閉鎖

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8.追憶 - 02

 

 見慣れた景色が瞳に映った時、胸の内で静かにざわめく何かを俺は確かに感じていた。
「ここがお前の家なのか?」
「……」
 隣から聞こえる質問に答える余裕が消えてしまった。高い壁をぐっと見上げ、だけど懐かしさに浸ることもかなわない。
 もう二度と戻らないと思っていた。誰が何を喚こうと、決して振り返ることはないと言い聞かせていた。それなのになぜ俺は自らの足でここへ帰ってしまったのだろう。
「弘毅」
 俺の名を呼ぶ声が耳に届く。ふっと顔を上げると、俺を理解してくれる人の心配そうな表情が視界に入った。父さんが家の前で待っていてくれたらしい。
「こんにちは、弘毅君のお父さん。加賀見亮介です」
「ああ、わざわざ来てくれてありがとう、加賀見君。さあ、中へ入ってくれ」
「それではお言葉に甘えまして」
 隣で一般的な会話が繰り広げられていた。傍から見れば普遍的な、何一つとして問題ないように映っただろう。人は影に潜むものの輪郭までは視界から理解できない生命なのだから。
 身体が固まってどうしても一歩が踏み出せなくなっていた。ここから先に進んではならない気がする。俺はまた間違ったことをしているんじゃないだろうかとか、答えのない質問だけが頭の中でぐるぐる回る。
「弘毅」
 目を覚まさせたのは父さんの声だった。ぽんと肩に手を置かれ、それによって我に返る。
「今日は大丈夫だと思う。だから、まずは家に入ろう」
「――うん」
 大きな手に掴まり、俺はようやく足を動かすことができた。

 

 

