閉鎖

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5.休暇 - 01

 

 救いを求めてはならないと思っている。
 救いを求める手を掴みたいと思っている。

 

 

「うわぁ、酷い間違いしてやんの」
 返ってきたテスト用紙を熱心に眺めながら、俺の隣で晃は渋い顔を作っていた。彼のそれと見比べると俺の用紙の方が明らかに丸の数が多く、なんだか複雑な気分になってくる。
「まあ赤点じゃないから良かったじゃん」
「それはそうなんだけどさー……これじゃ俺、確実に後で親父に怒られるなぁ」
 前期の最大のイベントであった球技大会が無事に終了した後、学園内には何気ない緩やかな日常が流れていた。しかしそれは学生たちを脅かす定期テストの時期でもあり、球技大会ですっかり浮かれていた連中にとっては地獄の日々と言っても過言ではなかっただろう。
 そんな苦しい日常にも終焉が近付き、今は続々とテストが返されている期間であった。その為ここのところ毎日のように教室の隅々から悲鳴が聞こえているような気がする。
「弘毅お前、なんでそんなに頭いいんだよ」
「なんでって……ちゃんと勉強したからに決まってんだろ」
「俺だって一応勉強したんだぞ!」
 その「一応」ってのが問題だと思うんだが、晃は俺を疑いの眼差しで見てくるだけだった。別にそんな、カンニングしたとかそういうんじゃないんだから。
「あーあ。勉強しなくてもテストができるようになれればいいのに」
「……実際そーいう奴がこの教室内に一人いるんだよな」
 晃の夢見がちな科白を聞き、俺は嫌でも同室のあいつを思い出さざるを得なかった。
 ちらりと彼が座っている席に目をやると、相変わらずあいつは狂信的なファンに囲まれて笑顔を振りまいていた。
「なあ弘毅。加賀見って本当に部屋の中で勉強とかしてなかったのか?」
「俺が見てる前ではテスト前日に教科書を一回読んだだけだった。たった一回だけだぞ! あいつマジで化け物みたいだ」
「化け物っつーか、天才なんだろ……」
 俺のルームメイトである加賀見亮介は今までに返されたどのテストも全て満点だったらしかった。部屋の中以外では爽やかに俺と晃の点を馬鹿にし、部屋に帰ってからは俺のことを盛大に馬鹿にしてくるんだ。
 しかもあいつはちゃんと勉強しているようでもなくて、テスト範囲の教科書に一回目を通しただけであの点数なんだから腹が立つ。なぜ神はあんな奴にあれ程の才能を与えたんだろうと本気で考えたくなりそうだった。いや、あいつの才能に僻んでも仕方ないんだけどさ。
「本当に加賀見って何でもできるよな。容姿もいいし、運動もできるし、頭もいい。それなのになんかいつも不機嫌そうなのはなんでなんだ?」
「そんなこと俺に聞かれても……」
「同室でもそれは分からないか」
「うーん。想像ならいくらでもできるけどな」
 亮介の家庭の事情だとか何だとかを考えると、恵まれた才能であればあるほど彼のことが不憫に思えてしまうのもまた事実だった。あいつはその完璧さのせいで家族から棄てられたと思い込んでいる。俺に対しては自画自賛しまくってくるものの、本当は亮介は自分のことが一番嫌いなんじゃないか、なんてことも最近になって考えるようになっていた。だけどそれを彼自身に聞く勇気なんかない。
「まあテストのことはもう忘れることにしよう。それより来週から夏休みだけど、弘毅は家に帰るのか?」
「へ」
 晃の口から何やら気になる話題が出てきた。
 夏休みだって。もうそんな季節だったなんて少しも気付かなかったぞ。そういえば教室にはいつも冷房が付いてた気がするな。
「夏休みとかって、普通は家に帰るもんなのか?」
「ほとんどの生徒は帰るぜ。俺も帰らなきゃ親に怒られるし」
「あれ、でも晃って親父が学園長なんだろ。残らないのか」
「あのなぁ。いくら学園長でも学校に住んでるわけじゃねえっての」
「……それはそうですね」
 やはり長期の休暇となると実家に帰るのが当たり前のようだ。ただ亮介は意地でも帰らないんだろうな。
 そして俺もまた家に帰る予定はない。
「俺は帰らないかな」
「ん? そうなのか?」
「家、結構遠いし」
 安っぽい理由を言うと晃は「ふうん」とだけ返してきた。それ以来別の話題に切り替わり、他愛ないお喋りはチャイムの音にかき消されることとなる。
 彼のそういった軽さには救われているのだろうと感じていた。深く追究されないことは、関係を保つ為にどうしても必要な要素なのだろうから。

 

 

