閉鎖

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3.明暗 - 02

 

「おいこら弘毅! てめえいつまでもぐーすか寝てんじゃねえよ!」
「わっ」
 俺の目を覚まさせたのは天から降ってきた亮介の怒声だった。それと同時に布団を取り上げられ、すぐさま肌寒さが俺の身体を襲う。
「さっさと準備しねえと置いて行くぞ」
 鋭い目で睨み付けてくる相手は既に制服を着ている。今まで亮介に起こされたことなんてなかったのに、どうやら今日は完全に寝坊してしまったらしい。
 慌てて身体を起こし、とりあえず顔を洗って歯を磨く。学校の制服に着替えて鞄を持つと、機嫌の悪そうな亮介に腕を引っ張られて部屋の外に連れ出されてしまった。
「……あのさ。お前今日も一緒に朝飯食う気?」
「そうだよ?」
 それがどうかしたのかと言わんばかりの可愛らしい表情を作り、亮介は俺の隣をゆっくりと歩いていた。確かに彼の方から向けられた好意は嬉しいんだけど、亮介のことだから何か裏がありそうで怖い。現にこの間の新聞事件の時なんか俺を困らせる為にくっついてたとか言ってたし。
「なんで俺と一緒に食いたいわけ? お前のこと大好きなファンと一緒に食えばいいじゃんか」
「アイドルはファンに近付き過ぎてはいけないものなんだよ」
「はあ……」
 何やら達観したようなご意見が相手の口から放たれた。しかし俺はアイドルってヤツじゃないから彼の主張が正しいのかどうかさえ判断できない。
 ただ部屋の中以外での亮介は完全に営業用の態度になっている為、俺を困らせる種である暴言を浴びせられることはなく、そこだけに注目すると校内で彼と一緒に過ごすのも悪くはないと思えるようになっていた。本当に少しずつだけど、たぶん俺たちの距離は縮まりつつあるんだろう。同室で隠し事なんかできないような環境に放り込まれた以上、俺は彼とそれなりの仲を保たなければならない。最初はそれがとんでもなく途方のないことのように思えていたけど、今ではなんだかんだで上手くやっていけてるんだから不思議なもんだ。
 それに亮介の方だって俺のことを名前で呼んでくれるようになったし。
「亮介」
「ん、何?」
 ぱっちりと大きく目を開けてこちらを見上げた相手が女の子のように見えた。男だって知ってるし、部屋でのあの鋭い目つきを忘れたわけじゃないのに、どうにもこれだけは慣れられそうにないな。
「お前さ、部活とかはやってないのか」
「どれも興味ない」
 見た目の可愛らしさにくらくらっとしていると、相手の口から若干棘のある言葉が飛んできた。俺は何か聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。
「弘毅は部活やってんの」
 完全に声のトーンが部屋のものに近付きつつある。周囲に誰もいないから大丈夫だと思っているのか、それとも俺の質問のせいで一気に機嫌が悪くなったのか。……きっと、いや、絶対に後者だろうな。こんな地雷があっただなんて知るかよ!
「お、俺はまだ考え中っていうか」
「帰宅部でいいんじゃねえの? お前どんくさいから何もできねえだろ」
「あー……」
 もうこの話題は終わらせることにしよう。うん。
「お、おおっと! もう食堂に着いたぞ、亮介!」
 まるで天が俺に助け船を出してくれたかのように、目と鼻の先には食堂の扉があった。相手が何か言う前に俺は彼の腕を掴んで部屋の内部へと連れ込む。
「さあて、どこに座ろうかなっ」
 きょろきょろと周囲を見回して空席を探した。寝坊して遅れたと思っていたのに席はほぼ満席で、俺たちが入り込む隙間さえないほどごった返している。
「あそこ空いてるよ」
 すっかり営業用の顔に戻った亮介が後ろから一つのテーブルを指差した。そちらに目線をやると、見覚えのある背中が空席二つの前に座っている様が見える。
「お邪魔してもいいかな」
 にこやかな表情を作った亮介がパンを頬張っている相手に問う。そこに座っているのは晃で、今日はいつもと違って寝起きなのに髪がちゃんと整えられていた。
「ああ、いいよ」
「悪いな、晃」
 俺と亮介は晃の前の席を陣取った。
「弘毅はパンでいい?」
「あ、うん。そんでもってマーマレードな」
「すぐ取ってくるから待っててね」
