閉鎖

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6.発光 - 02

 

 学内はもはや学園祭ムードで賑わっていた。
 本日もまた放課後に学園祭の準備を始め、クラスの連中にうるさく言われたので俺もそれを手伝っている。しかしすることといえば教室内の装飾を作ることくらいで、調理を担当していた晃を始めとするメンバーは家庭科室に籠っているようだった。
「よお水瀬。山辺たちがお前と加賀見のこと呼んでたぞ。家庭科室まで来てくれって」
「あ、そう? じゃあ行ってくるわ」
 どうやら今日は準備の手伝いは途中で抜けられるらしかった。それまで手で弄くり回していた装飾を机の上に放り投げ、誰かに睨まれる前にそそくさと教室から退散する。
 しかし雑用から逃げられたのはいいものの、次に待ち構えているものはどう考えても厄介事だった。やはりあんな変な役を押し付けられた時点で俺の学園祭から平穏が過ぎ去ったことは間違いなかったんだ。ていうかなんで俺まで女装なんかしなきゃならないんだよ、いい加減諦めろと言われそうだけどそれだけはどうしても許せそうにない。
 とぼとぼと廊下を歩いていると、気が付けば自分の部屋の前に立っていた。亮介は今日もまた授業をサボっていたのでここにいるに違いない。
 とりあえずドアに耳をくっつけて中に「客」がいないことを確かめておいた。それからすぐに扉を開き、部屋の中に入っていく。
「亮介、山辺たちが俺たちのこと呼んでるってさ。家庭科室に行くぞ」
「はあ? 俺は手伝いなんかしないって言っただろうが」
「いや……たぶん衣装が完成したとかそんな用事だと思うし」
「そうなのか? ふん、仕方ねえな」
 昼間からばっちり化粧を決め込んでいる亮介はのっそりとベッドから腰を上げ、とんでもなく渋い顔をしながらこちらに近寄ってきた。いや、いくら俺に文句言ったとしても意味なんかないんだぞ。その辺のこと、ちゃんと分かってるんだろうかコイツは。
 二人並んで人気のない廊下を歩いていく。誰かの足音が遠くから聞こえた刹那、亮介はぱっと表情を変えて爽やかな顔を作り上げていた。プロ級スマイルを見てすれ違った生徒は嬉しそうに会釈をしていた。もう慣れたとはいえ、この変化はいちいち腹立つなぁ。
 五分くらい歩いていると家庭科室に辿り着いた。念のため一度ノックをしてみたが返事はなく、どうしようか悩んでいる俺の隣から亮介が図々しく扉を開けてさっさと中に入ってしまった。亮介ってこの学園内では何も怖いものなんかないって思ってるんだろうか。羨ましいようで可哀想な、なんとも不思議な気分だ。
「おお、加賀見君! あとついでに水瀬も」
「ついでって……」
 家庭科室内には裁縫部のメンバーが揃っており、そのすぐ隣では調理担当の面々が熱心に料理をしているようだった。当然その中には晃――じゃなくて陰も混じっており、遠目から眺めると彼は皆に料理を教える役をしているみたいに見えた。もしかしたら陰って亮介よりハイスペックなのかもしれない。それを言ったら亮介は間違いなくキレるだろうけどさ。
「山辺君、僕らに用事って何かな」
 俺の隣でエセ笑顔になった亮介がやわらかい態度で問う。しかしそんなことを聞く前から、目の前の机に置かれている衣装を見れば用件など分かってしまいそうなものだった。
「ふふふ、聞いて驚くがよい。ついに君たちの衣装が完成したのだッ! だから加賀見君とついでに水瀬の二人には試着してもらいたくて呼んだんだよ!」
「わあ、素敵な衣装ですね!」
「うわー……」
 興奮しまくっている山辺と、見え透いたお世辞を言う亮介の後ろで、俺は一人その衣装に引いていた。予想していたことは間違いではない。でも実際にこの目で見てみると恐ろしいくらいのインパクトを与えてくれるような服が、俺たちの前に煌びやかな光を纏いつつ鎮座しておられた。
