閉鎖

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4.協同 - 03

 

「それじゃあ始めようか、弘毅」
 やたらときらきらした笑顔が俺に向けられている。相手の顔の周辺にはきっと綺麗なお花が咲いているに違いない。
「お、おう」
「いっくよー」
 まるで女の子みたいなやわらかい掛け声と共に、とんでもなく速いピンポン玉がこっちに飛ばされてきた。そいつは俺の隣を素通りし、後ろにある壁に激突して床に落ちる。
「あれぇ? もしかして弘毅、油断してた? 駄目じゃないか、これはちゃんとした練習なんだから」
「……」
 手の中でくるんと卓球のラケットを一回転させ、亮介は意地の悪い顔を俺だけに見せてきた。
 球技大会が一週間前に迫った今日、何を思ったのかこれまでサボりまくっていた亮介が体育の授業に参加してきた。授業内容は相変わらず球技大会の練習だけであり、当然俺は卓球をしなければならないことになる。今までは他の生徒と一緒に頑張っていたものの、亮介が参戦してきたことにより俺は他の仲間から隔絶されていた。なんでも亮介と試合をするのは負けるから嫌なんだとか。
 そんなわけで俺は亮介と一対一で練習をすることになっていた。しかし開始早々この様だ。完全に油断していたせいか、彼の打った玉が見えなかったような気がするんだけど。
「もう一回いくね」
 掛け声はやわらかいし、表情も周囲を気にしてかとっても穏やかだ。彼の白い手がゆっくりと動き、握り締めていたピンポン玉がふわりと宙に浮く。
 ラケットに玉が当たった音が耳に届き、ぐっと構えてみたはいいものの、やはりそれは俺の隣を素通りして背後の壁にまで到達してしまった。ぽんぽんと床の上で跳ねるピンポン玉の音が虚しく響く。
「弘毅、君やる気あるの?」
「そんなに意地悪しなくたっていいだろ……」
「ん? 何のこと?」
 爽やかスマイルで相手は首を傾げる。分かっていたとはいえ、この態度にはなかなか慣れられそうにない。
 亮介が体育の授業に出ているのを見るのは今日が初めてだった。そのおかげでようやく彼の運動能力について知ることができたが、本人や晃の言う通り、亮介は非常に運動が得意らしいことがよく分かった。今日は長い髪を後ろで一つに束ねており、体育館の隅の方から熱心なファンの視線が注がれている気がしなくもない。
「僕のサーブを返せないのなら、君じゃ練習にならないなぁ。他の人に頼もうかな」
「そうした方がいいと思う……」
「ずいぶん弱気だね、言い返さないんだ?」
 俺が彼の練習台にならないことは事実なんだ、言い返す言葉が思いつかない。そんな俺の顔を見て相手はニヤニヤと笑っていた。爽やかスマイルはどこに行ったんだよ。
 ああ、なぜ俺はこうも彼に虐められなければならないのか。やっぱりこいつと同室になったことがそもそもの間違いだったんだ。
 弱い俺を完全に無視し始めた亮介はきょろきょろと周囲を見回していた。同じ卓球仲間の方へ視線をやり、だけどすぐにふいと別の方に目を向ける。次に目を付けたのはバスケの練習試合であり、そのすぐ隣で座り込んでいる晃――ではなく陰を見ているようだった。
「そうだ、彼に練習を手伝ってもらおうっと」
 何やら嬉しそうに両手をぱんと叩き、俺にも聞こえるよう声を出して決意表明している。何なんだこれは。練習台にもならない俺に対する嫌がらせか?
 ぐいと体操着を引っ張られる。そのまま引きずられるように俺は亮介のお供をさせられ、じっとバスケの試合を観戦している陰の元へと連れられた。俺たちに気付いた陰はふっと顔を上げる。
「やあ、晃。今って暇なのかな」
 素敵なスマイルを顔面に貼り付け、亮介は陰に訊ねた。そういえば学内では陰のことを晃って呼ばなきゃならないんだっけ。ややこしいな。
「ああ……うん。俺が試合に出たら他の生徒の練習にならないからって、試合から追い出されたんだ。だから今は暇だよ」
「じゃあちょうど良かった! 僕も久しぶりに卓球の練習をしようと思って授業に出たんだけど、ペアである弘毅の実力じゃ全く、これっぽっちも、恐ろしいくらいに練習にならなくて! だから君に試合を頼みたいんだけど、いいかな?」