 やたらと人が好くなった亮介は頼んでもいないのに俺の分の朝食を持ってきてくれるらしい。部屋でもこんな調子だったら俺はもっと相手と仲良くなれたんだろうなぁ。晃とは何事もなく上手くいってるってのにさ。
 ――いや、待てよ。俺は昨日の夕方、晃に見捨てられたんじゃないか。
「なあ晃」
「え?」
 じっと相手の目を見つめる。心なしかそれが普段より大きく開かれている気がした。これは何だ、昨日のことを相手も意識してるってことなのか?
「お前酷いじゃないか。昨日俺が襲われかけてるところを見捨てるなんてさ」
「……襲われかけてる?」
 非難しようと口を開いたのに、晃の中から出てきたものは疑問符だった。
 何なんだこの反応は? 彼はあの光景を見て一度固まって、それから速攻で逃げ出したじゃないか。まさかそれをもう忘れちまったとか? いやいやさすがにそれはないだろう。ということは何だ、あれは晃から見れば襲われていることにならなかったってことか?
「あ、あのなあ! 俺は円先生にマジで襲われかけて大変だったんだぞ! そこにお前が来てくれて助かったと思ったのに見捨てられてショックだったんだぞっ!」
「えっ、輝美先生が弘毅を?」
 晃の目が更に大きく開かれる。ついでに声も高くなり、こっちが驚かされてしまった。
「ただいま。パン取ってきたよ!」
 ちょっとだけ緊張した空気が流れていたのに、それを微塵も残さぬくらい粉砕する勢いで亮介が声をかけてきた。やっぱりこいつは俺を困らせて楽しんでるんじゃないだろうか。
「いただきまあす」
 隣に座った亮介が無駄に可愛らしくパンを口に運ぶ。……なんかこいつ見てると疲れてくるんだけど。
「それはそうと、晃」
「ごめん。部屋に鞄忘れてきたから俺もう行くな」
「え、ちょっと――」
 いつの間にやらパンを食べ終えていた晃はさっさと席を立って食堂から出て行ってしまった。そうして残ったのは虚無感だけであり。
「弘毅は黒田君と仲がいいんだね」
「仲がいい奴に見捨てられたり置き去りにされたりする俺って一体何なんでしょう」
「さあ?」
 仕方がないのでパンを食べることにした。腹が満たされれば少しくらい元気が出てくるだろう。そう、この疲れや虚しさは空腹のせいに違いない!
「……晃の奴、なんか今日ちょっと変だったな」
「そうなの?」
「いや、気のせいかもしれないけどさ」
 彼とはもう一週間以上の付き合いになるけど、なんだか今日は大人しかったというか、俺の文句や苦労話につっこみを入れてこなかった辺りが不自然さを感じさせていた。もしかしたら疲れてるのかもしれないし、昨日のことをやっぱり覚えてて俺とはもう付き合いたくなくなったとか思われてたりして。でもさっきはやたらとびっくりされたんだよな、まるで昨日のことなんてさっぱり知らなかったかのように。
 もしかしてあいつにも亮介並みの秘密があるとか?
「あのさぁ、亮介。お前から見た晃ってどんな奴なんだ?」
「二重人格者」
 試しに訊ねてみると、もぐもぐとパンを食べている亮介の口から不可思議な単語が放たれた。
「な、何それ」
「同級生の間じゃ有名なんだけどね、彼には元気な時と大人しい時とがあって、双方で性格が正反対になってるから二重人格なんじゃないかって噂になってるんだよ」
 二重人格。
 じゃあ何だ、俺が今まで接してきた晃は元気な時であって、さっきまでここにいた晃は大人しい時だったってことなのか? それでその二つの時では性格が正反対だって?
「弘毅はとっても変わった人に好かれるんだね!」
「お前なあ……」
 輝かしい笑顔に文句でも言ってやろうかと思ったが、そろそろ時間が迫ってきていることに気付いてパンを口に運んだ。
 会話らしい会話もなく、二人で黙々とパンを食べ続ける。
 普通の友達だと思っていたのに、晃のことが分からなくなってきた。別に二重人格だからって避けたり友達をやめたりする気はないけど、それでもなんだか疎外感を覚えてしまったんだ。本人に自覚がないのなら仕方がなかったんだろうけど、そういうことはもっと早い段階で教えて欲しかったな。隠し事をされるって意外と傷つくんだぞ。
「ごちそうさま」
 ぱんと両手を合わせ、隣で亮介が小さく呟く。
 俺は慌てて残っているパンを口の中に放り込み、にこにこしたままの彼と共に食堂を後にした。

