閉鎖

前へ 目次 次へ


5.休暇 - 04

 

 小さな夕食を終えると外はすっかり暗くなっていた。腕時計に目をやると十時を過ぎていることが分かったが、疲れているはずなのに俺は全く眠くなかった。
 今は亮介と二人並んで白いベッドの上に座り込んでいる。まるで迷子の子供が親を待っている時のように、誰かに発見されることだけを望んでいるかのようだった。
「お前、さっさと寝ろよ」
「いやその……床で?」
「当たり前だろうが。まさかてめえ、この純白で清らかな天使である亮介君を地べたに寝転がすつもりだったのか、ああん?」
「……」
 俺と同じで眠くなさそうな顔をしている亮介は相変わらずなナルシストだった。俺だって地べたで寝るなんて嫌だ。でも喧嘩をする前から彼にだけは勝てる気がしなかった。
「おい弘毅」
 渋い顔を作って黙っていると声をかけられた。彼の方へ顔を向けてもふいと目線をそらされる。何の為に話しかけてきたんだよコイツは。
「何か用」
「お前さ……なんで文句言わないんだよ」
 また理不尽なことを言われるのかと思いきや、返ってきたのはなかなか真面目そうな質問だった。
 なぜ文句を言わないかと聞かれても、素直に答えるとそれは彼を怒らせたくないからってことと、彼を怒らせて逆にこっちが嫌な思いをしないようにすることが目的だった。だけどそれを馬鹿正直に答えてもいいのかどうか。俺だって相手を不愉快にさせたくないんだから。
「だいたい今回のことだって俺が勝手に決めたことなのに、なんでてめえは何も言わずのこのことついて来たんだよ。一言「冗談じゃねえ」って言い返すことくらいできたはずだろうが。そんなに俺のことが怖いのかよ?」
「へ? いや、別に怖いとかは思ってないって」
「じゃあなんで黙って従ってんだよ、てめえまさかマゾか? それとも――以前はあんなこと言っておきながら――俺のことが嫌いなんじゃねえのかよ?」
「ちょ、ちょっと待てってば」
 亮介の中で話が急激に進んでいる気がした。俺は彼を落ち着かせる為に立ち上がり、彼の隣に座って相手の肩に両手を置いた。
「あのな。俺はマゾじゃないし、お前のこと嫌ってるわけでもない。今回のことは、ただ……お前を怒らせたくなかったからだよ」
「ふん、やっぱり俺のことが怖いんじゃねえか」
「違うってば。なんていうか、その……ほら、誰だって人が怒ってるところは見たくないだろ?」
 肩に置いていた手を振り払われる。顔をそっぽに向ける亮介は全く知らない人のように見えた。こんなに近くにいるのに、手を伸ばしても掴めない人のようにしか思えない。
「だったら」
 静かな空間には二人の声しか響かなかった。
「だったら……好きか?」
「え」
 黒髪の下に見えるまつ毛が震えている。だけどそれは正面から見えることはなく、横顔とも言い難い輪郭だけが彼の全てを表現していた。
「俺のこと好きかって聞いてんだよ。嫌いじゃないってのは、好きだってことを表してる言い方じゃねえだろ。お前は俺のことを好きでも嫌いでもないって考えてんじゃねえのか」
「あ、あの……なんでそんなこと」
「いいから答えろ!」
 振り向いた彼と再び目が合った。苛々したような表情とは裏腹に、目の奥に見えるものは負の感情なんかじゃない。
 いきなり好きかと聞かれても、それを瞬時に答えることはできなかった。確かに好きな部分はあるし、憧れているところもあるけれど、嫌なところややめて欲しいことだってたくさんある。それらを全てひっくるめて「好き」と言うにはあまりにも軽率だと思っていた。だってそれって結局、告白みたいなものじゃないか。
 ここは正直に答えないといけないと思った。でもどう言えばうまく伝わるだろう? それにちゃんと伝わったとしても、相手はそれで納得してくれるんだろうか?
