閉鎖

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7.重奏 - 03

 

「ららーららーい」
 狭い風呂場に歪な歌声がこだまする。
「おい聞いたか弘毅! 今のは完璧だっただろ、そうだろう!」
「……音外れてたぞ」
 素直な感想を聞いた亮介は俺の顔面に向かってお湯をかけてきた。
 音楽祭へ向けての音痴を直す計画からもう少しで一週間が経過しようとしていたが、結局これまでの日々は実りのないものに変わりつつあるような気がした。確かに亮介は頑張っているとは思うのだが、俺が意見すると愚痴を言ったり怒ったりされ、肝心の実力は最初の頃とあまり変わっていなかった。
 風呂での練習については文句を言いつつも承諾してくれ、今は二人入るとぎゅうぎゅうになる狭い風呂場に無理矢理入っている状態だった。俺は風呂の外から指導すればいいと思っていたのになぜか中にまで付き合わされ、ここ数日はいわゆる「裸の付き合い」というものをしている。最初こそは相手の白い肌にどきどきして目のやり場に困ったものの、今となればすっかり慣れてしまい、それよりも事あるごとに俺にお湯をかけてくる相手の神経を疑うことの方が忙しかった。まあ暴力を振るわれるよりは全然いいんだけどさ。
「それより亮介、もう音楽祭は明日だぞ。そんなんで本番どうするんだよ」
「……」
 いつもなら強気な相手も今回ばかりは駄目らしい。俺の言葉に言い返してくることもなく、何やら暗い表情で下に俯いてしまった。
「まあお前の場合、学園内のほとんどの人間が味方だし……きっと連中はお前が歌ってる姿を見るだけで幸せになれるだろうから、そこまで気にすることもないと思うけどな」
「だから、そんないい加減なパフォーマンスは認められねぇんだよ」
 相手はお湯の中でタオルをくるくると一まとめにし、そこに空気を入れてぽっこりと膨らませている。そのすぐ後に上から手で叩き割り、水しぶきがこっちにまで飛んできた。
「いいよなー、バカな弘毅君は。完璧を強要されないお前の神経なら、本番直前に逃走することだって厭わないんだろうなー」
「亮介だって嫌なら逃げたらいいじゃないか」
「加賀見亮介君の名声に黒い染みは付けられないって何度言えば――」
 相手の科白が妙なところでぴたりと止まった。何だろう、よく分からないけどものすごく嫌な汗が出てきたぞ。
「やだ! 亮介君ったら、いいこと思いついちゃった!」
「うわあ……」
「何だその顔は! この俺が考え付いたとてつもなく素晴らしいアイディアに文句があるとでも言うのかよ、ああん?」
 やたらとキラキラした表情をしていたかと思えば、少し否定しようとしただけで鬼の形相に変わっていた。本当に二面性があるというか、裏と表の顔が違いすぎる奴だよなぁ。これまで少数の人間にしかばれてない辺りが不思議でならない。
「で、何を思い付いたんだよ」
「ふふん。明日までに用意できる素敵な本番を乗り切る方法さ」
「へーえ……」
 なんとなく想像はついたが、俺からは何も言わないでおこうと思った。
「そういうわけで弘毅! お前も手伝えよ!」
 元気になった亮介は勢いよく風呂から出た。濡れていた髪がぴったりと肌にくっついており、それを見た時になぜだかひどく動揺して俺は彼の裸から目をそらしてしまった。だけど相手の命令に背くこともできず、彼の背を追って俺もまた風呂から出ていった。

 

 