 

 

 あっという間に授業が終わり、気が付けば廊下がオレンジ色に染まっていた。
 今日の晃は一日中大人しかった。亮介が言っていた噂ってヤツもあながち間違ってないようで、今日の彼はいつもの豪快さというか雑さがなく、別の姿しか知らなかった俺にとっては相手が別人のようにしか見えなかった。だけどそんなことを相手に聞くことなんかできるわけがなくて、俺はもやもやした気持ちを抱えたまま部屋に戻ってきてしまった。
「あー、疲れた」
 ぼふりとベッドに倒れ込む。既に部屋の中にいた亮介は鏡に向かって髪を整えており、服も着替えて客を迎える準備はばっちりだった。疲れてんのにまたあの悲劇を聞かなきゃならないのかよ。もうさっさと寝ちゃおうかな。
「弘毅」
 くいと上から服を引っ張られる。その声色は心なしか優しくて、俺は身体を起こして相手と向き直った。
「今日の客は深夜に一人だけ来るんだが、お前はさっさと寝た方がいい」
「……どういうこと?」
「ちょっとうるさくなるかもしれないってことだ、それくらい分かれよ馬鹿」
 今までも充分うるさかった気がしたが、それを言ったら百倍くらいうるさいお説教が飛んできそうだったので何も言わないでおいた。
「うるさいかもって、なんで?」
「打つのが好きな奴だから」
 立ち上がった亮介はそれだけを言って部屋を出て行った。残された俺は彼の言葉を噛み締めるように考え始める。
 打つって、つまり亮介の身体を何かで打つってことだよな。よくある話じゃ鞭なんかが出てくるけど、この学園じゃそんな物を持ってる危ない奴まで暮らしてるってことかよ。いや、それより亮介の身体は大丈夫なんだろうか。色白で細くて病気を持ってるみたいな彼を打つだなんて、相手は一体どんな奴なんだろう。
 今日は晃のことで疲れてるってのに、俺はまだまだゆっくりと眠れそうにない。
 少しは慣れてきたと思ったけれど、この閉ざされた空間の中にはまだ俺の知らないものがたくさんあることが分かったような気がした。

 

 +++++

 