「なんていうか……好きな部分もあるけど、嫌いなところっていうか、直してくれないかなーと思うところもあるっていうか。つーかお前だってそうだろ? 俺のこと、好きなところと嫌いなところとあるんだろ」
「ない」
 ぽん、と肩に両手を置かれた。それがなぜだかずしりと重くなり、唐突に世界がぐるんと回る。
 そして気が付けば口が塞がれていた。おかげで息ができない。どうしてこんなことになってる? そうだ、俺は、相手にキスされているから――。
「お、おい! 何しやがるんだ!」
 口が離れると精一杯の文句を吐き出しておく。俺は亮介に押し倒されている格好になっていた。相手が身体の上に覆い被さっており、今や両腕を掴まれて顔は間近に迫っている。
「あの……亮介さん。な、何かとんでもなくおかしなことを考えてるわけじゃない……ですよね?」
「ないんだ」
 ゆっくりと相手の顔が近付き、二度目の唇を押し付けられる。彼の髪から甘い香りが漂ってきた。この香りは確か、キンモクセイだ。
「いや、あのさ……お前のこと好きって言っても、こういうことされたいって思ってるわけじゃないんだってば」
「お前の嫌いなところなんて――」
 唇が触れ合う。だんだん余裕が出てきたからか、相手のそれがかすかに震えていることに気が付いた。
 彼は何を言った? とても小さな声だったから最後までは聞き取ることができなかったけど、彼が俺に伝えようとしていたことは一体何だ?
「亮介お前、もしかして」
 離された唇の上に見える二つの瞳を覗き込む。答えはそこにあるはずだが、まさか、そんなことは。
 絶対に有り得ないことだと思っていた。普段の態度を顧みれば、一度たりとも考えたことがなかった。
 だけど今はそうとしか思えない。そしてそこには妙に思えるほどの確信があった。
「俺のこと、好いてくれてるのか?」
 相手は驚いたように目を見開き、音速の如くばっと身体を起こして離した。
「な、な、何を言って――か、勝手に決めつけてんじゃねえよ! だ、誰がてめえなんかを、てめえみたいなバカなクソガキを好きになるかよ! いい加減なこと言ってんじゃねえ、この妄想野郎!」
 事実を否定するにしてはあまりにも大袈裟な反応だった。つまりは図星だったということだな。相手は顔を真っ赤にして俺を上から見下ろしている。否定する前にとりあえず俺の上から下りて欲しいんだけどなぁ。
 嫌われてるわけじゃないことは知ってたけど、好かれてるって感じたのは今が初めてだったかもしれない。いつもの俺を虐めることや馬鹿にしてくるあれは照れ隠しってやつだったんだろうか。そして食堂に行く時や教室にいる時にまで近寄ってくるのは、何も隠していない素直な感情だったってことなんだろうな。
 それが分かっただけでなんだか嬉しかった。やっと彼とも友達になれたような気がして、厚い壁を一枚だけ剥がすことができたように感じられる。
「て、てめえ笑ってんじゃねえ!」
「いやぁ……両想いだって分かったからつい」
「両……想い?」
 焦っている今の相手には冗談すら通じないのか、彼は頬を赤く染めたままぽかんとした顔になっていた。言っちゃ悪いが面倒臭い奴だな。こういう時はどう対処すればいいんだ。
「え、嘘だろ? 嘘を言ってんだろ、お前? なんでそんなこと――」
 本気でどう対処すればいいか分からないようになってきた。何なんだこの展開は。
「本当に? だからあの時も今日も、助けてくれたのか?」
「え」
