閉鎖

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8.追憶 - 01

 

 あの小さな手が深淵の底へと沈んでゆく。
 彼女の目は俺だけを見つめていた。

 

 

「メリークリスマース!」
 狭い部屋の中でささやかな祝い事が行われていた。
 冬休みになりクリスマスを迎えた俺は、相変わらず家に帰りたがらない連中と共にのんびりと過ごしていた。今はキアランの部屋にお邪魔してクリスマスケーキを頂いている。
「おいキアラン! そのイチゴは俺のだぞ!」
「えー、亮ちゃんのにもちゃんと入れたじゃない。これは弘くんの!」
「もっとよこせって言ってんだバカ!」
 今日も今日とて絶好調な亮介殿はキアランに威圧的なわがままを仰っていた。そんな彼の片手にはすでになくなりつつあるクッキーの小箱が握られている。
「弘くんも欲しいものがあったら遠慮せずに言ってね」
「あ、ああ」
 いくら亮介に暴言を吐かれてもキアランは幸せそうに微笑んでいた。その理由はなんとなく分かる。やっぱり自分が作ったお菓子を美味しそうに食べてくれることが心地いいってことなんだろう。
「水瀬君はケーキよりこっちの方が好みだろう?」
 さっと横からコップに入ったオレンジジュースが飛び出してくる。
「てめえは引っ込んでろ、クソ山!」
「そう邪険にしないでくれよ、加賀見君」
 キアランの機嫌がいい理由はもう一つあった。それこそまさに、なぜかこの場にいる絹山幾人の存在である。しかしそのせいで亮介の機嫌は悪くなってしまったらしかった。なんでこう平和な時間ってのは訪れてくれないのかね。
「あんた家に帰らないの?」
「この時期はいろいろ面倒だからな。正月までには帰ると伝えている」
 親が銀行員だと言っていた絹山幾人もまた家に帰りたくない会の会員だったらしい。傍から見たらどうしようもない連中に見えそうだな、俺たちって。それぞれは全く異なる理由だけど、簡単には解決できない問題ばかりを抱えてて。
 窓の外では雪が降っていた。室内にいる俺たちにその冷たさが伝わってくることはなく、ただしんしんと音もなく地面に吸い込まれるだけだ。
「どうしたの、弘くん。早くケーキ食べてよ」
 隣でがつがつと食べまくっている亮介とケーキではなくお茶ばかり飲んでいる絹山幾人のことは無視し、何やら心配そうな声色でキアランに急かされてしまった。俺になんか構わずに絹山幾人と話でもしてればいいのに、相手が本当に好きな人は誰なのか分からなくなりそうだ。
 とはいえさすがに一口も食べないのは申し訳ないと思ったので、ぱくりと口の中に運んでみる。心は甘いものを欲していなかったけど、さすがキアランのケーキは美味しいと思わせるには充分な代物だった。
「美味しいよ」
「えへへ、ありがと」
「ケーキもいいがまんじゅうもいいぞ、水瀬君」
 何だか知らないが今日は絹山幾人も絶好調だった。この人ってやっぱりどこか亮介と似てるんだよな。それを本人に言ったら両者共に口を揃えて否定してきそうだけど。
 無理矢理手渡されたまんじゅうをとりあえず受け取ってみたが、そんなものを口の中に入れる余裕なんてなかった。でもオレンジジュースだけは飲んでおいた。とっても美味しかった。
「弘くん和菓子は嫌い?」
「うーん、どっちかというと洋菓子の方が好きかな……」
「和菓子の美味しさが分からないとはまだまだ子供だな、君は」
「バカ山はジジくさいだけだ」
 狭い室内に密かな火花が散りかけている。何なんだこれは。とてもじゃないがクリスマスという雰囲気じゃないぞ。
 だけど俺にとってはその方が過ごしやすかったかもしれない。今日だけは馬鹿みたいに騒ぐ気分にはなれないから。
「ごちそうさま」
 フォークを机の上に置き、俺は小さく手を合わせた。
「ええー! 弘くん全然食べてないじゃない! も、もしかして美味しくなかった?」
「俺にくれるのか弘毅! お前いいところもあるじゃないか!」
 俺が何かを言う前に横から手が伸び、残っていたケーキが一瞬にして消え去ってしまった。いや、別にいいんだけどさ。まるで自分にくれることが当たり前だと言わんばかりの俊敏さだな。
「調子でも悪いのかい?」
 優しげな声をかけてくれたのは絹山幾人だった。口の端にあんこが付いててちょっとだけ可愛い。
「なんでもないよ」
「じゃあやっぱり美味しくなかったんだ! うわああ、どこかで間違えたかなぁ」
「そういうわけでもないって。ただ、ちょっと気分が良くなくて」
 ふっと部屋じゅうの空気が重くなったのをはっきりと感じ取った。そうさせたのは俺だけど、それを払拭する手段なんて持っていても使いたくない。
 手を合わせたのは自分の為じゃなかったんだ。
「今日はもう部屋で休むよ」
「無理しないでね」
「ああ」
 キアランの大きな瞳が少し揺れ、絹山幾人は細く鋭い目で俺に忠告を与えてきた。二人の優しさはとても嬉しいものだ。その優しさに負けて縋ってしまったら、どれほど楽になれるだろうか。
 俺はまた首を横に振った。自分に言い聞かせるこの仕草は癖になってしまいそうだ。
「じゃあ俺、先に帰ってるから」
「……」
 亮介に声をかけてみたものの、相手は一言も喋らず黙々とケーキを食べていた。