 亮介君、何やら俺に対する嫌味を最大限に誇張して言ってくれなかったかね。しかし事実だから言い返せない。
「構わないよ。どうせ暇だし」
 すっくと陰は立ち上がり、俺たち三人はのそのそと卓球台がある場所へと戻った。とりあえず必要がなくなった俺のラケットを陰に手渡し、二人の試合が静かに幕を開ける。
「弘毅、君が点数をつけてね」
「お、おう」
 いつになっても慣れない笑顔で亮介が声をかけてくる。俺は台のすぐ傍に立ち、二人の試合の審判をすることになった。
 まずは亮介のサーブから試合が始まるらしい。彼は優雅に腰を低め、少しの間だけ呼吸を整え、すぐに玉を打った。相変わらず速いそれは綺麗な弧を描いて陰の前まで飛んで行き、一度だけ卓球台の上に落ちて跳ね返る。
 その時点で俺はもう目が追い付かなかったのに、運動神経の良い陰は難なく玉を打ち返してしまった。それもあさっての方向へ飛んで行くこともなく、ちゃんと亮介の前へと辿り着く。
 戦う体勢になっている亮介は素早く玉を打ち返し、鋭い音が周囲に響いた。陰は玉を打ち返すことができず、俺の時と同じように玉が壁にぶつかった。亮介が打ったのはきっとスマッシュってやつなんだろう。まるでテレビでプロの試合でも見てる気分になるな。
「へえ、なかなかやるね」
「ふふん、相手が誰だろうと僕は容赦しないよ?」
 そして亮介は表情が黒くなっていた。おーい、爽やかスマイルを完全に忘れてるぞ。
「君が本気を出すのなら、俺も本気にならないとフェアじゃないね」
 今度は陰からのサーブだった。ぽつりと声を漏らした後、亮介に負けないほど速い玉が飛ばされる。もう完全に俺じゃ太刀打ちできない世界だな、なんてことを考えていると二人のラリーがしばらく続き、今度は陰のスマッシュが決まって彼の方に点が入った。そしてすぐさま次のサーブが放たれる。
 派手にやり合っていたのがいけなかったのか、ふと気が付くと俺たちの周囲にたくさんのギャラリーができていた。卓球仲間は全員見物を決め込み、全く関係ないバドミントンやらバレーの選手までもが観戦を始めている。こいつら自分の練習しなくていいのかよ。つーか審判やってるだけの身って恥ずかしいな。
 試合に夢中になっているのか、亮介と陰の間には会話が存在しなくなっていた。その代わりにギャラリーの声が付け加えられ、どちらかに点が入るとどよめきが起こる。その中心で俺は律義に点を数え続けることしかできない。
 二人ともレベルは同等なのか、試合として見るとそれはなかなかいい試合になっていた。どちらかが一方的になっているわけでもなく、少し点数が開いてもすぐにどちらかが追い付くような形になっている。おかげで試合は長引いた。最後には亮介の顔から完全にお花が消え、倒すべき敵に向けた憎悪の表情が貼り付けられてとんでもないことになっていた。
「はい、終了。陰の勝ち」
「な――」
 試合は二点差で陰の勝利に終わった。それをやる気のない声で告げると、まず真っ先に亮介がこっちを睨み付けてきた。いや、そんなことされてもなぁ。
「そ、そっか……僕、負けたんだね……」
 そして何やら淋しげに肩を落とすが、どこからどう見ても演技にしか見えなかった。しかしそれを真に受けた彼のファンたちがさっと亮介を取り囲んで励まし始める。俺はそいつらを無視し、息を整えている陰の方へと足を向けた。
「お疲れさん。しっかし、お前すごいなぁ。まさかあの亮介に勝っちまうなんて」
「次やったら勝てるかどうか分からないけどね。彼はやっぱり強いから」
 陰はほっとしたような顔をして、数人に囲まれて身動きが取れなくなっている亮介を見ていた。その瞳に何か意味深なものを感じ取ってしまう。まるで憧れているものを見ている時のような、そんな感じの目だったから。
「な、なあ晃。今度は俺と試合――」
 俺の申し出を遮るようにチャイムが鳴り響いた。なんてタイミングのいいチャイムなんだ。恨むぞ。
「はは……また次の機会に相手してあげるよ」
 結局今日はろくな練習ができなかった。いや、練習なんて少しもできなくて、ただ亮介にいびられてただけのような気がする。そして後半は試合観戦だけか。俺は本当に球技大会に出る必要があるのだろうか。
 亮介と陰と三人で片付けをし、今日の体育の授業は何食わぬ顔で終わりを迎えた。