 不意に彼の口から出てきた言葉は難しい問題だった。一つ一つの単語の意味なら分かる。だけどそれが分かっても、言葉の連なりにより形成された彼の「伝えたいこと」が分かるわけじゃない。
「お前……本物のバカだろ」
 なんだか引っ掛かることを言った相手は、だけどくっと俯いてしまった。
 彼の考えは靄に包まれていて何一つとして分からなかった。なぜ亮介は俺をバカと呼んで俯いたのか。その言葉が本物なのか、それとも態度の方が本物なのかさえ判断できない。
 俺は上半身を起き上がらせた。足の上にはまだ亮介が座っているため身動きはできない。彼との距離が一気に近くなり、相手が吐き出す息までもが俺の肌に届いていた。
「亮介」
 名前を呼んでも顔を上げない。そればかりか彼の肩が震えていることが分かった。
「――泣いてるのか?」
「そんなわけねえだろバカ」
 否定した科白とは裏腹に、彼の声はとても不安定になっていた。高音と低音とが入り混じり、弾かれた弦の如く幾重にも揺れ動いている。
 俺はそっと彼の肩に手を置いた。
「別に泣いたって構わないだろ。ここには俺とお前の他には誰もいないんだから」
 囁くように小さな声で彼に伝えた。相手はしばらくじっと我慢していたようだったが、やがて勢いよく俺に抱き付き、彼の顔が見えなくなってしまった。
 ぴたりと触れている箇所から彼の鼓動が聞こえてくる。
「いい子になろうって頑張って、何でも言うとおりにしてたのに、皆が俺じゃなくて違うものばかりに目を向けるんだ。それなのにてめえは俺の方を向いてて……もうわけ分かんねえ。どうすればいいのか、もう――」
「うん」
 彼の髪を撫でる。さらさらしていて気持ちがよかった。だけど指を隙間に入れてみると、すぐに絡まって立ち止まってしまう。
「俺は知ってたよ、亮介が本当は頑張ってること。本当は誰かに好かれたいって思ってることも」
「だが両親も学校の連中も俺のことを見ちゃいない。俺は間違ってたっていうのかよ? 他の方法を選ぶべきだったっていうのかよ? そんなもの、俺は知らなかった!」
「大丈夫。亮介は今のままでいい。今の亮介のままでも、俺は好きだから」
 もしかすると俺は今の亮介だからこそ好きになったのかもしれない。これがただの嫌味な優等生だったとしたら、きっとここまで友達になりたいとは考えなかっただろうから。
 この世に完璧な人間なんていない。そして不完全な人間だからこそ、そこに愛おしさが生まれる。
 亮介は少しだけ身体を離した。相手の顔が見えるようになり、だけどまだ彼の両腕は俺の背に回されている。彼の両目は涙で濡れてきらきら光っていた。無邪気な子供の純粋な瞳のように、吸い込まれてしまいそうなほど大きく、ガラス玉のように透明だった。
「お前は変な奴だ、弘毅。お前は俺の親でもないのに頭を撫でる。俺の恋人でもないのに黙って抱き締める。そのすぐ後でお前は俺を好きだと言った。そして何の確証もないくせに大丈夫だと言う。お前は一体何者なんだ、俺をどんな目で見ているんだ」
「友達が困ってる時に相談に乗るのは当たり前だろ? それだけだよ」
「友達――おかしな概念だ。お前は友達と言いながら、それは恋人のすべきことじゃないのか。家族のすべきことじゃないのか。なぜ一時の繋がりをそうやって主張しようとするんだ、たかが数年きりのか細い繋がりを!」
 頭がいい亮介はいろいろと考えてしまうのだろう。考えて、いつも最良の答えを知っていながら、それを選択する勇気が出てこない。あるいは見せかけだけの答えに逃げ込み、防衛線を張った消極的な答えを正しいと信じ切っている。だから自己が抑え込まれてしまったのだろうか。俺や円先生やキアランたちに見せている本当の姿は、一体何の為に存在しているというのか。
