閉鎖

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4.協同 - 01

 

 誰かと手を取り合うこと。
 誰かの心を奪い合うこと。

 

 

 今朝は嫌な夢を見た。少し前まで味わっていたあの苦痛が襲ってきて、夢の中だと分かっていたのに逃げられなかった自分のことが忌々しかった。それをすっかり忘れてしまう為にも、窓を開けて外の空気を思いっ切り吸い込む。
「……おい」
 清々しい風に当たっていると背後から低い声が響いてきた。くるりと身体を回転させ、俺を睨み付けている寝ぐせだらけの相手の姿を見る。
「こんな朝から窓なんか開けてんじゃねえよ、馬鹿」
「いいじゃないか、気持ちいいんだから」
「はあ……」
 どうやら亮介は朝が苦手らしく、如何なる日であっても朝のテンションは終日で最低だった。深いため息を吐いた相手はふらふらとした足取りで洗面所へ向かっていく。
「そういえば、そろそろ球技大会だな」
「へ」
 ふと漏らした亮介の言葉が頭の中でぐるぐると回り始める。
 まだ転校してきて日は浅いと思っていたのに、いつの間にやらカレンダーは五月に突入していたらしい。こんな閉鎖された空間で生きていると季節のことなんて忘れてしまいそうだ。ずっと毎日が変わらないようにさえ思えてしまう。
「この学園の球技大会ってどんなのなんだ?」
「別に、普通だ」
 さらさらと髪を梳き、亮介は鏡と睨めっこしたまま答えてくれる。しかしそれは俺が求めていた回答でないことだけは確かだった。
「いやその。どんな種目があるんだよ」
「珍しいものなんかねぇよ。バスケとかサッカーとかテニスとか」
「……それで、お前はちゃんと出るのか?」
 ぴたりと相手の手が止まった。鏡の中にある瞳がくっと開かれ、ゆったりとした動作で振り返ってくる。
「他の学校と違うことがあった。この学園の球技大会は基本的にペアで参加しなけりゃならなくて、そのペアってのは同室の奴って決められてるんだ」
「ふうん、そうなのか……」
 それはまたずいぶんと変化に乏しいルールであるようで。
「……いやちょっと待て、ということは俺は亮介とペアになるってことか?」
「他に誰がいるってんだよ、ああん?」
 せっかくのイベントだってのに俺にとっては最悪のシナリオになりそうだった。ペアで参加なら晃に頼めば快諾してくれそうだと思ってたのに、まさかあらかじめ決められた規定によって亮介とペアにさせられてるなんて。そもそもこの授業にさえまともに出てないこいつが球技大会なんて面倒臭そうなイベントに出席する気はあるのか?
「お前はこの学園一の幸せ者だぞ、弘毅。この俺にかかればどんなスポーツだろうと敵なしだからな」
 ふふん、と自信ありげに亮介は鼻を高くした。こいつって容姿も頭もいいのにそれにプラスしてスポーツまで万能なのか。これで性格さえよければ俺も好きになれただろうに、当の本人はかなりのひねくれ者だからなぁ。
「で、亮介は何の種目に出るつもりなんだよ」
「そうだな……去年は一人だったからバレーの応援担当だったんだが、今年は弘毅という最大の足手まといがいるからな」
 応援担当って、結局出場してなかったんじゃねえかよ! 本当にこいつがスポーツ万能なのかどうか疑わしくなってきたぞ。
「よし。今回の種目は卓球だ」
「た、たっきゅ――」
 卓球ですと。それはまた、予想の斜め上どころか明後日の方角にいくような種目でございますことで。
「いいか、試合中お前は邪魔するなよ」
「あのー、ペアで出るってことはダブルスになるんじゃ……」
「だからお前は後ろの方でラケット持ってぼーっとつっ立ってりゃいいんだよ」
 確かに俺は運動はそれほど得意じゃないけど、だからってそんな仕打ちって酷くない? 俺だって少しくらいは頑張ってみたいんだからさ!
「ちゃんと練習すれば邪魔にならない程度にはなると思うしさ、その」
「練習する気なんかねえから」
「え、一度も練習しないってこと?」
「そんなことしなくても優勝は余裕だってことさ」
 そう言って亮介はにっと口元を緩ませた。
 一体どこからそんな自信が出てくるのかは分からないけど、なぜだか機嫌が良くなっている相手を怒らせたくはなかったので俺は黙っていた。そうして俺は彼から受けた二度目のキスを思い出す。
 なぜあの時彼があんなことをしてきたのかは分からない。どうして俺に暴言を吐きながらもくっついてきたがるのかということも分からない。だけど徐々に見えてきたのは相手との間にあった壁が壊される刹那だった。あまりにも分厚すぎてそれは不可能だと思い込んでいたけれど、どうやら重い槌を持っているのは俺ではなく亮介だったらしい。俺はきっとまだ鉄の盾を片手に岩の陰で怯えて背中を丸めているんだ。
「そんじゃ、朝飯でも食いに行くか」
「あ、うん……」
 さりげなく俺に語りかける亮介が何を考えているのか、俺はそれを理解できるほど彼と打ち解けたいと願っているのかもしれなかった。

