閉鎖

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2.隣人 - 03

 

 今日は朝から気分が重い。最近こんな朝が続いているような気がするが、それはどう考えても同室のあいつのせいだった。
「あのさぁ……亮介」
「何だよ不細工、くだらねえことで話しかけてくるんじゃねえよ」
 まだ何も言ってないのに酷い言われようだな。本当にこいつは可愛げがない。
「今日一日中この部屋でじっとしてたら、平和に暮らせるかな」
 ネクタイを締めつつ鏡を見ていた亮介はぱっとこちらを振り返った。その表情はどこか驚いているように見えなくもない。
「それは名案だ、やだ弘毅君ったらいつの間にこんなにお利口さんになったのかしら! お母さん嬉しいわ!」
 何なんだこの反応は。褒められてるのか貶されてるのかよく分からん。
「と、とにかく部屋でじっとしてたらいいとお前も思うんだよな?」
「そりゃあもちろん! 今日一日授業を休んだくらいなんてことないし、その翌日も更に翌日も水瀬君の姿が見えないせいで騒ぎが大きくなって余計に事態は解決せず、おかげでまた授業に出られない状態が続いていつの間にか授業内容がさっぱり理解できなくなったとしても、聡明で勉強なんかしなくても試験を悠々と合格できる水瀬君なら何が起きても大丈夫だと思うよ!!」
「……やっぱ学校行くわ」
「えー行かなくていいのに」
「行く! 絶対行ってやる!」
 ふざけた亮介の言葉にも実現しそうな内容が含まれていたことは否めない。やっと安心できる居場所を確保できたんだから、ここも失ったら俺はどこに行けばいいんだよ。俺は絶対にこの場から追い出されてはならないんだ。……既に大勢の敵を作ったような気がしてならないけど。
 立ち上がって制服に着替え、朝食の為に食堂へと向かう準備をする。
「ひーろき君っ」
「は?」
 廊下に出ようとすると猫なで声を出した亮介が腕に抱きついてきた。今度はどんな嫌がらせを思いついたんだこいつは。
「一緒に朝ご飯食べよう?」
 そしてやたらと可愛らしい上目遣いで誘ってくるし。
「お断りだ。そもそも昨日のアレのせいでお前と一緒にいたらあらぬ疑いをかけられるんだって」
「やだぁ、僕たちお互いの何もかもを赤裸々に見せ合った仲じゃないの」
「見せ合ってねえよ!!」
 腕を振り回すが亮介は離れてくれない。仮にも男であるだけあって力は一般人並みのようだ。しかし今はそんなことに喜んでいられないわけであり。
「さすがに食堂で新聞が広まってるってことはないと思うぜ? いつもはあいつら、学校の休み時間に掲示板を占領してるみたいだし」
「でも俺は飯くらい一人で食いたいんだ」
「俺は一人は嫌だ」
 突然の告白にどきりとした。彼のそんな言葉を聞いたのは初めてで、どうすればいいか分からなくなる。
「な、なんで嫌なんだよ」
「なんでって――」
 するりと腕から手が滑り落ちた。念願の自由が手に入ったが、俺はここから動かなかった。
 亮介は俺よりも背が小さい。
「人間は一人じゃ淋しくて死んじゃうんだよ」
 ようやく口を開いた亮介は、何やら意味深のようなそうでないような言葉を吐き出した。
「つーわけで行くぞ、不細工」
「おい、引っ張るなよっ!」
 俺は腕を掴まれて引きずられるように歩き出した。彼が何を言わんとしていたかは分からないけど、初めて会った日に比べると少しは進歩したんじゃなかろうか。というかそう信じてないとやっていけない。
 しかしそろそろ名前で呼んでくれたっていいだろうに、俺の腕を引っ張る相手はただ前を見るだけで、決して俺の心配などしてくれなかった。

 

 