 授業が終わり部屋に戻ると、いつもと変わらず亮介がベッドの上で寝転んでいた。そして彼の隣には当たり前のように薬の瓶が添い寝している。
「よう、お馬鹿さん」
「……何だよ」
 片目だけを開けてウィンクをしてくる亮介は明らかに俺のことを馬鹿にしていた。ここ最近はずっとこんな調子でいい加減腹が立ってくる。
「今日のテスト見せろ」
 そして上から目線で命令してくるし。
「やだよ」
「俺のも見せてやるから見せろよ」
「どーせ満点なんだろ、見る意味ないね」
「うっわ何だお前、反抗期? 思春期? まあ弘毅君たらやらしー」
 ぐいと身体を起き上がらせ、亮介は俺を見てニヤニヤと悪そうな笑みを浮かべていた。俺を虐めるのがそんなに楽しいのかよ。
「いいから見せろって」
 ベッドから立ち上がった相手は俺の鞄をひょいと奪い取ってしまった。そこからお目当てのテストを素早く取り出してしまう。
「ふうん、八十八点」
 何やら吟味するように彼はじろじろとテスト用紙を見ている。
「ま、その辺にいる雑魚どもに比べればマシな部類だな。君はこの天才亮介君のルームメイトなんだから、恥をかかせないくらいには頑張ってもらいたいところだね」
「うるせーな」
「……お前、なんか今日機嫌悪いな」
 手に持っていたテスト用紙を俺に向かって差し出し、相手はぱっと笑みを消してしまった。それがあまりにも真剣そうでこっちが驚いてしまう。
 俺の態度が彼をそうさせたのは明らかだった。
「機嫌が悪いわけじゃないさ。ただ夏休みのことでちょっと考えてて」
「はあ? この夏こそ彼女作ってやるとかいうやつか?」
「違うって。家に帰らないつもりだから、電話した方がいいのかなーと思ってんだよ」
 いつの間にか目の前まで迫っていた亮介の両目がぱちくりとまばたきをする。化粧で長くなっているまつ毛が肌に触れそうな気がして、だけど実際は大きく離れていて途端に人恋しさに襲われた。
 俺はすとんとソファに座り込む。それを見た亮介もまた前の席に座っていた。
「お前やっぱバカだな。悩むくらいなら電話すればいいじゃないか。でなきゃ確実に後悔するぞ」
「……他人事だと思ってるだろ」
「思ってねえよ。俺だったらどうするかってことを言っただけだ」
 ふいと相手はわざとらしく顔をそっぽへ向ける。彼がこういうことをするのは照れ隠しをしている時だった。ほんの数ヵ月だけでも一緒に暮らしてきた為か、彼の仕草が見せる意味もだんだん分かるようになってきていた。この調子で全ての壁が取り払われると一体どうなるんだろう。
「亮介がそう言うんなら、電話してみようかな」
「て、てめえ、俺のせいにするんじゃねえ! 自分の意思で決めろよこのバカ!」
 普段は俺が虐められてばかりだけど、こういう時だけは彼を弄ることができるようになっていた。その時の反応はなかなか可愛げがあっていい感じだ。今もまた頬を赤く染めてやたら焦っている様子がよく分かる。
「それで、電話ってどこにあるんだっけ」
「食堂の隣」
「そっか。じゃ行ってくるかな」
 正直あまり乗り気ではなかったが、ここまで言って引き返したら亮介に悪い気がして俺は無理に立ち上がってみせた。俺を見上げた相手は何も口に出さず、ただ黙って俺が部屋から出て行く姿をじっと眺めているようだった。

 

 