 

 

「球技大会かぁ……もうそんな季節なんだな」
 教室の中は普段のようにざわめいていたが、なぜだか今日は球技大会の話題があちこちから飛んできているように感じられた。俺がそれを意識しているからそう思えるのかもしれないけど、少なくともクラスの皆も校内のイベントに意識を持っていかれているのだろう。
 そして俺は相変わらず晃と話をしていたが、どういうわけだか晃が亮介の席の前に立ち、結果的に亮介も含めた三人での話し合いが行われようとしていた。教室の隅の方から俺や晃を突き刺すような視線を感じているが……それはもう気にしない方がいいんだろうな。
「あ、晃はさ、どうするんだ? 俺はなんか亮介がどうしても卓球じゃなきゃ嫌って言うから」
「ふうん、卓球? 加賀見って運動神経いいから何やっても優勝できるだろ、弘毅は運がいいな」
「……それマジで言ってんの?」
 亮介の自画自賛癖のせいで定かではなかったが、晃までもが彼の運動神経を認めるのなら亮介はスポーツもできるということになる。つまり顔も勉強もスポーツもできる完璧野郎ってことだ。ただし性格は除く。
「安心しててよ、弘毅。きっと僕が君を優勝の座へ導いてあげるから」
 胡散臭さマックスのエセ笑顔が周囲にお花を咲かせていた。いや、お前このあいだ晃の目の前で素の姿さらしてたじゃねえかよ。その営業用態度やめろって。
「僕らのことはいいから、黒田君の話を聞かせてよ」
「俺か? うーん俺はなぁ、ほら、とりあえず一人ってことになってるから卓球やらテニスには出場できないんだ。そしてもう一つ言うと、俺は出場するつもりはない」
 何やら意味ありげに声色を沈め、晃は人差し指をぴんと立てた。その言動が意味するものとはつまり、あれだろう。
「陰が出るってことか」
「その通り。実は俺、運動音痴なんだよな」
 そういえば授業初日の自己紹介の時にも運動部には入らないって感じのことを言ってたもんな。晃みたいな奴って大抵運動馬鹿ってイメージがあったけど、彼の場合は陰と二人合わせて考えなきゃならないってことだろうか。
 初めて晃の部屋に訪れて陰を紹介された時から何日かが経過していたが、俺はあの日以来陰の方とは会っていない。どうやら陰が学内に出てくる機会は多くないらしく、晃は何も教えてくれないけどほとんど彼は留守番をしているようだ。せっかくいい感じの自己紹介までしたんだから、もうちょっと話とかして仲良くしたいんだけどなぁ。
「俺と違ってあいつは運動神経抜群だぜ。加賀見と対戦できないのが残念なくらい」
「おいちょっと待てよ黒田、俺よりあのなよなよした奴の方が強いって言いてえのかよ、ああ?」
 亮介さん、素に戻ってますよ。
 なんて横から口出ししたらすぐ元に戻りそうだから俺は黙っていた。完璧な亮介君でも部屋以外で素に戻るなんてミスを犯すこともあるんだな。意外な側面が見えて俺は嬉しいぞ。
「種目次第では加賀見に勝つかもな」
「そんなことは万が一にも有り得ないから安心しろ!」
 ちらりと周囲を見回してみると、俺たちのことを注目して見ている人は誰もいなかった。亮介のファンって奴らも別のことに夢中になっており、亮介は四六時中見張られてるのかと思ってたからちょっと驚いた。案外亮介も気楽に生活できてるのかもな。
「今日は部屋に帰ったら陰にどの種目に出たいか聞かなきゃなー」
「晃もいろいろ大変だな……」
「分かってくれる? でも弘毅ほど大変じゃないと思うぜ」
「おい黒田、それはどういう意味だ」
 晃の軽口にすかさずつっこみが飛んでくる。以前晃は亮介とは絶対に友達になんかなれないみたいなことを言っていた気がするけど、なんだか二人は既に打ち解けているようにしか見えなかった。
 本当に偶然で作られたきっかけだったけど、それのおかげで二人は距離を縮めたのかもしれない。そしてそれは俺だって同じだったんだ。
 俺が亮介と友達になろうとして、その努力が晃と亮介を近付けたのだとして、そこから生まれたこの関係を俺は心地いいと感じているのかもしれない。
 たとえそれがかりそめの一時的な居場所であったとしても、やがて必ず訪れる破壊の時を考えると――愛しさと哀しみのあまり俺はきっと涙を流すだろう。そうやって俺が駄々をこねたとしても、一体誰がこの関係を永久に許してくれるだろう?

