閉鎖空間
4.協同 - 04
昨日の亮介との約束のおかげで、俺は朝から部屋の外に出ることが禁じられていた。
部屋から出られないということは当然食堂へ出向くこともできず、だったら朝食はどうするのかと亮介に訊ねると、何を考えているのか亮介は部屋に設置してあった電話で誰かに朝食の出前を頼んでしまった。いくら学内で人気があるからってちょっと好き勝手し過ぎじゃなかろうか。それを快く引き受ける相手もどうかと思うけどさ。
そうやって部屋から一歩も出ることなく客人を待ち続けていたが、やがて訪れたその人は俺も知っている相手だった。
「おっはよー」
無駄に明るい声が扉の外から聞こえてくる。それに気付いた亮介がソファから立ち上がり、鍵をかけてあった扉を用心深く開いて相手を招き入れた。
「朝ごはんのパン、持ってきたよー」
楽しげに俺に話しかけてくるのはキアランだった。亮介は彼に出前を頼んだらしい。ただ部屋に入ってきたのがキアランだったことは俺にとっても安心できる要素だった。
「亮ちゃんはイチゴジャムでよかったよね。弘くんは何が好きなの?」
「俺はマーマレード派」
「もしかして柑橘類が好きなの? 今度オレンジのお菓子作ってあげよっか」
「お、いいねぇ」
キアランが持ってきてくれたパンにマーマレードを塗りたくり、三人きりの質素な朝食の風景が描かれる。いつも食事は大勢が渦巻く食堂で食べていたけれど、たまにはこういう静かな食事ってのもいいもんだな。
「でもまさか弘くんまで食堂を避けるなんてねぇ。誰かと喧嘩でもしたの?」
亮介がきちんと説明しなかったせいでキアランは何も知らないようだった。ただ部屋に朝食を届けることに対し疑問を抱いていないということは、おそらく過去に何度か亮介が同じようなことを頼んでいたんだろう。本当に好き勝手やってるんだな、こいつは。
「絹山幾人に脅されてんだ。だから球技大会が終わるまでは部屋から出ない」
「ええっ、それってつまり、ずっと授業も休むってこと? 弘くんも一緒に?」
「当たり前だろ、そもそもこいつが脅されてんだから」
ジャムを塗って赤くなったパンをばりばりと食べながら亮介は簡単な説明をしていた。食堂での食事風景はさながらどこぞのおぼっちゃまみたいに行儀が良かったのに、誰にも見られていないとなるとなぜこうも豪快な食べ方になるのか。亮介のすぐ前にある机の上にパンくずがぱらぱらと落ちていた。
「まあ、そんなことはどうでもいいんだよ。それより弘毅、お前、キアランに何か聞きたい事があったんじゃなかったのか」
「へっ」
突然話題を振られて変な声が出た。何だっけ、確かに何かあった気がしたけど、すぐには思い出せないな。
「ええと」
「まさか忘れたとか言うんじゃねえだろうな? この俺がわざわざこいつに電話して、この一週間お前に付き合ってやるって決めたのに、てめえがぼんやりするようなら部屋の外に追い出してやってもいいんだぞ、うん?」
「ちょ、ちょっと待ってってば」
変わらない亮介の悪人っぷりに怯えてる場合じゃない。早いとこ思い出さないと彼なら本気で俺を部屋から追い出しかねないし。
俺は昨日の出来事を一つ一つ思い返してみた。そして甦る時間の中に流れていた一つのキーワードを拾い上げる。
「高原和希――」
そうだ。昨日、絹山幾人はその名前を口にしていた。その人に俺のことを聞いたと言っていたんだ。だけど俺はそれが誰なのかを知らない。
「キアラン、高原和希って人のこと、知ってるか?」
「知ってるかって……この前話したじゃない。忘れちゃった?」
「え」
コップに入ったオレンジジュースを飲みながらキアランは返答してくれた。しかし聞き覚えがあるとは思っていたが、まさか彼に聞いた話だっただなんて。
いや、思い出してきたぞ。高原和希って名前は確かにキアランの口から聞いたんだった。そしてその人の正体はというと――。
「転校生!」
「そ。弘くんと同じ時期のね。ボクと同い年だけどクラスは違うよ」
「あー、それで聞き覚えがあったのか」
俺の隣で亮介が何やら感慨深げに頷いていた。こいつもこいつなりに考えてくれてたってことだろうか。だとすれば素直に嬉しいんだけど。
「おい弘毅。お前やっぱりその転校生と知り合いなんじゃねえのか?」
「そんなはずはないって。全然知らない名前だし」
「でも絹山はその高原って奴からお前のことを聞いたんだろ? だったら知り合いじゃなきゃおかしいじゃねえかよ」
「うーん……」
高原和希の名前は前の学校でも聞いたことのないものだったし、こっちに来てから知り合った人のものでもなかった。同じ時期に転校してきたことは確かに気になるけど、それだけの情報では何も分からないのが現状だ。
「弘くんが知らないってことは、あっちが一方的に知ってるだけなんじゃない? ほら、同じ時期に転校してきたから弘くんのことが気になって調べてみたとか」