 俺は首を横に振る。亮介はそれをじっと見ていた。
「確かに俺もお前も、学校を卒業したらそれっきりの仲になるかもしれない。だけどそれ以降も仲良くする可能性だってある。いつか来る未来ってやつは誰にも予測できないし、ここに流れてる今ってやつも、一人きりじゃ乗り越えられない。俺は弱いからさ、友達とバカなことして騒いで、そうやって嫌なことを忘れようって考えてるんだ。もちろんそれはその場凌ぎの方法でしかないことも分かってる。だけどそれで楽になったり、楽しめたりするのなら、決して無意味な行為じゃないと思ってる。だから……亮介もそうすればいい。いつも寮の部屋でしてたように、俺やキアランや晃たちを相手にする時は、バカなことして騒いで、嫌なことは忘れてしまえばいいんだよ」
 すぐ目の前にいる彼はまばたきをした。何を言っているのか分からないと言わんばかりの顔で、何度もぱちぱちとまばたきを繰り返している。
「お前、それは――俺にバカになれって言ってんのか」
「え? うーん、そう言われるとそうかもしれない」
「勝手なこと言いやがって……」
 亮介はため息を吐いた。なんだか盛大にバカにされた時よりも精神的なダメージを感じる。ともすれば俺の価値観を押し付けるような形になりかねないし、やっぱりちょっといい加減すぎただろうか?
「けど、ま、それでもいいかもな」
 そうして次に目を開けた時、亮介はどうしてだかすっきりしたような顔をしていた。
 彼の手が俺の顔に伸びてくる。やわらかく頬を触り、細い指が耳に絡んだ。ゆったりとした時間の中で痛くない程度に耳を弄られ、それが続いている間に顔が近付いてキスされる。
「あ、あの……亮介さん。そのキスには一体どんな意味が込められているのでしょうか……」
 もう何度目になるか分からないキスでも、経験のない俺としては無意味にどきどきしなければならなかった。すっかり慣れている亮介にとってはお遊びなのかもしれない。だけどそこには俺が想像している以上に複雑な理由が隠されているような気がしたんだ。
「お前が言ったように、俺は今夜はバカになることにしたんだ」
 はっきりと聞き取れる声量でそれだけを言い、相手はぱっと俺の上から下りた。そしてすぐ下の方から聞き慣れた金属音が小さく鳴った。反射的にそこへ目をやると、闇の中でもよく分かる白い手が俺のベルトを外している様が視界に映る。
「え、ちょ、亮介お前――何してんだよ!」
「だからバカになったんだよ俺は。バカで考えなしで愚鈍な今夜の亮介君は、ここまでご丁寧に付き合ってくれて相談にまで乗ってくれたバカ二号こと弘毅君にお礼をしようと考えているのさ」
「お礼って……こ、これが?」
 喋っている隙にズボンも下着もずり落とされ、露わになった俺のそれに亮介の手が触れていた。少しも動じている様子のない彼は機械的に手を動かし、俺に文句を言わせまいと再び唇を押し付けてくる。
「なんだよお前、嫌そうな顔してるくせにもうこんなになってるぞ?」
「そんなふうに触られたら、誰だってこうなるってば」
 にやりと嫌味っぽい笑みを浮かべ、何やら楽しそうに亮介は俺を困らせていた。さすがこれで商売をしているだけあって彼の手つきはプロ並みで、この短時間の間に俺はもう彼に逆らえなくなっていた。更に緊張している精神が俺から力を奪っているらしい。
「口でもして欲しいか?」
「えっ、い、いいよ、そんなこと」
「この俺の誘いを断ってんじゃねえ」