 家の中はしんと静まり返っていた。一階にある広間へ行くと、テレビも付いていない部屋で母さんが一人座り込んでいた。
「弘毅! 帰ってきたのね」
「うん」
「おかえりなさい」
 俺の姿を見つけた母さんは微笑んで挨拶をしてくれる。それからすぐに違和感に気付き、隣にいる見知らぬ奴の方へ目線を向けた。
「ええと、この子は?」
「はじめまして弘毅君のお母さん。僕の名前は――」
「友達だよ。父さんから聞かなかった?」
 本当に父さんが母さんに亮介のことを話したかどうかは分からないが、まずは相手が今どんな状態なのかを見極める必要があった。
「そういえば言っていたような」
「もう忘れてしまったのか? 学校の友達と一緒に帰ってくるって、昨日の夜に話したばかりじゃないか」
「まあ」
 母さんは不思議そうな眼で亮介を見た。まるで品定めでもしているかのようにじろじろと見つめている。中性的な顔立ちをしていて、更に髪が長いので男か女か分かっていないのだろうと思われた。だったらここは安全策を取った方がいいだろう。
「こいつの名前は加賀見っていうんだ。なんていうか、まあ、男っぽいけど女だよ」
「は? てめ、いきなり何を言って――」
「あ、男っぽいって言われるのは嫌いなんだっけ? 仕方ないじゃん、お前マジで男みたいにも見えるんだから」
「ちょっ」
 さすがに不意打ち過ぎたのか、何があろうと平静を装っていた亮介殿でもうろたえてしまったらしい。だけどどうか俺の意図を理解してくれないだろうか。
 祈るように目配せをすると、亮介は開きかけていた口をとりあえずぱたりと閉じてくれた。
「とりあえず荷物を部屋に置いてくるよ」
 父さんと母さんに声をかけ、不満そうな亮介を連れて二階にある俺の部屋へ誘導する。もう長いこと離れていた扉を開き、室内に入ると懐かしい匂いが俺の身体にまとわりついてきた。
「おいこらクソ弘毅」
「言いたい事は分かる。説明するからまずは落ち着こうか、亮介」
「納得できる理由を言えよ」
 途端に目つきが鋭くなった相手は腕を組み、やたらと偉そうに俺を見下ろす勢いだった。しかし俺より背が低いことが滑稽さを醸し出している。とりあえず荷物を床の上に置き、古くなってぺったんこになっている座布団の上に座り込んだ。そして相手は当たり前と言わんばかりの顔で俺のベッドの上に座りやがった。なんでここで座布団に座らないんだよ。
「えっと、その」
 いざ話そうと口を開いてもなかなか言い出しにくいものだった。そもそもその原因のほとんどは亮介殿の鋭すぎる視線であるわけだが、それに気付いてくれない相手はより睨みの精度を増すばかりだった。仕方がないのでちょっとだけ視線をそらしつつ話すことにする。
「俺の母さん、男が駄目なんだ」
「……は?」
 相手の目が細く鋭いものから大きく丸いものに変化した。
「だから、男の相手ができないっていうか、男を極端に怖がってるっていうか」
「何をバカげたことを言ってんだ。だったらなんでお前やお前の親父と普通に会話してんだよ、矛盾してるだろうが」
「うん、よく分からないんだけど、父さんのことは平気みたいで」
「……お前のことは?」
 痛いところを突いてくる相手だった。だけどそれこそが亮介という奴だということを俺は知っている。
「俺のことは、調子がいい時は息子だって理解してくれる。でも調子が悪い時は駄目みたいで」
「駄目だったらどうなるんだよ」
 わざと伏せて話しているのに亮介は俺の内部に踏み込もうとしてくる。きっと他の奴なら口を閉ざしただろうけど、どうしてだか亮介になら知られてもいいような気がしていた。
「ぶたれる」
 短く答えた時、相手の大きな目が更に大きくなったことは言うまでもない。