 フリフリのフリルが並んでいることは当たり前で、色は強い黒とやわらかい白で統一されており、試着する前からスカートの丈が短すぎることが目に見えて分かってしまうような衣装がそこにある。なんていうんだろ、これが噂の「メイド服」ってやつか? 化粧に引き続いてこんな経験をするなんて今まで生きてきた中で一度たりとも想像したことなかったぞ、おい。
「さあ二人とも、あっちに着替え用スペースを作ったから、そこで思う存分着替えるがよい!!」
「は、はあ」
 更にテンションが上がっている山辺に衣装を強引に押し付けられ、俺は涼しい顔をした亮介に連れられて着替え用スペースとやらに案内された。
 着替え用とは言ってもただカーテンで仕切っただけの小さな空間となっており、覗こうと思えば簡単に覗けそうな危険なスペースになっている。しかもそこはかなり狭く、二人で入るともうぎゅうぎゅうになって窮屈なことこの上なかった。
「おい亮介、お前ちょっとスペース取りすぎだぞ」
「気のせいだよ」
 もう顔を見せる必要はない為か、亮介は笑顔を捨てて声だけで爽やかを演じていた。そんなことされると逆に怖いって。しかも彼は言葉とは裏腹に、更に俺のスペースに入り込んで我が物顔で服を脱ぎ始める。
 彼の服が床に落ち、偶然目に入った相手の裸を見てあの夜のことを思い出してしまった。闇の中で見えた肢体は確かに美しかったけれど、今ここで見る彼の裸はそれほど綺麗だとは思えなかった。それでもなんだか目のやり場に困って相手に背を向けてしまう。
 おかしなことを考えてる場合じゃないんだ。とにかく今はさっさと着替えてしまわなければ。
 俺もまた服を脱ぎ捨て、フリフリなおぞましい服を着用してみることにした。やたら紐が多くて苦戦したが、なんとか身体を包み込むことに成功する。しかし肌に布がぴったりとくっついているというか、きつきつというか、正直言って苦しいんだけど。
 そして俺の衣装は謎の紐がたくさんぶら下がっている無様な格好になっていた。
「なあなあ亮介、これってどうするんだ」
 振り返って相手の姿を見てみると、なんとまあそこにはきっちり衣装を着こなしている亮介君の姿がありましたとさ。なんでこいつは簡単に着こなしてるんだよ。やっぱりあれか、客の要望ってヤツに含まれてたってことなのか?
「もう、仕方ないなぁ弘毅は。これはね、こうするんだよ」
 ふっと彼の身体が近付き、細い指が紐を掴む。そのまま抱き付いてくるかのように更に近付かれ、背中に両手を回されてそこで紐をくくっているようだった。
 ……相手の顔が目と鼻の先にあり、なんだかいい香りが漂っている。それを意識するとわけも分からないままにどきどきした。相手はただの性格が最悪で口も悪い悪魔みたいな亮介なのに、彼が紐を結び終えるまでがちがちに緊張して身動きが取れなくなっていた。それが終わり、ぱっと身体が離れると、俺の身体もまたいつもの調子に戻る。
 何だったんだ一体。確かにああいうことを可愛い女の子にされたら緊張するかもしれないけど、なんで亮介なんかにされてどきどきしなきゃならなかったんだ。まさかとは思うけど、俺、間違った方向に進みかけてる?
「どうしたの?」
 よっぽど変な顔をしていたのか、亮介は可愛らしい声を出して首を傾げていた。それだけならまだしも、声のトーンにつられてか、客用の表情を作って目をぱちぱちさせている。
「だ、大丈夫だって。別になんでもないし」
「そう? でもここにゴミが付いてるよ」
「へっ、どこ――」
 指図されて慌ててゴミを探していると、ふっと相手の身体が近付いてきたのが分かった。反射的にそちらへ顔を向けると、その瞬間にキスされた。
「――お、おま」
「ごめんね、ゴミなんてなかったみたい」
 そう言って亮介は意地悪そうに微笑んでくる。
 身体は離れて体温もなくなったはずなのに、どうしてだか彼に触れられた背中と唇から熱は消えず、先にカーテンの外へ出て行った彼の背を見つめながら俺は激しく脈打つ鼓動が収まる時を待たなければならなかった。

