閉鎖

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3.明暗 - 01

 

 目に見えるものだけが全てではない。
 目に見えないものだけが全てではない。

 

 

「弘毅」
 俺の名が廊下を越えて飛んできた。そちらへ振り返ると、小奇麗な格好をした亮介が一人きりで立っている。
「そっちには教員の部屋しかねえぞ。どこ行くんだ?」
「円先生に呼ばれてるんだ」
「はあ?」
 正直に答えると相手は訝しげな顔を俺に見せつけてきた。
 彼のせいで俺が上級生たちに殺されかけた時から、もう一週間以上が経過しようとしていた。あの一件のおかげで亮介との距離も縮まったのか、相手は俺のことをちゃんと名前で呼んでくれるようになった。それはとてもいい変化だとは思うが、実質変わったのはそれだけだった。彼はまだ俺のことを馬鹿にしまくり嘲笑ってくるのだ。
「亮介こそこんな所で何してるんだよ」
「とんでもなく癪だが、俺もお前と同じ理由だ」
「それって……先生に呼ばれたってことか?」
 学校では決して見せないような渋い顔を作り、亮介は俺の前をすたすたと歩いていく。彼が言うには目的地は同じであるらしく、仕方がないので俺もまた彼と全く同じ道を進んでいった。
 今日の午前中、いつものように授業に出て休み時間に晃と話をしていると、突然教室に現れた円先生に俺は呼び出しを食らった。その理由は全く説明してくれず、とにかく授業が終わったら部屋へ来るようにとしか言われていない。しかし亮介とタイミングがかぶったことは大丈夫なんだろうか。亮介の用事が終わるまで部屋の外で待たされたりしたら、それはそれですごく嫌だ。
 なんてことを考えていると先生の部屋の前に辿り着いてしまった。亮介はノックもせずに扉を開き、図々しく部屋の中に入ってしまう。俺は取り残されてしまわないよう慌てて彼の背を追い中に入った。
「おや、二人とも」
 円先生は椅子に座って何か飲み物を飲んでいるようだった。身体には白衣がまとわれており、その姿はさながらどこぞの研究者のようだ。俺たち二人が一気に訪問したことに驚いたのか、少しばかり目を大きくしている。
「わざわざ来てやったぞ、円センセー」
「こ、こんにちは」
 相変わらず偉そうな亮介は無視することにし、俺はとりあえず挨拶をしておいた。
「二人を一度に相手することはできないからね、まずは水瀬君の用事を――」
「俺を先にしろよ、てめえノロマでどんくさいんだから」
 隣から容赦のない暴言がぽんと飛んだ。こいつは年上の人にまでこんな態度なのかよ。とはいえこの姿を知っているのは俺や円先生くらいって話だし、相手がそれを認めてるのならこのままでもいいってことなんだろうか。俺だったら年下にこんなこと言われたら殴りたくなってくるけどな。
「先生、俺の用事は後でいいですから。先に亮介の用事を済ませちゃってください」
「そうかい? 悪いね、それじゃそこのソファにでも座って待ってなさい」
「はい」
 以前来た時と変わらない位置にあるソファに腰を下ろす。隣に先生の物らしき上着が放置されており、それを押し潰さないように端へと追いやっておく。
 やがて先生と向き合った亮介は健康診断のようなことを始めた。舌から唾液を採ったり、眼球の様子を確かめたり、あろうことか採血までして病院さながらの光景が俺の前に佇んでいた。それがひととおり完了すると、亮介は俺を置いてさっさと部屋を出て行ってしまった。やっぱり彼との距離なんて縮まってないような気がしてきた。
「待たせてしまってすまないね。水瀬君、こっちに座って」
 言われた通り俺は立ち上がり、先程まで亮介が座っていた椅子に座り先生と向き直る。眼鏡の奥にある瞳がじっとこちらを見ていた。
「あのー……亮介は一体何を」
「病気がないか調べていたんだよ」
 まるでその質問を待ち構えていたかのように、相手は素早く俺の疑問に対する答えを言い放ってきた。いや、俺の台詞を最後まで聞いてくれたっていいじゃないかよ。
「人間の身体は繊細だからね、小さな病気でも後に大変なことが起こってしまうかもしれない。特に彼のように身体を売っていると、相手からおかしな病気をうつされることだって有り得るからね。だからこうして定期的に健康診断をしているんだ」
「ふうん……」
「さ、今度は水瀬君の番だ。唾液を採らせてもらうよ」