 すとんとベッドから下りて床に座り込んだ亮介は、俺の身体の向きを変えて脚の間に顔を突っ込んできた。そのまま俺のものに舌を這わせる。
 えも言われぬ感覚が頭に上ってきた。それは少し前に感じたものとよく似ていて、だけどどうしてだか全く違うもののように感じられた。あの時は怖くて仕方がなかったそれだったのに、今はなぜだか恐怖だけが置き去りにされているようだった。
 舐め終わった彼はひょいと口の中に含ませてくる。舌と唾液とが絡み付き、驚くほど強く吸い付かれた。静かな空間に彼の息が生み出す音が溢れる。時々声と混じったそれは唾液の中に溶け込み、俺の頭を殴打して新たな領域へと導こうとしていた。
「おい……まだいかねぇのかよ」
 しばらくの間熱心に舐めていたかと思うと、突然口を利いた彼は不満そうに俺を見上げてきた。
「まさかてめえ、この俺の口が気持ち良くないとか言うんじゃねえだろうな」
「そ、そんなこと言われたって――」
 俺の身体はおそらく快楽を得ているんだろう。でも俺は心のどこかでその事実を消してしまいたかったんだ。誰かの目の前で快楽に沈むことが怖かった。なんだかそれは相手に無理強いされているような気がして――亮介はきっと悪気なんてないんだろうし、俺の勝手な思い込みだってことは分かってるけど、それでも俺の中で身体的な衝動を抑制しようと働いているものがあった。
 相手はちょっと何かを考えているようだった。少しだけ黙り込み、だけどすぐに顔を上げると机の上に置いてあった彼の荷物に手を伸ばした。そこから何かとても小さな物を取り出してくる。
「し……仕方ねえ奴だな。だったら、特別に俺の身体も貸してやるよ」
 ぴりぴりと袋を破いているような音が聞こえた。それは亮介の手の中で進行しているようで、暗くてよく見えなかったが彼は何かを取り出しているらしい。
「ほら、これ付けろ」
 どうしてだか頬を紅潮させている相手は俺に何かを手渡してきた。しかし手元にやってきた物体は、これまで生きてきた中で一度もお目にかかったことのない物であった。正直どうすればいいのか分からない。
「あのー、これ、何?」
「はあ? てめ、まさかその年でゴムも知らねえのか? どこの箱入り息子だよ、このバカガキ野郎!」
 乱暴に俺からゴムとやらを奪い返し、亮介は顔を赤くしたままそれを俺のそこにぴたりとくっつけてきた。妙な感触に寒気が走ったものの、相手は慣れた手つきですぐにそれを装着してしまう。
「こういうこと、ちゃんとしてねえと……病気とかいろいろ大変なんだからな、覚えておけよ」
「そ、そうなのか」
 俺の適当な返事を聞くと亮介は立ち上がった。そのまま服とズボンを脱ぎ、一糸纏わぬ姿へと変身する。間近で見る彼の裸は真っ白で、びっくりするほど細かった。だけど闇夜が彼を隙間なく染めたせいで美しいもののように見えなくもない。
 彼は俺の脚の上に真正面から座ってきた。肩に両手を置き、触れ合った肌が体温を伝えてくる。
「この俺が特別に無料で入れさせてやるんだからな、感謝しろよ」
「え、ちょっと――」
 片手で俺のものを探し当て、亮介はそれを何かに突き刺したようだった。ここまでされると俺だって今何が起こっているかくらい想像がつく。目で直接見ることはできないけれど、きっと俺は彼と――亮介と繋がっているんだ。
 不思議な感じがした。過去のトラウマのせいで恐れていたくせに、今は素直にそれが心地いいと感じ始めている。それは相手が亮介だからだろうか? あの人のような大人じゃなくて、同年代の小さな子供だから安心しているのだろうか?