 

 

 家庭科室内は一種のショータイムと化していた。
 衣装をしっかり着こなした亮介と適当に服を着ているだけの俺を中心とし、ぐるりと野次馬根性なクラスの連中が取り囲んでいる。そんなことをされてもやはり亮介は涼しい顔をしていたが、こっちとしてはもう恥ずかしすぎて今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。
「うーん、さすが加賀見君! よく似合ってるねー!」
「ありがとうございます」
「しかし水瀬は微妙だな」
 わざわざ言われなくたって分かってるっての。
 衣装を手掛けた山辺はやたらと亮介を褒めまくっていたが、他の連中もまた亮介しか褒めていなかった。確かに亮介の奴は男のくせに中性的な顔立ちと化粧のおかげで今の服も似合っているけど、俺だって少しくらいは褒めてくれたっていいじゃないかよ。いや、こんなことで褒められたって嬉しくないけど……でもこっちは体張ってんだからな!
「なあなあ亮介! これちょっと味見してくれよー」
「いいよ」
 これ見よがしに近寄ってきた調理担当の連中は出来上がったばかりの料理を小皿に乗せていた。意外と食い意地の張っている亮介は素早くそれを口に入れてしまう。
「ちょっと塩辛いかな。もう少し甘くした方が美味しいと思うよ」
「なるほど! さすが亮介、素晴らしい意見だッ! おいお前ら、塩味控え目で砂糖をもっと足せ!!」
 すっかり亮介の言いなりになっている相手は風のように走って部屋の奥へと引っ込んだ。おそらく連中は亮介が甘党だってことを知らないんだろうな。こいつは大衆の好みより自分の好みを優先した意見しか言わないってことを覚えておかなきゃならないんだ。
「亮介、こっちも味見してもらっていいか?」
 次に近寄ってきた挑戦者は陰だった。彼の手に乗っている小皿から出来たての料理を一口つまみ、亮介はぱくりと食べる。
「これももっと甘くした方が美味しいと思うな」
「うーん、そうかな? じゃあちょっと弘毅も食べてみてよ」
「へ? お、俺も?」
 やっとのことで話題を振ってくれたが、それがあまりにも意外だったので無駄に驚いてしまった。ここは亮介ばかり贔屓せず付き合ってくれてる陰に感謝しなきゃならない場面のはずなんだろうけど、そこはかとなく感じる周囲の視線が痛くて素直に喜べなかった。
 とりあえず陰の要望通り料理を口に放り込んでみる。
「どう?」
 率直に言うと、なかなか美味しかった。
 しかしここで俺が亮介と反対意見を言ったりしたら、それこそ周囲の亮介ファンの総攻撃を食らいそうで恐ろしい。でも亮介の基準に合わせたとしたら変に甘い料理ばかりができて学園祭は大失敗しそうな気もするし、俺は果たしてどうすればいいんだよ!
「弘毅ってば、おい」
「あ! え、ええと! 俺はこの味でも結構いけると思うんだけど……ひ、人によるもんな、好みの味ってさ!」
「そんなことは分かってるけど……まあいいか、ありがと」
 急かされて普遍的な返答をしてしまったが、陰はどうやらあまりお気に召さなかったらしい。最後に付け加えた部分は明らかに蛇足だったようだ。
「ねえ黒田君。君は僕らの衣装についてどう思う?」
 更に追い討ちをかけるかのように亮介が隣から余計なことを言いやがった。立ち去りかけていた陰はぴたりと足を止め、改めて俺と亮介の姿をまじまじと見つめてくる。そんな真剣そうに見なくたっていいってば。
「亮介はそのままでも充分通用すると思うけど、弘毅はカツラでも付ければいいんじゃねえの?」
「か、かつ――」
 陰の奴、いい加減なこと言いやがって!
 これまで大人しい奴だと思ってたけど、あいつ結構性格悪いんじゃないか? そしてそれを言い捨てた彼はすたすたと部屋の奥へと引っ込んでしまった。おかげさまで今や俺を見る無数の目は完全に笑っている。
「おう水瀬、カツラならこれなんかどうだ?」
「わ、ちょっと」
 後ろから近付いてきた山辺に無理矢理カツラを頭に乗せられた。だらりと垂れてきた他人の髪が肩の上に落ち、何とも言えぬ不思議な気分になる。
「おー、結構似合ってるかも。黒田の意見もなかなかだな」