 

 +++++

 

「弘毅、おい」
 授業が終わり、疲れた身体を部屋の中へ押し込むと、部屋の中で待機していた亮介に声をかけられた。相手はまだ制服のままで何やら違和感がある。
「今日は定休日だから早く寝なくていいぞ」
「そ、そうなのか」
 律義に教えてくれる相手は何か裏がありそうで恐ろしい。とりあえず俺は疑ってみたが、そうやって答えに辿り着けたことなど今までに一度もなかった。だから今回もまた考えるだけ損なのだろう。
「お前……夜、暇か?」
 ほんの少しだけ抑えられた声で問われる。質問の意図はよく分からなかったが、俺は正直に頷いておいた。
「じゃあちょっと付き合えよ」
「へ」
 なんだか嫌な予感がして頷いたことを早速後悔し始める。こいつの言う「付き合う」ほど信用していいものはない気がして、俺はまた厄介なことに巻き込まれるんじゃないかという不安だけが押し寄せてきた。ただでさえ亮介のファンって奴に睨まれてるってのに、これ以上こいつと仲良くしてる場面を目撃されたらどんな目に遭わされることか。
「おいてめえ、まさかとは思うがこの俺の誘いを断る気なんかないよな?」
「うっ――」
 相手は心を読むすべでも心得ているのか、やたらと俺の心情を言い当ててくる時がある。というか単に俺が顔に出しやすいタイプだったってことかもしれない。
「安心しろよ、おかしなことをするわけじゃねえから。ただいい場所に連れて行ってやるってだけだ」
「いい場所?」
「そう」
 なんだか以前にも似たようなことがあった気がするが、それとはまた違った誘いなのだろうか。とにかく相手の機嫌を損ねない為に俺は大人しく頷いておくことしかできない。
「ま、期待しておけよ」
 それだけを言って亮介はごろんとベッドの上に寝転んだ。

 

 

