閉鎖

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5.休暇 - 02

 

 生徒たちのいなくなった寮は不気味なほど静かだった。
 すでに夏休みが始まって一週間が経過し、俺は同室の亮介と共に何もない毎日を過ごしていた。亮介の所に毎日押し掛けていた客もぱたりと来なくなり、ここ最近はとても穏やかな睡眠を得ることができている。それは非常に喜ばしいことだったが、昼間まですることがないと暇を持て余してしまい、結局何もせず一日が終わる日々が続いていた。
「やっぱ休みはいいな。静かでのんびりできる。というわけで弘毅、俺は今からお昼寝の時間に入る。邪魔すんなよ」
「……分かってるよ」
 ベッドの上に寝転んでいる亮介は俺に声をかけてから目を閉じた。いつも授業があった時間帯は彼のお昼寝時間に変貌したようで、夏休みが始まってからずっとこんな調子だった。
 彼に文句やら命令やらを言われないのは嬉しいが、一人きりになると途端に時間が長く感じられるから不思議だ。すべきことが何もないというのは意外と苦痛だったりするんだろうか。
 俺はひょいと身を乗り出し窓の外を見た。少し前までなら下の方でたくさんの生徒たちの姿が見えていたはずなのに、夏休みとなると人っ子一人見当たらない。ため息を一つ吐き出し、自分のベッドに座り込んだ。
 目の前では亮介が両目を閉じ、幸せそうに眠っている様が見える。今は薬も飲んでいないようで、本当に何も考えずに生活しているようだった。本当ならこんな生活がずっと続けばいいんだろうな。
 などと感慨深く亮介の顔を見つめていると、部屋の外から呼び鈴の気の抜けるような音が聞こえてきた。とりあえず亮介を起こすと機嫌が悪くなると思ったので無視し、一人で扉の方へと歩いていく。
「やあ、水瀬君」
 真っ先に見えたのは円先生の優しげな微笑みだった。亮介じゃなく俺が出てくれて嬉しいんだろうな、きっと。こっちとしては全くと言っていいほど嬉しくないんだけど。
「何の用だよ」
「加賀見君はいるかい? 彼に電話がきてるんだ」
「亮介はお昼寝中だ」
「そうは言っても、もう部屋の電話に繋いじゃったから」
 なんというか強引な人だった。俺を襲おうとした時も無理矢理だったし、弱々しそうな顔しておきながらこの人って乱暴だよな。だからこそ警戒しなきゃならないわけだけど。
 ちらりと後ろを振り返り、部屋の中へと視線を投げかけると、なんと眠っているはずの亮介は身体を起き上がらせてこっちを睨み付けていた。予想していた通り彼はとてつもなく機嫌が悪そうだった。俺のせいじゃないはずなのになぜ彼は俺まで一緒に睨み付けているというのか。
「加賀見君、電話」
「誰からだよ」
「ご両親からだよ」
 亮介の両目が更に細く鋭くなった。先生と亮介との間に挟まれた俺ってとんでもなくやばい位置に立ってるんじゃなかろうか。とばっちりはごめんだぞ。
「切れ」
 短く命令し、亮介はぼふりとベッドに寝転んだ。
「少しくらい話してごらんよ」
「話すことなんて何もねえよ、さっさと切れ」
「うーん」
 困ったような顔をした先生はずるずると部屋の中に入ってくる。そうして部屋の壁にくっついていた電話の受話器を手に持った。
「もしもし。どうもこんにちは、僕は亮介君の担任の円です。……それが、あの、亮介君は今、電話に出られないと言っていて……いやいや病気じゃありませんよ! ちょっと――勉強してるんでしょうかね、出られないとだけ言われたので。……え、病気? 妹さんが?」
 亮介の代わりに先生は電話に出ていたが、ふとそっぽを向いている亮介の方へと視線をやった。そこには部外者である俺でさえ分かるほどの何かが込められている気がした。
「す、少し待っていてください」
 受話器に手を押し当て、先生は亮介の方へと歩み出す。
「加賀見君、妹さんが病気になっていて、君に会いたいと言っているようなんだ。だからご両親は君に帰ってきて欲しいらしいんだけど……」
 ひそひそと内緒話をするように小さな声で先生は亮介に話しかけていた。しかしそれを聞いていたはずの亮介は相変わらずそっぽを向いており、返事をする様子さえ見られない。
「加賀見君。こっちに来てから一度も家に帰っていないんだろう? 今回くらいは帰った方がいいよ」
「うるせぇな、誰があんな家になんか――」
 がばりと起き上がった亮介と目が合った。そこで亮介はぴたりと言葉を止め、しばらく謎の沈黙が流れる。
 いや、こいつ何かとんでもないことを考えてるぞ。数ヵ月一緒に過ごしただけの仲だけど、なんだか今は彼の考えが手に取るように分かったんだ。
 やがて彼の顔に浮かんできた表情は、悪戯を思い付いた子供のような笑みだった。
「弘毅君がついてきてくれるなら帰ってもいいかなー」
「本当かい? それじゃご両親にそう言っておくね!」
「え、ちょ」
 俺の意見を綺麗に無視し、二人の間で話はすぐさままとまってしまったようだった。なんとなく嫌な予感はしていたが、まさかこんな展開になるなんて。
 でも亮介の家族をこの目で見られるならいいかもしれない。こんな機会は滅多にないだろうし、ここは黙って流れに身を任せるべきなのかもしれないな。
 話を終えたらしい先生は電話を切り、なんとも嬉しげな様子で部屋から出ていった。なんであの人があんなに浮かれてるんだ。そこまで亮介に家に帰って欲しかったんだろうか。
「そういうわけで弘毅君、明日は早起きをするように」
「うん――ってちょっと待てよ、明日に帰るのか?」
「当たり前だろ、何を驚いてるんだ。お前のバカさは転校してきた日から全く改善してないな」
 いきなりの遠出なのに亮介は平気そうな顔をしていた。いろいろ準備とかが必要だと思うのに、彼はまるで動じていないから図太いのか繊細なのか分からなくなる。
「えーと、バスの時刻表はどこに片付けたかな」
 のんびりと棚の中をあさり、相手はゆっくりと準備を始める。
「ん? どのバスに乗ればいいんだっけな……」
 時刻表はすぐに見つかったが、それを見た彼は首を傾げていた。
 ……本当にこんな調子で俺たちは目的地に辿り着くことができるのだろうか。