 しかし俺はそれを見て驚いてしまった。全く予想していなかったのか、相手はしばらく言葉を失ってしまった程だったのだ。その反応を見てやっと俺は思い出した。相手は親から離れたがっていたけれど、決して家族から虐待を受けていたわけではないんだ。むしろ愛されていて、その愛が少しおかしくなってしまっているだけで、俺の家庭のような事情には現実味を感じられないのだろう。当事者しか分からないものはたくさんあるけど、俺が感じているものがまさにそれなんだろうな。
「ぶたれるって、お前が、母親にか?」
「そうだよ」
 相手の声はびっくりするくらい震えていた。反面、俺は落ち着いていた。なぜここまで落ち着いて話せるのか不思議なほどだったが、俺の代わりに亮介が驚いてくれたからなのだろうということが分かった。
「お前の母親は男が怖いんだろ? じゃあなんでぶったりするんだよ、怖いなら逃げ出すとか、そういう行為に走るんじゃないのかよ!」
「そんなことは分かんないよ。怖がりながらぶってくるんだから。俺を家から追い出そうとするんだ。男は怖いけど、きっとそれ以上に憎んでるから」
「憎んでいる、どうして?」
「それは、妹が――」
 吐き出しかけて言葉が詰まった。喉の奥から頭が出ているのに、どうしてもその先を見せることができない。
「妹がどうしたんだ」
 相手の顔が目の前まで迫っていた。知りたくて知りたくて仕方がないと言わんばかりだ。俺ももう吐き出したかった。何もかも吐き出して楽になってしまいたかった。
 それなのにまだ何かが抑制している。ここまで来たのに、家にまで案内したのに、今更何を躊躇うことがあるんだろう? 俺の足を引っ張っているのはどこのどいつだ。お願いだからこれ以上苦しむ方向へ落とさないでくれ!
「クリスマスの日」
 するりと、何かが頭から漏れ出す。
「妹と――麻衣と喧嘩をした」
 口に出すことであの日の声が脳内で再生されようとしていた。麻衣は何を言っていたっけ。俺は麻衣に何を言ったんだろう。
「喧嘩?」
「些細な喧嘩だよ。俺と麻衣は頭の出来がよく似てて、一人だけ飛び抜けて頭が良かった聡史兄さんに近付く為にいつも張り合ってた。あの日もそんなくだらない喧嘩をして、俺は麻衣に酷いことを言ってしまった気がする。妹は塾があるからって朝から家を飛び出してしまった。そして……夜になっても、家に帰ってこなかった」
「どうして」
 彼女の目が、亮介の目の奥から感じられた。麻衣が俺を見ているような気がした。それは俺を許す為? それともあの日の喧嘩を謝る為?
 いなくなってしまった人は何も語らない。
「塾の講師。そいつが麻衣を誘拐した」
 はっと息をのむ音が静かな空間によく響いた。
「夜になってから家族が心配し出したんだ。こんなに遅くなっても帰ってこないなんておかしいって。塾に電話したけど誰も出なかった。雪の中を父さんが探しに行ったけど、塾には誰もいなかった」
「そりゃ、夜になりゃ塾も閉まるよな……」
「俺は全然知らなかった、同じ講師に教わってたのに、あいつが麻衣をそんな目で見ていたなんてこれっぽっちも気付かなかった! それに、おかしいと思ったんだ! クリスマスの日に授業があるなんて、俺も他の奴も休みなのに麻衣だけ特別授業だなんて、そこに拍車をかけるように、俺の一言が麻衣を塾に向かわせてしまった! 俺は、あいつに言ったんだ、俺がお前の年齢の時に、その問題は簡単に解いちまったって――あんなことを言わなければ! 俺が余計なことを言ったから、だからあいつは!」
「弘毅!」
 ぎゅっと、何かの力を感じた。ぼやけた瞳で懸命に見つめると、俺の手に亮介の白い手が重ねられていた。
「それはお前のせいじゃない」
 よく聞き取れなかったのか、俺の頭は相手の科白の意味を理解しなかった。
「えっ――?」
「聞こえなかったのか? じゃあもう一度言うぞ」
 彼の瞳がある。深く深いところに、もう麻衣の面影は消えていた。
「それはお前のせいじゃない」