 空の中で幾千もの星が瞬いている。それを何気なしに見上げながら、俺は亮介に連れられて学園の外に立っていた。
 正確に言うと学園の上、つまり屋上に連れて来られたのだ。遮る物のない風は直接身体に触れ、広大すぎる夜空は俺たちの何もかもをすっぽりと包み込んでしまっている。俺の隣で髪をなびかせている亮介は手すりの向こうにある町をぼんやりと眺め、この静寂の時をまばたきの中に噛みしめているようだった。
「嫌なことがあった時とか、どうしようもなく逃げ出したくなった時、一人きりなのに孤独を感じない場所であるここに来ることがあるんだ」
 風の音に紛れて亮介の素朴な声が聞こえてきた。相手はまっすぐ正面だけを見つめ、俺が隣にいることさえ忘れているかのようだ。彼の瞳に映る夜の街が美しい光を煌めかせている。偽りのそれは確かに醜いと感じるものだったが、それでも誰かの道標になることはできるのだと知っている。
「最近ちょっと疲れててさ……お前が部屋に来たことで、客の機嫌が悪くなる時がよくあるんだ。そういう時は客をどうにかして引き止めなきゃならないだろ? その為に俺は演技をする。けどさ、その演技ってのがもう面倒臭くて面倒臭くて……」
「そ、そうなのか」
「客は俺に高望みしすぎなんだよ。俺だって男なんだから限界があるってのに、もっと女の子っぽく喋れとか、高い声で喘げとか、こっちは疲れてんのにおかしな要望ばっかり出しやがって。奴らは一体何なんだよ、俺の主か何かと勘違いしてんじゃねえのか? てめえらなんか金さえ奪ったら用済みだってのに、勘違いしてる野郎が多すぎて嫌になるね」
「……」
 なんだかいい雰囲気だと思っていたのに、俺をここに連れて来た本当の目的は愚痴を聞いてもらうことだったらしい。相手の言った通りに期待した俺が馬鹿だったってことかよ。やっぱりこいつの言葉を信用したら地獄を見ることになるんだ。
「はあ」
 一通り愚痴を言い終わったのか、相手は唐突にため息を吐いて静かになった。もうそろそろ部屋に帰る時間なのかな。どうかそうでありますように。
「ま、家に帰るよりかはマシだけどさ」
 ぽつりと漏らした亮介の言葉がぐるんと回った。そうして俺は以前聞いた相手の昔話を思い出す。
「なあ亮介。お前さ、両親に棄てられたとか言ってたけど、やっぱ家族は大事にした方がいいんじゃないのか?」
「家族なんていらねー」
 相手はふいと視線を向こう側にやった。おかげで表情が完全に見えなくなり、長くて綺麗な髪だけが視界に映る。
「でも俺は、ちょっとでも大事に思われてるんなら離れるべきじゃないと思う。たぶん亮介の両親は、お前みたいな優秀な奴だったら一人でも大丈夫だと思ってここに入れたんだろうし」
「それを棄てたって言うんだよ、いい加減分かれ馬鹿。それにてめえは勘違いしている、俺の両親は俺のことを邪魔者扱いしてたんだ、妹を立派な人間にする為には俺みたいな完璧な子供なんか家の中にいる必要はないって判断したんだ」
 俺は亮介の家族のことを知らないから簡単なことが言えるのだろう。そんなことは誰に言われなくとも分かっていたけど、それでもやっぱり彼の両親が彼を大事に思っているのなら、その愛情に甘えてもいいはずだと思ったんだ。
 だって愛されているということは、まだやり直すことができるってことなんだから。
「お前さ、そんなに俺の家庭の事情が気になるわけ?」
 夜風に乗って彼の髪が俺の元に届いている。首筋に触れるとちくちくして痛かった。
「そっちは何も教えてくれねえくせに、いい御身分だな」
「教える教えないの選択権は俺にあるだろ。つーかお前は自分から喋ったんじゃねえか」
「うーんそうだっけ? 忘れたなぁ」
 いかにもわざとらしく亮介は空を仰いだ。ぶわっと強い風が吹き抜け、二人の間をするすると通り抜けていく。
「いつか教えろよ」
「え」
 手すりに乗せていた俺の手に亮介の手が重ねられた。その思わぬあたたかさに驚き、吸い込まれるように相手の瞳を覗き込んでしまう。
「お前の隠し事。いつか洗いざらい喋ってもらうからな」
 彼の正直な面が目の前にある。
 だけど俺は頷かなかった。約束することを恐れていたから、また綺麗に磨き上げた盾を持ち出して自分を守ろうと構えたんだ。
 その色に気付かない相手は再び目に映る景色を眺め始める。

 

 

 

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