「そうだとしても、普通はあんなこと調べられないって」
絹山幾人が高原和希から聞いたことはごく少数の人しか知らないようなことだった。それこそ俺の家族くらいしか知りようのないことで、だからこそ分からなくなっている。
俺の家族はまだあそこにいるはずだ。この学園にまで追いかけてくるなんてことは、絶対に有り得ない。
――本当にそうだろうか。何かの手違いであの人がここにいるとしたら? いや、それはない。だってあの人がこの学園に来たのなら、真っ先に俺の前に現れるはずだから。
そう。怯える必要はない。俺は完璧な逃げ場を手に入れたんだ、だから大丈夫なんだ。
「おいキアラン! ジャムがなくなっちまったじゃねえかよ、なんでもっと大量に持って来なかったんだ!」
「亮ちゃん……最近甘いもの食べすぎなんじゃない? 太るよ」
「年がら年中菓子ばっか作ってるお前なんかに言われたかねえよ!」
「うわあん弘くん、亮ちゃんがいじめるぅ!」
身体にずしりとした重力が加わった。気が付けばキアランのくるくるした金髪が目の前にある。何だか知らないが俺は彼に抱きつかれているらしい。
「亮介、お前って奴は、どうしてこう素の姿は乱暴なんだろうな」
「てめえらが情けねえことばっかしてるからだろ」
イチゴジャムがなくなったおかげで亮介は俺のマーマレードにまで手を伸ばしてきた。それを何の断りもなく自らのパンに塗りたくり、再びばりばりと音を立てながら食べ始める。
「弘くん弘くん」
そしてまだキアランは俺に抱き付いたままだった。下から猫なで声が聞こえてくる。
「な、何でしょうか」
「頭なでて」
よく考えてみよう。俺は高校一年で、キアランは高校二年だ。なぜ年下でもない奴、しかも男にこんなことをねだられなければならないのか!
なんだかこのままここで暮らしていると、世間の常識さえ分からなくなりそうで恐ろしく思えてきた。
「なでてってばー」
「う、や、やだよ。それより早く離れろって」
「なでてくれるまで離さないもんね!」
「……キアラン、そろそろ教室に行かないと授業に遅れるぞ?」
いつの間にかパンを食べ終えていた亮介が助け舟を出してくれた。おかげでキアランはびっくりしたような顔になり、すぐさま俺から身体を離す。
「名残惜しいけど、もう行かなきゃ……また遊びに来るからね!」
まるでしばらく遠くに出かける時の如く、とんでもなく悲しげな表情で彼は風のように部屋から出て行った。扉が閉められた音が大きく響き、それが消えると部屋の中がしんと静まり返る。
「いや、助かったよ亮介。お前って時々いいことするよな」
「ふん。時々じゃなくていつもいいことをしてるだろうが」
相手はふいと顔をそっぽに向けてしまった。まさかとは思うが、照れてるんだろうか。そうだとしたらまだ可愛げがあるんだけどなぁ。
「お前それ片付けておけよ」
「え」
そうやって彼の性格について考えていると、次に飛んできたのは明確な命令であり。
立ち上がった亮介はぼふりとベッドに寝転んだ。机の上には亮介が食い散らかした跡が無残に残り、床にまで落ちているパンくずが俺の足元にも広がっている。
結局俺は彼の家政婦の如く部屋を掃除するしか選択権がなかったようだった。
授業を休み、部屋の中でじっとしていると、とんでもなく暇だった。
勉強をする気も起きないし、だからといって球技大会の練習をしようものなら亮介に部屋を追い出されそうだったし、結局何をするでもなくぼんやりと過ごすことしかできない。
それは亮介も同じようで、だけど彼は棚の中に置いてあった薬を飲んで今はぐっすりと眠っているらしかった。隣のベッドから静かな寝息が規則正しい音を奏でている。退屈だったので俺は亮介の寝顔を眺めることにした。
自分のベッドから立ち上がり、ひょいと彼の顔を覗き込む。
前々から思っていたことだが、やはり亮介は中性的な顔をしていた。目を閉じて声を出さなければそれが余計に強調され、本当に男か女か分からなくなりそうな見た目をしている。これなら男に惚れられても仕方ないってことなんだろうか。でも声を聞くと明らかに男だし、この学園の生徒の考えは俺にはよく分からない。
家で愛されなかったからなのか、商売という名目でも身体を売ることをよしとした彼のことは、そう簡単に理解できるものじゃない。今でも身売りなんてやめて欲しいと思っているけれど、彼から薬を取り上げる勇気もない。ただ彼が本当の意味で幸せになってくれればそれでよかったんだ。このままの生活を繰り返していると、きっと完全に破滅するだろうから。
その為に俺は何ができるのだろう。黙って彼の命令に従ったままじゃ駄目だってことは分かってるけど、そうやって逆らい続けて彼に嫌われることを恐れてるんだ。だからあと一歩が踏み出せない。
――だけど、俺はなぜ彼に嫌われるのが怖いんだ? 学校を卒業すればもう会うこともないだろうに、どうしてここまで彼のことが気になるんだろう?
