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4.協同 - 05

 

「おいこら弘毅、てめえいつまで寝てるつもりだ! 今日は球技大会だぞ、さっさと起きやがれ!」
 朝の心地良い日差しと共に、俺の顔面には亮介の枕が叩きつけられた。
「おはよ……」
「早く準備しろ!」
 まだ覚醒し切っていない頭をなんとか持ち上げ、俺はベッドの中からのそのそと外に這い出る。その反面、何を思ったのか亮介は朝からテンションが高いようで、既に服も着替えて準備がきっちり整っていた。いつもは俺より起きるのが遅いのに、何をそんなに張り切ってるんだか。
 寝ぼけた頭で顔を洗って制服に着替える。とりあえず髪を梳いてから鞄の中を確かめると、今日は球技大会だったことをようやく思い出した。
「ほら、朝飯」
 のんきな俺とは違い亮介はてきぱきと次の準備に取り掛かっている。机の上に朝食のパンとジャム類を乗せ、俺が椅子に座ると朝のオレンジジュースまで用意してくれた。片付けはいつも俺に任せるくせに、どうやら亮介は準備の方は任されることが嫌いじゃないらしい。おかげで俺は楽して朝食にありつけたのだった。
「弘毅。一つ言っておくことがある」
 マーマレードを塗ってパンにかぶりついていると、亮介が真剣そのものな表情をしてこっちに話しかけてきた。つーか完全に睨まれてるよこれは。
「な、何でしょうか」
「今日は何があっても優勝する。だからお前は俺の邪魔をするんじゃねえぞ」
 絹山幾人の件があって球技大会には不安要素しか感じられなかったが、俺は一人きりで戦いの場へ身を投じるわけではないのだ。隣には亮介がいてくれる、今はそれがただただ頼もしく感じられた。
 だからこそ俺も亮介の助けになりたいと思っているわけだが、どうにもそれは許してくれそうにない。
「分かったよ」
「ま、この俺に勝てる奴なんざいるわけないけどな」
 ふいと顔をそらし、亮介は俺から視線を外した。ちょっと前まで疑っていたその自信の表れも今では根拠もなく信じることができる。
 この大会で何が起きるかは分からないけれど、俺のせいで亮介に嫌な思いをさせるようなことがあってはいけないと思っている。だから今日は一日じゅう彼の手を離さずにいようと考えていた。
 そしてきっと心の奥底では、亮介もまたその手を離さないでいてくれればいいのにと願っていたのだと気が付いた。

 

 