 

 +++++

 

 全ての授業が終わり、寮の部屋に戻ってくると、とんでもなく不機嫌そうな亮介がベッドの上で寝転んでいた。
「有り得ない」
 部屋の中へ一歩踏み出すと声が聞こえてきた。彼は天井をじっと睨み付け、なんだかすごい形相になっている。
「何が」
「俺が陰に負けるなんて有り得ない」
「でも実際負けたじゃないか」
「あれは事故だ!」
 意味の分からないことを言っていたが、要するに彼は負けたことが悔しいのだろう。いや、実はただの負けず嫌いだったってことなのだろうか。こいつって自分が一番じゃなきゃ納得できないタイプみたいだし。
「まあ気にするなよ。陰はバスケに出るんだから、どうせ本番じゃ当たらないんだし」
「そういう問題じゃねえんだよ、あんな大勢の前で負けるなんて……不愉快だっ!」
 彼はむくっと身体を起こし、腕を組んでふてくされていた。こういうところはまだ可愛げがあるんだけどなぁ。
「あ、そういえば今日は円センセーの健康診断だったな……弘毅お前ちゃんと留守番してろよ」
「えっ」
 突然思い立ったように亮介は立ち上がり、そのまま俺を残して部屋を出ていってしまった。おかげで広い部屋の中に一人きりになる。
 彼は俺に先生やキアランの部屋には一人で行くなと言うくせに、自分は一人でどこへでも行ってしまう。そんな時にどうしようもなく淋しくなるのは、俺があいつのことを友達だと意識しているからだろうか。いつもはあんなに虐められ、嫌味ばかり言われているのに、それでも俺はあいつのことを友達だと信じているんだろうか。
 よく考えなくても、俺は亮介のことは嫌いじゃなかった。確かに苦手な部分もあるけれど、だからって彼の全てを否定したいほど受け入れられないわけじゃない。少なくとも亮介は俺のことを嫌っていないということは分かっていた。だって本当に嫌っていたら、きっと口も利いてくれないだろうから。
 だけどこれ以上踏み出すことが怖いのか、なかなか二人の距離は近付かないままだ。俺はそれをどうすればいいのか分からない。友達なんて自然にできるものだと思っていたから、晃や陰との良好な関係と同じように、亮介とも不自然さのない繋がりが形成されるはずだと考えていた。それなのにまだ俺たちはぎこちないところがある。なんというか、言いたい事や伝えたい事があっても、ついいろいろ考えて結局自分の中に押し込めてしまうような、そんな感じの。
 せっかく同じ部屋になったんだから、あいつとももっと仲良くしたいんだけどな。彼がどう考えているかは分からないけどさ。
 ふう、とため息を吐く。ベッドの上に座り込み、沈んでいく身体を心地良く感じた。
 同時に部屋のドアが開く音が聞こえた。まさかもう亮介が帰ってきたのだろうか。さっき出て行ったばかりなのに早すぎやしないか?
 不審に思いつつ振り返るとそこにいる人物の姿が目に入った。それは小奇麗な格好をした亮介ではなく、全く知らない人物だった。
「え、誰――」
「やあ」
 亮介とよく似た爽やかで且つ嘘っぽい笑顔をしている人だった。バッジの色からすると俺よりも一つ年上らしい。つーかこの人ノックもせずに部屋に入ってきたよな。不法侵入なんじゃないのかよ?
「君が水瀬弘毅君だね? 加賀見君と同室の」
「そ、そうですけど……何の用ですか?」
 俺は思わず立ち上がったが、相手は既に俺のすぐ近くまで寄ってきていた。俺よりも背が高いので相手を見上げなければならない。彼の顔は亮介に負けないくらい整っており、だけど可愛いというよりは格好いいといった感じの顔だった。きっとこの人も人気があるんだろうな。
 ふっと彼の手が頬に添えられた。
「なるほど、なかなかいい顔をしている。前の学校ではモテただろう?」
「だから何の用ですか? そもそも勝手に部屋の中に入ってこないでくださいよ」
