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99 

 外では雨が降り出していた。
 室内には久しぶりに集合した面々がそれぞれ椅子に座ってお茶を飲んでいた。なんとものんきな場面だったが、気持ちはどうしても和やかになることはなかった。
「話さなくちゃならないことがあるんだ」
 俺は全員に向かって声をかける。そして一人一人の顔を見ていった。
 俺の真正面に座っているのはアレート。この中では一番のんきそうにお茶をすすっている。その隣にはリヴァが座っており、こちらもまたのんきそうな表情をしていた。外人の隣にはすました顔をしたロスリュがいた。他の皆に顔を見せるのは久しぶりな彼女だったが、そんなことは少しも気にしていないらしい。水色の髪の少女の隣にはジェラーがいた。こちらもまた、いつものように無表情だった。
 ちょうど俺の隣には師匠が座っており、さらにその隣にはラザーがいる。ラザーの顔は見えないので分からなかったがきっとまた怒っているような顔をしているのだろう。なんだか見てもいないのに予想ができるなんて可笑しいような気がした。それによって少しだけ気分が軽くなる。
「驚かないで聞いてほしいんだけど」
 そこまで言って、続きが言えなくなった。どう言っていいか分からなくなったんだ。俺の口からあのことを言ってもいいのかどうかすら怪しかったから。
「川君」
 小声で名前を呼ばれた。誰が呼んだのかはすぐに分かった。オセにカイと呼ばれていた師匠だ。
「俺が言うよ」
 相手はちょっと俺の顔を見ていたが、すぐに目をそらして前方を見据えているようだった。前に座っている人を見ていたのではないのだろう。きっとどこか遠くを思い起こしながら話していたのだろう。
 俺は相手の話を静かに聞くことにした。

 

「――にわかには信じがたい話だね」
 話を聞いてからの反応は単純なものだった。
「でも本当なんだ」
 最初に口を開いた外人に向かって俺は言う。今はそう言う他にできることはなかった。あのことを否定することなんてできなかった。そうすることは即ち、あいつ自身をも否定することになってしまうから。
「それであなたは、納得しているの?」
「どうしてそんなこと」
 アレートは妙な質問をしてきた。問いに返そうかと口を開いたが、その言葉は最後まで続かなかった。それを見たアレートは少し顔を厳しくする。
「知らせるのはそれだけ?」
 最も落ちついている様子を見せているロスリュは続きを促してきた。しかし俺にはもう何も言うべきことは残されていなかった。残されているのは師匠だけ。
「そうだな。俺が見たものを全て見せるよ」
 以前俺に向かって言った言葉をそのまま吐き出す。
 師匠は表情を変えなかった。ずっと淋しそうな顔をしている。以前の彼からは想像できない表情だった。しかしそれを一番訝しげに見ているのは俺ではなくラザーラスだった。
 机の上に何かを乗せる。それは小さく光っていた。率直に言えば光の塊。それを机の上に乗せた師匠は少しのあいだ黙っていた。
「これが俺の見たもの。あいつ――ラスに捕まっていた時に、暇つぶしにどうぞって渡されたものなんだ」
 事実を告げると光が大きくなった。そして俺はそれに呑み込まれていく。

 

 + + + + +

 

