閉鎖

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5.休暇 - 03

 

「えっ、病院に?」
「……やっぱりお前、気付いてなかったか。のんきにぐーすかと寝てたもんな」
 目を覚ますと朝っぱらからびっくりするような報告を亮介がしてくれた。なんでも彼の妹の沙弥ちゃんが昨日の深夜、容体が悪化して病院に運ばれたらしい。おかげさまで今は家の中に亮介と二人きりになっていた。
「いつ帰れるようになるか分からないんだそうだ。まあいつものことだし、気にすることねえよ」
「でもお前、せっかく家に帰ってきたのに、こんなこと――」
「散歩でもするか」
 まるで無理矢理話題を変えるように亮介は俺に背を向けた。勝手に部屋のドアを開けて廊下に足を乗せ、そのままとんとんと階段を下りていってしまう。残された俺は彼を追いかけるしか方法がなかった。
 亮介は玄関に立ち俺を待っていたようだった。家の重そうな扉を開け、外の空気がふっと全身に降り注いでくる。
「朝の散歩は気持ちいいぞ、弘毅」
 振り返った相手は機嫌が良さそうに見えた。どうして家族に置き去りにされたのにこんな顔ができるのか、俺は彼の本音を聞き出したくてたまらなくなっている。それを抑えて歩いていく彼の隣に並んだ。
 バスで見てきたような田舎の道を二人で歩き、人の姿が見当たらない公園で少し休憩をした。朝靄は時間の経過と共に晴れていき、徐々に見えなかった小さなものまで見えるようになってくる。
「引っ越してきたんだ」
「え」
 公園のベンチに座っていると亮介はふと口を開いた。彼はまっすぐ前を見つめ、その綺麗な瞳に田舎の景色を映している。
「妹の病気があったから、病院に近いここに引っ越してきたんだ。それまでは別の家で暮らしてて……だからこの辺には何も思い出がない。俺がガキの頃に遊んでた空き地や田んぼは、全部遠い遠い場所にある。遠くて、遠くて……あまりにも遠すぎて、今じゃもうどこにあるか分からないけどな」
 彼の話を聞いてつんと鼻が痛くなった。
「空き地や田んぼって……前に住んでた所も田舎だったのか? お前って都会で優雅な生活送ってたイメージあるから意外だな」
「なんだそれ。そういうのを偏見って言うんだ、バカみたいなこと言ってんじゃねえ」
 流れを変えようと頑張ったのにいまいちだったらしい。亮介は笑うこともなく一つため息を吐いただけだった。ちくしょう、こんな暗い空気耐えられないっての!
「亮介君?」
 唐突にどこからか男の人の声が亮介の名を呼んだ。声の主を探して周囲を見回すと、公園の柵の向こう側にスーツを着た男の人が立っている。
「やっぱり亮介君だな。こんな所にいたのか」
「……知り合い?」
 俺が訊ねると亮介はふっと俯いた。
 この反応は、つまり、あんまり関わりたくない人ってことじゃないだろうか。また俺が気を遣わなきゃならないことにならないといいけど。
 男の人は入口の方に回り込み、公園の中に入ってこちらまで歩いて近寄ってきた。彼を目の前にしても亮介は俯いたままで黙り込み、仕方がないので俺から先に挨拶をしておくことにした。
「こ、こんにちは。俺は亮介の友達です」
「ああ、弘毅君だろう? 君のことは聞いているよ」
「へっ」
 聞いているってことは、亮介の両親から聞いたってことだろうか。よく見てみると相手はまだ若そうに感じられる。新米社員とかそこらだろうか。
「僕は宮本政行(みやもとまさゆき)。亮介君の父親の友人だ。沙弥ちゃんのことで家を離れている間、僕が君たちの面倒を見るように頼まれたんだ。どうぞよろしく」
「は、はあ」
 宮本さんから差し出された手を握り返し、どうにかその場をやり過ごす。しかしなんだかややこしいことになってきたぞ。いや、本当ならほっとする場面かもしれないけど、亮介の態度がそう思わせているのかもしれない。
「しかし亮介君、少し見ないうちに大きくなったなぁ。なかなかの美人になって……君はやはりお母さん似だな」
「弘毅、行くぞ」
「あ、ちょっと――」
 ぐいと腕を引っ張られてその場から離れていく。
 田舎の道をぐんぐん歩いていき、公園からずっと離れた所でようやく亮介は足を止めた。たくさんの畑に囲まれたそこには誰の姿もなく、はるか遠くで自転車に乗った人が一人だけ通り過ぎていく様が視界に映った。
「おい亮介、あの人は誰なんだよ」
 彼の肩に手を置いて前に回り込むと、亮介はどうしてだか蒼い顔をしていた。それが意味するものを見逃すほど俺は鈍感じゃないと思っている。
「本人から聞いただろ。父親の友人だ。高校時代の後輩なんだとか言ってた」
「その他にも言うべきことがあるだろ」
「……あいつは嫌いだ」
 肝心なことを言わない亮介はすぐにふいと顔をそっぽに向ける癖がある。俺は彼の手を取った。そして向き直ってきた彼の目を貫くようにまっすぐ見つめる。
「教えてくれよ」
 彼の瞳の中に確かな炎が揺らめいた。煌めきなど存在しない、あるとすればそれは鋭利な刃物に化けていた。彼はあの人をその刃で刻みたいと思っているのだろうか。俺は結末よりもまず、根本的な理由を知りたいと願っていた。
「こっちに引っ越してから初めて会ったんだ、まだ小学生だったかな、あの時は。今日と同じように妹の病気が悪化して両親が病院に行っている間、あいつが俺の面倒を見ることになっていた。その時に手を出された」
 どきりとした。自分でも心臓の鼓動が速まったことがよく分かる。それと同時に彼があの人を嫌う理由もよく分かった。
「と言っても、まあ、最後まではやられなかったんだけどな。あの時はまだ俺、ほんのガキだったし」
「……じゃあどこまでやられたんだよ」
「ああ? そんなことを聞くのか、お前は。ただ服を脱がされて身体を触られただけだ」
 綺麗な容姿をしているとたくさんの人に好かれるけど、その好きという感情が過剰になったり歪んだりすると相手を傷付けることになる場合もある。おそらく人間ってのはそういったものにブレーキをかけることが極端に苦手で、だから亮介のように苦しんでしまう人が増えていくんだろう。
「そろそろ家に帰るか」
「帰ったら、あの人が待ってるかもしれないぞ。いいのか?」
「お前が横にいればあいつだって手は出せないさ」
 そう言って笑った亮介は強がっているようには見えなかった。思い違いかもしれないけど、彼は俺のことを少しは頼りに思ってくれているのかもしれない。
 朝の静かな空気に包まれながらゆっくりと歩き、俺と亮介は共に元来た道を進み始めた。

