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 絶望だとか哀しみだとか、俺はそれらをただ知ったつもりでいたのかもしれない。今なら冷静に考えるまではいかなくとも真正面から見ることができるので、どうしてそのような結論に行き着いたのかという理由はよく分かる。分かるんだけど、それでもそれはどうしようもないことだった。
 だって俺は俺であるんだ。決してあいつの気持ちは分からない。分からない。分からないんだ。
 だからこそ。
「何をそんなに驚いているのです?」
 だからこそ、ありのままの気持ちを聞いてみたかった。
 どうやらその機会が訪れたらしい。本当に突然だけど、確かに俺の求める相手は目の前にいる。しかしその時俺は直感的にこれが最初で最後なのだと察した。この先にはもう何も残されていないのだと覚(さと)った。そして今だけが全てを明らかにできる時だと思い込み、余計な感情を捨てなくてはならなかったのだけど、一度きりのこの機会の中で流されているとどうしても焦りというものを抑え切れなかった。
 俺の周りには先の見えない草原が広がるだけで誰もいなかった。いや、ただ一人だけが目の前にいた。どうして今になって姿を見せに来たのかなんて分かるものではない。それでも確かに目の前には、世界を滅ぼそうとしている一族の少年が立っていたのだった。
 相手はいつもと変わらなかった。ほんの少しの笑みさえ見える。自らを武器商人と名乗っていた昔も、一族の最後の者として世界を滅ぼすと言い張っている今も、表情や思想なんかは明らかに違うのだけど根本的な部分は全てが同じだった。やはり相手はラスだった。ラス以外の何者でもなかった。
 その事実が今はただ辛く感じられた。俺はふとあれは夢だったんじゃないかと自分に言い聞かせてみた。しかしいくら言い聞かせたところで何も変わらない現実があった、そしてそれは無惨な姿のままで俺の前に横たわっていた。何か黒いものが俺の光の中に紛れ込んできた。だけれど俺には黒いものの正体が分からなかったからそれを追い出すことができなかった。そして仕方なしに今の状況を現実だと認める他はなくなってしまったのだ。
「あなたは今、非常に悩んでいるのですね」
 金色の髪は闇の中でも綺麗に光っていた。それでもそれは本物の金色じゃないことを知っている。
「何をしに――ここへ?」
「そんなことを聞いてどうするのです」
 素直に答えてくれない相手はどうやら何かを探しているらしい。どうしてそう分かったのかと言われると正確に説明できないが、なんとなく空色の瞳が俺ではなく別のものを見ているような気がしたのだ。
「俺の存在が邪魔だから?」
 出し抜けに、自分でも思いがけなく変な台詞が口から飛び出していた。
 相手はちょっと表情を歪めた。それは苦悩とか後悔とか、そういったものが混じっているような違和感のある表情だった。この質問に対してどうして苦悩や後悔の表情を俺に向けられるだろうか? そこには明らかに何かが含まれていることを咄嗟に感じ取った。
「あれについては、そうです、僕はあなたに謝ろうと思っていたのですよ」
 彼は嘘を言ったのだとすぐに分かった。
「馬鹿な真似をしてしまったと後悔していたのです。だからあなたに謝ろうと思いました。いくら僕だって何の被害も及ぼさないような人を無造作に殺すようなことはしませんよ。あれは、あの時は――精神が異常だったのです。おかしかったのです。あなたもそう思ったんじゃないですか? 僕は変になってしまったんじゃないかってね。まあよしましょう、実は別の要件があってあなたを訪ねたんですよ」
 最後の言葉は相手の目的を示しているようだった。無論まだ何か隠していることもあるのだろうけど、その目的だけはどうしてなのか本当のことのように思えた。
 相手は表情を変えないままで急に黙った。そうされたので俺は何かを言わなくてはならなくなった。ここで終わらせるのは相手にとっては取るに足りない些細なことであっても、俺にとってはたった一つしかない命を投げ出すことと同じようなことだというほどに重要なものだったのだ。だからどうしてもここで打ち切りにしてしまいたくはなかった。
「俺は何も知らないよ」
「安心してください、あなたに危害を加えに来たわけではないですから」
 言い様のない不安が胸の中に広がっていった。黒いものが静かに蠢(うごめ)き始めていた。周りの闇がそれをさらに引き立てていく。
「あの時は一方的に僕の意見を押し付けてしまいました。覚えていますよね? 今思えばつまらないことでしたよ。だってあれはただ僕が思っているだけのことであって、あなたがどう思っているかを配慮しなかった雑な言葉の群だったのですから。だからそれに気づいた僕はあなたに聞きに来たのです、あの意見があなたにどんな効果を与えたのかということを」
 そしてやっと相手の顔が変わった。孤独に蝕まれた表情。そう言う他はなかった。そして俺は最も怖れていたことが起こっていることにも気づかないふりをしていた。