 くいと顎を持ち上げられ、俺は口を大きく開いた。そこに綿棒を入れられて舌の上に不思議な感触が走る。
「次は血を採るけど、注射は平気かい?」
「大丈夫ですって。子供じゃないんだし」
 冷たい針が肌の上に添えられ、ちくりとした痛さが腕に流れた。不快な生々しさを感じつつも注射針を眺めていると、徐々にそれが赤く染まっていく様がよく分かる。
「服を捲り上げて」
 机の中から聴診器を取り出し、先生はそれを耳につけていた。俺は服を捲って腹を見せる。この先生は化学の担当だったはずだけど、もしかして医師免許でも持ってるんだろうか? もしそうだとしても、なんでそんな人が学校で教師なんかをしているんだろう。
 俺がじろじろと相手を見ていたのがいけなかったのか、円先生はなかなか聴診器を当てようとしなかった。不思議に思って彼の目に視線を落とす。
「先生?」
「あ、すまない。つい――」
 ……何だ、この反応は?
 先生は聴診器を当てて医者みたいな行動を始めた。しかし「つい」って何だったんだ。彼は「つい」何をしていたというんだ。俺の腹を見ることか? 別に亮介みたいに綺麗にしてるわけでもないのに、そんなもんを見て何が楽しいっていうんだろう。
「あのさ、先生。なんで急にこんな健康診断みたいなことをするんですか?」
「薬が身体に回っていないか確かめる為だよ」
 耳から聴診器を外し、先生はいつものやわらかい笑みを浮かべつつはっきりと言った。俺が飲まされた液状の薬は弱いものだったらしいが、口の中に大量に押し込められた錠剤の方はなんだかやばいものだったらしい。確かにそのまま放置して、実は身体に残ってて悪影響を及ぼし始めたりしたら大変だもんな。俺は先生に感謝しなければならないわけだ。
 たださっきの「つい」がやたらと気になってしまうんだけど。
「水瀬君」
 すっと先生は眼鏡を取った。それを机の上に置き、茶色い瞳がまっすぐ俺の顔を捉える。
「服を脱いでくれないかな」
 そうして出てきた要望は俺の予想の斜め上を行くものであって。
「な、なんで?」
「皮膚を確かめておきたいからね。あ、もちろん下も脱ぐんだよ」
 そういうことなら仕方がない、ってわけか? でも皮膚を見るくらいならちょっと袖を捲り上げるだけでも大丈夫だろうに、なんだか下心を感じる気がするんだけど。
 とにかく早いとこ終わらせたかったので俺は先生の言うとおりにしようと思った。上着を脱ぎ、ベルトを外してズボンも脱ぐ。男の前とはいえ裸になるのはなんだか恥ずかしかった。以前は全然平気だったのに、亮介の仕事を体験してしまったせいだろうか。
「下着も脱ぎなさい」
「え、ちょっと」
 大人の手が伸びて下着まで脱がされてしまった。彼は立ち上がり、俺の身体を抱えるようにしてソファへと誘導してくる。そこに放り出された俺は相手に身体を押さえ付けられ、すっかり身動きができなくなっていた。
「円先生、何を――?」
「水瀬弘毅君」
 ゆっくりと相手の顔が近付いてくる。この動作を俺は知っていた。それは転校してきた初日、亮介により教えられた行為に他ならなくて。
 気が付くと口が塞がれていた。
「な、何するんですか!」
「君はいい見た目をしている。僕は君のその身体が気に入ったんだよ」
「何をわけ分かんねえこと言って――」
 強い力で押さえられて身動きができない。俺を押し潰している彼は白衣のまま首筋に舌を這わせてきた。ぞっとするような感触が全身に広がっていく。
「や、やめて――」
「大丈夫、痛くはしないから」
 おいおい嘘だろ、この先生だけはまともだと思ってたのに、まさかこの人まで亮介と同じような思考回路だっただなんて! やっぱりこの学園ってホモばっかりなんじゃねえのか? 俺はとんでもない巣窟に迷い込んでしまったんじゃないのだろうか!
 隠すものがない俺の下半身に彼の手が添えられた。まだ夕方だってのに、この先生は何をしようとしてるんだよ。亮介でさえちゃんと夜まで待ってるのに、一体何なんだよこの人は! 時と場所と人を考えろっての!
 なんて心の中で文句を言っても仕方がないが、現実の俺はそんな文句など口にできないような状況に陥っていた。ある種の刺激があるせいでまともに喋ることができなくなっている。医者みたいなことをしていただけあって、彼はどこをどうすればより強い刺激を与えられるかってことを知っているらしい。そんなもん研究するよりもっと世間の為になることを研究しろよ、まったく!
「ん? これは?」