 何も知らない俺はじっとしていたが、いろんなことを知っている相手はゆっくりと動き始めた。身体を上下に揺すり、結合している部分が擦れるように往復させている。いつも布団の隙間から見えていた行為が俺との間で開始されていたんだ。ふと気が付けば彼の口から小さな息が漏れ、時折声までもが混じり合い妙な空気を作っていた。
「お、おい……気持ちいいのかよ?」
 普段と比べて明らかに不安げな声が相手の口から飛び出してくる。俺は高鳴る鼓動を感じつつも彼の腰の辺りに手を伸ばした。さらさらしてきめの細かな肌に触れながら、相手に分かるよう大きく頷く。
「だったらてめえだけ楽してねえで、自分でも動け。……分かるだろ?」
「分からない」
「う、嘘ばっかり言うんじゃねえ! てめえは――こういうこと、初めてじゃねえんだろ、それくらい知ってんだからな!」
「初めてだよ」
 俺の言葉に彼は目を丸くした。続いていた動作はぴたりと止まり、その拍子に顎から一滴の汗が落ちる。
「こんなことはしたことがない」
「騙そうとしてんのか? お前は何も言わなかったが、この天才すぎるほど天才な俺が気付かないわけがないだろ、お前は過去にレイプされたことがあるんだ」
 ストレートな単語が身体じゅうを切り刻む。背中の辺りがざわざわして、あの夜に感じた恐怖が背後に君臨しているような気がした。
 俺は首を横に振る。
「違う」
「そんなことないだろ! 俺だって何度もそういう目に遭ってきたんだ、てめえの古傷の一つくらい見せてみたらどうなんだ!」
「違うんだ、本当に。俺はそういう――性的な暴力を受けたわけじゃないんだ」
 亮介の素直な声は喉の奥で留まったらしい。予想外の反論に戸惑っているのか、相手の口からはなかなか次の言葉が出てこない。だから俺は彼の肩に手を置いた。
「この話はもういいだろ。それよりも、ここから俺はどうすればいいか教えてくれよ」
 彼のまつ毛が震えていた。それは痙攣のようにも見えていた。
「下から……突き上げるように動け」
「こんな感じ?」
 教えられたとおりに身体を動かす。彼の中により深く入っていき、手や口でされていた時よりもはっきりとした快感があった。
「う――」
 相手の顔が大きく歪んだ。きゅっと肩を握っていた両手に力が入り、更に俺の身体に抱き付こうとしてくる。
「ごめん、痛かったか?」
「ち、違ぇよバカ! このくらいで痛さなんか感じるわけねえだろ! だいたい俺を誰だと思ってやがる、てめえと違って経験豊富な加賀見亮介様だぞ!」
「じゃあもしかして、気持ち良かったとか?」
「な――そ、そっちも違うっ! そうじゃなくて、だから、つまり――」
 喋っている相手を下から突き上げた。いきなりだったから驚いたのか、彼は先程よりも大きな声を吐き出した。
「て、てめえ何しやがる! 俺の許可なく動くんじゃねえよバカ!」
「うーん、じゃ、どうすればいい? 次の指示を与えてくださいよ、経験豊富な亮介サマ」
「あ……だ、だったら、そうだな。まずは……キスの仕方から教えてやらねえとな。おいバカ弘毅、今度はお前からキスしてみろ」
 この体勢のままキスの練習だなんて、おかしなことを言う相手は頭が混乱しているのかもしれない。ちょっとだけ面白くなってきたので俺は相手の望み通りにキスをしてみた。
 ぐっと顔を近付けて、俺よりも上にある唇に俺のそれを重ね合わせる。
「下手くそ。舌を入れてみろ」
「ふぇ。こう?」
 唇を重ねたまま彼の中へ舌を入れると、まるで俺を馬鹿にしているかのように相手の舌で弄くり回された。仕返しをしたくなって再び彼を下から突き上げてみる。
「ん――んっ、バカ、やめ――」