 音楽祭当日は雨が降っていた。
 俺にとってはとてもつまらないイベントだったが、隣にいる晃と亮介の目線では大きな意味のあるイベントであるようで、両者共に緊張した面持ちで本番に挑んでいるらしい。しかし二人の表情には違いがありすぎた。
「いやぁ、大勢の前で歌うのって緊張するけど気持ち良かったなー!」
「そ、そう」
 クラスごとの発表である一部が終わり、お昼を挟んでの休憩時間に晃は楽しげに話しかけてくる。正直言って俺は一部なんてどうでもよくて、現在隣で黙りこくっている奴が出る二部のことだけが心配だった。
「加賀見は二部にも出るんだっけ? 頑張れよ、応援してるからな!」
「黙れ」
 何も知らない晃は気楽そうだった。そんな彼に小声で暴言を吐いたのは綺麗に化粧をしている亮介であり、その煌びやかさとは裏腹に表情は深い暗闇を投影しているかのようなものだった。おまけによく見ると指先が震えている。昨日はあんなに自信ありげだったのに、もしかして本番に弱いタイプなのか? だとしたら意外だな。
「なんだなんだ、緊張してんのかぁ? 大丈夫だって、加賀見は何でもできるんだから堂々と歌えばいいんだよ!」
「うるさいてめぇなんぞに俺の苦労が分かってたまるもんか、ああ?」
「晃、頼むから今はそっとしておいてやれって……」
 なんで俺が亮介の保護者みたいなことをしなければならないんだ。いや、そりゃ俺が亮介の先生になったからなんだろうけどさ。でも家族ってわけでもないのに、俺っていちいち亮介に気を遣いすぎてんのかな。
 普段なら一瞬で腹の中に消えてしまうイチゴジャムのパンも今日は一口ずつしか消化されておらず、亮介はなかなか食堂から動かなかった。仕方がないので俺と晃もそれに付き合っていたが、普段と変わらないものは容赦なく俺たちを追い詰めようとしてくるものだ。
 チャイムが鳴り、俺はまだパンを食べ終えていない亮介を引っ張って音楽祭の会場まで連れて行った。いつものしゃんとした彼の姿はなく、ふらふらになりながら歩いている亮介は危なっかしくて見ていられなかった。とりあえず転ばれたら厄介なのでずっと手を握って歩いて行くことにする。
「亮介、そんなに気にしなくても大丈夫だって。昨日ちゃんと準備しただろ? アレがあるから平気だってば」
「わ、分かってるさ、それくらいは……てめえなんぞに言われなくてもちゃんと分かっている、でも――ああくそっ、頭がくらくらする!」
 今日の亮介君は自信がないだけでなく、科白までもが右往左往していることが多いようだった。こんな姿は初めて見るからどう接していいか分からない。
 どうにか音楽祭の会場に辿り着くと、亮介はすぐに二部の準備をする為に舞台裏へと連れ去られてしまった。あんなふらふらで本当に大丈夫なんだろうか。今日は暴言もいつにも増して飛んでおられるようだし、その辺のファンの人たちにぽろっと本音とか出たりしないだろうか。
 心配は胸中から消えることはなかったが、とにかく俺は観客として見守ることしかできないようだった。自分のクラスの陣地へと加わり、そこから舞台をぼんやりと見上げる。
「しかし二部って人気ないんだな。三組しか出てねぇじゃん」
 隣で晃が面白くなさそうにプログラムが書かれた紙を眺めていた。それを横からひょいと覗き込んでみると、確かに二部は三組しか出ていなかった。一組目が絹山幾人で、二組目が亮介、そして三組目は誰だか知らないグループの人々の名前が書かれている。とりあえず今から分かる事があるならば、この三組目の人たちが不憫だなという事くらいであった。
「それで、弘毅。加賀見は何の曲を歌うんだ?」
「あー……まあ、見てからのお楽しみってことにしておいてくれ」
「そっか。加賀見の歌って初めて聞くけど、やっぱりプロ並みに上手いんだろうなー」