 ふと彼が不思議そうな声を出した。おかげでいわゆる愛撫が止まり、一時的に俺は助かったことになる。
 彼がまじまじと見つめているものは俺の脇腹にある傷跡だった。
「怪我をしていたのかい?」
 つい、とそこに指を這わせられる。もう痛くはないはずなのにとんでもない痛みが襲ってきた気がした。
「痛いのかい?」
「触らないでください……傷は治ってるけど、そこ、触られるの嫌なんです」
「そうなのか。それじゃあそうすることにしようね」
 今度は肌に唇を近付けられ、胸の辺りに吸い付いてくる。ただ今は傷のことを深く追及されなかったことが救いだった。いくら担任の先生とはいえ、あのことを他人に話す気はないんだから。
 いや、何をほっとしてるんだ俺は。まだ状況は全くと言っていいほど改善してないじゃないか! ああくそ、この前みたいにカメラを持った誰かさんが割り込んできてくれたら――それはそれで嫌だな。またあらぬ噂が立って余計に肩身が狭い思いをしなきゃならないかもしれないし。じゃあどうすりゃいいんだよっ!
 そんなことを考えていたのが幸いしたのか、再び下半身に刺激が送られてくるようになったすぐ後に部屋の扉が開いた。更に驚いたのはそこに立っていたのは俺の知っている相手であり――。
「あ、晃!」
 助けを求めるように声をかけると、相手ははっとした顔をしてこちらを見た。しかしそのまま固まってしまう。
「へ、ちょっと」
 期待していた俺を裏切るように、彼は大急ぎで扉を閉めてどこかへ走り去ってしまった。
 あの野郎、俺を見捨てやがって!
「ちくしょー、いい加減にしろよ!」
 半ばやけくそになって腕を振り上げる。すると何かにぶつかった感触があった。どうやら先生の頭にヒットしたらしい。
「いたたた……乱暴な子だなぁ」
「あんたの方が何倍も乱暴だろうがッ!!」
 さっとソファに乗っていた上着で身体を隠し、相手を睨みつける。もう俺の身体には指一本触れさせてやるもんかよ。俺をおかしな道に引きずり込まないでくれ。
「つーか何なんだよあんたは! 身体の心配してくれてたのかと思いきや、こんな目的の為に呼び出しただなんて――」
「身体を心配していたのは本当だって。採取した唾液や血液もちゃんと調べるし、教師として生徒を心配していただけだよ。ただ君が想像以上に僕の好みだったというだけで」
「好みだったからって襲うんじゃねーよ!!」
 思いっ切り怒鳴るとどっと疲れが押し寄せてきた。なんで俺がこんな目に遭わなければならないんだ。しかも晃には見捨てられるし、もう部屋に帰って寝たい。
「おい、円!」
 ガチャリと扉が開く音が聞こえた。それと共に現れたのはなんと亮介で、彼の瞳が先生を探して部屋の中を彷徨う。そうして見つけた先に居るなぜか裸でソファに座っている俺を見て、彼は全ての動作をぴたりと止めた。
「……お前ら、何してんの」
 とんでもなく低い声が部屋の中に響く。浮かんでいる表情はわけが分からないと言わんばかりのものだ。その気持ちは痛いほどよく分かるぞ、亮介。
「聞いてくれよ亮介! 円先生が俺を襲おうとしやがったんだ!」
「いやあ……好みの見た目だったからつい」
 また「つい」かよ! そんなちょっとつまみ食いでもしちゃいました的なノリで襲われたらたまらんわ! 本当に誰かどうにかしてくれよコイツ。
「ハア? 弘毅の見た目が好み? センセー相変わらず趣味が悪いな……この学園に俺以上のルックスの奴なんかいるわけないだろ」
 そして亮介のナルシストっぷりは絶好調だし。
「そんなことより円センセ、俺のファンデ知らね? どこ探しても見つからないんだよ」
「僕は見かけてないけどなぁ。水瀬君は知らないかい?」
「知るかよそんなもん! とにかく俺はもう帰るからな!」
 すっくと立ち上がって服を拾い集める。二人の視線を感じたがそんなものは無視して着替え、ようやく俺は寒空に肌をさらすことがなくなった。
「また来週にでも来るように。検査の結果を教えるからね」
「うっ……」
 最後に文句でも言って別れようかと思っていたが、先制攻撃をしてきた相手には勝てなかった。嫌な相手だが俺だって自分の身体の状態を知っておきたくて、その為にはまたこの部屋に来なければならないらしい。そうやって敗北を味わった俺はどうにか相手を睨みつけてから部屋を出ることに成功したが、そんなものはもはや負け犬の遠吠えにしかならなかったことは言うまでもないことだった。