 

 

 バスの窓から見える景色が流れていく。それを目で追いながら、俺は落ち着かない心地で亮介の家へと向かっていた。
 鞄を一つ持っただけの楽な格好で俺たちはバスに乗り込んでいた。俺を連れ出した犯人である亮介は居眠りをしており、隣の席で俺の身体にもたれ掛かっている。こいつは俺を椅子か何かと勘違いしてるんじゃないだろうか。
 どうやら彼の家は学園から相当離れた場所にあるらしく、このバスまでに二つのバスに乗って移動していた。そしてこれが最後の移動となるようで、終点まで乗れば家はすぐだと隣の彼は言っていた。
 なんとなく俺は窓の外を見ていたが、最初は行き交う車の影や建ち並ぶビルの姿が目立っていたものの、ここまで来るともはや畑ばかりが目に入るようになっていた。もしかしなくとも亮介は田舎に住んでいるらしい。いつもはあんなに偉そうで着飾っているのに、そんな奴が田舎に住んでるってなんだか面白いな。
 やがて終点に着き、料金を支払ってバスから降りると田舎の道なき道を二人で歩いた。十分も歩けば一つの家の前に辿り着き、俺の横にいた亮介はじっと家を見上げて黙り込む。
「……弘毅、お前インターフォン鳴らせよ」
「へ? ここがお前の家じゃないのか?」
「そうだけど……入りづらいんだよ、それくらい分かれバカ!」
 相変わらず無茶なことを言う相手だったが、もしかすると彼にとってはこの家こそが最も恐ろしい場所なのかもしれないと感じられた。だとすれば俺は亮介の唯一の味方ってことだろうか。ただ家に帰るだけのことなのに、どうしてここまで苦しく感じなければならないんだろう。
 俺はそっとインターフォンに手を伸ばす。
「――亮介?」
 四角いボタンに指が触れた刹那、背後から透き通った女性の声が聞こえてきた。驚いて亮介と共に振り返る。
「やっぱり亮介ね。お帰りなさい」
「……」
 ウェーブのかかった黒髪の下に覗く顔は亮介とよく似ていて、その人はきっと彼の母親なんだということが直感的に分かった。しかし久しぶりに会っただろうに、亮介は彼女の顔を呆然と見つめるだけで一言も発そうとはしない。それを見て彼の母親もまたちょっと表情を曇らせた。
「こ、こんにちは」
 とてつもなく重い空気を感じたので、俺はとりあえずそれを壊しておくことにした。というよりも壊さなきゃやってられなかった。
「あら……あなたが同室のお友達?」
「そうです、ええと、水瀬弘毅っていいます」
「いつも亮介と仲良くしてくれてありがとう」
 あれを「仲良く」と言っていいかどうかはともかくとして、俺は差し出された手を握り返した。笑うとなかなか綺麗な人だった。さすが見た目だけはいい亮介の母親だな。
「さあ、中に入って」
 ぽんと背中を押され、家の中へと案内される。
「お邪魔します……」
 玄関へ足を踏み入れるとまず花の香りが漂ってきた。それはなかなかうっとりする香りであり、緊張していた心がほんの少しだけほぐされる。俺は亮介に倣って靴を脱ぎ、広々とした廊下を歩いて階段を上っていく。
「ここが俺の部屋」
「そっか」
 小さな声で彼は言う。いつもの堂々とした態度は微塵もなく、ますます彼のことが心配になってしまった。とりあえず彼の部屋の中へと入り込み、ドアを閉めて荷物を床の上に置いた。
 亮介が使っている部屋は綺麗に整頓されていた。ゴミなんか一つも落ちていなくて、床も家具もぴかぴかに磨かれている。本棚にはきっちりと揃えられた本が並び、白いベッドはしわの一つも見当たらないほど整えられていて逆に怖かった。
「すごいなー、お前の部屋。俺なんかいつも散らかしてばかりだったのに」
「俺はこの家ではいい子ちゃんやってたからな。とは言っても、留守にしてた間に掃除してたのは母親だろうけど」
 彼の「母親」という呼び方に違和感を覚えた。だけど俺は口出ししない。
「いいか弘毅、俺が家族の前でどんな態度を取ろうがお前は絶対に黙ってろよ。何か言ったら家から追い出してやるからな」
「わ、分かってるってば」
「分かってるならいいんだ。それじゃ、仕方ねえから妹の顔でも見に行くかな……」
 きゅっとゴムで髪を一つに束ね、彼はドアの方へと歩いていく。俺もまた彼の後を追って部屋の外へと足を踏み出した。
