閉鎖

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3.明暗 - 04

 

「はあ……」
 深いため息が夜の部屋に充満する。それを発した亮介はがっくしと肩を落とし、ソファに座り込んで小さくなっていた。
 俺はもぞもぞとベッドの中から這い出て床の上に足を下ろす。
「どうかしたのか?」
「客に逃げられた」
 理由を尋ねると分かりやすい回答が返ってきた。相手が着込んでいるブラウスは少しだけしわができており、それさえ直そうとしない亮介は本当に落ち込んでいるのだと伝わってきたような気がした。
 何があったのかは分からないけど、亮介にとって客に逃げられるということは金を手に入れる手段を失うということであり、当然それが積み重なると薬を買えなくなってしまう。しかし俺からすればその方がいいんじゃないかと思えるんだよな。この調子で亮介の人気がなくなって、薬を買わなくなってくれればいいのに。
「お前のせいだぞ、弘毅!」
「ええっ!」
 唐突に顔を上げ、まるで腹いせのように怒鳴られる。つーかなんで俺が怒られなきゃならないんだよ、俺は亮介の言った通りベッドの中でうずくまってただけだっての!
「何ゆえ俺のせいになるんだよ、ずっと黙っててやったじゃないか」
「そ、それは――」
 さっと顔をよそへ向ける相手。
 この反応は以前も見たことがあるぞ。これはきっとあれだ、照れ隠しに似た何かに違いない。そこから考えられる今回の「理由」といえば――。
「まさかお前、俺に気遣って商売を躊躇ったとか?」
「な――何を言ってやがる、馬鹿が! なんで俺がお前なんかに気を遣わなきゃならねえんだよ、この馬鹿、大馬鹿野郎!」
「えー違うのかぁ。じゃあ本当の恋に気付いたから他の奴らとやりたくなくなったとか?」
「……お前、一体何を考えているんだ」
 少し前まで顔を赤く染めて興奮していた相手なのに、何やら急に落ち着いてソファの上で腕を組んだ。ふむ、どうやら俺の科白の中に亮介の何かを動かした要素があったようだ。それが何なのかは知る由もないけど。
「この際もうお前でもいい、弘毅、一万払えよ」
「や、やだよ!」
 ちょっと油断するとすぐにこれである。俺の服を掴もうと伸ばしてきた手を避け、俺はさっさと布団の中に潜り込んだ。
「つれない奴だな……」
 再び夜の部屋にため息が吐き出される。
 なんだか彼はいつもよりも元気がないように思えたが、ここで布団から出て亮介を心配すると反撃を食らいそうな気がしたので、俺は相手の様子が気になりつつも今夜はもう目を閉じてしまうことにした。

 

 +++++

 

 日曜の朝は静かだった。
 生徒たちは部屋の中で閉じこもっている者が多く、食堂もガラガラで席を選び放題だった。そんな中を俺は無理矢理くっついてきた亮介を連れてのそのそと歩く。
 しかし何故こいつは俺にひっついてくるのかね。俺のことなんか嫌いなんじゃなかったのかよ。いや、それはそれで悲しいけどさ。
「よう、お二人さん。今日も仲がよさそうだな」
「わっ」
 背後からぽんと肩を叩かれた。そんなことをしてくる奴は一人しかいない。
「晃」
「おはようさん」
 にっと笑ったなら白い歯が見えていた。前回会った時とは違い、今の相手は俺がよく知っている相手で間違いないらしい。
 俺は何も意見しない亮介と共に晃の前の席に座った。テーブルの上に習慣化したメニューを並べ、何気ない食卓が演じられ始める。
「あのさぁ、晃……」
「ん、何だ?」
 目の前にいるのはいつもの彼だ。話しかければ明るく答えてくれる相手であり、俺を残してさっさと立ち去ってしまうような人じゃない。そんな彼なら聞けば教えてくれるかもしれないと期待しているのだろうか。俺は亮介の隣で自分の思いに正直になる。
「この前――確か金曜日だったかな、あの日は一体何があったんだ? まるで別人みたいだったぞ」
「金曜日? ああ、あの日は……」
 そこまで言って相手は言葉を途切れさせた。やっぱり言いにくいことなんだろうか? それは二重人格だから? 皆を騙していることだから?
「ここじゃちょっと話しにくいかな。後で俺の部屋に来てくれよ。ま、今は朝食だ」
「……それもそうか」
 どうやら晃は隠し事をするつもりはないらしい。それが分かっただけでなんだか俺はほっとした。そうだよな、こいつが友達を騙すような真似なんてするわけがないんだ。なんて、何を考えてるのか分からないのが人間ってものなんだけどさ。
「亮介も来るか?」
 正直誘いたくはなかったが、とりあえず俺の隣にいる爽やかな奴にも声をかけておいた。そんな彼はイチゴジャムを塗った食パンを可愛らしくもぐもぐと食べている。
「行っていいのなら」
「加賀見も来て構わないぜ。弘毅の友達なら信用できるし」
 信用という一言がずしりとした重さを感じさせた。そして俺は今になってようやく、これまで相手が守り続けていた砦に土足で入ろうとしていることに気が付いたんだ。