 

 +++++

 

「はあ」
 部屋に戻ってベッドに寝転ぶとため息が出た。一緒に戻ってきた亮介はきょろきょろと周囲を見回し、引き出しを開けたりして探し物を見つけようと頑張っているらしい。
「円先生があんな人だっただなんて……ショックだ」
「俺はお前みたいな不細工が気に入られたってことの方がショックだな」
 独り言に横槍が飛んでくる。だけど今はなんとなく彼の刺々しさが心地良かった。
「亮介といい円先生といい、なんでこの学園には変態がうじゃうじゃしてるんだ」
「センセーは変態だろうけど俺は違うだろ。こんな天使を捕まえて変態だなんてお前はアホか」
「……」
 今度は天使と来たか。どこまで自分を神格化すれば気が済むんだコイツは。
「あーもう見つからねえ!」
 ぶんと枕を壁に向かって投げ、亮介はベッドに身体を放り投げた。俺の隣のベッドでずぶずぶと沈み込んでいく。
「お前ってさ……男に身体を好き勝手されることに抵抗とか覚えたりしないわけ?」
「そりゃ最初は覚えたさ。けど金儲けって考えれば、ちょっと我慢すれば金が手に入るから楽なもんさ。それに慣れれば気持ち良くなれるし」
 彼は上級生に騙されて強姦されたと言っていた。その事実があったおかげで薬に手を伸ばし、今もそれから抜け出せない状態なのに、それでも相手は不明瞭な強さがあるような気がした。いや、強さと言うよりも諦めと言った方がいいだろうか。
「確かに病気とかいろいろ気をつけなけりゃならねえことはあるけど、そこまで悪いもんじゃねえと思うぞ? お前も一度経験すれば分かるんじゃねえのか」
「俺は……無理だよ」
「なんで」
「だって!」
 身体を起こし、相手の目を見る。
 そこに悪意はない。俺と深く繋がろうとしない相手だったから、俺は見失わずに戻ってくることができた。
「だって――怖いだろ」
 そう。相手はあの人じゃない。あの人じゃなくて、友達だから平気なんだ。
「怖い? 相手が大人だからか?」
「そ、そういうわけじゃ」
「ハア?」
 平気だ。大丈夫。ここにはもうあの人はいない。俺は逃げられたんだから、これ以上怯える必要はないんだ。
 ――傷が疼く。痛い。
「おい……どうかしたのかよ」
「平気だ」
 肩に異物を感じる。咄嗟にそれを振り払ったが、次に見えた黒い瞳が大きくなっていたことに気付いて後悔する。彼はただ心配してくれただけだったんだ。俺は何をしてしまったんだ。
 こんな時は呼吸を整えよう。まずは深呼吸だ。息を大きく吸い、吐き出す。それを何度か繰り返し、どうにか落ち着きを取り戻すことができた。
 亮介はベッドの上に座り込んで訝しげにこちらを見ていた。
「弘毅、お前、なんで転校してきたんだ?」
 そうして飛んできた質問は今更感があるものであり、だけど本当は最も聞いて欲しかったことなのかもしれない。
「家庭の事情ってヤツだよ。それ以上は言いたくない」
「おい――」
「風呂入ってくる」
 立ち上がって風呂場へと向かう。足がよろけて壁にぶつかりそうになった。
「つまりお前は、ここを逃げ場として使ってるってことなんだな!」
 背後から聞こえてきた台詞はどんな意味を持つものだったのか。
 向き合うことを恐れて前に進めない俺は、亮介にだけは知られたくないと何度も口の中で噛み締めることしかできなかった。彼に知られたらどうなるか考えたくなかったんだ。せっかく形成できそうだった小さな友情を、俺の事情のせいで破壊してしまうことがどうしようもなく怖かったんだ――。

 

 

 

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