溢れてくる気持ちがあるのか。
 分からなくても構わない。この思いさえも、最後には消えてしまうものだから。
「こんな天なら崩壊して当然だ。だけど、俺はそれでも未来へ行く、こんな天でも崩壊しないように」
 なぜならそれが神の願いだったから。
 神は願って世界を創造した。その願いに背くことになるようなことはしたくなかった。同時に世界の他にも天使を創造した。だからアスターはアナエルを守ろうとしているのか。
「そうか……そうだ」
 青年はそうであると信じようとしたが、それは彼の嘘にすぎなかった。もっと彼の別の思いが、人らしい『感情』がそうさせていることを彼は知らない。
「アナエル、こんな奴らの言うことを聞く必要はない。もう一度未来へ――」
 後ろを振り返ってアスターは手をさしのべる。しかしその手に触れるべき少女の手はそこになかった。
 高まった感情がさらに高まり、最後にそれは奈落の底へと堕ちていく。
 底に待ち構えているのはただ一つ。
「ごめんね、アスター君。やっぱり俺には君の考えが理解できないから」
 絶望。
「あ……」
 体が動かなくなる。
「この天では不必要なものはただの邪魔なものなんだよ。要らないものなんだ。そんなものをいつまでも大切に置いておくのは間違ってることだよ」
 目を開けているのに先に見えるものがない。
「普段なら君の味方をしてあげてもいいけど、今は無理だね」
 いいや、見えているけど見ることを拒んでいるだけ。見たくないのはそれを認めたくないから。
「ここまでくると、さすがに君のわがままということになることを忘れないで」
 アスターの視界に飛び込んできたもの。
 それはかつての友人が、守るべき相手を敵に引き渡している場面だった。
 守るべき相手はアスターの上の人に連れられ、扉の奥に消える。扉に鍵はなく、魔法の力によって閉じられた。青年はその開け方を知らない。
「……なん、で」
 体中から力が抜けていき、床の上にぺたんと座り込む。すでにその瞳の焦点は合っていない。
 今まで考えてきたものが抜けていく。頭の中が真っ白になって何も考えていない状態になる。だがぼんやりと、これが天使というものなのかもしれないと考える。
「さあ、アスター君もいつまでもこのことを引きずってないで――」
 ばしり、と小さな音が響く。
 それはらいがさしのべた手をアスターが払ったために生じたものだった。
 アスターは立ち上がった。抜けていた力は無になった思考の元では無意味で、何も考えていないから本能のまま動いていた。
 青年はアナエルが連れていかれた扉の前に立った。その扉を手で触れる。冷たい感触が伝わり、再び青年の中に感情が宿る。
 彼の中に生じた感情に、もはや怒りや焦りなどはない。混乱や恐怖さえもない。彼の中に在るものは、ただ一つだけだった。
 扉の冷たい感触を確かめながら涙を流す。
「神よ――」
 静かに願いながら涙を流す。
「俺にくださった時間は俺のものだと思わせてください」
 すっと目を閉じる。甦ってくるのは嫌いな過去の自分の姿。
 ずっと思い続けていたこと。本当はそう思ってはいけないと知っていたのに思い続けていたこと。だがそれは、最も人らしい考え方。
「俺に俺の生き方をさせてください。あなたが消えてしまうまでは……いいや」
 目を開けて目の前の現実を見つめる。そこにあるのは冷たい扉という名の壁だけ。
「あなたが甦るまでは、俺を俺でいさせてください」

 

 

 

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