 

 

 亮介の家に戻ると宮本政行は玄関の前で待っていた。人の好さそうな微笑みを顔に浮かべ、俺と亮介を家の中へと招き入れる。
「もう昼食の時間だけど、一体どこまで散歩に行っていたんだい?」
「うるせぇな」
 宮本さんに対する亮介の態度は本音モードだった。家族の前や学校の奴らに使う嘘っぱちの表情じゃない、俺や円先生なんかに見せている偽りのない素顔だ。それだけ彼にとって宮本政行という男は特別な存在なのだろう。
「そう邪険にしないでくれ。仲良くしようじゃないか」
「誰がてめえなんかと仲良くするか。おい弘毅、部屋に戻るぞ」
「え、あの」
 おそらく宮本さんが用意していたであろう昼食が台所の机に乗っていた。それを見事に無視し、亮介は俺の腕を引っ張って階段を上がっていく。
 しかし俺は正直言って腹が減っていた。
「亮介さん亮介さん、俺はお腹がすいて力が出ないんですけど」
「あいつが触った物を食べたくない。どうしても食いたいならお前一人で食ってこい」
「ええー……」
 さすがにそれは気まずくてできなかった。俺が宮本さんと喧嘩したわけでもないのに、どうしてこんな気分にならなければならないのか。
「亮介は腹減ってないのかよ」
「減ってる」
 堂々とそれだけを言い、彼は鞄の中からパンを取り出した。
「おま……」
「俺は弘毅君みたいな計画性のないバカじゃないからな、こういうこともあろうかと用意していたのさ」
 床の上に座り込み、相手は手に持ったパンを食べ始める。これは新しい嫌がらせだった。今までは俺を馬鹿にしたり召し使いみたいに使ったり古傷を抉られたりしていただけだったが、羨ましい物を見せつける嫌がらせは初めてだ。
 ――いや、俺は一体何について感心しているんだ! つーか嫌がらせの種類を真剣に考えてんじゃねえよ、しっかりしろ自分!
「ああ美味い美味い。空腹が満たされて幸せな気分だ」
 わざとらしい科白を吐き出しながら彼は一人でパンを小さくしていく。それを俺はじっと見ていた。穴が開くほどまじまじと見つめた。溢れ出しそうになる感情をぐっと抑え込み、ただ亮介のことだけをまっすぐ凝視していた。
「……は、半分こ……するか?」
「あれ、いいのか?」
 言葉にせずとも俺の思いは伝わったらしい。気まずそうに亮介はパンを二つに分け、大きい方を俺に渡してきた。それがよっぽど恥ずかしかったのか、今や彼の顔は真っ赤に染まっている。
「お前やっぱいい奴だな、亮介」
「あ、当たり前のことを何言ってやがる」
「へへっ」
 意外と照れ屋な相手のことは憎めなくて、それだけで普段の嫌味まで許せてしまうところが不思議だった。