ノックの音が俺の目を覚まさせた。扉を叩く音が小さく響いている。俺は玄関に向かおうとして、でも途中で昨日のことを思い出して立ち止まった。
今日はいつも鍵を開け放していた亮介がきちんと鍵をかけてるんだ、それはつまり簡単に他の人間を部屋の中に入れてはならないという暗示だ。だから俺もそれに従わなければならない。
「亮介」
彼の肩に手を置き、ぐいと身体を揺すってみた。亮介はちょっと顔をしかめたが目を覚ます気配はない。
「おいってば」
ノックの音はまだ続いていた。何度か亮介の頬をぺちぺちと叩く。すると唐突にぱっちりと両目が開き、俺の目をじっと見てきた。
「て、てめえ何しやがる!!」
大声を出して飛び起きた亮介は何やら慌てた様子で俺から離れた。胸の上に片手を置き、まるで警戒しているかのようにこっちを睨みつけてくる。いや、なんで俺がこんな目で見られなきゃならないんだよ。ちょっと起こしただけだっての。
「誰か来たみたいだぞ」
「な、なんだ、そんなことかよ。仕方ねえな……」
ぶつくさと文句を言いながら亮介は玄関へ向かった。そしてごく自然にかちゃりと鍵を外してしまう。相手が誰なのか確認しなくていいのかよ。
扉の奥から現れたのは、なぜか円先生だった。
「やあ、加賀見君。昼食を持ってきたよ」
「……俺アンタに頼んだ覚えないんだけど」
「まあまあいいじゃないか。おっと、水瀬君、君の分もちゃんと持ってきたから安心していいからね」
相変わらず白衣を着て医者みたいな先生は図々しく部屋の中に入ってきた。とんでもなく嫌そうな顔をした亮介はそれでも扉を閉めて鍵も掛け、ため息を吐きつつこっちに戻ってくる。
「先生アンタ、ただ弘毅に会いたかっただけだろ」
「はは、何を言うんだい。これはちゃんとキアラン君から頼まれたことだよ」
「嘘っぽいな……」
円先生はちゃっかりソファに座って談笑モードに入り、机の上に一つの袋を堂々と置いた。そこから三つのカップラーメンを取り出す。つーかこの人もここで食べる気かよ。
「ああ加賀見君、お湯なら僕が沸かすから君は座ってていいよ」
「ん? そうか?」
真っ先にお湯を沸かそうと準備を始めた亮介を先生が止め、二人が入れ替わって今度は亮介が俺の隣のソファに腰を下ろした。先程までの嫌悪感は顔から消えているようだ。切り替えの早い奴だな。
「それにしても二人とも、球技大会まで授業に出ないとなると勉強の方は大丈夫なのかい? よかったら僕が教えてあげようか?」
「別に一人でやるから平気ですー」
「加賀見君は困らなくても水瀬君は困るだろう。理系科目なら教えてあげられるから、また時間がある時にでも僕の部屋へおいでよ」
「絶対駄目だ!!」
円先生の誘いは亮介によって無残にもはたき落されてしまった。そんな他愛ない会話を繰り返し、やがて沸いたお湯を入れてカップラーメンが完成する。
三人で不健康な昼食を食べ、何気ない時間がするすると流れていった。円先生は以前と変わらず優しいのか何かを狙っているのかよく分からなかったが、それでも俺たちを心配して様子を見に来てくれたのだということに気が付いた。もともと元気がなかったわけじゃないけど、それだけでなんだか心がすっと軽くなったような気がした。
「じゃあ、そろそろ授業が始まるから、僕はこれで」
時間が来るとあっさりと先生は帰り、再び二人きりの時間が訪れる。
「まったく……センセーは心配性だな」
「ただの変態だと思ってたけど、実はいい人なんだな」
「ま、たまには役に立つこともあるってとこか」
ソファにもたれかかり、亮介はぐっと顔を上に向けていた。きっとまた頼まれるだろうからその前に俺は机の上のものを片付け始める。
「弘毅」
カップラーメンの汁を捨て、箸とコップを洗っていると後ろから小さく声をかけられた。首だけそちらに振り返らせると、亮介はさっきと変わらない格好で天井をじっと見つめている。
「どうかしたのか」
「……なんでもない」
それだけを言って彼はくっと俯いた。髪が顔に垂れかかり、おかげで表情が見えなくなる。