 教室に行くと体操着姿の生徒で溢れ返っており、時間が来ると団体で体育館へ移動した。そこで堅苦しい開会式をしてから各々の競技が開始される。
 俺と亮介が出場する卓球はトーナメント方式で試合が進められるようだった。その組み合わせは今日になって初めて発表され、早速確認してみると、幸い絹山幾人の名前と俺たちの名前は離れた場所にあり、お互いが最後まで勝ち残った時に決勝戦として戦う以外では当たらないようだった。
「一回戦は三年の先輩だな」
「……いきなり相手が三年生とか、大丈夫なのかよ」
「てめえは邪魔にならない場所で立ってるだけでいいさ」
 余裕の表情を見せつつ亮介は試合をする台まで歩いて行く。話によるとこの球技大会は中学校の集団と高校の集団とで別れており、俺たち高校生は一年から三年までで一まとめとして扱われているらしい。だから一年の生徒が三年の生徒と争うことは当たり前のことなんだとか。
「それでは始めてください」
 俺と亮介が定位置に着くと、これといった挨拶もなしに審判の人がさっさと試合を始めてしまった。まずは相手のサーブを受けなければならないわけだが、俺は亮介に奥の方へと押しやられてしまう。ちょっとくらい打たせてくれよ。
 相手の打ったサーブがそれなりのスピードで飛んでくる。しかしそれは俺が体験した恐怖のサーブより遥かに遅く、亮介はいとも容易く打ち返してしまった。しかも嫌がらせをするかのように、打ち返した玉はいわゆるスマッシュってヤツだった。当然相手はそれを打ち返すことができず、早くも一点を取ってしまう。
「こんな雑魚の相手してる暇なんてねぇんだよ」
 俺だけに聞こえる小声で彼はぽつりと漏らす。手の中でくるりとラケットを回転させ、次の玉に備えて腰を低く落とした。
 再び相手のサーブが飛んでくる。さっきより少しだけ速くなっている気がしたが、やはりそれも亮介によって無残にも自らを貫く槍へと変えられてしまったようだった。
 確信した。亮介はやっぱり鬼だ。確かこういう人のことを「サディスト」って呼ぶんだっけ。こいつ絶対そうに違いない。
「あのー、加賀見君」
「はい、何でしょう」
 順調に点を取ったかと思うと審判の人が何やら困った顔をして亮介を見ていた。それに対する亮介の表情は清々しいほどに爽やかだ。
「ええとね、卓球のダブルスではペアが交互に玉を打たなきゃならないんだよ。一人で打っちゃうと相手に点が入ってしまうんだ」
「あれっ、そうなんですか? わぁ、すみません、僕ルールとかよく知らなくて……」
「そ、そうなのか! 知らなかったなら仕方ないね、今回は見逃してあげよう!」
「ありがとうございます、先輩っ!」
 二人の胡散臭いやりとりを傍で眺めていて寒気がした。審判の人が語ったルールを守らなければならないとすると、それは即ち、俺もゲームに参加しなければならないということだ。
 たぶん亮介が一人で試合をすると、彼の自信が示す通りにどんな相手だろうと打ち負かすことが可能かと思われる。しかしそこに俺が介入するとどうだろう? 練習さえまともにできなかった俺が亮介の足を引っ張ることは誰に言われなくても分かる。そしてその後に待ち構えているのは、部屋に帰った時の亮介殿のお叱りであり――。
「弘毅」
 くるりと振り返り、亮介は俺の目をまっすぐ見てきた。瞳の奥の奥まで覗き込む勢いで、俺の目をじっと見ている。
「一緒に頑張ろうね」
「う……うん……」
 まだ少しも動いていないはずなのに、俺の身体から大量の汗が溢れてきたことは言うまでもないだろう。

 

 +++++

 

「やあ、二人とも」
 今日一日の前半戦が終了し、昼休みになると俺は亮介と共に食堂でくつろいでいた。大人しげな様子で蕎麦を食べている亮介を眺めつつうどんを食べていると、ふと背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「晃」
「隣いいか?」
「おう」
 俺の隣に晃の顔をした陰が座る。彼は俺と同じでうどんをお盆に乗せていた。そして机の端に置いてあった七味を手に取り、何やら大量に振りかけまくっている。
「晃はバスケだったな。調子どうなんだ?」
「とりあえず勝ててるけど、たぶん次は負ける。優勝候補の三年のチームが相手だから。それよりそっちこそどうなんだ」
「ああ……まあ、亮介が意地で勝ってるっていうか」
 午前中には三回ほど試合をしたが、俺が無理矢理駆り出されたせいで試合はスムーズに進まなくなっていた。亮介はほとんど俺の尻拭いをする形になっており、だけど勝ててるんだからさすがとしか言いようがない。おかげで俺はすっかり彼に逆らえなくなってしまっていた。
「あと何試合あるんだ?」
「ええと……次が準決勝だったかな。それに勝ったら決勝戦だけど、正直言って俺は全く自信がない」
「そう? 授業ではちゃんと練習してたんだから、自分の力を信じてもいいと思うけどな。たとえそれで相手に負けたとしても、ベストを尽くしてればそれでいいと俺は思う」
 陰は晃と似ているようで全く違う性格をしている。もちろん陰の方が大人しいとか、表面的な部分でも全く違うけれど、どちらかというと晃よりも前向きな考え方をしているような気がした。なんというか、優等生っぽいところがあるんだよな。だけど付き合いにくいわけじゃなくて、こういう気さくな感じは晃とよく似ている。
「まあ頑張ってはみるけどさ……別に俺は優勝なんかしなくても」
「弘毅、君は僕との約束を破る気かい」
 ちょっと弱音を吐くとすぐこれである。目の前から飛んできた亮介の科白は穏やかだったが、それは煌びやかな装飾を施された殺意であることを俺は知っていた。
「大丈夫。必ず優勝してみせるから」
 俺という足手まといがあったとしても、亮介は変わらず自信があるようだった。その感情が一体どこから出ているのか興味はあったものの、それに助けられていることも事実であり、結局俺は彼の引き立て役になるしか道がなかったのであった。

