閉鎖

前へ 目次 次へ


2.隣人 - 04

 

 遠い過去の傷跡が疼く。鋭い刃が肉を切り裂き、そこから溢れ出る血液は絵の具のように真っ赤だった。そのあまりの鮮やかさに俺は驚いていた。まるで生まれて初めて人間に流れる血液を見たかのように、信じられないと言わんばかりにただただ目を大きく見開いていた。
 そうして見上げる先にある影は、俺に声をかけ刃を握り締めている相手であり。
『なんで』
 理解できない俺は嘆くことしかできない。疑問を口にしたとしても、相手からもたらされる答えは不明瞭なものばかり。
『どうして』
 いくら言葉を重ねても同じだった。彼は俺を見つめている。赤くなったナイフを握ったまま、じっと俺の姿を見下ろしている。
 やがて真っ黒になった唇が紡ぎ出した科白は――

 

 

「ん……」
 まどろみの中から抜け出すと、世界にはあたたかな光が溢れていた。
 ゆっくりと身体を起き上がらせる。がちがちに固まっていた全身はぎくしゃくしていたが、それでも自由に動かせる程度には回復していたらしい。そうやって安心した後で俺は自分の置かれている状況を思い出した。
 俺は自分の部屋に帰ろうとすると上級生の人たちに嫌がらせをされていた。よく分からない変な薬みたいな物を飲ませられていたが、そこへ颯爽と現れた亮介によって助けられたはずだった。
 ただここはどこからどう見ても俺の部屋ではなかった。狭苦しい空間にコンピュータやら机やらが設置されており、俺はソファの上に寝転んでいたようだ。言っちゃ悪いが部屋の中はごみ溜めのように散らかっている。ついでに誰の姿も見えず、ますますわけが分からなかった。
「おや、目が覚めたかい」
 キイ、とドアが開く音が聞こえ、それに続いて誰かが部屋の中に入ってきたようだ。そちらに目をやると見覚えのある人物がこっちに歩み寄ってくる。
「円先生」
「ほら、加賀見君。君もこっちに来なさい」
「ああもう、引っ張るんじゃねえよ! 服が伸びるだろうが」
 俺の目の前でささやかな喧嘩が起こっていたが、それは俺の担任である円先生と亮介によるものだった。知っている人が視界に入ったおかげでほっとした。
「ここは?」
「僕の部屋だよ」
 優しげな微笑みを浮かべつつ円先生は俺の質問に答えてくれる。彼の隣では服のしわをせっせと直している亮介が渋い顔を作っていた。こいつは先生に対して営業スマイルは作らないのだろうか。
「加賀見君もその辺に座りなさい」
「ふん」
 ふいと顔をそっぽに向けた亮介はちらりとこちらを一瞥し、それから何も言わずに俺の隣に座った。ソファが軋んだ音が狭い部屋に響き渡る。円先生は丸い椅子に座ってコンピュータの電源を入れた。
「水瀬君、身体の調子はどうだい?」
 先生の眼鏡の奥にある目は少しだけ茶色を帯びていた。それがなんだか外人みたいで憧れる。
「ちょっと重い気がします」
「きっと今は疲れているのだろう。今日はゆっくりと休むようにしなさい。……そうそう、君が飲ませられていた薬だけど」
 相手は机の上に置いてあった大量の紙切れから一枚を手に取った。それをこちらから見えるように差し出してくる。
「オレンジ……ピューレ?」
 細かい棒グラフや折れ線グラフが点在している上に大きく書かれていた文字を読み上げる。これがあの薬の正体なんだろうか。なかなか美味しそうな名前じゃないか。
「これは一種の媚薬みたいなものでね、依存性もそれほどないから心配することはないだろう。安価で取引されているからこの学園じゃ広く出回っているんだ」
「つーかそれ、はっきり言って薬じゃねえよ。ただの酒だ」
 ソファに座って思いっ切りくつろいだ格好になっている亮介が横から口出ししてくる。彼は何やら面白くなさそうな顔をしていたが、やはり薬に関しては詳しいらしい。二人の話を信用するなら俺の命に別状はないということになるわけだが。
「危険なのはむしろ錠剤の方さ。あれを一つでも飲んでたらお前、今頃薬の中毒者になってたぜ? オレンジの酒は身体の力を抜く為に飲ませたんだろうな」
「そ、そうなのか」