 その世界は風が心地よかったんだ。
 色彩なんていらないほど風が心地よかった。白と黒しかなかったけど、どこからか吹いてくる風がいろんな色彩を持ってきてくれるみたいだった。それを浴びるとどきどきした。草の緑とか、花の赤とか、空の青とか。それらを風が教えてくれるなんて素敵だと思わない?
 今は逃げ惑う生活しかできないけど、いつかはきっと皆で仲良く暮らせるって信じてる。だって僕と彼は一族と人だけど、とても仲良くなることができたんだから。
 一族でも人でも皆気持ちは同じなんだ。だからいつか双方がお互いのことを認め合って、共に暮らせるようになれるって思う。
 そう伝えると彼は――ダザイアさんはにこりと笑ってくれた。
「そうだよ、俺たちはきっと分かり合うことができる。大人たちがつまらない意地を張っているからいけないんだ」
「どうして大人はそんなことをするのかな?」
「それは俺には分からない。だけど……」
 だけど、何だろう。
「本当はそれは仕方がないことなのかもしれない。俺も君も、大人になれば彼らのようになってしまうかもしれないしね」
 僕は何も言えなくなってしまった。
 この人は勘違いしてる。この人は人も一族も同じ目で見て、同じ基準の中に置いてるんだ。人と一族は全く違うのに、それをちっとも分かってない。
「また納得してないんだね?」
「だってあなたは僕らを人と同じように見てるんだもの」
「それなら俺を嫌うかい?」
 顔は変わらない。でも声の調子は少しだけ変わっていた。
「どうしてそんなことが! 僕はあなたに助けられたし、何より尊敬している」
「照れるね」
「えっ、えっ?」
 ダザイアさんはくすくすと笑い出した。僕はぽかんとして、それをじっと見ていた。結局最後には僕もつられて笑ってしまった。
 本当に僕は彼を尊敬していた。腹の底から彼を信じていた。だからこそ彼が僕を裏切った時、僕は僕でいることができなくなってしまった。
 それはよく晴れた日だったと記憶している。
 家に帰ると誰もいなかったんだ。僕と一緒に住んでいたあの子がいなかった。家の裏の方から声が聞こえてきた。すぐにそれが人の声だと分かった。
 慌てて家の裏の方へ行ったけどそこにはもう誰もいなかった。僕だけが虚しく取り残されていた。風が吹いて空色の髪が目にちらついた。急激に僕は自我を失っていった。
 家に戻ってしばらくするとダザイアさんが来た。僕はそれまで家の中でぼんやりと立ち尽くしていた。何も残されていなかった。僕は何も持っていなかった。僕は何も知らなかった。僕は何も要らなかった。
 彼はどうかしたのかと聞いてきた。僕は連れていかれたと答えた。彼は誰に、何のために、どうしてここが分かったのかと立て続けに聞いてきた。でもどうして僕がそれに答えられますか?
「あなただ」
 出てきた声は自分でも驚くほど震えていて、怖かった。
「あなたがここを教えたんだ!」
 もう何も分からなかった。ただ叫んでいた。
「違う、俺は何も知らない。落ちつけ、落ちつけラス! 人に連れていかれたなら助け出そう! 一緒に行こう、さあ! だから落ちつけ!」
「うるさい!!」
 相手が何を言おうと僕の心に届くことはなかった。僕はただ怒っているのだと気づいた。相手はことごとく一族と人を同じ目で見てきた。それを思い出した僕は、相手が憎くて憎くてたまらなくなっていった。
「あなたの他に誰がいる? 誰もこの家の存在を知らないはずなのに、はたして急に知ることが可能なのか? 苦し紛れの言い訳なんて聞きたくもない!」
 僕は何も見えなくなっていた。自分で何を言っているのかさっぱり分かっていなかった。ただ何かを言っていなければ自分を見失ってしまいそうで、抑え切れなくなった感情を整理するにはそうすることしかできなかったのだろう。
 完全に僕は取り乱していた。自分を保とうとしながら自分を壊していた。出てくる言葉は怒りや悲しみの混じったものばかりだった。感情は高まっていき、僕にとって相手はどうでもいい人間だと思うようになっていった。
 誰も僕のことを分かってくれない。誰も僕の気持ちを分かってくれない。誰一人として僕の声を聞いてくれないし、唯一聞いてくれていた人も今では信じられなくなってしまった。この哀しみ。この苦しさ。これが、これがあなたには理解できますか?
 もしも相手が何も関係なくても、自分が教えたのだと言ってくれれば、僕はこの感情を抑えられたかもしれない。僕は心の底でそれを期待していた。だってそう言ってくれれば僕は彼だけを嫌うことができて、人全体を嫌うようなことにはならなかっただろうから。
 しかし僕の思いは伝わらなかった。再び相手は自分は知らないと繰り返した。もはや何も伝わらないのだと瞬間に覚った。この人もまた、僕の気持ちを汲み取ってはくれなかったんだ。
 ――ああ、嫌だ嫌だ。友達なんて、うわべだけのものだった。
 もうどうなろうと知るものか。全てなくなってしまえばいいんだ。その方が世界にとっても好都合だろう。こんな醜い連中しかいない世界なんて存在する価値もない。
 僕ははっきりと分かった。人なんてそんなものなんだと。自分を守るために嘘ばかり言う。何も言わなくても態度で自分を飾る。影では嫌いな人の悪口を言うけど、当人の前では決して嫌そうな素振りをしない。自分をいいように見せたいから。自分はいい人だと思わせたいから。そうして周囲の反応を見て楽しんでいるんだ。人なんてこの程度だったんだ。
 そんな人に僕の思いが届くはずがない。いくら叫ぼうと無駄なことだったんだ。結局僕らはどんなに腹を割って話そうと、決して他人の気持ちを理解することはできないんだ。そんな当然のことに今まで気づかなかったなんて、僕はどれほど夢ばかりを見ていたのだろう。
 現実は思い描く夢とは程遠いものだった。
 いっそ全てが消えてしまえばいい。
 僕らが望む未来はこんなものなのか。僕らが生きていく世界はこんなものなのか。僕らはどうしてこんな中で生きなければならない? 僕らはなぜこんな世界で生きている?
 世界は優しくない。世界は僕を知らない。世界はどこまでも無慈悲だ。世界は何もかもを疑っている。
 この世の中は限りなく、不公平だ。