「本当に似合ってるのかよ……?」
「鏡見るか? ほら」
 山辺に手鏡を渡され、渋々それを覗き込んでみた。そこには髪が伸びて別人みたいになった自分の顔が映っている。これが似合っているかどうかなんてさっぱり分からない。ついでに表情が歪んでいるから余計に判断が難しくなっていた。
「これで化粧をすれば完璧だな、うん」
 俺の意見などまるで無視した山辺はなぜか機嫌がいいようだった。きっと彼の中で本命は亮介だけであり、俺はあくまでオプションとして付け加えているだけの存在なんだろう。だから俺の方はちょっと不自然な仕上がりでも全く気にしていないんだ。
 うん。俺、泣いてなんかないぞ。似合わない服を着せられて辛辣なコメントを受けて皆に笑われたとしても、全然泣いてなんかないんだぞ。
「山辺君、この衣装ですけど、このままお借りしても構いませんか? この衣装に合ったメイクをしてみたいので……」
「それはもちろん構わないとも! 納得できるまで試行錯誤して素晴らしいメイクを施してくれたまえ!!」
「ありがとうございます。それじゃあ僕らはこれで失礼しますね」
 横で亮介が何やらお願いをしていたかと思うと、ぐいと腕を引っ張られて俺まで道連れにして家庭科室の外へと連れ出された。そしてぱたりと扉を閉めてしまい、静かな空気が二人を包み込む。
 ……もしかしてこれは、この衣装のまま部屋に帰らなきゃならないコースなのかな。
「亮介さん亮介さん」
「うるせぇなバカ弘毅、部屋なんかすぐ着くんだからこれくらい我慢しろ」
「うああ……」
 テレパシー能力をお持ちである亮介君は俺が何か言う前に鋭い御意見を仰ってくれた。特に気にした様子もなくすたすたと廊下を歩き出し、彼から離れてしまわないよう俺も慌てて相手の背を追う。
 とにかく亮介から距離をあけてはいけないということだけを強く感じ取っていた。もし仮に誰かと出くわしたとしても、傍に亮介がいれば俺への不信感は確実に薄れるだろう。ていうか俺が一人でこの格好のまま歩いてたらまず間違いなく不審な目で見られるはずだ。俺の横には亮介がいなければ駄目なのだ。
 そんなことを考えつつ歩いていると、短いスカートのせいで足がスースーして怖かった。女子ってよくこんなもん着て平気でいられるよな。風とか吹いたらそれこそ悲劇なんじゃないだろうか。
 頭の中で様々なことをぐるぐる考えていると部屋に着いたらしかった。とりあえず誰にも会わずに済んだのでほっとする。おそらく生徒の大半は学園祭の準備のおかげでまだ寮に帰ってきてないんだろう。それを裏付けるかのように寮内は夜中のように静かだった。
「さあて、弘毅君」
 部屋に入るとすぐに亮介の含みのある声が耳に入った。やばいぞ、こいつは何か恐ろしいことを考えているに違いない。俺は唾を飲み込み、まず第一の覚悟をしなければならないらしかった。
「剃るぞ!」
「……は」
 全く意味が分からない単語を彼は述べていたが、俺はエスパーじゃないので疑問符しか出てこない。それをも相手は理解していたのか、俺が目をぱちぱちしている隙にびしっと足元を指差してきた。
「お前のそのおぞましい素足を綺麗にしてやるって言ってんだ。まさかとは思うが、そんな毛だらけの足を客に見せつけるつもりか?」
「え、そ、剃るって……毛を? ど、どうやって」
「ふふん、心配することはねぇさ。俺がいつも使ってるやつを貸してやるから」
 俺の下半身はスカートと靴と靴下でしか守られておらず、当然見せたくもないのに素足を見せている状態になっている。これまで足の毛のことなんかいちいち気にしたことはなかったが、亮介はこのままでは駄目だと判断したらしい。
 よく見てみると亮介の脚は白くて綺麗だった。毛なんか一つとして見当たらず、確かに見栄えとしては美しい。
「ここに座れよ」
 相手に誘導され俺はベッドの上に腰掛けた。ふわりとスカートが浮き上がり、太ももにまで風が入り込んでくる。
「いいか、勝手に動くんじゃねえぞ――」
 片手に怪しげな器具を持ち、亮介は俺の足に手を伸ばした。白い指先が靴下を丁寧に剥ぎ取り、静かに毛剃り作業が開始される。