 どうして晃はこんなにも亮介のパフォーマンスに期待をしているのだろうか。そりゃ俺だって最初は亮介の実力を疑いもしなかったから人のことは言えないけど、ここの連中は亮介に完璧を求めすぎてるんじゃなかろうか。まさかとは思うけど、それが亮介の重荷になってたりするんだろうか――いや、そんなもんがなくてもあいつは天才なんだよな。普通に勉強サボって満点取ってたりしてたし。
 他愛ない話をしながらのんびりと待っていると、やがて室内が暗転し二部が始まったようだった。司会のやたらハイテンションなご挨拶を聞かされ、その後にようやく見知った顔が舞台の上に姿を現す。
「は」
 一組目は絹山幾人の出番であり、当然そこに出てきたのは絹山幾人だった。しかしなぜか彼は袴を着用していた。何なんだあの恰好は。それでも様になってるあたりはさすがと言うべきだろうけどさ!
 彼が出てきたと同時に会場内はざわめき始めた。そしてそのざわめきを掻き消すかの如く流れ始めた音は、どこからどう聞いても演歌の伴奏だった。すっと目を閉じて胸に手を当てた絹山幾人は完全に観客を取り残し、一人きりで演歌を歌い始める。
 更に恐ろしいことに、その歌は非常に上手かった。演歌なんてほとんど聞いたことはなかったけど、力強い歌声というか、こぶしが利いてるというか。ここで演歌を歌うという不可解さを忘れてしまうほど聞き惚れてしまい、その後にある亮介の演技を考えると悲しくなってしまった。
 絹山幾人の歌が終わると会場内は割れんばかりの拍手が巻き起こった。さすが人気者は違うな。今までで一番盛り上がってるんじゃないだろうか。
「すげぇな、絹山先輩って! 去年は普通の歌だったのに、演歌も歌えるんだなー」
「そ、そうだな……」
 横で晃が感心していたが、次の組のことを考えるとなんだか緊張してきた。俺が出るわけじゃないのになんでこんな気持ちにならなきゃいけないんだ。
 また適当なハイテンションな司会者が舞台に上がり、いよいよ加賀見亮介という名が呼ばれてしまった。果たしてあいつは無事にこの時間を乗り越えることができるのだろうか。知らぬ間に胸の前に手を当て、俺は祈るような思いで舞台を見つめる。
 ぱっと会場内が暗闇に包まれた。右も左も分からない状態で耳に煌びやかな音が届き、目が闇に慣れてくると舞台に一つのスポットライトが照射される。そこには誰もが待ち望んだであろう亮介の姿があり、彼を見つけた人々は大きな歓声を送った。そんな熱気をバックに歌が始まる。
 俺の心配は彼の表情を見てずたずたに引き裂かれたようなものだった。本番前はあんなに緊張していたくせに、今や見せているのは爽やかで不敵ないつもの業務用スマイルでしかなかった。なんだか全身から力が抜けてその場に座り込んでしまいそうになる。
 歌はあっという間に終わり、絹山幾人と同じくらいの拍手を受けて亮介は舞台から姿を消した。何はともあれ、何事もなく終わってくれたからほっとした。これで理不尽な練習の日々ともおさらばできるってわけだ。
「なんだよ、加賀見ってそこまで歌上手くないんだな」
「……あれでも頑張った方なんだ、許してやってくれ」
「そうなのか? でもあれだと俺の方が上手いぞ」
 不満そうな顔をしているのは晃くらいで、周囲を見回すと案の定、ほぼ全員が満足そうな表情をしていた。これだから練習なんかする意味が見出せなかったんだよな。どうせ脳内補正で亮介の歌声は素晴らしいものに変換されるんだから。
「でもまあ、下手でも生で歌う度胸はさすがと言うべきなんだろうな」
「……」
 晃は何も知らない。俺は事実を知っていたが、亮介に怖いくらい口止めをされたので何も言わないでおいた。実はあの歌声は既に録音されていたものだと知られたら、きっとこれから俺は毎日亮介に虐められるに違いないのだから。口パク万歳だ。
 こうして巨大な問題を孕んでいた音楽祭は静かに幕を閉じた。亮介の後に出てきたバンドの人たちが何やら頑張って歌っていたようだったが、ほとんどの人が満足げに呆けており、やっぱり可哀想なことになっている場面は見るに堪えないものであったこと以外はいいイベントだったんじゃないかと感じられたのであった。