「そう怒らないでくれ。ちょっと君にお願いしたい事があって来ただけだよ」
 気色の悪い手を振り払い、彼の言葉を待ち構える。頭の中には嫌な予感しか充満していないけど、とにかく聞いてみないことには何も分からないから、俺は彼を無理に部屋から追い出そうとは思わなかった。
「俺は絹山幾人(きぬやまいくと)。加賀見君とは、まあ商売敵みたいなものだ。聞くところによると、今回の球技大会では加賀見君は君と一緒に卓球に出るそうだね。実は俺も卓球に出る予定でね、もしかすると君たちと試合をすることになるかもしれない」
「はあ」
 絹山幾人と名乗った相手は何やらぺらぺらと喋り始めた。どんな重大なことを言われるのかと思ったら、球技大会の話題を引っ提げてやって来たらしい。ちょっと肩透かしを食らった気分だ。
「君に頼みたい事とは他でもない、その球技大会で勝ちを譲ってくれないか、ということだ。加賀見君に頼んでも相手にしてくれないだろうから君に頼んでいるんだ。君も加賀見君の商売を見ていると理解できるだろう、俺や彼の商売はああいったイベントの活躍で今後の人気が左右されるものだ。最近は特に加賀見君の方に客が集中していてね……ここで流れを元に戻さないとこれからの商売が危うくなりそうなんだ」
 球技大会と聞いてだいたい予想はできていたが、俺の考え通りの頼みを相手は言っていた。しかしそれをそのまま亮介に伝えたとして、あの亮介が素直に聞き入れてくれるかどうかは分からない。今日の態度を見ているとむしろ逆上して何が何でも優勝しようとするかもしれないし。
 それ以前にスポーツの試合の勝ち負けをあらかじめ決めておくなんて、そういうことをするのは気分が悪いから俺は嫌だと思った。ここはきちんと断っておいた方がいいだろう。
「すみませんが、その頼みは聞き入れられません」
「おや、残念だな」
 ぽんと肩に手を置かれた。はっとすると相手の顔が近付き、唇にやわらかいものが触れる。
 慌てて相手から離れようとしたが、背中に腕を回されて強い力で押さえ付けられ、俺は全く身動きが取れなくなっていた。これはただのキスじゃない。脳裏にあの時の光景が映し出され、それを意識した瞬間に口の中へどろっとした液体が流れ込んできた。
 この人、力ずくで俺に言うことを聞かせようとしてるんだ。今回飲まされた薬らしき液体はよっぽど効力のあるものなのか、もう既に身体から力が抜けてきている。自分の足じゃ立っていられなくなり、俺はばたんとベッドの上に倒された。
 心なしか視界もぼんやりする。指先がぴりぴりして、身体を自由に動かすこともできない。
「先程も言ったように、君は綺麗な顔をしている。俺が好きなタイプの顔だ」
 冗談じゃない。男なんかに好かれたって嬉しくないっての。どうしてだか絹山幾人は仰向けに寝転がっている俺の上に覆い被さっていた。そうして優しげな手つきで髪を撫でられる。
「君はこういうことが嫌いなんだろう?」
「な、何を――」
 頑張って声を絞り出しても、それだけで相手が帰ってくれるわけじゃない。彼に服を捲り上げられ、腹と胸とが露わになった。
「う――」
 視線は天井に向けられているから何をされているのかは分からない。だけど肌の上にあるなまめかしいこの感触は、あの時に感じたものとよく似ている。そう、きっと彼は、俺の肌に舌を這わせているんだ。
 どうしてこんなことを。なぜこんなことを?
「や、やめろ!」
「悪いのは君だぞ、素直に命令に従っていればこんなことはせずに済んだのに……くくっ、やはり男に抱かれることが怖いんだな?」
 この人のことは今日初めて見た。そうに違いない。それなのになぜ俺のことを知っているのか? 簡単だ、こいつは、俺のことを誰かから聞いたんだ!
 じゃ一体誰が俺のことを話した? 誰が俺のことを知っていた? この学園には知り合いなんていないはず。何がどうなってこんなことになってるんだよ!