 

 

 どうしても足が部屋に向かなくて――いいや、どうしても家の様子が気になって、俺は食堂の傍にある電話の前で立ち止まってしまった。
 少し考える仕草を作り、実際には何も思い浮かばないままで受話器を手に取った。聞き慣れて親しみのある番号を押し、望む人が出ることを祈りながら機械の声を待ち受ける。
『もしもし』
 疲弊したような、それでいてほっとしたような声が出迎えてくれた。俺は手を胸の辺りに押し当てた。
「父さん。平気だった?」
『ああ、弘毅か……こっちなら大丈夫だから、お前は何も心配しなくていい』
「嘘。分かるよ。疲れが声に出てる。大変だったんだろ?」
 いつの間にか前かがみになり、ひそひそとした声で語りかけていた。もうほとんどの人間がいなくなってしまったというのに、何を隠そうと試みているんだろう。
 俺は亮介が言うようにバカなのかもしれない。
「母さん、どうしてる?」
『今は眠っている。ちょうど五分前くらいまでは、調子が良くなかったんだが……睡眠薬がよく効いたらしい』
「兄さんはどこに?」
『聡史か? 聡史は家にいないぞ、前に話しただろう』
「あっ――そうだった。じゃどこにいるんだろう?」
 闇の中から手が伸びて俺を捕まえてしまいそうだった。後ろから羽交い絞めにされ、首筋にナイフを押し当てられ、そのまま骨の髄まで喰い尽くされてしまいそうで――いいや、俺は何を考えているんだろう!
「今年はちゃんと帰ってくるよな?」
『弘毅』
「なあ父さん、麻衣は――」
『弘毅! もう休みなさい』
「嫌だ!」
 何か言わなければと、そういった思いなら先行してあるはずだった。なのにいざという間際になると何も言葉が出てこない。ただ意味のない言葉の羅列を叫ぶだけでも構わないのに、度胸も憎しみも怒りもない俺に慟哭など似合わなかったのだ。
 あの時と同じように口を開き、独りでに言葉が出てくる時を待っていた。それはすぐにやって来た。もう一生来ないと思っていたのに、あろうことかあっさりとやってきてしまったのだ。
 どうしてか? 簡単だ、俺の手の中から、なぜか受話器が消えてしまったからだ。
「……あれ?」
「あー、もしもし? 弘毅君のお父さんですか?」
 はっとして振り返るとすぐ後ろに見慣れた顔があった。そいつは何やら真面目そうな表情で受話器越しに会話を繰り広げている。
「お久しぶりです、弘毅君と同室の加賀見亮介です。いやいや、その節はどうも。こちらこそ弘毅君には大変よくしてもらってますから――」
「て、てめえ!」
 受話器を奪い返そうと手を伸ばしたが、相手にひらりとかわされてしまった。嫌な予感が身体じゅうを駆け巡る。
「それはそうと、弘毅君はどうしても家に帰りたいと言ってるんですよ。……え? ああ、それは違いますって! 彼はとっても強がりな奴ですからねぇ、弱い姿を見せたくないだけで、僕には家に帰りたいとか家族に会いたいって毎晩のように泣き付いてくるんですよ。それがもう見ているだけでも痛々しくて……でも一人きりじゃ帰れないとかって言うんで、是非とも僕も一緒にお邪魔したいんですが、いいですかねぇ? え、いいんですか? わあ、ありがとうございます! それじゃあ明日の朝一番に出発することにしますね! では!!」
 早口にそれだけをまくしたてると、亮介はがちゃりと電話を切ってしまった。
「……おい」
「そういうわけで弘毅君、明日は早起きするように」
「何を勝手に決めてんだよお前は! ていうかこの光景前にも見たことあるぞ、おい!!」
「これを人はデジャヴュと表現した」
 まともに相手をしてくれない彼は俺に背を向けて歩き出してしまった。事が事だけに、何とも言い難い感情だけが湧き上がってくる。
 そのまま闇の中に消えてしまうかと思ったけれど、亮介は足を止めてくるりとこちらに振り返ってきた。
「こうでもしなきゃお前、いつまでもそこでくすぶってるだろ?」
 放っておいて欲しかった気持ちと、何もかもを吐き出してすっきりしたい気持ち、その二つが胸の内で燃え上がり、今にも心が焦げ付いてしまいそうだった。