 

 

 午後の準決勝はあっさりと勝つことができた。どうやら試合相手が亮介のファンだったらしく、観客もびっくりするほど手加減をしてくれて俺でさえ点を稼ぐことができたのだ。つーかこんな適当な試合でいいのかよ。今まで優勝を目指して勝ち残ったんじゃなかったのか。
 トーナメント表を目の前に亮介と二人で立ち尽くす。多くのチームの名前がバツ印で消され、紙の左側にはもはや俺と亮介の名前しか残っていなかった。右側にはまだ二つのチームが残っており、準決勝を行っている最中であるらしい。
「さて、決勝戦の相手は誰になることやら」
 腕を組んで右側に残った二つのチームを眺め、亮介はなぜかにやりと口元を歪めていた。それはどこからどう見ても悪役の笑みだったが、そこに突っ込んだら俺はまた部屋に帰ってから亮介君により酷い目に遭わされるんだろう。だから見て見ぬふりを決め込む。
 とりあえず亮介のことは無視し、対戦相手になるかもしれない人の名前をチェックしておく。そこには当然のように絹山幾人の名前が残っていた。そして現在彼のチームと対戦している相手は衛藤光雄(えとうみつお)という人らしい。全く知らない名前だったが、その衛藤光雄の隣に書いている名前は非常に見覚えのあるものだった。
「……キアラン=コールリッジって」
「あいつ卓球とかするんだな。去年は怪我したとか言って応援役やってたから知らなかったな」
 たくさんの漢字が並ぶ中、浮いているキアランの名前にはまだバツ印が付けられていない。言っちゃ悪いがキアランは運動音痴なイメージがあったので、ここまで勝ち残ってるのは驚きだった。いや、もしかしたら俺と同じでペアの人がすんごく頑張ってるだけかもしれないけど。
「あのさ、亮介。この衛藤光雄ってどんな人なんだ?」
「さあな」
「さあな、って」
 キアランの部屋にお邪魔した経験はあったものの、少なくとも俺が訪れた時には部屋に衛藤光雄の姿はなかった。特に気にならなかったから同室の人のことを聞くこともなかったが、彼だって一般の生徒なんだから同室の人がいてもおかしくないよな。だけどなんだか不思議な気分だ。なんとなくキアランは一人暮らしをしてるイメージがあったから。
「俺だって衛藤のことはよく知らない。あいつは俺の客じゃないからな。ただ一つ言えることがあるとすれば――」
 ちょうどいいタイミングで亮介の科白を遮るように隣に誰かがやって来た。それはどうやら審判だったらしく、黒のマジックを持ってトーナメント表に大きなバツ印を付ける。
 黒い色で消されたのは、俺たちが恐れていた絹山幾人と彼のペアの名前だった。
「お、おい亮介、なんか大変なことになってるけど大丈夫なのか!」
「さあ弘毅、いよいよ決勝戦だ。邪魔な絹山幾人も消えてくれたし、思う存分戦おうじゃないか」
「ちょっと――」
 ぐいと腕を引っ張られ、俺は亮介に連れられて決勝戦の舞台へと上がる。
 既に待ち構えていた決勝戦の相手は、見慣れた俺たちの顔を見てふわりと微笑んだ。

 

 