 そこへ足を踏み入れた瞬間、空気が震えたことを身体が感じ取ってしまった。
「窓際の席が空いてるから、あそこにしよう?」
「お、おう」
 にこにこした営業スマイルを作った亮介に手を引かれ、俺は群衆の間をすり抜けて彼の背を追う。その間にも多くの瞳がこっちを凝視していることには気付かないふりをした。
「今日の朝食はパンがいいなぁ。弘毅はどうする?」
「じゃ、じゃあ俺もそれでいいっす……」
「それじゃ僕が取ってきてあげるね。弘毅はそこで待ってて」
 そう言って亮介はにこやかに席を立った。今日の相手はいつもの十倍は楽しそうに見えるが、それはこの状況のせいなのだろうか。いや、そうに違いない。ヤツは俺が慌てて縮こまる姿を見て嘲笑っているだけなのだ!
「はい、パンだよ!」
 やがて戻ってきた亮介は満面の笑みを浮かべつつ、俺に食パンを手渡してきた。大人しくそれを受け取ると、前の席に相手が腰を下ろす。
「ジャムはどれにする? あ、今日ははちみつもあるみたいだよ、珍しいねぇ」
「俺はマーマレードが……」
「おはよう、二人とも」
 ふと横から眠たそうな声が降ってきた。そちらに目をやると、寝ぼけた瞳の晃が食パンを片手に立っている。
「晃っ! 助けてくれぇぇええっ!!」
「うわっ、何だ何だ」
 この学園において晃の存在だけが俺にとっての聖域だった。彼の姿を見た時の安心感が半端じゃない。
 落ち着いて俺の隣に座った晃はイチゴジャムを片手に食パンを頬張り始めた。
「それにしても弘毅も加賀見も、お前らよくあんなことしたよなぁ。こうなることくらい分かってただろうに」
「ちょっと待てお前、それはどういう意味だよ!」
「そのままの意味だって。もう寮でも学園でも新聞が出回っててお前らの話題で持ち切りだぜ。まあ一部の連中に限ったことだけど」
 俺はキッと亮介を睨みつけた。それに気付いた亮介は涼しい顔をして笑みを浮かべ続けている。彼に対する怒りがふつふつと沸き上がってくるが、とりあえずそれは押し殺して晃にもっと話を聞くことにした。
「なあ晃……やっぱ俺の今の状況って危ないのかな、逃げた方が賢明?」
「一人で行動しなきゃ平気じゃねえの? 熱心なファンだって厄介事を起こしたいわけじゃないだろうし、誰かの前じゃ何も出来ねえだろ」
「そっかぁ。それなら――ってそんな簡単なことでいいのかよ?」
 俺と晃の会話を聞いている亮介は一人で黙々とパンを食べていた。全ての元凶が余裕そうにしやがって、こっちの苦労も少しは気にしてくれたっていいじゃないか、畜生。
「そういうわけで加賀見、今日は一日こいつについててやってくれよ。ほら、お前にだって責任はあるわけだし」
「ないよ」
 気の利いた晃の提案に亮介は速攻で反論した。その顔はやはり涼やかだ。
「僕に責任はない。だってあれは単なる商売だったんだもの。騒いでいる皆の方がおかしいんだ」
 おそらく彼の顔の周りには漫画でよくあるキラキラマークが散りばめられているのだろう。それほど今の亮介の顔は晴れやかで一点の曇りもなく、純白に近い。
「でもこのままじゃ弘毅があんたのとこの客に虐められるかもしれないんだぜ? それなのに――」
「自分の身くらい自分で守れなくてどうするの? 君はたくさんの騎士に囲まれたお姫様じゃないんでしょ?」
「……」
 これ以上どんなことを言っても亮介には効果がないだろう。晃もそれを悟ったのか、こちらを向いて「あいつどうにかしてくれ」と言わんばかりの顔を見せてきた。俺はもう苦い笑みを見せることしかできない。
「今日も一日頑張ろうね、二人とも」
 無理に話の流れを変えた亮介は、決して崩さない顔の裏に残虐な笑みを浮かべていたことは想像に難くない事実だった。

 

 