 

 

 今日はあの日と同じ光景が目の前にあった。
 降り積もる雪と、暖かい室内の光。人工的な輝きは人々を安心させ、俺は何一つとして心配せず、必ず戻ってくるであろう彼女を待ち続けていた。
 夢を見すぎていたのか、ガキすぎて何も分かっていなかったのか。そんなことはもう分からない。あらゆることを考える為の時間は存在しなかったから。
「雪なんて止んでしまえばいいのに」
「いいじゃねえか、せっかくのクリスマスなんだから」
 小さな呟きにも反応してきたのはいつも俺を虐める亮介だった。この雪が俺にどんな気持ちを与えるかということを彼は知らない。二人のすれ違いはどこまでも平行線だ。
 寮の部屋は暖かそうなオレンジに染められていた。窓の外は暗闇に包まれ、まるで蝋燭の光の如き電気が俺と亮介を照らしている。暖房が俺たちを寒さから守ってくれていたけれど、俺の指先はもうずっと昔から震え続けていた。
「雪が降ると悲劇が起こるんだ」
「はあ?」
「だって足跡が消えるじゃないか。足跡が消えたら、跡を追うこともできない」
「……」
 せめてどこへ向かったか、どんな場所で何を見ていたのか、それだけでも分かっていれば変わっていたかもしれない過去がある。俺たちは手をこまねいてじっとしていた。そのせいで招いた悲劇だというのなら、一体何を責めれば心が楽になっただろう?
「クリスマスに嫌な思い出でもあるのかよ?」
 亮介のストレートな質問に俺は一つ頷いて見せた。
「それを教える気はないとか言うんじゃねえだろうな」
「どうして?」
 相手はソファに座って俺の目をまっすぐ見ていた。幾らか苛立っているような、明らかに不満そうな表情を浮かべている。そうさせたのはきっと俺だった。俺の弱さが彼を苛立たせたのだ。
「一昨年のクリスマス、雪が降ってただろ」
「そんなこといちいち覚えてねぇよ」
「降ってたんだよ。だからいけなかったんだ。あの雪が降っていたせいで、麻衣は家に帰れなかったんだ」
 あの事件以来、家族以外の人間に初めて麻衣の名を聞かせたのかもしれない。どうしてだろう、彼なら受け止めてくれると感じたのだろうか。同室と言えどもただの他人であることに変わりはないのに、なぜ俺は彼に自らの秘密を曝け出そうとしているのだろう?
 嫌われるんじゃないのか? 駄目な奴だと、どうしようもない弱虫だと罵られ、呆れられて蹂躙されて遠ざかっていくんじゃないのか? それなのになぜ自分から話してしまった? どうして口を閉ざすことができない?
 どうしてって、そんなの――聞いて欲しかったからに決まっているだろう!
「帰ってこなかったんだよ! 夜までには帰るって言ってたのに、家で食べるケーキを楽しみにしてたのに、あの日に妹は家に帰ってこなかった!」
「……妹?」
 彼だから話してるんだ。彼以外の人間には、やっぱり話せそうにないから? でもどうして彼なら大丈夫なんだろう? もうすぐ離れてしまうと分かってる相手なのに、何が俺をそうさせているのか。
「嘘だと――嘘だと言ってくれよ、亮介」
「……」