 堅い顔をしたまま亮介は階段を下り、一階にある一つの扉の前で足を止めた。そこで一呼吸置いてからノックをする。
 誰かの返事が来る前に彼は扉を開けてしまった。そしてさっさと部屋の中に入ってしまう。
 そこには亮介の母親の他に男の人が一人いた。おそらく彼が亮介の父親なんだろうけど、二人は部屋の隅にあるベッドの前に並んでいた。亮介はずかずかと歩いてベッドの方へと移動し、そこに寝ている誰かの顔を覗き込む。
「沙弥(さや)ちゃん、お兄ちゃんが帰ってきてくれたわよ」
「……」
 俺もまた近付いてひょいと覗き込んでみると、そこに寝ていたのは小さな女の子だった。見た感じでは亮介とかなり年が離れているような気がする。少なくともまだ小学生のような、とても幼い少女がベッドの中で兄の顔をぼんやりと見上げていた。
 亮介は何も言わない。その口は堅く閉ざされ、喉の奥に隠されている言葉は誰も知らない。
「ほら亮介、せっかく久しぶりに会えたんだから沙弥に何か言ってやりなさい」
 父親らしき男の人が優しげな口調で亮介の言葉を催促する。だけど傍から見えた彼の横顔はびっくりするほど繊細で、作り物のような顔がそこにあるだけだった。
「にーちゃん?」
 先に静寂を壊したのは女の子だった。可愛らしい声が歌うように部屋いっぱいに響き、それを聞いた亮介はやっと表情を崩した。
「久しぶり……元気にしてた?」
「うん」
 消えそうなほど小さな声でそれだけを言い、兄は妹の頭をゆっくりと撫でた。
 途端に少女は咳をした。けほけほと何度も渇いた咳を繰り返し、両親が慌てた様子で少女を取り囲む。そのせいで亮介は後ろに追いやられてしまっていた。
 少女の咳はなかなか治まらず、亮介は無言のまま部屋を出ていった。仕方がないので俺は彼の後を追う。
「おい亮介、いいのかよ」
「何が」
 明らかに機嫌が悪くなっている相手はさっさと階段を上り、自分の部屋に引きこもってしまった。俺が入ると即座にドアを閉め、おまけに鍵まで掛けてしまう。
「せっかく家に帰ってきたのに、もっと両親と話とかしなくていいのかって言ってんだよ」
「あの場で何を話せる?」
「何って――学校のこととか、いろいろあるだろ」
「ない」
 腕を組んで偉そうにベッドの上に腰掛け、亮介は俺を睨み付けてきた。だけど俺はその表情が自分に向けられていないことを知っていた。
「お前から言わなきゃ両親には伝わらないぞ」
「うるせぇな、なんでてめえなんかに説教されなきゃならないんだ。部外者は引っ込んでろ」
「そりゃ確かに俺は部外者だけど、でも――」
 亮介は俺の言葉を遮るように立ち上がった。おかげで黙してしまった俺にふっと背を向け、壁に取り付けられていた窓に自身の姿を映し出す。
「俺はこの家ではいい子ちゃんやってなきゃならないんだ。あの人たちが望んだ時に喋り、あの人たちが望むことだけをする。他のことはしてはならない。この家族の中に俺の意思は存在しない」
 なぜ彼はこんなことを言うのか。なぜここまで自我を否定し、それでもこの場にしがみ付こうと考えているのか。俺にはさっぱり分からなかったけど、それでも彼の唇から感じ取るものはあった。
「……宿題でもするか」
「え、お前持ってきたのか?」
「どうせ暇になると思ってたからな」
 話題を変えた相手は鞄の中から学校の宿題を取り出した。なんとも準備がよろしいことで、などと感心していると、なぜか彼の鞄の中から俺の宿題までもが出てきた。
「おい……それ、俺のじゃん」
「この俺にかかればこんな問題集、一時間もかからず終わっちまうからな。バカな弘毅君に勉強を教えるのも一興かと思ってね」
 ふふんと嫌味っぽい笑みを浮かべ、鞄から筆記用具をひょいひょいと机の上に置き始める。この顔を彼の両親にも見せてやりたいもんだ、まったく。
 こうして繰り広げられた唐突な勉強大会は結局夜まで続いてしまった。亮介は相変わらず俺を馬鹿にしまくってきたが、普段よりも声は控えめで、やたらと周囲を気にしていることが伝わってきた。自分の家の中にいるんだからもっとリラックスしていいはずなのに、彼の立場を考えると俺はまた胸の内が暗くなってしまったのであった。