 どうやら錠剤を意地で飲まなかったことが俺の身を守ってくれたらしい。それほど深くは考えてなかったけど、あの時死を覚悟したことは正しかったということなんだろうか。
「しかし、驚いたよ。遅かれ早かれこんな事件は起こるだろうとは思っていたが、まさかこんなに早いだなんて」
 そう言って先生はふうとため息を吐いた。俺だって驚いたわ。まさか同室の奴が薬と売春やってる学園一の問題児で、しかもそいつのファンによって薬中毒にさせられそうになるなんざ、転校する前日までは微塵も考えていなかった。この先平和に暮らせるかどうかも怪しいし。
「……そういや俺、亮介に助けられたところまでは覚えてるんだけど、あの後どうなったんだ?」
「てめえが気絶したおかげでややこしくなって、騒ぎを聞きつけた円センセに見つかっちまったんだよ。そしたら円センセは俺ごと自分の部屋に押し込みやがるし、篠山達のことは見逃しちまうし」
「まあまあ。彼らだってしばらくは大人しくしていると思うし、許してやりなさい」
「ふん、どうだか!」
 亮介の機嫌が悪い原因はこの部屋に押し込められたことというよりは、あの篠山とかいう先輩たちを円先生が見逃してしまったことが気に食わないらしかった。俺が覚えてる限りでは容赦なく殴ってた気がしたんだけどなぁ。あれじゃ駄目なんだろうか。
「水瀬君も知っているかもしれないが、時々この学園ではこういう事件が起こるんだ。加賀見君のことを巡っての事件がね。おそらく君は篠山君達だけではなく他の生徒たちにも睨まれているだろう」
「うわあ……」
 聞くだけでげんなりする話だ。俺って実は不幸体質なんじゃないだろうか。せっかくの逃げ場がこんなのってあんまりだ。
「だがどうかそのことで加賀見君のことを恨まないで欲しい。彼に罪はないということを分かって欲しい。二人の担任として、それだけが僕の望みだ」
 茶色い瞳がじっと俺のことを見ていた。それを見つめ返すと吸い込まれてしまいそうな心地になる。
「何を勝手なこと言ってやがる? 悪いのは俺じゃなくて、マナーの悪い客だろうが」
「ま、それもそうなんだけどね」
 横から飛んできた指摘に先生は小さく笑った。どうにもこの二人、先生と生徒としてではなく別の関係のおかげで仲が良いらしい。いや、単に亮介の正体を先生が知っているというだけなのかもしれないが。
「とにかく水瀬君にはこれからも加賀見君と仲良くして欲しいんだ。せっかく学園長の決定で加賀見君と同室になる子が決まったんだから、僕は水瀬君に期待しているんだよ」
「はあ」
「加賀見君にはこれまで信頼できる友達がいなかったからね……君なら友達になってくれそうな気がしているんだ」
 いつか晃が言っていた、亮介は友達なんか必要ないと考えているらしいという話を思い出す。それはあながち間違っていなかったのか、やはり亮介には友達がいなかったようだ。だから俺が初めての友達になれってことか。
 そりゃまあ俺だって仲良くしたいとは思ってる。でもそれを亮介がどう思っているか、ということが問題だよなぁ。
「円センセー。俺、オトモダチなんていりませーん」
 俺の心配事をぴしゃりと言い当てるかのような亮介の言葉が隣から飛んできた。なんつーか、予想通りだった。
「オトモダチなんて信用できませーん。近付いてくるのは下心がある奴だけだし、いざって時にはすぐに裏切るような奴ばっかりだから、俺はそんなもの必要じゃないでーす」
「水瀬君にも下心があり、いざという時には裏切られると思っているのかい?」
「そう思ってまーす」
 やたらふざけて答えていたが、それは確かに亮介の本音だった。彼は友人――いや、自分じゃない全ての人のことをそんな目で見ているのだろう。だから特定の客に入れ込んだりしない。全ての客と平等に接し、彼らに振りまく笑顔は仮面みたいな偽物だけ。
「まだ東吾君達のことを忘れられないのかい?」
 円先生の目がすっと細くなった気がした。ただそれが向けられているのは俺ではない。
 はっとしたように口を閉ざした亮介はきゅっと唇を噛み締めた。それから唐突に立ち上がり、大きな音を立てて部屋を出て行ってしまう。