 鋭い音ではなく鈍い音が部屋の中に響いていて、俺はびっくりしたように目を覚ました。
 この間のように布団を少しだけ持ち上げ、現れた隙間から部屋の様子を確認する。まず最初に見えたのは裸になった亮介の身体が隣のベッドの上に転がっている場面だった。どういうわけだか彼はタオルで目隠しをされており、更に手首にもタオルを巻かれて拘束されている。
 俺がまじまじと彼の姿を見つめていると、再びあの鈍い音が耳に届いてきた。同時に映し出された光景は、亮介の上に何か細い物が振り下ろされる様であり。
「どうした? なぜ黙っている? いつもみたいにいい声で鳴いてごらんよ……亮介君!」
 低い男の声の後にまた何かが振り下ろされる。それをまともに食らった亮介は少しだけ声を漏らした。
 即席で作った狭い隙間からは相手の姿が全く見えなかった。俺はちょっと身体を動かし、今度は男が立っているだろう場所が見える位置に隙間を作る。
 限られた視界から確認できた相手の姿は、俺にとっても見覚えのあるものだった。
「あ――っ!」
 バシリ、と嫌な音が耳を貫く。
 亮介の声は喘ぎではない。鋭い鞭のような物の正体はベルトで、それを受けた亮介が出した声はもはや悲鳴に他ならなかった。
 同じ行為が幾度か繰り返された。腹から太もも、腕、背中にまで及んだベルトによる暴力を、両腕と視界を奪われた亮介はただ黙って受け続けることしかできなかったのだろう。そのたびに彼の悲鳴が飛ぶ。どうしてだかそれは抑えられているようで、そのことに気付いてしまった俺は彼の声が余計に痛々しいもののように聞こえてしまっていた。
 これが身体を売るということなのか。相手の言いなりになって、性的な快楽を与えるだけじゃなく、こんな虐待みたいな行為さえ甘んじなければならないというのだろうか。亮介はそれを了承している? 仕方がないと諦めている? たとえそうだとしても、本当に腹の底から受け入れているのだとしたら、あんなに苦しそうな声を出すだろうか?
 それに、今日の亮介の相手。彼の存在が俺には許せなかった。そう、ベッドの上に倒れた亮介をベルトで打ち、視界と両腕の自由を奪っている相手は――。
「鳴け、もっと鳴け、亮介!」
 ベルトが空を切った音が飛ぶ。
「やめろ!」
 我慢ができなくなって俺はベッドから飛び出していた。男の後ろから腕を掴み、ベルトが振り下ろされる瞬間を阻止する。
「な――き、君は」
「大人のくせにみっともねえ真似すんなよ!」
 俺が止めた相手はこの学園の先生だった。俺たちの授業を担当している人じゃないけど、転校初日に俺をこの部屋へ案内してくれたことだけはよく覚えている。
「弘毅? 何をして……」
 普段よりずっと弱々しい声が亮介の口から零れていた。びっくりして彼の姿を確認すると、隙間からじゃよく見えなかった全貌が明らかになり、その傷の多さにまた俺は驚かされる。俺は慌てて彼の目隠しと手錠のようなタオルを取り払った。
「大丈夫か、亮介」
「……」
 亮介はぽかんとして俺の顔を見ていた。まるで何が起こっているのか分からないと言わんばかりの表情だ。
 そうやって彼と向き合っていると、後ろから大きな音が響いた。それは扉が閉められた音であり、おそらくその音を作った犯人であろう先生は既にこの部屋の中から消えていて、俺は再び亮介と向き直ることにした。
「亮介」
「なんで邪魔したんだ」
 苛々したような声が俺の全てを正面から貫く。
「商売の邪魔はするなって言ったことをもう忘れたのか? お前本物の馬鹿じゃねえの!」
「な――だってお前、あんなこと、商売でも何でもないだろ! ただの暴力じゃないか!」
「ああいうことでも我慢してりゃ金が手に入るんだ、何も知らねえくせにいちいち首を突っ込んでくるなって言ってんだよ!」
 鋭い言葉に何も言い返せなくなった。言うべき科白はたくさん思いつくけれど、それを口にすることができなくなっている。
 亮介は裸のまま立ち上がり、棚の中から薬が入っている瓶を取り出した。それはほとんど空に近い状態で、彼はそこから全ての錠剤を手の上に転がす。そして水も用意しないままそれらを口の中に放り込んでしまった。
 ぼふり、と相手が隣のベッドに沈み込む。
「うっ――」
 彼の顔が歪んだ。当然だ、だって彼の身体は傷だらけになっているんだから。
「亮介」
「触るな」
 伸ばした手が振り払われた。それから双方共に黙り込み、無意味な時間が流れていく。
「お前……なんであんなことしたんだよ」
 先に口を開いたのは亮介だった。静寂により熱が冷めたのか、先ほどよりもやわらかな声色になっていて安心する。俺は彼のベッドに腰を下ろして壁を見つめた。
「亮介が苦しそうに見えたし、それに先生が生徒を使ってるってことに腹が立ったんだ」
「それだけ、か?」
「そうだよ」
 振り返って相手の顔を確認する。彼は俺の姿をぼんやりと見上げているようだった。そこに悪意や軽蔑の念は感じられない。
「とにかく傷を治さなきゃならないな。ええと、救急箱とかって部屋に置いてあったんだっけ?」
「明日の朝から円先生の所に行ってくる。いつもそうしてたんだ」
 立ち上がろうとした俺の服を亮介が引っ張っていた。仕方がないので俺はまたベッドの上に座り、彼の隣で息をする。
「とりあえず服、着ないのか?」
「着たら痛いからこのままでいい……」
「でも風邪ひくぞ」
「んん――」
 いつの間にか眠気が襲ってきたのか、あるいは単に疲れてしまったのか、亮介はすっと目を閉じて静かになってしまった。しばらく黙って彼の様子を眺めていたが、やがて聞こえてきた整った呼吸音を確認した後には相手の身体の上に布団を被せてやった。
 部屋の電気を消し、俺もまた布団の中に潜り込む。
 そうして見る夢が恐ろしいものであったとしても、今なら俺は逃げ出さずに強大な敵と向き合うことができるのだろうと感じていた。
 どうしてだか分からないけど、俺は進むべき道を見つけた旅人のような心地に浸っていたんだ。

 

 

 

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