 

 +++++

 

 夜が更ける前に小さな台所へ呼ばれ、俺たちは夕食を振る舞われていた。
 そこでは亮介の両親が穏やかな顔で待っており、だけど亮介はやはり堅い顔をして黙ったままで、代わりに俺が愛想よく笑っておいた。そして俺は何の為にここに来たのかということを少しの間考えなければならなかった。
「ねえ亮介、学校はどう? 勉強はちゃんとできてる?」
 母親の優しげな声が亮介に向けられる。しかし俺の横に座っている奴はさっと俯いてしまい、重い空気が流れ始める。
「あー、亮介は頭いいから試験ではいつも一番になってるもんな! いやぁ本当に羨ましくてさぁ」
「うふふ、だって亮介は自慢の息子だもの」
 すかさずフォローを入れてみたが、思った以上にそれは効果があったようだ。彼の母親は嬉しそうに微笑んでいる。つーか亮介の奴も何か言えよ!
「しかし成績がいいと恨まれたりすることもあるだろう? 何か困っていることはないか?」
 今度は父親の低い声が亮介に向けられた。それに対しても彼は黙ったままで、このまま放置していると気まずくなること請け合いだろう。
「そ、そういうことは今のところなかったよな? ていうか亮介って学園内でもかなり人気あるしな!」
「まあ、そうなの? でもそうよね、亮介となら誰でも友達になってくれるわよね」
 実際は友達ではなく客と言った方が正しいわけだが、そんなことを言おうものなら亮介に家から追い出されるので黙っておいた。俺のあからさまな説明で両親はすっかり機嫌が良くなったらしく、亮介が俯いているにもかかわらずにこにこと笑っていた。そこに何か不気味なものを感じる。
「ごちそうさま」
 誰よりも早く食事を切り上げた亮介は小さな声で挨拶を残し、さっさと上の階へと避難してしまった。よく見てみると亮介の皿にあったものは全て消えている。前から思ってたけど、あいつって食べるの速いよな。お菓子なんか特に一瞬で消えちまうから恐ろしい。
「弘毅君」
「あ、はい」
 俺も食事を切り上げようと思い頑張って食べていると、亮介の母親の声がまっすぐこちらに届けられた。なんだかどきどきしてしまう。
「亮介に付き合ってくれてありがとう。あなたがいたからきっとあの子も家に帰ってきたのね。本当に長い間、あの子の顔が見えなくて……淋しかったわ」
「あの子は大人しいからな、口では言わなくても君のことを頼りにしているはずだ。だからこれからも仲良くしてやって欲しいんだ」
 二人の純粋な気持ちを真正面からぶつけられたが、その感情と亮介自身の姿がどうにもすれ違っていることが気になって、俺は生半可な返事しか示すことができなかった。
 想像していた以上に事態は深刻なのかもしれない。少なくとも亮介の顔を半分は知っている俺は両親に笑顔を見せ、彼が向かった二階へと一人で上がっていった。

 

 

 

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