「な、何だ? 亮介の奴――」
 気になるが俺は無断でここから立ち去ることができなかった。一つ呼吸を整えた円先生はパソコンに手を触れ、少しの間操作してぱっと画面を切り替える。
 そこに映し出されたものは一枚の顔写真だった。
「東吾栄司。加賀見君が中学二年生だった頃に高校三年生だった生徒だよ」
「この人が、何なんですか?」
「加賀見君が転校してきた時、同級生たちの輪に入れなかった彼に初めて近付いた生徒だ」
 ――転校してきた時。
 この学園では転校生は珍しいと言っていた。何も教えてくれなかったが、亮介もまた俺と同じ転校生だったということか。ふと彼が俺に素の姿を見せようと思った原因はここにもあるのかもしれないと感じた。
「当時の加賀見君はとにかく大人しい子でね、自分からは何も話そうとしない子だったから、なかなかクラスに溶け込むことができずに孤立していたんだ。そんな彼に高校三年生だった東吾君が近付いた」
 今のあいつからは想像もできない過去が円先生の口から語られる。だけど確かにその面影は残っているような気もした。亮介はあれでなかなか自分から話そうとはしないところがあるみたいだから。
「二人はすぐに仲良くなり、年の差こそあるが友達と呼ぶべき関係になっていた。大人しかった加賀見君の顔から緊張が消え、彼が無邪気に笑っている姿も見られるようになった。だけど、そんな日々は長くは続かなかったんだ」
 ぞっとする響きのある声を先生は発していた。表面はとてもやわらかいのに、内部は酷く損傷している。それは過去の出来事の悲惨さよりも彼自身の感情が混ぜられていたせいなのだろう。
「ある日の夜、加賀見君は東吾君を部屋に招待していた。勉強を教えてもらうはずだったと後に彼は言っていた。だけど部屋を訪れたのは東吾君だけではなく、見知らぬ高校生の先輩があと二人来ていた。彼らは東吾君とよく一緒に行動している三年生の人たちで、加賀見君は彼ら三人によって強姦されたんだ」
 どきりとした。耳に届いた強い意味を持つ単語が俺の胸をまっすぐ突き刺した。
「それから加賀見君は東吾君達に何度も凌辱されていたらしい。昼間は仲良くしているふりをしていたから、周りの者はなかなかその事実に気が付かなかった。やがて学園じゅうにばらまかれた写真によりそれが発覚したが、それ以来加賀見君は薬に手を伸ばすようになった」
 それが薬から抜け出せない理由なのだろうか。それが薬を手放さない原因なのだろうか? 同情だけで価値を決められるわけじゃないけど、なんとなく亮介の気持ちが分かるような気がした。彼はきっと逃げたかったんだろう。だけど道は塞がれていて、だから行き着く場所は一つしかなかった。
「薬を買うには金が必要で、東吾君達が卒業した後、薬の売人の提案で彼は身売りを始めたらしい。それが有名になるのにはそれほど時間は必要じゃなかった。僕は彼に売春をやめさせようと干渉したが、学園長によって干渉を止められてしまってね……僕だけじゃなく他の教師たちも同様だったらしい。学園長の意思は、彼には自由にやらせておこうということで、だから僕らは彼に説教をすることができなくなったんだ」
「そう、だったんですか――」
 一気にたくさんのことを聞いて頭がくらくらし始めてきた。ようやく見えてきた亮介の抱える理由は、俺が感じていたものよりずっとひっそりしていて動的でもあり、そして横たわる深淵のように黒ずんでいるものだった。それを知った俺には何ができるというのだろうか。
「だから加賀見君は友達を信用できなくなっている。近付いてくる者を警戒し、決して自分自身を見せないようにしているんだ。だけどどうやら君にはそれを見せているらしい。だからこそ僕は君に期待しているんだよ、水瀬君――」
 円先生の大きな手が俺の両肩にぽんと乗せられた。力強そうで弱々しい、大人のようで子供じみた手のひらのぬくもりを感じる。
「加賀見君のことを、よろしく頼む」
 彼の強い願いを一身に感じてしまった俺は、もう頷くことしかできなくなっていた。