「ん、んん――!」
 いつの間にか硬くなっていた相手のそれを口の中に押し込められる。だらしなく溢れ出る唾液が嫌な音を立てながら、彼の動きに合わせて呼吸の自由が奪われていた。頭に手を乗せられて髪を引っ張られている。それがとても痛い。
 相手のことが怖かった。身体に力が入らなくて、俺は彼の玩具になるしかない。喉の奥にまで彼が入り込んでいた。口を隅から隅まで犯され、中がぐちゃぐちゃになるまでかき混ぜられる。あまりの大きさに俺は息をすることも許されなくて、彼がそれを抜いた時に咳が出て苦しかった。そんな俺の姿を見ても相手はそれを止めることはなく、やがて頂点に達した彼は俺の中で射精をした。
 気分が悪くなって咳き込み、口の中にある嫌なものを全て吐き出す。それは俺の唾液と混じったままベッドの上にたくさんの染みを作った。
「水瀬弘毅君」
 絹山幾人の声が上から降ってくる。
「判断は君に任せよう。ただ、君が俺の頼みを聞いてくれないのなら、今よりももっと酷いことをするよ」
 まだ身体は動かなかったが、相手の顔は俺からも見える位置にあった。彼は整った顔の上にうっすらとした笑みを浮かべている。
「誰、に――俺のことを、聞いたんだ」
 心の内に感情がある。それをどうにかして抑え、聞くべきことを聞いた。
「高原和希」
 教えてくれないなら噛み付いてやろうと考えていた。
 名前だけを言い残した相手の姿が目の前から消滅し、絹山幾人は部屋を出たようだった。静かになった空間で俺は息を整えていた。
 口の中が気色悪い。まだ歯の間や舌の上に彼のものがこびり付いている。早いとこうがいをしてすっきりしたかったのに、薬のせいで俺の身体は麻痺したように動かなかった。
 視界はぼやけ、眠っている時のようにまどろんで仕方がない。何もできないから俺はじっとしていた。呼吸ができることだけが救いだった。一人きりでいることがひどく心細かった。誰でもいいから優しい人に俺を見つけて欲しかった。
 幾らの時間が経過したのかは分からない。ただ俺は部屋の扉が開いた音で目を覚ました。唯一自由に動かせる瞳をそちらに向け、誰が部屋に入ってきたのかを確認する。
「お前何してんだ弘毅、もう風呂には入ったのかよ?」
 そこにいたのは亮介だった。亮介がここに帰ってきてくれたんだ。それだけでほっとした。
「亮介」
 一言口に出して驚いた。俺の声はカラオケの翌日の如くガラガラにかれていた。ただそれに驚いたのは亮介も同じだったらしく、不思議なものを発見したような表情で俺の顔を覗き込んでくる。
「どうかしたのかよ――ってお前、何だよこの匂い! 一人で一体何してやがった?」
 一人でやってたわけじゃない。伝えたい事があるのに、なかなか身体が反応してくれなくてもどかしい。
「……まさか、薬でも飲んだのか?」
 亮介は何でもよく分かるらしい。俺はどうにか一つ頷いて相手に今の状況を伝えようとした。彼は俺の背中に手を滑り込ませ、ぐいと引っ張って俺の身体を起こしてしまった。それから水道水を入れたコップを手渡してくる。
「飲めよ。少しは楽になるはずだ」
 言われた通り水を飲むとちょっとだけ気分が落ち着いた。口の中にあった気持ちの悪いものも水で流された気がする。それが俺の身体の中に流れ込んだことはやっぱり嫌だったけど。
「喋れるか?」
「ん……うん。もう大丈夫っぽい」
「じゃあ説明しろ。何があったんだ」
 目の前にいる相手は真剣そうな面持ちをしている。彼がこんな顔をするなんて、俺は何も知らなかった。
「絹山幾人って人が部屋に来たんだ。その人、俺たちと同じで球技大会では卓球に出るから、勝ちを譲ってくれないかって言われて」
「ふん、あいつか」
 亮介は俺の隣に腰を下ろした。二人の人間の体重を支えようとしたベッドが小さく悲鳴を上げる。