 

 

 夕方になるまで俺と亮介は部屋から一歩も出なかった。しかし綺麗好きな亮介はどうしても風呂に入りたかったらしく、結局その時間になると部屋から出ることを妥協してしまった。
 風呂までの道を俺に護衛させ、風呂に入っている間も扉の前で門番をしろと命令し、部屋に戻ることでようやく俺を自由にさせてくれた。そして今は俺が風呂に入っている。
「ふう」
 本来家とはゆったりできて安心できる場所であるはずなのに、まるで敵地にでも乗り込んでいるような心地になるのはなぜだろう。亮介は両親と会話をすることさえ避け、父親の友人だと言っていた宮本さんのことを異常に警戒している。
 宮本さんのことは仕方がないとはいえ、両親と感情がすれ違っていることが非常に気がかりだった。両親はたぶん本当に亮介のことを大事に思っているんだろう。だけど子供の愛し方を間違っているのか、それとも亮介が欲しがっている愛情と違う愛情を注いでいるのか、そういったところできっと行き違いが生じてるんだ。
 部外者である俺にできることなんてあるんだろうか。この壊れかけた家族を元に戻すには、俺はどうすればいいんだろう。
 だけど一方で馬鹿みたいなことをしていると感じている。自分の家族さえ元に戻せないのに、一体どうして他人の家族を幸福へ導くことができるだろうか。おそらくこれは罪滅ぼしだった。いくら手を加えても自分の家族はもう駄目になっているから、代わりに友達の家族に理想を押し付けようとしているんだ。
 そう考えると俺って嫌な奴かもしれない。善人の仮面を被った道化師ってところか。何が亮介や彼の家族の幸福かなんて分かりっこないのに、自分が思う「幸福」ってやつを再現しようとしている。
 ……考え込むと思考は暗い方向へ進みがちだった。俺は大きく首を横に振り、風呂から出て濡れていた身体をバスタオルで包み込む。
 のんきに服を着ていると、上の階から何やらうるさい音が聞こえてきた。まるで重い物を床に落としたかのような音だった。
 最初は特に気にならなかったが、よくよく考えると二階には亮介がいるはずだった。あの失敗なんか一つもしなさそうな亮介が大きな音を立てるなんて有り得ない気がする。いや、もしかするとあいつの身に何かあったのかもしれない。
 慌てて服を着替え、バスタオルを持ったまま階段を上がっていく。そして体裁など気にせずに思いっ切り亮介の部屋のドアを開けた。
「亮介!」
「あ――っ」
 部屋に入るとまず亮介の驚いた顔が見え、その後すぐに俺は派手にずっこけた。何かにつまづいて転んだらしく、寝転んだままその正体を確認する。
 俺を転ばせた犯人とは、なぜか床でのびている宮本政行の身体であった。
「……あのー、亮介さん」
「そ、そいつが悪いんだ、俺の身体を触ろうとしやがってきたから! だからちょっと背負い投げをしてやったら、たったそれだけで気絶しやがって――」
 俺が亮介の心配などする必要はなかったらしい。スポーツ万能な亮介君は忍び寄る魔の手を自ら退治してしまったようだった。先程の音は宮本さんが亮介によって投げ飛ばされた音だったんだろう。なんというか、どっちが悪役か分からなくなりそうだな。
 よいしょと身体を起こし、床の上に尻餅をついている亮介の前に座った。そうして改めて彼の表情を間近で確認し、それがとても不安定になっていることに気付く。
「もう帰ろう、弘毅」
「は、はあ? 帰るって、今からか?」
「そうだよ!」
 ぐいと肩に両手を置かれて説得される。瞳がふわふわと泳いでいる亮介は床に転がっていた荷物を手に取り、そのまま立ち上がってドアの方へと走っていった。いやいやちょっと待ってくれって、マジで今から帰る気なのかあいつは。
 仕方がないので俺も荷物を持って部屋の外へ出る。彼を追って下の階へ行くと、亮介は玄関で靴を履くことに手間取っているようだった。なんだか知らないが相当慌てているらしい。こんな調子で外を出歩いても大丈夫なんだろうか。
「おい亮介、家族が帰ってくるのを待たなくていいのかよ? それにもう夕方だぞ、今からだとバスの時間とか間に合わないだろ」
「うるせぇな、てめえは黙ってろ!」
 強い言葉で俺は無理矢理黙らせられてしまった。玄関の扉を開けて外に出ていく亮介を追い、彼からはぐれないようにすぐ近くへと歩み寄っていく。
「……帰るぞ」
 再び意思を口に出し、亮介は田舎の道を歩き出した。
 俺はもう逆らわずに彼の隣に並んだ。そうしていつの間にか姿を現していた夕日を見つめ、彼と同じ速度で知らない道を歩いていった。