「あー……疲れた」
「大変だな、お前も」
 夕日が差し込む廊下を晃と二人でのそのそと歩く。本日の授業は全て終了し、俺はなんとか今日一日を生き抜くことができた。
「ありがとな、晃。お前がいなければ俺は今頃死んでいた」
「そんな大袈裟な」
 一人になることはできず、かといって心底この状況を楽しんでいるであろう亮介をあてにするわけにもいかなくて、結局俺が頼ることができたのは晃だけだった。彼に頼んで今日一日はずっと一緒にいてもらったのだ。おかげで何事もなく寮に帰ってくることができてほっとする。
「それじゃ俺はここで。部屋に帰るまでの道のりも気を付けろよ」
「おう」
 晃の部屋は一階にあるため、四階にある自分の部屋にまで付き合わせるわけにもいかず、俺は一階の廊下で晃と別れた。ここからは一人で歩かなければならないが、さすがにこの短距離で何かが起きるってことはないだろう。
 などというふうに考えていると事件が起きたりするもんだ。俺は頭をぶんぶんと振ってから歩き始める。長い廊下を一人で進み、寮の端にある階段へと向かった。
 二階、三階と順調に上の階へと進んでいく。基本的に生徒の部屋は一階から三階までに固められており、俺と亮介の部屋はどうやら特別な扱いを受けているらしかった。そりゃそこに住んでるあいつが特別なんだから当然と言えば当然なのだろう。だけどなぜ俺までそんな特別扱いを受けなければならないのか。これってどう考えても理不尽だ。
「水瀬弘毅君」
 四階に辿り着いてすぐ、壁の向こう側から声が聞こえてきた。それははっきりと俺の名を呼んだ。
 嫌な汗が額を滑る。
「少し君に話があるんだが、いいかい?」
 相手は知らない人だった。階段の右側にあった壁の向こうからすっと姿を現してくる。俺よりも背が高く、いかにも頭がよさそうな顔つきをしており、彼の背後に二人のお供が隠れている様が分かった。
 ふと彼の胸元に目線をやると赤いバッジが光っていた。晃に聞いた話によるとこの学園では学年をバッジの色で分けているらしく、俺たち一年は緑色、二年は青色、そして三年は赤色のバッジをしている。ということは目の前にいる彼は三年生らしい。
 これはもしかしなくても、俺が最も恐れてびくびくしていた事態が迫っているのではないのかしら?
「な、何でしょうか」
「ここでは話しにくい。こっちへ来てくれないか」
 ぐいと腕を掴まれた。質問を投げつけておきながらどうやら俺の意思は関係ないらしい。身体を引っ張られ、俺はあっさりと三人の上級生に囲まれてしまった。
 廊下を歩いている人は誰もいなくて、なんだかよく分からない暗い部屋に連れ込まれた。電気は付いておらず、部屋のカーテンは全て閉められている。俺と三人とが部屋に入るとぱたりと入り口のドアを閉められた。そうして俺は床に放り投げられる。
 やばいぞ、これはやばい。俺はとにかく相手の機嫌を損ねないよう話を聞くことにした。
「は、話って……?」
「僕らは亮介君のことが大好きなんだ」
 笑顔でとんでもないことをのたまう相手。しかしそれが俺の予想にぴたりと当てはまってしまった為、ますます嫌な汗が止まらなくなった。
 くっとしゃがみ込んだ相手は俺と視線を合わせてくる。
「分かるだろう、要するに君が邪魔なんだ」
「そんな勝手なこと――」
 部屋じゅうに鈍い音が響き渡った。顔を殴られたんだ。痛みが後から襲ってくる。
「何しやがる!」
「二度と彼に近付けない身体にしてあげるよ」
 今度は相手の動作を目で捉えられた。まっすぐ俺の腹に飛んできた足が脇腹をえぐる。少し吹き飛んだ俺の身体は床の上に物みたいに転がった。
 上級生の連中には腹が立ったが、ここで怒って立ち向かっても返り討ちにされておしまいだろう。俺はとにかくここから逃げなければならないわけだ。しかし俺を蹴り飛ばした男の他に、入り口のドアを守っているかのような男が二人立っている。窓の外は夕焼け空だろうし、俺は四階から地面にダイブするほどの度胸など持ち合わせていない。
 さて、この状況、どうしたもんか。
「あ、あのさぁ。あんたら勘違いしてるんだって。俺と亮介は別にあんたらが思ってるような関係じゃないんだってば。これ本当な?」
「嘘をつくんじゃない! お前の言っていることが本当なら、この写真はどういうことか説明してみろ!」
 苛々した様子で相手は懐から新聞らしき紙を取り出し、それを俺の顔面へ突き出してきた。そこには昨日の悪夢の光景が映し出されている。つーかこんなもん見たくねぇわ!
「亮介の奴が誘ってきたんだよ、俺に後で金を払わせるつもりで無理矢理」
「たとえそうだとしても、あの部屋に君の存在は邪魔なんだ……彼に迫る危険は全て排除しなければならない」
 再び激痛が腹を襲う。こいつら下級生に容赦ねえな、最低な先輩だ。亮介の客ってこんなんばっかりなのか?
 ぱさりと新聞が床に落とされる。それを上から足で踏みつけ、更に俺との距離を縮めた相手に胸ぐらを掴まれた。そのまま今度は左側から頬を殴られる。