「……もしもし?」
 周りに人がいるわけでもないのにどうしてだか小声になってしまう。受話器が必要以上に重く感じられ、俺は鉛玉でも持っている心地になっていた。
『――誰』
 聞こえてきた声は聞き慣れたものだった。だけど予想していた人のものじゃない。
「か……母さん? 俺だよ、弘毅だよ」
『弘毅? 一体どうしたの、学校で何かあったの?』
「ええと。その……父さんは?」
『仕事に行ってるわ』
 俺がここに来る前は今の時間なら家にいたはずなのに。父さんがいないのなら、これ以上電話を続ける必要なんかない。
「後で掛け直すよ」
『父さんじゃなきゃ駄目なの? 母さんだってあなたの力になることはできるわ』
「だ、駄目なんだ。事務的な話だから」
『そう――』
 まだ何かを言っているような気がしたが、俺はもう受話器を耳から離していた。そして訪れた静寂の中へと逃げ込んでいく。
 久しぶりに家族の声を聞いた。そこから感じられたものは、どうしてだろう、懐かしいというものだけだったんだ。あんなに離れたいと思っていたのに? あんなに逃げられた事に歓喜していたのに?
 おかしな話だ、俺もまた亮介のように意地を張っていただけなんじゃないだろうか? 子供とはいつになっても親の愛を求める生命なのではないだろうか。
「……弘くん?」
「えっ」
 急に呼びかけられ、驚いて振り返ると見知った人が立ち尽くしていた。くるりと曲がった金髪に隠れ、俺と同じ感情を映した瞳がこちらを見ている。
「えへへ、こんな所で会うなんて奇遇だね。弘くんも電話してたの?」
「ああ。ということはキアランもか?」
「そうだよ。たぶん意味なんてないと思うけど一応ね」
 何気に背の高いキアランは俺の隣に立ち、受話器を取って慣れた手つきで電話をかけていた。俺が電話の内容を聞いていても構わないと思っているんだろうか。
「もしもし、キアランです。今年の夏休みは家に戻りません。それでは失礼します」
 短くはきはきと喋った後、彼は何の躊躇いもなく受話器を戻してしまった。
「……留守電だったのか?」
「あたりー。ていうかこの時間帯に母親が家にいるわけがないんだけどね。直接話したくなかったからズルしちゃった」
 ちろりと舌の先っぽを出し、キアランは悪戯をした子供のように笑っていた。そういえば彼の家族は母親だけなんだっけ。シングルマザーだとやっぱり仕事に行かなきゃ生活できないんだろうか。
「ボクの母親ってサイテーなんだ。毎日仕事もせずにブラブラしてるし、ボクをここに放り投げて自分は男作って楽しんでるし」
「そ、そうなのか?」
「そーだよ! だからボク、家には帰りたくない。どうせ家に帰っても知らない男が母親と仲良くしてるだけだもん。そんなのボク、絶対見たくない」
 彼の家庭がどのようなものなのか、直接見たわけじゃないからそんなものは何も分からない。だけどキアランが抱えている不満はなんとなく分かるような気がした。
 俺と彼との間には接点なんて何もないけど、それでもお互いに惹かれている理由はここにあるのかもしれなかった。そしてそれはきっと亮介や晃も同じなんだろう。
「それじゃあね、弘くん。またお菓子作ったら食べに来てね!」
「あ、うん」
 キアランの明るい声が聞こえなくなると途端に巨大な孤独を感じた。俺はそれに気付かなかったふりをし、平気な顔を作って部屋へと戻る為に歩き出す。

 

 +++++

 

 食堂で夕飯を食べる前から亮介はばっちりと化粧を完璧にしていた。夏だからか春よりもメイクは薄めになっており、彼が言うには「ナチュラルメイク」というものを目指しているらしい。
「よっし、夏休みが来るまでに稼ぎまくるぞ!」
 ぐっと両手を握り締め、彼はやたらと気合いが入っているようだった。その化粧でそのポーズと表情はやめろよと言いたくなったが、とりあえず喧嘩を避ける為に俺は黙っておく。
「なあ亮介。夏休み中もその仕事すんのか? 客なんか来ないんじゃねえの」
「だからこそ今の時期に稼いでおくんだよ、てめえどんだけバカなんだ。いいか、今日からは朝まで客の相手するから、何があろうと邪魔だけはするんじゃねえぞ!」
「あ……朝まで?」
 なんだか亮介は無茶苦茶なことを言っていた。いくらなんでも朝までってのは、体力的にも不可能なんじゃないだろうか。
「大丈夫なのか? 途中でぶっ倒れたりしないか?」
「ふん、適当に演技してりゃいいだけさ。連中は自分が気持ち良くなれればそれだけで満足するんだからな」
「はあ……」
 こういう発言を聞くと客も憐れなもんだと思えてしまうから不思議だ。結局のところ亮介が求めているものは金だけであり、彼らから愛されることではないんだ。
 彼が一体何を欲しがっているのか、何を求めてここで暮らしているのか。いつかはその答えが分かるようになればいいのに。
「よし弘毅、腹ごしらえしに行くぞ」
「はいはい」
 誘われるままに俺は彼と共に部屋を出た。そして世界の果てにでも辿り着いてしまえばいいと思っていた自分に気付き、無性に彼からのキスが欲しくなってしまっていたんだ。

 

 

「もしもし、父さん?」
『弘毅か。どうしたんだ』
「来週から夏休みなんだけど、家には帰らない方がいい……よね」
『そうだな……だが一人で大丈夫か? 寮とはいえ、一人だといろいろ大変だろう』
「ああ、それなら平気だよ。同室の亮介って奴も寮に残るらしいから」
『それは良かった』
「話はこれだけだよ。それじゃ……」
『待ちなさい、お前に一つ聞いておきたい事があったんだ』
「えっ、何?」
『いや――大したことではないんだ。ただそっちに行ってから、おかしなことに巻き込まれたりしていないかと心配していてね』
「ごめん、全然電話できてなくて。でも俺は大丈夫だよ、いつも通りに生活してる。友達もできたし……同室の奴とも、うまくいってる」
『……そうか。だったらいいんだ。では、身体には気をつけろよ』
「うん」
 受話器を元に戻し、目の前にある暗闇を見つめる。
 どうしてだか視界がぼやけており、見上げた天井は果てのない夜空のように高くそびえていた。

 

 

 

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