 分かったところで何も変わらないけど。

 

 + + + + +

 

 俺は何も見ていなかった。俺は全てを無視していた。
 今になってやっと分かった。俺は、あいつのことを少しも考えてやれてなかったんだと。
 あいつがこんな思いを抱えていたとか、どんな気持ちであの世界を滅ぼそうとしたのかとか、思えば一度も本気で気にとめたことがなかった気がする。あいつの立場に立って考えることもできたはずなのに、俺は自分のことで精一杯だったから、自分を守るためにいろんなことから逃げ出していたから、だからあいつは怒っていたのだろう。
 しかしそうやって彼の立場になって考えたからといって、相手の気持ちが分かるなんてことはなかっただろう。彼の考えと同じように、俺は俺であってあいつはあいつなんだから。だから決して分かることはない。理解できることはないんだ。
「独りぼっちだって言ってた」
 そう。彼は言っていた。
「あいつ、俺に向かってそう言ってたんだ」
 言葉を吐き出しながら考える。
「でもそれ、まるで自分に言ってたみたいで」
 何度も何度も繰り返した理由。
 ぼんやりとだけど、なんとなくそれが分かったような気がした。

 

「さて」
 少し落ちつくと誰かが小さく呟いた。本当に小さくて短い声だったので最初は誰が言ったのか分からなかった。
 音を立てて誰かが立ち上がる。それは水色の髪の少女だった。不思議に思って相手の顔を見てみると普段の表情がそこにあった。特に変わった様子はない。
「そろそろ私は向こうへ行くわ」
 変わった様子はなかったが、言っていることは普段と違っていた。
 また別行動になると言っているのだろうか。
「あ、ちょっと」
 何も言わなかったら相手そのまま家を出ていったに違いない。俺が慌てて椅子から立ち上がって声をかけると扉の前で立ち止まった。
「どこへ行くんだ?」
「まだ知らなくてもいいわ。でも今に分かるはずよ」
 意味深なことを言って少女は少し黙る。
「どういうこと? ロスリュ」
 心配になってきたのだろう、同じ女性であるアレートは俺と同じように椅子から立ち上がっていた。そうしてかけた声は普段のものより優しかった。
「そうね」
 思案顔なってロスリュはちょっと黙った。再び口を動かし始めた時にはいつもの冷淡さが現れていた。
「聞きたいなら彼に聞きなさい。もうそろそろ起きても大丈夫になってるはずだから」
 その言葉を最後にロスリュは外へ出ていった。扉を閉める音が無駄に大きく聞こえた。
 誰もが黙った。何も言えなかったんだろう。俺だって何も言えなかった。突然で、まだ何が起きたのか分かっていないような気持ちだった。
 どうしてあの少女はいつも突拍子もなくいなくなったり現れたりするのだろう。そうすることに何か意味でもあるのだろうか。ずっと一緒にいてくれてもいいはずなのに、どんな理由があって離れたりしなければならないのだろう。
「彼女にも何か考えがあるってことでしょ」
 ふと聞こえたのはジェラーの声。彼はこんな状況になっても普段通りだった。無表情で、落ちついていて。
「お前、人の心が読めるとか言ってたんじゃなかったのかよ」
 俺より先に反応したのはラザーラスだった。こちらも普段と変わらないように見えるが、それは外見だけだったようだ。声の調子がいくらか静かになっているように思える。
「言わなかった? あの人の声だけは僕には届かない」
 最後に呟いた言葉は以前も聞いたことのある情報だった。しかしそれを表す言葉が彼の考えと同じことを示すものだったので、それを最後に誰もが黙り込んでしまった。
 外では雨が降り続いている。

 

 

――第六幕へ続く

 

 

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