 

 +++++

 

「終わったあああ!」
 部屋に戻ると亮介はいきなりベッドにダイブした。
「これで今日から安眠できるな、いいことだ、うむ」
「よかったな」
「ふふん」
 亮介はやたらと機嫌がいいみたいだった。客を相手にしているわけでもないのに太陽みたいな笑みを顔に浮かべ、ベッドの上でごろごろしている。結局ズルして強行突破したとはいえ、もっと俺に感謝をしてくれたっていいんじゃないかよ。あんなに手伝ってやったわけだし。
「なあ亮介、お前さ、俺に言ったよな。俺の願いを何でも聞いてやるって」
 俺がさりげなく呟くと亮介はぴたりと動作を止めた。そして仰向けに寝転んだままこっちを見上げてくる。
「ふん……仕方ねぇな、約束は約束だ。てめえのお願いってのを言ってみろよ」
 素直なのはいいことだが、その態度にはいささか問題があるような気がした。でも喧嘩をしない為に俺はそれには言及しないでおく。
 期限が一週間しかなかった「お願い」も、とりあえず俺は考えに考えた末に一つの答えを出しておいた。むしろ今回はこれの為だけに頑張ったと言っても過言ではない。
 そして当然その「お願い」は、亮介に否定されるものだということも分かっている。
「お前さ、俺と付き合えよ」
 望みを口にすると、まるで時間が止まったかのように亮介は動かなくなった。
「なっ」
 しばらく待つとようやく声を出してくれた。同時に相手はがばりと起き上がり、こっちに詰め寄って両肩に手を乗せられる。
「は? え、何を言って――てめ、自分が何を言ったか分かってんのか?」
「分かってるよ。俺と付き合ってくれって言ってるんだ」
「な、つき、付き合うって、何だそれ! 何を言ってんだ!」
「何って……そのままの意味だって。恋人になれってこと」
 亮介は目をぱちぱちさせた。幾度もまばたきを繰り返し、長いまつ毛が上下する。
「なんでそんなこと、急に……」
 彼の瞳は俺を見ていなかった。瞼の下にある眼球は機敏に動き、俺の周囲にある空気から理由を探ろうとしているようだった。だから俺はちょっと微笑んで見せる。
「だってお前さ、こうでもしなきゃ薬をやめないだろ」
 相手と目が合う。その瞳の深さに飲み込まれてしまいそうだ。
「お前が誰かと付き合ったら客も減るだろ? そしたら当然入ってくる金も減るし、薬を買うだけの金もなくなる。俺はずっとお前に薬をやめて欲しいって思ってたけど、馬鹿正直にそんな願いを言っても却下されるだけだって分かってるからな、こんな回りくどい方法しか思いつかなかったんだ」
 納得させるだけの効果があるかどうか分からない解説をしてみたが、亮介は目を大きく開いたまま一言も文句を言わなかった。まだ何が起こっているか理解できていないような顔をしている。そこまで驚かなくてもいいだろうに。
 するりと相手の手が肩から離れた。彼は俺の前でくっと俯き、目も鼻も口も見えなくなってしまう。
「バカだな、お前」
 まるで世界から二人だけが切り離された心地がする。そんな響きのある声だった。その声を発したのは俺じゃない。
 ふと身体に重いものがもたれ掛かってきた。
「他人の心配より、自分のことを構ってやれよ」
 言葉とは裏腹に相手は恐ろしいまでに小さく見える。誰かが支えてやらなければ簡単に壊れてしまいそうな、繊細な硝子細工を扱っているようだ。
「誰かの心配をしていたら、自分のことを忘れてしまえるんだ。俺はお前に甘えてるんだよ、亮介」
「まるで傷の舐め合いじゃないか」
「――そうかもな」
 肯定も否定もできないまま相手の身体をゆっくりと支える。このまま世界の果てにでも逃げ出してしまいたかった。そこにはきっと狂気も愛も存在しないだろうから。
 俺が求めていたものは虚無に似たものだったのか? だけど俺は首を横に振るすべを知らない。
「仕方ないからお前のわがままには付き合ってやるよ」
 相手の声が胸の辺りから響いていた。
「だけど商売はやめない。薬もやめない。俺には薬をやめられない理由があるから」
「その理由を教えてはくれないのか」
「世の中には知らなければならない事と知らなくてもいい事がある。人間が求めるのはいつだって知るべきではない事だ。失望だとか幻滅だとかを味わいたくないのなら、耳を塞いで目を閉じていればいい」
 彼が言う方法とは逃げるという事だった。奇しくもその道を選んだ俺は何も言い返すことができない事を知っている。
 ぽんと亮介は俺の胸に手を置いてきた。そこから彼の鼓動が感じられる気がした。
「大丈夫さ。お前のことは、俺が必ず――」
 とても小さな声だったので、それは最後まで聞き取ることができなかった。
 くいと相手の顔が下から近付き、俺はささやかなキスを受け取る。
 それはこれまでのものと違って何色にも染まっていない鮮やかなもので、だからこそ何のしがらみもなく素直に受け取ることが出来たのだった。

 

 

 

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