「それで、俺が断ったら、薬を飲まされて……く、口の中に」
 駄目だ。頭の奥がざわざわする。胃がむかむかして、病気でもないのに吐き気が襲ってきた。
 ベッドの下の床に胃の中にあったものを吐き出した。全て吐いてしまうと心なしか落ち着いた気がして、亮介が差し出してくれた水を飲み込むことができた。
「もしかしてお前、あいつに襲われたのか?」
 俺が吐いたものを綺麗に掃除した後、亮介は再び俺のすぐ隣に腰を下ろして聞いてきた。彼との距離が必要以上に縮まっている。だけど俺はそれを拒否しようとは思わなかった。
「襲われかけた、ってとこかな。口に入れられて、俺が条件を呑まなければもっと酷いことをするって言われた」
「あいつ、卑怯者だからな」
 亮介は俺を非難しない。キアランに「相手をぶん殴ってでも逃げろ」と言った俺が襲われかけたことに対し、彼は何も言わずに受け止めてくれた。日常生活ではあんなに俺を虐めて楽しんでいるのに、俺が本当に苦しい時は、こんなふうに親身になって話を聞いてくれる人だったんだ。
「それから……あの人、気になることを言ってたんだ。俺のことを誰かから聞いて知ってたみたいで、誰にそれを聞いたのかって訊ねたら、高原和希って人から聞いたって」
 どこかで聞いたことのある名前だった気がするけど、それをどこで聞いたのかを思い出す事ができなかった。亮介もまた黙り込んで腕を組み、しばらく静かになったまま何かを考えているようだった。
「おそらく同級生じゃなかったと思うが……思い出せないな。明日の朝、キアランにでも聞いてみるか。あいつはあれでなかなか顔が広いからな」
「あ、うん」
 心配してくれたり協力してくれることは素直に嬉しい。だけど、俺は彼に迷惑をかけているんじゃないだろうか? いや、元はと言えば亮介と絹山幾人の競り合いが原因だったんだろうけど、今回ばかりは罪悪感が心の中で渦を巻いていた。俺がしっかりしてなかったからこんなことになってしまったんだ。
「おい。一応言っておくが、これはお前一人の責任じゃねえからな。勝手に思い詰めたりするなよ」
 やはり人の心を読むすべでも心得ているのか、亮介は俺が考えていたことに対する答えを的確に与えてきた。こいつって実はエスパーなのか? あるいは亮介に限らず、天才って人種は皆こうなのかもしれない。
「とにかく、球技大会が終わるまでお前は一人きりで行動するな。絹山は何人かの部下を持っているからな、きっとしばらくは見張られるだろう。どうせあと一週間しかないし、授業は休んで部屋の中に籠ったままってのもいいかもしれねえな。部屋の中なら俺が一緒にいてやれるし」
 彼の横顔がとても頼もしく見えた。どうしてこんな気持ちになるのかは分からない。でも今は、彼と同室で良かったと感じているのかもしれない。
「あの、亮介。それで球技大会はどうするんだよ。あの人に勝ちを譲るのか?」
「そんなことを俺がすると思うか?」
 にやりと不敵な笑みを口元に浮かべ、亮介はきらりと光る眼をこっちに向けてきた。案の定と言うべきか、やっぱり相手の要望を素直に聞くような奴じゃなかったらしい。
 だけどとか、でもとか、ついつい弱気なことを考えてしまう。もし亮介が球技大会で絹山幾人を打ち負かしたら、今度は標的が俺から亮介に変わるかもしれない。その時に俺は一体何ができるだろう。この罪もない友人を守り切ることができるだろうか?
 頭の中でぐるぐると考えていると、ぽんと肩に手を置かれた。亮介は微笑んでいた。
「心配するな。お前のことは何があろうと守ってやる。だから、大丈夫だ」
 その微笑みが、言葉が、どうしてだか俺には抱き締めてやりたいほど脆弱な叫びのように感じられた。

 

 

 

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