 

 

「まあその辺に座っててくれよ」
 朝食を終えるとすぐに晃の部屋に案内された。彼の部屋は一階にあることがひどく羨ましかった。俺だって一階で住みたかった。しかし現実は非情なもので、俺に与えられた安らぎの空間は天井に近い位置にしかないのだ。
 俺と亮介は晃の私室にある座布団の上に座り込んだ。その隙に晃は部屋の奥へと引っ込んでいく。俺たちの目の前には和風な机があり、やたらと背の低いそれの上には二つの湯のみが置かれていた。誰か俺たちの前に客でも来ていたんだろうか。
「やあやあ、おまたせ」
「ん――」
 降ってきた晃の声に顔を持ち上げ、そして俺は目を大きくせざるを得なかった。
「な、なん――」
 視界に映っている姿は一つではなかった。そう、俺がよく知る晃のすぐ隣に、もう一人俺が見知った晃が並んでいたのだ。
「お、お前双子だったのかよ!」
「んー、正確に言えば違うけど、まあ似たようなもんかな」
 すとんと座布団に二人の晃が座った。その動作が全く同じでいちいちびっくりする。なんだかもう二人の間に巨大な鏡でも置いているのかという気分になってきた。
「紹介するよ。こいつは陰(イン)。俺のクローンだ」
 ――クローン。
 さらりと恐ろしいことを言った晃は平然とした顔をしているが、俺は言葉が出なくなってしまった。クローンって、あの、オリジナルとそっくりそのままを作っちゃいますぜってやつだよな? 数年前に話題になって、倫理的に問題があるから作っちゃいけないってことになってたような気がしたんだけど、俺が見ているのは本当にそのクローンなのか?
「ちょ、晃、説明を……俺に説明を頼むっ」
「うん……まあ妥当な反応だよな。こうなることが分かってたから今まで誰にも言わなかったんだけど、お前らには特別に教えてやるよ」
 信頼されていることは嬉しい。だけど俺が理解できる説明が欲しかった。だっていきなりクローンだなんて言われたって……俺は何を思えばいいのやら。
 ふと思い立ってちらりと隣を確認すると、亮介はスマイルを完全に忘れているぽかんとした顔で二人を眺めていた。俺よりも動揺しているのか、瞳は大きく開かれ、一言も喋ろうとしない。こいつって何を見ても平気そうなのに意外だな。
「基本的に口外することは禁止されてるんだけど、実はこの学園は研究施設を兼ねてるんだ」
「へ」
 我ながら間抜けな声が口から飛び出したと感じた。いやいやちょっと待ってくださいよ晃さん、なんだかいきなりスケールが大きな話になってないですか?
「それで親父が――あ、親父ってのは学園長のことな。その親父が果たさなきゃならなかった義務ってのが自分の子供、つまり俺のクローンを作るってことだったんだ。だから俺にはクローンがいる。そういうこった」
「は、はあ……」
 それはまあ、なんともすっきりした言い分であることで。
「て、てめえあのクソジジイの子供だったのかよ!」
 いきなり隣から大きな声がぽんと飛んだ。ああそういえば亮介って学園長と顔見知りだったんだっけ。それなのに晃が息子だってことは知らなかったのか。
「だから黒田にはあの噂があって――くっそー、そういうことだったのかよ! 騙された! 見事に騙されたぞ、あのクソジジイがっ!!」
 ばん、と机を叩く。これってたぶん独り言だよな。俺は介入しない方がいいんだよな、そうだよな?
 とはいえ気になることは聞いちゃうのが俺の性分であって。
「亮介お前、何か知ってたのか?」
「学園長のジジイにいろいろ聞かされてたんだ、この学園の目的だとかをいろいろな! だからクローンが作られていることも知っていた。でも……あーくそっ!」
 再び亮介は机を叩いた。二つの湯のみが小さく飛び跳ねて着地する。
「加賀見、お前……親父に教えられたのか? 変だな、このことは関係者以外には教えちゃいけないってことになってるのに」
「俺だってそんなこと知るかよ! お前の親父、頭ん中イってんじゃねえの!」
 うわあ。亮介の奴、晃の前だってのに暴言吐きまくりだな。部屋の中以外じゃずっと大人しかったのに、なんてこった。
「ま、まあとにかく。このことは俺たちだけの秘密にしてくれよ。学園内では俺か陰のどちらかしか動けないんだから」
「それはいいけど……」
 晃の隣にいる陰は口を閉ざしたままだ。何か言いたげな様子もなく、晃の話が終わるのを待っているらしい。彼の姿はどこからどう見ても普通の人間なのに、現実は晃に似せて作られたクローンなんだ。それがなんだかとても不思議に思える。
「弘毅、それに加賀見。陰とも仲良くしてやってくれよ。クローンでもちゃんと感情はあるんだからさ、俺の為だけに生きてるわけじゃないんだ。俺と違って大人しい奴だけど、すごくいい奴だからさ!」
 まるで自分の息子の自慢をしているかのように晃は活き活きした顔をしていた。きっと彼は陰のことを本当の兄か弟のように思っているんだろう。
 うん。俺はそんな晃が好きだ。クローンだからって差別しない晃が友達で良かった。
「これからよろしくな、陰。ついでに亮介とも仲良くしてやってくれ、こいつ友達いないっぽいし」
「よ、余計な御世話だ!」
 言葉よりも先に拳が飛んできた。それをまともに食らった俺は腹を押さえて唸り、この場に二つの同じ笑い声が生まれたことは言うまでもない。