 

 +++++

 

 部屋に戻ると夕方が終わろうとしていた。いつもは扉の鍵を開け放している亮介も今日はきちんと鍵をかけており、彼の意思を汲む為に俺も部屋に入った後に鍵をかけておいた。
 静寂の中で亮介はベッドの上に身を投げ出していた。相変わらず彼の傍には薬の瓶だけが転がっており、だけど今回はその量が尋常じゃなかった。まるで部屋の中にある全ての薬を引っ張り出してきたかのように大量の瓶が彼を取り囲んでいる。その中心で亮介はうつ伏せになって倒れていた。ぎゅっと手でシーツを握り締め、俺が近付いても微動だにしない。
「亮介」
 呼びかけてみたが反応はなかった。仕方がないので俺はソファに腰を下ろし、彼の姿をじっと見つめる。
「……弘毅」
 それほど待たずとも声は返ってきた。しかし彼の身体は動かず、それが夢の中のものか現実のものか分からない。俺は黙って相手の次の言葉を待つことにした。
「円センセに何を聞いた?」
 亮介はゆっくりと頭を持ち上げた。
「お前が転校生で、その当時何があったのかを聞いたよ」
「……」
 相手はベッドの上に座り込んだ。もともと色白な奴だったけど、今日は際立って顔色が悪い。周囲に薬があるおかげで更に彼の姿がひねくれているように見えていた。
「俺さ、本当はさぁ……レイプされたことなんか、それほど気にしてないんだよ」
 まどろみの中で喋っているように、亮介の声は口の中でもごもごとしておりはっきりしない。だけど辺りの静寂のおかげで俺にはそれを聞き取ることができた。
「妹がいたんだ」
「え」
 突然あらぬ方向へ飛んだ話に思わず声を漏らしてしまう。亮介は目を開いていたが、その瞳に俺が映っているかどうかさえ疑わしかった。彼の双眸が限りなく美しく、それが妙に悲しみを助長している。
「可愛い妹。皆に愛されてる――とっても可愛い妹がいたんだ。生まれつき頭のネジが抜けてて、バカだから普通に生きることができない妹だった。逆に俺は可愛くない兄だった。勉強も運動もよくできるし、何かを言われなくとも次に何をすればいいか分かる可愛くない兄だった。両親は妹の両手をいつも掴んでいた。そうやって俺はここに――棄てられた」
 彼はくいと顔を上げる。天井を眺め、その上にある何かを見つめている。
「俺は他人なんか信用できないし、信じたくもない。自分のことしか信じられない。他人はどんな美人でも不細工に見えるし、どんな聖人でも偽善者に見える。だから誰も寄せ付けないようにしていた。誰にも俺のことを見せないようにって、たくさんの壁を作って分厚い鎧を着込んでいた。なのに、それを破った奴がいた。円センセーとお前だ」
 相手の綺麗な黒髪が揺れ、その隙間から覗く黒い瞳が俺の顔を映した。彼の内側から感じられる炎が燃えている。
「なんでそうやってお前らは、期待させるようなことをするかな」
 つい、と頬を滑ったものは一筋の涙であり。
「亮介」
「本当は楽しんでたんだぜ? 鬱陶しいお前がようやく痛い目を見るだろうって……それを全力で楽しむつもりで観察しようとしてた。だけど篠山達に連れ去られて、あの暗い部屋の様子を見た時、昔のことを思い出してしまって。自分でもびっくりするくらい素直に動いていたんだ、お前に俺と同じものを感じて欲しくないって思って」
 俺はそっと彼の顔に手を伸ばした。そうして指先で彼の涙を拭ってやる。
「ありがとな、亮介。お前がいてくれたおかげで助かったよ」
「……」
 黙り込んだ相手はそれ以来口を開こうとしなかった。流れる涙は止まる気配がなく、俺は彼が泣きやむまでずっと涙を拭い続けていた。
 痛みを知ることで生まれる感情は同情だけではない。俺は彼の事情を知ることができて、ようやく加賀見亮介という人間を見つけることができたように思えた。
 その日は客が来ても俺が全員を追い返さなければならなかった。なぜなら亮介にそう頼まれたからであり、客には散々文句を言われたが、亮介の調子が良くないと伝えると誰もが渋々と帰って行った。俺は静かになった部屋の中で相手の姿を見続けていた。普段のはきはきした様子を見せない彼の疲れ果てた横顔を眺めていると、過去の傷跡がものも言わず疼き出し、それでも落ち着きをもって闇夜に身体を預けることができたのであった。……

 

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system