 

 +++++

 

 気が付けば窓の外は暗くなっていた。
 結局亮介の美容レッスンは夜まで続き、手足の毛を剃られたり眉毛を剃られたり髪を弄られたりとろくなことがなかったが、ようやくそれも終焉を迎え入れてくれたらしい。おかげさまで俺は今や女の子のように全身がすっきりしていた。
「メイクの実験は明日にするか」
 亮介の呟きで忘れていたメイクの存在を思い出してしまった。そういえばそんなことも言ってたなぁ。それにしても俺って亮介のおもちゃみたいになってないか、これ。
「何を不満そうな顔してやがる」
「何をって……考えりゃ分かるだろ」
「安心しろよ、俺がてめえみたいな不細工でも綺麗に見えるよう尽力してやるからさ」
 ベッドの上で座り込んでいる俺を見下ろしながら、亮介はどうしてだか悪意の感じられない顔で励ましてきた。衣装は女物で顔も化粧を施しているのにその表情は非常に男らしく、今の彼になら頼りたいという気分になるから不思議だった。
 その事実になぜだかひどく惹かれる。これはいいことなのだろうか。
「なんだ、まだ何か不満でもあるのか?」
 俺が顔に出しやすい性格なのか、それとも亮介が目ざとすぎるだけなのかは分からないけど、彼と向き合っていると隠そうとする悩みなど無意味なものになってしまうらしかった。実際には有り得ないと分かっているはずなのに、彼には心の底にある何もかも全てを見透かされている心地になる。
「ううん」
 首を横に振り、俺は否定をした。亮介はそれをじっと見ている。
「学校を卒業した後でも、お前となら仲良くできそうな気がしただけさ」
 いつか別々の道を選ぶ時が来たとしても、求められるのならそれに応えてもいいと感じていたのかもしれない。必要以上に近付き過ぎないのなら、きっと俺の家族も許してくれるだろうから。
 亮介はしばらくぼんやりと俺の顔を見ていたが、唐突にさっと顔をよそに向けた。俺はひょいと彼の顔を覗き込んだが、彼は頬を赤く染めて照れているらしく、でもすぐにその赤さは消えて何かに気付いた表情に変わった。そのまま黙って部屋の中を歩き、ソファに倒れ込むように腰を下ろす。
「未来なんてない」
 それは以前も聞いた事のある科白だった。いつのものだったかは覚えていないけど、俺はその声を知っている。
「どういう意味なんだよ」
「意味なんか説明するまでもない。このままここにいても未来なんかないと言っているんだ。お前は俺よりバカなんだから、これ以上馬鹿になるな」
 彼はうなだれた。相手にとって未来とは特別なものらしいことが分かった。どんなふうに特別なのかということまでは分からないけど、今後はこういった話題を出さない方がいいのかもしれない。
 バカだな、俺は、以前にも確かに見ていたはずだったのに。どうして気が付かなかったんだろう、おかしなことに気を取られている場合じゃないんだ。
 突然立ち上がった亮介は棚の方へ歩き、そこから薬を取り出した。幾つかの錠剤を無造作に口の中へ放り込み、洗面所の方へ向かって水で飲み込んだらしかった。
 やがて戻ってきた彼は疲れた顔をしていた。だから俺はもう何も聞くことはなく、ただ他愛のない会話をして、犯した罪の償いをしようと不自然を演じることにした。……

 

 

 

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