 一体何がどうなってこんなことになっているのか。俺は何の為に襲われかけ、悩んでいたのか。
 勝ちを譲るとか打ち負かすとかそういう次元に達することもなく、俺の心配事はあっさりと撃退されてしまっていた。確かにそれは喜ぶべきことだったが、なんだか腑に落ちないというのもまた本音であり。マジで俺って何の為に悩んだんだよ。
「やっぱり決勝戦の相手は亮ちゃんだったね。でもボクだって負けないよ!」
「お手柔らかにお願いしますよ、先輩」
 俺の隣にいる亮介は爽やかすぎる笑顔になって試合相手の顔を見ていた。それを見ても動揺しないキアランは何やらわくわくしながら俺たちを見つめ返している。その隣には初めて見る顔があり、キアランよりも背の高い彼はぶすっとした顔で俺たちを睨み付けていた。
「それでは始めてください」
「よーし、じゃあいっくよー」
 キアランの気の抜けるような声がこっちまで届いてくる。サーブ権はまず相手にあるようで、衛藤光雄ではなくキアランからのサーブにより試合が始まるらしかった。
「弘くん、君はボクのサーブを返せるかなっ?」
 え、俺が受けるの?
 ぎょっとして亮介の顔を見ると、相手は首を横に振った。ということは、やはり俺は打ち返さなくていいらしい。それを知らないままのキアランはようやくサーブを打ってきた。
 ぱこん、といい音が周囲に響き渡る。キアランのサーブはあっさりと亮介により打ち返され、それはそのままこっちの点に変わった。
「ええっ、なんで亮ちゃんが打つのさ! ボクは弘くんに打って欲しかったのにー」
「こうした方が点になりますから」
 爽やか笑顔で亮介は相手を潰す気満々のようだった。知らなければそれこそ本当に爽やかに見えそうだが、俺からすると鬼とか悪魔とかそういうもののようにしか見えない。こいつって基本的に自分以外の奴は全員敵だって思ってそうだな。
「おい」
 ふっと低い声が聞こえた。短いそれは俺のものでも亮介のものでもなく、もちろんキアランのものでもない。まるで忘れ去られたように存在していた衛藤光雄が発したものらしい。
「キアランてめえ、何を遊んでやがる? 俺は仕方なしに出てやってんだ、試合をする気がねえならとっとと棄権でもしろよ!」
 怒声を浴びせかけ、衛藤光雄はキアランの胸ぐらを掴んだ。いやいや、いくらなんでもそこまでしなくていいだろうに。
「はあ? なんでボクがお前なんかの言うこと聞かなきゃならないわけ?」
 そうかと思えば今度は高くて低い言葉が聞こえてきた。キャラが変わりすぎててなかなか気が付かなかったが、それは間違いなくキアランの口から出た科白だったらしい。
「だいたいお前さぁ、ボクより弱いくせになんでそんなに偉そうなの? 誰のおかげで決勝まで残れたと思ってんの? お前一人じゃ一回戦どころか試合にも出させてくれないレベルなのに、そんな奴がいちいち指図しないでくれない?」
「なんだと、貴様――」
 これは一体何が起こっているのでしょう。
 俺はちらりと亮介の顔を見た。彼は爽やかスマイルは消さないまま、だけど何やら蔭を帯びた表情でこっちを見返してきた。
「キアランと衛藤先輩はとっても仲が悪いんだよ、弘毅」
「そのようですね……」
 亮介の分かりやすい解説のおかげでとんでもなく納得してしまったが、卓球台を隔てた先に立っている二人はまだ言い合いを繰り返していた。キアランって子供っぽい無邪気な奴だと思ってたけど、あんなふうに言い争いをする姿を見せられるとやっぱり年上なんだなぁと思ってしまう。
 審判がなんとか二人をなだめ、試合はどうにか続行が可能になったが、それは目も当てられないほど酷い試合にしかならなかった。亮介は相変わらず全力で相手を潰しにかかり、キアランは真面目に玉を打ち返そうとラケットを振るが、横から衛藤光雄が邪魔をするせいで空振りになったり玉があらぬ方向に飛んでいったりで散々だった。しかもその仕返しにと衛藤光雄が打つ番にはキアランが邪魔をし、所々で言い争いが発生し、決勝戦だということを完全に忘れて二人は喧嘩をしているだけだった。おそらく実力としてはキアランの方が上なんだろうけど、そんなことはどうでもよくなる程に試合以外のことに力が入っていることがよく分かってしまったのであった。
 そうして十分も経たないうちに試合は終了した。結果は俺と亮介の圧勝であり、負けたら負けたで今度は責任のなすり付け合いをしている試合相手の姿が目に入った。こいつら一体何をしに来たんだ。
「優勝おめでとう、加賀見君に水瀬君」
「ありがとうございます」
「ど、どうも……」
 試合終了後に審判から小さなトロフィを渡されたが、全くと言っていいほど嬉しくはなかった。
「あーあ、衛藤のせいで負けちゃった」
「はあ? てめえが遊んでたせいで負けたんだろ、自分の失敗を棚に上げるなよ」
「ふん!」
 試合が終わっても相手のペアは別の試合を続行しているようだった。もうこの際あいつらは無視した方がいいんだろう。
 教室に戻ると陰や円先生や亮介のファンからちやほやされた。亮介は相変わらず周囲に営業用スマイルを振りまき、俺はとりあえず笑ってその場を凌ぐことにした。
 こうして俺の球技大会は様々な腑に落ちない要因に彩られ、それでもそれらに逆らうこともできず静かに幕を下ろしたのであった。