 くっそー、このままじゃ先の事件とやらと同じ結末を迎えることになってしまうぞ。そもそも俺には罪なんてないはずなのに、なんでこんな目に遭わなきゃならないんだ。
 なんでってそりゃ、全ては俺のルームメイトが亮介だったことが原因なんじゃないか!
 どうにか立ち上がって逃げようと足を前へ突き出すが、そう簡単に相手が獲物を逃がすわけがなかった。殴られたり蹴られたりと幾重の暴力を受け、やがては壁へと追い詰められる。
「君個人に恨みはないが、駄目になってもらうことにしよう」
「は――」
 少し口を開いたのがいけなかったのだろう。小さい隙間から指を突っ込まれて口を広げられ、そこに小瓶を押し当てられ口内にねっとりしたものが流し込まれてくる。
 何だこれは、毒か、いや薬か? どちらにしろ嫌な気配しか感じられないからすぐに吐き出すべきなんだろう。
 そう考えて咳を無理に発生させるが、頭を押さえてくる相手は負けじと小瓶を俺の口に突っ込んでくる。どろどろとそこから得体の知れない液体が口内に入り、我慢ができなくなった俺はとうとう喉の奥へそれを押し込んでしまった。
 ……いや、俺、なんか相当やばいことになってないかこれ。冗談じゃ済まされない問題が発生してしまったような気がするんだけど。
 更に何を考えているのか、カラになった小瓶を床に投げ捨てた相手は懐からもう一つ別の小瓶を取り出した。そこには丸い錠剤が大量に潜んでいる。まさか今度はあれを飲ませられるのだろうか。こいつら俺を殺す気――なのか?
「うわああ待て待て、落ち着け! 俺なんか殺したっていいことなんて何もないぞ! だからそれだけはやめるんだ、人殺しなんて悲しいだけだぞッ!!」
「うるさいな」
 がつん、と頭を殴られる。目の前の景色が一瞬ぼやけて消えた。すぐ後に復活したが、それでも身体はもう限界が近いらしく随分と重かった。もう逃げることなど無理だと諦めなければならなかった。
「おい、やめ――」
 ぐいと口に手を入れられ、広げられた俺の口に瓶の中の錠剤が注がれる。
 用意周到な相手は水を持っており、それをも口の中に流し込まれそうになった。ただ俺は相手が手を離した刹那にぐっと口を閉ざした。相手は無理矢理口をこじ開けようとする。とにかくここで踏ん張らねば俺は死を舐めることとなるような心地がしたので、全ての力を顎に集中させて口を閉ざしていた。今まで生きてきた中で一番頑張った瞬間かもしれない。こんなことで頑張るってのもどうかと思うけど、殺されそうなんだから仕方がない。
「この、口を開けろ!」
「むー!」
 たぶんシリアスな場面のはずなのにどこか緊張感が足りない。俺は一刻も早く口の中の物を吐き出したかったのだが、そうやって口を開けば水を流し込まれる危険があるのでどうにもできない。だけどこのまま無謀な戦いを続けていても俺の敗北は目に見えているわけで、どうにかしなければならないわけだけど――。
「ええい、お前たちも手伝え!」
 相手の掛け声と共に二人の男が近付いてきた。この野郎、数の暴力とは卑怯な。こっちは一人で頑張ってんだぞ、正々堂々と戦おうとは思わんのか!
 二人の腕が伸びてくる。さすがにこれにはぞっとした。強い力が俺を弄ぼうと皮膚を引っ張る。
 駄目だ、もう限界だと俺の身体が叫んでいる。このままじゃ――。
「何をしている!」
 まるで図ったかのようなタイミングで鋭い声が全身に突き刺さった。
「げほっ!!」
 驚きで口が開き、中の錠剤が全て床の上に転がり落ちた。おまけに俺を掴んでいた全ての指が動作を止めている。その原因は、この暗い部屋の入り口に誰かが立っていたからだろう。
「亮介君――?」
 俺の前にいた男が口を開く。腕を組みこちらを睨みつけている相手は確かに加賀見亮介だったのだ。
 彼は靴音を響かせながらゆっくりとこちらに歩いてくる。
「彼に何をした、篠山」
「ち、違うんだ! これは――」
 何やら慌てた様子で男は立ち上がり、亮介の肩に手を乗せた。そんな相手を亮介は容赦なく殴り飛ばす。男は地面に尻餅をつき、それから驚きと焦りとでぐちゃぐちゃになった顔で亮介を見上げた。
「おい」
 ふと気付くと亮介は俺の前に立っていた。二人の男に囲まれながらもさっとしゃがみ、俺に向かって手を差し出してくる。
「馬鹿みたいにやられてんじゃねえよ。男ならこれくらいの連中ぶっ倒せなきゃ、この先生きていけないぜ?」
「亮介」
「ほら、さっさと立てよ、弘毅!」
 相手の方から手を掴まれた。彼に持ち上げられ、ふっと身体が浮き上がる。
 歩き出そうと足を踏み出すと頭がぐらりと揺れた。身体の節々からは悲鳴が上がるし、自分が思っている以上に俺の身体はやばいことになっているらしい。
「亮介、ちょっと待って」
「はあ? 何を甘えたこと言って――」
 視界がぐるりと回る。
「お、おい!」
 これまで聞いたことのなかった亮介の驚く声を頭で理解し、そのすぐ後からの記憶がぷつりと途切れた。

 

 

 

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