 

 

 家に着くまでの道に時間がかかったように、家からバス停へ行く道もまた同じように遠かった。それは亮介だって分かっているはずなのに彼は引き返そうとはしなかった。おかげで今やすっかり日が暮れ、空はオレンジから暗闇へと変わりつつあった。
「なあ……やっぱり明日にした方がよかったんじゃないか」
「今、何時だ」
「ちょうど九時」
 俺の腕時計は九の字を針で指し示している。まだ一つ目のバスにも乗っていないのに、このままじゃ学園に帰ることなんて限りなく不可能だった。徐々に暗くなりつつある空も子供を家へと誘導している。
「意地張らねえで帰ろうってば」
「あんな家には帰りたくない。あいつがいる家になんか帰ってやるもんか」
 亮介の目はぎらぎらしていた。それは俺の方に向けられることはなく、ただまっすぐ道の先だけを見つめている。
 なんだかその瞳がひどく怖い。
「でもこのまま歩いてても学園には帰れないだろ。俺もいるし大丈夫だって、家に帰ろう」
「……この近くに小屋がある」
「へ?」
 唐突に彼はぴたりと足を止めた。それからきょろきょろと周囲を見回し始め、木々が生い茂っている道へと方向転換した。そのあからさまな山道をずいずいと進んでいくと、亮介の言った通り小さな木造の小屋に辿り着いた。
「な、何ここ……」
「小屋だ」
 俺の隣にいる奴は動じぬ様子で小屋を見つめていたが、それはとんでもなくボロそうだった。強い風が吹くとそれだけで吹っ飛んでしまいそうだった。まさかとは思うけど、隣にいる同級生さんはここで一泊するつもりなんじゃないのかしら。
「ここなら雨風を凌ぐことができる。明日までここで過ごすぞ」
「えええ」
 やはりそうであったか。だんだん彼の思考回路が分かるようになってきたのかもしれない。分かりたくなかったけど。
 木でできた扉は軽々しく開き、俺たちをその狭い内部へと案内してくれた。
「あれっ」
 部屋の数は一つきりで、窓は二つ、そして所狭しと机やら椅子やらが並べられていたが、外から見た感じよりも内部はかなりマシだった。一体何なんだこの小屋は。誰かの別荘とかじゃないだろうな。
「ガキの頃、ここには一度だけ遊びに来たことがある。妹を連れて一度きり。近所のガキどもの遊び場になってんだ、誰の所有物でもないらしいからな」
「ふうん……」
 なるほど、だから見た目の割には綺麗なんだな。今も使われてる場所なら整頓されててもおかしくない。
 ぱたりと扉を閉めた亮介は部屋の中を一瞥し、奥にあるベッドを見つけてその上に腰を下ろした。当たり前だがこの小屋にはベッドは一つしかなかった。ということは、俺は床で寝ろとか言われるんだろうか。
 なんだか来て早々に嫌なことを発見してしまった気がしたが、少しでもその可能性を減らす為に頑張っておくことにしよう。
「つーかお前、こっちに思い出なんかないとか言ってたくせに、ここにあるじゃん」
「ふん、こんな場所が思い出なもんかよ」
 亮介はふいと顔をそむけた。俺は狭苦しく置いてある椅子に腰かけ、相手と向かい合う。
「ところでさ……本当によかったのか? せめて置手紙くらい残していった方がよかったんじゃ」
「そんなことする必要ねえよ。俺のことなんか気にかけてない連中だから」
「亮介、そんなことないって。お前の両親、俺にお前と仲良くして欲しいって言ってきたんだ。それにあんなにお前のこと自慢してたじゃないか」
「弘毅」
 ふと彼と目が合った。黒く深い瞳が俺の全てを貫いている。
「バカでも腹は減るんだろ、お前は大人しく俺からの慈悲を受け取っておけ」
 そう言って亮介は荷物からパンを取り出した。彼の言葉を否定できない俺は素直にそれを受け取り、様々な言いたい事を抑え込んで夕食を食べ始める。
 目の前では亮介が俺と同じパンを食べていた。窓の外からは木々のざわめきだけが聞こえており、俺はすぐ傍にいるはずの彼にかけるべき言葉も見つけられないまま、ただ空腹を満たす行為を続けていくしか方法はなかった。

 

 

 

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