 

 +++++

 

 世界が夜に包まれようとしている。空に浮かぶ月は姿を隠し、星たちもまた張り巡らされた雲によって輝きをよそへ向けているようだ。
 小さな部屋の中では途切れることなく機械の音が鳴り続けていた。それを発している亮介のドライヤーがぐるんと回転し、床に落ちる。
「あー……久々に緊張する」
 ドライヤーを拾い上げ、亮介は何やら独りごちていた。俺はベッドの上で寝転んで彼の後ろ姿を眺める。
「なんで緊張するんだよ」
「てめえには関係ねえだろ」
 せっかく仲良くなれてきたと思ってたのに、亮介の態度は依然として変わっていないように感じられるから悲しい。ちょっと可愛いって思い始めてきたのにこんなことされるとなぁ。
「亮介はさ、晃のこと……つーか、クローンのこととか知ってたんだよな」
「ふん、学園長のジジイが勝手に喋ってたのを聞かされてただけだ」
 片手に持った櫛が何度も上下して亮介の髪がまっすぐになる。ぱらぱらと水の粒が床の上に飛び散り、絨毯に小さな染みを作っていった。
「そもそもお前ってなんで学園長と知り合いなんだ? 家族とか、そういうんじゃないんだろ?」
「俺が知るかよ! あっちから近付いて来やがったんだ」
 くるりと身体を回転させ、亮介は櫛とドライヤーを持ったまま鏡に背を向けた。そのまま櫛を棚の上に置き、ドライヤーはコンセントを抜いて電源を切ってしまう。
「どんな人なんだ、学園長って」
「……」
 俺が問うと相手はちょっと渋い顔を作った。
 ふらりと立ち上がってこちらに近付き、亮介は自分のベッドに腰を下ろす。彼の綺麗な服にはしわなど一つも見られなかった。ついでに顔にはうっすらとした化粧が施されているらしい。
「あんな奴、ただ鬱陶しいだけだ。俺のやる事なす事にいちいち首を突っ込んできやがる。でもどういうわけだか売春や薬をやめさせようとはしないんだ、他の教師どもはそういうことにだけは口を挟んでくるってのにさ」
「そう、なのか」
 とりあえず相槌は打っておいたが、彼の話だけでは学園長がどんな人なのかは少しも分からなかった。確か入学式の時に壇上で挨拶をしていたような気がしたが、俺が知っている学園長の姿はそれだけで、それ以来は姿を見たことも声を聞いたこともない。
「しっかし、まさか黒田があのジジイの息子だったとはなぁ……」
「お前それまだ言ってんのかよ」
「うるせえな、俺はあのジジイに騙されてたことに腹が立ってんだよ!」
 ばふっ、と亮介はベッドを叩いた。なんつーかこいつって怒るとやたら攻撃的になるよな。暴言を吐くだけじゃなくて手も出てくるなんて、これでここまで隠し通せるとかある意味すごい。
「それにしても、今週はいろいろあったなー……」
 思い返せばろくなことがなかった気がするが、それでもいろんなことを知る機会があってよかったように思える。だって知ってるのと知らないのとでは全然違うから、俺はもっとたくさんのことを知らなきゃならないんだろう。