 

 +++++

 

「あー、疲れた」
 まだ熱気を帯びていた野次馬からやっとのことで解放され、二人で部屋に戻ってくると亮介は真っ先にベッドの上に寝転んだ。俺は亮介に持たされたトロフィやら賞状やらの荷物を机の上に置き、その後に自分のベッドに腰を下ろす。
「優勝すると気分がいいな」
 ふふん、と機嫌が良さそうに亮介は笑っていた。こいつは絹山幾人が決勝戦以前で敗退したことや、キアランと衛藤光雄との勝負がろくなものじゃなかったことはどうでもいいんだろうか。
「どうした弘毅、お前も笑えよ」
「あのなあ……あんなの納得できる優勝じゃないだろ」
「どんな形だろうと優勝は優勝だ。一番になることは気持ちがいい」
 ひょいと身体を起こし、亮介は立ち上がって俺の隣に座ってきた。それからぽんと肩に手を置いてくる。
「お前もなかなかやるじゃないか。ちょっとだけ見直してやったぞ、嬉しく思え」
「そ、そう」
 限りなく上から目線だったので素直に喜べないのが本音だった。そりゃまあ見直してくれたのはよかったけど、実際俺は亮介の足を引っ張ってただけだったからなぁ。
「ま、これで絹山はお前に手を出さなくなるだろう。あんな負け方したんだから、当分俺たちの前には現れないだろうな」
「そうかな……」
「ああ? 何を不安に思ってんだよ、俺が言うんだからそうに決まってんだろ!」
 スポーツ以外の分野でも亮介は常に自信過剰で、だけどその強引さに救われている部分もあった。今日もまた俺は彼のまっすぐな瞳に何も言い返せなくなっている。それは支配され動けなくなっているからではなく、ただ彼の強さが眩しくて憧れているからそうしているだけだった。
 いつの間にか俺にとっての亮介はそんな存在になってたんだ。このまま二人で一緒に過ごしていたら、もしかしたら何もかもが上手くいくような、そんな気がしている。ああ、そんなこと、有り得るわけがないのに。
「あのさぁ、亮介」
「ん? どうした」
 今日は本当に機嫌がいいらしい。いつもなら嫌そうな顔をして返事をされるのに、まるで部屋の外にいる時のような綺麗な顔を俺に向けてきた。
 彼の気持ちがプラスに向かっているほど、俺はなんだか深い淵にでも追いやられているような心地になる。
「……」
 何を言っていいか分からない。
「なんだよ、何か言いたい事があったんじゃなかったのか」
 さっと相手の表情が変わった。俺の口からはどうしても言葉が出てこなくて、そしてどうしてだか顔を見られたくなくて下に俯いた。
「おい、弘毅」
 ぐいと顔を無理矢理上げられる。相手と目が合う。強くなっている相手は恐ろしい。だけどそこに逃げ込みたくなる自分がいて、ますますどうしていいか分からなくなった。
「ごめん。言おうとしてたこと、忘れちまった」
 俺の声を聞くと亮介は手を離した。それから何も言わずに立ち上がり、俺の傍から離れていく。
 部屋を出て行きそうになり、だけどぴたりと一度立ち止まった。くるりと踵を返し、またすぐ傍まで近付いてくる。彼はしゃがみ、俺と同じ高さに目線を合わせ、それからぶつかりそうなほど顔を近付けてきた。
 ――息ができなくなる。
 彼が顔を離すと唇が濡れていた。俺はまたキスをされたらしい。これで何度目だ、なぜ彼はこんなことをする?
「亮介」
「今日一日頑張ったサービスだ。有り難く受け取っておけ」
 再びくるりと背を向け、相手は部屋から出て行ってしまった。
 理解できないことが溢れている。だけど俺は、彼のキスを受けたことにより、なんだか心があたたかくなったような気がしていた。

 

 

 

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