 いつも俺を困らせてるんだから、たまには俺が彼を困らせてやりたかった。そんな幼稚な欲望のままに俺は何度も彼を突き上げる。唇を塞いで声を奪い、頭と腰に手を回して逃げられないようにしていた。彼の口からは小さな喘ぎが幾度も零れ落ちる。
「う、ふぅ……んんっ!」
 ひときわ大きな声が出てきたかと思うと、俺の肩に置かれていた手が強い力で握ってきた。それと同時に何か熱いものが腹の辺りに零れ落ちてきた感触があった。びっくりして視線を下に落としてみると、白っぽい液体が俺の肌に付着している様が見える。
「亮介お前、まさか」
「てめえ……よくも俺をいかせやがったな! しかもてめえより先にだなんて、バカ弘毅の分際でよくもこんな、生意気な!」
 おそらく俺が何をしても亮介は怒るのだろう。だけど悪い気がしないのはなぜだろうか。彼がそこに達したということは、少なくとも俺の身体で快感を得ていたということだよな。男なんかに入れられて気持ち良くなれるのかどうかなんて分からなかったけど、相手はそれで満足できる身体になってるってことなんだろう。
 それが悲しいことなのか、それとも羨ましいことなのかはやはり今の俺では理解できない。
「亮介」
 汗で湿っている相手の背中と腕に手を回し、彼の身体を白いベッドの上に寝転がせた。そして今度は俺が彼の上に覆い被さる。
「なんで俺、こんなことしてるんだろ」
「……は」
 ついと本音が口から漏れ出ていた。それを正面からぶつけられた亮介はぽかんとした顔になっている。
 いくら見た目が綺麗だとはいえ、亮介はれっきとした男であり女の子ではない。それなのになぜ俺は彼を抱こうとしているのか。そもそもどうしてこんな展開になったんだっけ? それは、そう――亮介の奴が俺を誘ってきたからこうなったんだ。でも亮介にだけ責任があるわけじゃないことも分かっている。
「ここら辺でやめるか」
 恋人同士ってわけでもないのに軽々しくこんなことをするべきじゃないと思った。一時の感情だけに流されるとろくなことがないし、お遊びはこのくらいにしておいた方がいいんだろう。
 そう判断して上半身を持ち上げようとしたが、素早く伸びてきた相手の手によりすぐに阻止されてしまった。
「いいから続けろ」
 彼はまっすぐ俺の目を見ていた。それがあまりに美しくて、世界の何もかもを忘れて吸い込まれてしまいそうになる。
「こんな中途半端なところでやめられるかよ。やり始めたんなら、最後までするべきだ。それにお前……まだいってねぇんだろ」
 宝石のような瞳がそっぽを向く。まだ紅潮したままの頬は儚げで、今の相手はこれまでに見てきたどんな美人よりも愛おしく思えた。
 ぐいと腕を引っ張られて彼の上に倒れてしまう。近付き過ぎた顔はキスを交わし、触れ合った肌からは鼓動が感じられ、汗で湿った吐息が二人の意識を包み込んだ。あまり意識しないうちに俺はまた彼の中に入り込んでいた。彼の手が俺の背中をまさぐった。もう明確な言葉を交わすことはなく、聞こえてくる音は限られたものだけになっていた。
 まるで夢の中で漂っているようだ。何かに必死になっていて、目の前で起こっていることに理解が届いていない。だけど俺は心地良く感じていた。怖いものなど何もない、寧ろここには安らぎがあり、世界から切り離された小屋で二人きりの孤独を演じていた。目と目が合うだけで伝わる科白があった。奥の奥まで入り込むことで初めて見えてくる景色が存在していた。
 俺はそれを何度も破壊する。彼を内部から呼び覚ますたびに、身体じゅうから汗が滲み出していた。理性と欲望の狭間を狂ったように行き来し、落ち着いた眼差しで彼の口から出る嗚咽を待ち望んでいた。限界など忘れて舞う蝶は滑稽だ。腹の底では嗤っているのに、なぜこんなにも目の前の彼に食い付いてしまうのだろう!