俺はとりあえず片付けを再開し、洗い物を全て済ませると机をふきんで拭いておいた。亮介はじっとしたまま動かなかった。
「弘毅」
ふきんを水で洗っているとまた声をかけられた。何が言いたいのか知らないが、いつもと全く様子が違うからなんだか不思議な感じがする。一体何を言おうとしているのか。
「何か言いたい事があるのか?」
「……」
一度作業を中断させ、俺は亮介と向き合う位置のソファに座った。相手の目は見えない。俺は彼のことなんか少しも分からない。
しばしの沈黙が訪れて、その後に亮介はゆっくりと顔を上げた。そうして俺の目を貫くようにまっすぐ見てくる。
「お前さ……俺のこと、嫌いか?」
ようやく吐き出された質問は、俺を驚かせるには充分なものだった。
「いや、嫌いじゃあない、けど」
咄嗟に嘘なんかつけるわけがなく、俺は素直に答えるしかなかった。それを聞いた亮介はふっと目線をそらしてしまう。
「だったら、いいんだ」
その言葉を最後に亮介は黙り込んだ。
どうして彼が――今まで散々俺を馬鹿にしたり虐めたりしていた彼がこんな質問をしてきたのか、そんなことは何も分からない。だけど彼が俺を嫌っていないことはちゃんと分かっていたし、本当は心配もしてくれてたことだって知っている。だから俺の言葉に嘘はなかった。
そう、嘘なんて一つもなかったんだ。
「亮介。お前が思ってるほど、俺、お前のこと苦手に思ってるわけじゃないぞ。できればもっと……仲良くしたいって思ってるし」
「無駄だ」
目を合わせてくれないままで相手は言う。
「無駄って、どうして」
「今ここで仲良くしたとしても、たとえば親友になったり、恋人に近い関係になったとしても、未来なんてない。俺には未来なんて……ない」
やっぱり俺は俺だから、彼の言葉の真意は分からなかった。彼は何かを知っていて、それについて悲観しているから友達を作らないのだろうか。それとも単純に彼自身の未来を否定して、二度と普通の生活には戻れないことを感じているのだろうか。
弱気なのかどうかは判断できないけど、こんな彼の姿を見ているのはつらかった。どうにかして元気づけてやりたいけど、どうすればいいのか見当もつかない。
こんな時に晃ならどうするだろう。キアランなら、円先生ならどうするだろう?
俺はソファから立ち上がり、亮介の傍に近寄った。彼は顔を俯けて縮こまっていた。その小さな肩に手を置き、彼の顔が見えるようにしゃがみ込む。
「俺さ、亮介のこと結構好きだぜ? 確かに腹が立つ時も……まあよくあるけどさ、でもお前、俺のこと心配してくれたりするじゃん。そういうとこは素直に好きだって思ってるし」
「弘毅」
名前を呼ばれてわけもなくどきりとした。何かそこには特別な響きが込められているような気がしたんだ。
顔を上げた彼は今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「ここから……ここから、俺が飛び出した時は、一緒に――来てくれるか?」
言葉の羅列が俺の前で踊る。それを一つ一つ噛み締めて型にはめ、ようやく俺は彼の言葉の意味を理解する。
ただ理解だけでは足りなかった。不完全に口が開き、まだ完成されていない言葉が喉の奥に引っ掛かって喋ることもできない。
この返事を間違うと俺はもう戻れなくなるだろうと感じていた。亮介の問いは二人の関係を創造するか破壊するかの二択であり、返答を誤った瞬間にその未来が築き上げられてしまうのだろう。俺はどう答えるべきなのか? いや、体裁や同情など余計なものは捨て去り、本当に大事なのは俺が「どう思っているか」ということだけだった。
嘘なんて一つもない。ただの一つだって作ることができないから。
「俺は――」
「……やっぱり今のは忘れてくれ」
亮介は立ち上がった。小さな棚の方へ近寄り、そこから薬の瓶を取り出す。そして白い錠剤を何個か飲み込んでベッドの上にごろりと寝転んだ。
壁は厚くなることも壊れることもなく、平然とした顔でそこにあるようだった。