 円先生のこと。亮介を使っている教師のこと。キアランのこと。晃と陰のこと。
「なんだお前、この程度で疲れたのか? モヤシだな」
「あ、あのなあ……」
 亮介は相変わらず俺を弄るのが好きらしい。いや、弄ると言うよりいびると言った方が正しいか。そしてこういう時に限ってものすごくいい笑顔になるしさぁ。
「ま、人間誰しも表と裏を持ってるもんさ。普段見せびらかしている明るい側面もあれば、必死こいて隠そうと努める人には見せられない暗闇だってある。お前からすれば俺だってそうだろうし、お前自身にだってそういう面があることは分かってんだろ?」
「うん……まあ、そうだけど」
 亮介の言うように人間にはあらゆる明暗がある。それを全て暴こうとすることは愚かな行為であり、だけど相手の何もかもを知りたいと感じる人間は傲慢な生物なんだろう。そのくせ自分自身の闇を他人に見せることを極度に怖がり、幾重にも張ったベールで作った鎧はとても立派なものだ。
 俺は亮介の秘密も晃の秘密も知ってしまった。それなのに自分の秘密を彼らの前に提示する勇気がない。それは嫌われることを恐れているから? ここから追い出されて、俺の居場所を失うことが怖いから?
「なあ弘毅。なんで俺が昨日の夜、客に逃げられたか知りたいか?」
 顔を上げると亮介が穏やかな顔で微笑んでいた。それが俺を安心させる為のものなのか、それとも俺を貶める為のものなのかは分からない。
 彼は俺に何でも話してくれる。嫌いだと言いながら、暴言を吐きながら、それでも俺の質問にはきちんと答えてくれる。
 俺よりも彼の方が何倍も純粋じゃないか。
「客とやってる時、間違ってお前の名前を呼んじまったからだよ」
 いつの間にか彼の手が俺の頬に添えられていた。
 有り得ないほど二人の距離は縮まっている。俺はその現実を理解することができない。
「――なんで?」
 声を出しても世界は安定しなかった。相手は俺の頬を撫でるように手を動かしている。近付き過ぎた身体がすぐ傍にあり、彼の鼓動さえ聞こえてきそうな気がしていた。
「理解できないのか。お前、思った通り鈍感だな」
「……」
 落ち着いた声色の亮介と違い、俺は唇が震えて声を出すことができなくなっていた。頭の中で何かが絶えず駆け巡っているんだ。それは俺を警戒の域に放り込み、だけど知りたがる本能が働いて身動きができなくなっている。まるで手枷と足枷を付けられた気分だ。
 彼のさらりとした髪が首の上に垂れる。細い指が耳を挟み、生温かい体温が彼と触れた部分からもたらされる。
 震える唇に蓋をされ、俺は初めて会った日以来の接吻を黙って受け取っていた。
 キスされた唇が燃えるように熱い。

 

 

 

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