 俺には相手の意見を否定するだけの強い信念がなかった。それ以前に、相手の意見の中に含まれる正当性をすでに認めてしまっていた。もちろんそれに対抗し得る正当性というものもあるのだろうけど、今はそんなものはどうでもよくて、ただ俺の中にある考えが相手のものとよく似ているということを理解してしまっていたのだ。
 このような理由から俺は迂闊に口を滑らすことを怖れた。そのくせ相手の訪問を腹の底で期待していた。これほど可笑しなことはなかったが、それを笑う時間さえ惜しいもののように思えてならなかった。
「確かに人は身勝手な行動をして、守らなきゃならないものを壊していっている……でも全ての人がそんな考えを持っているわけじゃない。人のことを、信じてみることとかできないかな? ……」
 出てきた言葉に強いものがなかったことは明白だった。相手はそれを聞いてしばらく黙っていた。その時一つの希望が見えた気がした。俺はこの強さを含まない声で相手をやり込められるような気がしたのだ。どこか卑怯な手のようにも見えたが、自分の意志が分からない今となっては、そうすることでしか自らを守ることができなかったのだ。
 相手は尚も黙っていたが突然「信じる?」と呟いた。それは風に流されてしまいそうなほど細い言葉だった、そして続けざまに硝子のような声を吐き出した。
「そんなことができると思っている? あなたは僕がそれをできると思っているのですか? では逆に聞きますが、あなたには人を信じることができますか。何の疑いもなく、腹の底から、本当の自分の気持ちで、人を信じることができますか」
 俺はまるで急所を突かれたように胸の中に何かが入っていくのを感じた。それこそ最も怖れていたことだったのだ。相手が俺の弱点を知っていたのかどうかは知らないが、知っていようと知ってなかろうと今となっては関係ないことだった。
 人を信じること。俺は昔、それを拒んだ。
 兵器としてしか見られてなくて。
 欠陥品扱いされてて。
 いいように使われていて。
 俺の意志なんか、まるで無視されていて。
 全てを知ったとき、俺は全てを嫌った。全てを憎んだ。恨んだ。どうしてこんな仕打ちをするんだって。なぜ俺なんかを創ったんだって。
「あなたは人じゃない」
 胸を貫いたのは少年の一言。
「どうです? あなたが望むならば僕はあなたを生かしてもいいのですよ。ずっと苦しまなくていいんです。ずっと悲しむことなんてありません。全てを許せるようになります。なれますとも、あなたなら。恨む必要なんてありません。憎む必要なんてありません。だけど、僕らは僕らだということと同じように、あなたはあなたでしかないのです。あなたはずっと独りぼっちなんです。独りぼっちなんです。独りぼっちなんです。……」
 これは誘いなのか。
 静かな空間が訪れた。俺も相手も黙り込んで何も言わなくなった。ただ夜の闇が空間をざわめかせていた。草原は風の通り道を作る。
 俺は相手の顔を見た。目を見た。空色の瞳は闇に紛れて黒くなって見えた。相手も俺の顔を、目を見た。相手に俺がどう映ったのかなんて分からない。悲しそうな顔をしていた。それでいて嬉しそうな顔をしていた。しかしそれは楽しそうなのか怒っているのか俺には分からない。暗い影が相手の顔の裏に見えた気がした。それは夜の闇より数倍暗かった。そしたらはっとした。俺はその影に襲われているような感覚を持った。急に相手が恐ろしく見えた。恐怖が頭の中を支配した。相手は俺を睨むようにじっと見ていた。感情が外に出てきそうで出てこない。内に秘めているものが大きすぎて、計り知れない相手から逃げるように、俺は背後にあった家に逃げ込むことしかできなかった。
 扉を開けて中に入り、しっかりと閉めた。まだ影が体中に纏わりついているような感覚がした。扉にもたれ掛かると息が整っていないことに気づいた。そうして相手の言葉を一つ一つ思い出し始めた。
 すると相手の言っていた「独りぼっち」という言葉が頭から離れなくなった。なぜ急にあんなことを言い出したのだろうか。なぜ俺にあんな言葉をかけてきたのだろうか。なぜ何度も繰り返していたのか。なぜ同じことばかり繰り返していたのか。何一つ分からなかった。
 あまりにも相手は恐ろしく感じられた。しかし反面、あまりにも相手は優しすぎた。それが分かると相手の言っていた言葉の意味も同様に分かった気がした。あれは俺に言っていたのではなく、俺の目を見ていたのではなく、もっと遠くにある何かに言っていたのではないのだろうか。俺の先にある何かを。俺を超えたところにある何かに。
 俺は何かに驚いたようにびっくりした。そうしてどうしてだか分からないまま後ろの扉を開けた。暗い闇夜がまず目に入った。その中に金色の光を捜したが、もうどこにも見えないようになっていた。それを目の当たりにして一瞬に光を失った気がした。もはや彼を救う方法は失われたと思った。しまったと思った。ああしまったと繰り返した。彼が独りぼっちだと繰り返していたのは、自分に向かって言い聞かせていたんだとやっと分かった。
 それはほんの十分間のこと。

 

 

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