 静かに聞いていた亮介は頷きもしなかった。俺の求めるものを提示してくれなかった。おかげで俺はより惨めな気持ちに苛まれ、自分でも心が不安定になっていく様がよく分かった。
 彼は催促しているんだ。俺の中にある黒いもの、歪なものを全て吐き出し、それによりもたらされる浄化作用を得る手段を俺に教えている。視界の隅に雪が映っていた。あの日と同じ光景はもううんざりだ。
「クリスマスの日に妹が家に帰ってこなくて、それが一体どうしたんだ」
「どうって……心配しなかった俺が悪いんだよ」
「お前には父親も母親も、兄貴もいるんだろ? だったらお前一人の責任ってわけじゃあるまい」
「そ、そうかもしれないけど、あの時にたった一人でも麻衣を心配して、雪の中を探しに行っていれば、いいや探しに行かなきゃならなかったんだ。そうやって麻衣を見つけて手を握ってやらなかったから、あいつはあんな場所を望んでしまったんだ」
 彼女が望んだあの場所は彼女にとって素晴らしいものかもしれないけど、俺たち残された人間から見れば地獄以外の何物でもない。あまりにも低すぎた階段はほんの数段しかなく、それでも俺の手も家族の手も届かなくて、彼女は一人きりあそこへと向かってしまった。彼女を連れ戻す手段は初めから一つもなかった。それが自殺という歪な選択だとしても、一度切れてしまった糸はもう二度と――。
 俺は立ち上がりベッドの上に座り込んだ。傍に亮介が来てくれることを期待していたのに、彼はソファに座ったまま動かなかった。
 だから俺の方から誘いを持ちかける。
「亮介」
 何かを引きずりつつも亮介は腰を上げた。おもむろに俺の隣に座り、肩をぴたりとくっつけてきた。俺はその小さくて大きな身体にもたれ掛かる。
「今日がこんなに怖い日だなんて思わなかった」
「怖いのか」
「うん。怖いよ。また大事な人がいなくなっちゃうような気がして、お前の傍から離れたくない」
 いつの間にか俺は亮介の服を握り締めていた。相手は笑ったり怒ったりなどせず、ただじっと俺に身体を貸してくれていた。
「もしかして俺、情緒不安定になってる?」
「かなり」
「そっか。自分ではよく分からないけどさ。……自分がこんなふうになるなんて思ってもいなかった。頭がおかしくなっちゃったのかな」
「おかしくはないさ。人間誰しも心を掻き乱されれば錯乱に似た言動を見せる。それをおかしいの一言で片付ける奴の方が頭がおかしいんだ。お前はおかしくなんかない」
「亮介」
 愛おしかった。彼のことが、とても愛おしかった。
「なぜ泣く?」
 彼に抱き付いた。彼は俺の頭を撫でた。涙で滲んだ視界はあてにならず、真っ黒な何かが存在を主張していることだけが分かった。
「なあ、弘毅」
「亮介」
「どうしたんだ」
 何かとても重大なことを伝えたかった。それがなかなか出てこなくてもどかしく、だけどそれまで相手が待ってくれたおかげで俺は結論を見つけることが出来たのかもしれない。
「助けて」
 震える唇から飛び出した思いもよらぬ言葉を聞き、亮介は目を大きくしてからそっと俺の身体を抱き締めてくれた。

 

 

 

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