 俺は体裁を捨てて彼を突いた。望んでいないはずだったのに、自らの意思で止めることができないほど夢中になって突いていた。
「あ――う、あっ!」
 耳を貫いたのは彼の悲鳴に似た喘ぎだった。綺麗だった顔が歪み、吐き出された息を感じると俺の背中に何かが走っていった。それを合図として俺もまた彼と同じ場所へと達する。相手と深く繋がったまま、高すぎるあの場所の光景が瞼の裏にちらついた。
 力が入らなくなってベッドに顔をうずめてしまった。聞こえるものは誰かの呼吸の音と自身の心臓の脈動だけだった。どうしてだか分からないのに目には涙が浮かんでいる。口では唾液が溢れ出し、あらゆるものが俺の常識を越えていた。
 やがて亮介に催促されて身体を離すと、彼は俺のそこに付けられていたゴムをその手で外した。そうして中に溜まっていた液体を手のひらの上へと落とし、あろうことかそれをぺろりと舌で舐めた。
「ちょ……やめろってそんなこと」
「お前の精液、今まで飲んできた中で一番不味いな」
 つい先程までは大人しかった――いや大人しくはなかったけど、とにかく素直になっていたというのに、嫌味な優等生亮介君はもう元に戻ってしまったらしかった。一気に相手が愛おしく思えなくなってくる。
「そんなもんに美味いも不味いもあるかよ」
「何を言ってんだバカ。人によってかなり味わいは違うんだぞ? 特にこの亮介君のお味は最高級品並みだからな、お前も舐めてみろよ」
「わっ、やめろ――」
 どこぞの悪ガキのように亮介は自身の腹に付着していた白濁液を指ですくい、それを俺の口の中に押し込んできた。舌の上に塗りたくられてしまったが、なんだか酸っぱいような苦いような味がしただけで全く美味しくはなかった。
「亮介お前、いつも商売やってる時ってこんな不味いもん飲んでたのか?」
「お前のより遥かにマシだからな。でも、まあ……なんていうか」
 ふっと彼の様子が一変して静かになる。何かとても言い難そうに視線をちらちらと泳がせ、身体までもを縮こまらせているような態度で持っていたゴムをきゅっと握り締めた。そして床に足を投げ出して座っていた俺に少しだけ近寄り、何やら意味ありげな上目遣いでこっちを見上げてきた。
「わ、わりと……癖になりそうな味というか、不味すぎて逆に気になる味って感じだから、今後俺が飲みたくなったら――素直に出せよ! いいか、分かったな!」
 彼の言葉が頭の中でぐるぐる回る。
 これって――変に婉曲した科白じゃなくて、そのままの意味って考えていいんだよな? ということはつまり、彼はまたこういうことをしようと言っているのか?
「えっ? な、なんで? ていうかお前、次からは絶対金取るだろ! そ……そんな罠にははまらねえからな!」
「な――わ、罠なんかじゃねえよ! 金も取らねえし、ただ、水分補給したいって言ってるだけだろうが! 勝手なこと言って変な妄想するんじゃねえ!」
 妄想と言われても、今までの彼の性格を考えるとそうとしか思えなかったわけだが、どうやらそういう企みではなかったらしい。でももしそれが実現したとしたら、きっと俺はまた亮介のファン達に睨まれることになるんだろうな。だからって彼のご命令を断ることができるとは思えないし、そう考えただけでため息が出てきた。
「いいか、バカ弘毅。そういうことだからお前は今後、俺以外の奴とは――」
「ごめん、俺もう眠い」
 唐突に疲れがどっと押し寄せ、床に放置されていた下着とズボンをどうにか着込んでベッドに寝転んだ。そのまま目を閉じると必要以上に気持ち良さが襲い、慣れないことをして果てた身体は回復の為へと機能を切り替えたようだった。
 安堵と不協和音が支配する中、記憶を途切れさせた先に俺を待ち受けていたのは、紙みたいに真っ白な手が助けを求めて天へと伸ばされている景色だけだった。……

 

 

 

前へ  目次  次へ

inserted by FC2 system