 

 もしかすると俺は、知らないうちに麻衣が誘拐された原因は自分の中にあると思い込んでいたのかもしれない。
 そういった目に見えぬ後悔が心をすり減らし、気が付かない場所で自身の崩壊が起こっていたのだろうか。自分のせいだという強迫観念が俺の中の何かを追い詰めていたんだ。だから吐き出すことが怖くって、ずっと内に秘め続けていたのかもしれない。
 それがようやく解き放たれたのか、今は驚くほど頭の中がさっぱりしていた。
「やっと分かったな」
「え」
 細く長い息を吐き、亮介は俺から手を離した。
「お前って、たとえ顔が笑ってる時でも目が笑ってない気がしてたんだ。それがなんか不気味で、ずっと気になっていた」
 思いがけない言葉が亮介の口から飛び出し、俺はちょっと驚いてしまう。自分の顔なんか見えないから分からなくて当たり前だけど、今までそんな死人のような生き方をしていただなんて、面と向かって言われるとやはりきついものがあった。だけど今はそれを隠さずに教えてくれたことが嬉しかった。
「いいか、バカ弘毅。自殺ってのはな、誰の責任でもないんだ。たとえば明らかに自殺の原因を作った悪い奴がいたとしても、そいつが悪人になった理由ってのを考えてみろ。それは環境のせいだ。じゃあその環境を作った奴が悪いのかといえば、そうでもない。そうやって原因を遡っていけば、結果として「本当に悪い奴」ってのは誰なのか分からなくなってしまうもんだ。だったら自殺した本人の弱さが悪いのかといえば、それも違う。自殺の理由が何であれ、ほとんどの場合は一時的な感情の昂りが原因だ。その感情ってのも自分の弱さに耐え切れないというものや、誰かを救いたいという気持ち等、例を挙げればきりがない。だがその道を選んだのは本人でしかなく、残された人間としてはその選択の後に辿り着く場所で幸せになってくれるのを祈ることくらいしかできない。自分の行動に反省はしても後悔はするな。全て自分だけの責任だなんて勝手なことを考えるな。たかが人間にできることに限度があるのは当然だ。それをいちいち悔んだところで何が変わるってわけでもない。分かったな?」
 偉そうな口調で、偉そうな態度で、まるで自分の言っていることに一点の間違いすら存在しないと自負しているような言葉だったけれど、相手が俺を元気づけようとしていることだけははっきりと伝わってきた。ちょっと乱暴な考え方のような気がしたけれど、彼の言うように後悔の先にあるものに囚われている場合じゃないことは理解できた。
 それだけで自然と顔に笑みが浮かぶから不思議だ。
「お前やっぱり天才なんだな。経験してもいないのに、そんなことが分かるなんて」
「はんっ、どこぞのバカとは頭の出来が違うんだよ」
「ありがと」
 小さくお礼を言うと亮介は腕を組んだままそっぽを向いてしまった。
「そろそろ下に行かなきゃ母さんが心配するかな」
 名目としては荷物を置きに来ただけなんだから、このまま長話をして母さんを心配させることは不安だった。できれば顔を会わせたくはなかったけど、不安定な母さんの心配事は一つでも消しておきたいのが本音だ。
「ちょっと待てよ、まだ話は終わってねえぞ」
「また後で話すってば」
「面倒臭い奴だな」
 相手の目は吊り上がっているが本当に怒っているわけではないようだった。文句は言っていたが従ってくれるようでほっとする。
「じゃあこれからお前は亮介じゃなく亮子ちゃんとして振る舞ってくれよ」
「――な」
「さっきも言ったじゃないか、母さんは男が駄目なんだ。だからお前は俺の女友達って設定」
「て、てめえ!」
 がばりと立ち上がった亮介――ではなく亮子ちゃんは俺に向かって拳を振り上げてきた。なんて恐ろしい女の子なんだ。かろうじてそれは避けられたが、両肩を掴まれて怒りに満ちた顔をぐっと近付けられる。
「お前、バカ弘毅のくせに生意気だぞ」
「仕方ないじゃないか、分かってくれよ」
「ちっ……だが「女友達」って肩書きは無しだ! だいたい俺とお前はリアルに付き合ってんだろ? だったらここは「彼女」になるのが当然の流れだろうが」
「げ」
 そういう反撃か。やはり天才は侮れない。
 両者共に不満を抱えつつも、それで承諾するしかなかった二人は狭い部屋を出ていった。なんだかんだで今までうまくいっていたのだから今回も大丈夫のような気がして、俺は少しでも状況が良くなってくれることを期待しつつ階段を下りていった。

 

 +++++

 

 考えが甘いとどうしても過去を許せなくなってしまうものだ。あの時にこうしていればとか、どうにかして気付いていればとか、そんな手の届かない範囲での後悔が始まってしまう。
「……」
 父さんと母さん、そして俺と亮子ちゃんを囲んだ食卓は異様に緊張感の溢れるものになっていた。どうやら母さんの調子が悪くなってきたようで、いつもはお喋りなのに全く喋らず、その顔に笑みの一つも浮かべていない。だから俺と父さんは余計なことを言わないよう口をつぐんでいた。亮子ちゃんが何を考えているかは知らないが、頭のいい彼女は俺たちの意図を察してくれたのだと思う。
 しかし、まいった。こういう雰囲気は以前にも何度か経験したことはあったが、いかんせん久しぶりなので対応の仕方を忘れてしまっているような気がする。
「あ」
 緊張により手が震えたせいで醤油のビンを転倒させてしまった。黒い液体がどばどばとテーブルクロスを汚していく。
「大丈夫か、弘毅」
 父さんに渡されたティッシュでとりあえず醤油を拭き取ったものの、染みは完全には落ちず、醤油のビンもカラになってしまった。おそるおそる俺の前に座っている人の顔を見てみると、ぴたりと動作を止めてじっとビンを見ている母さんの姿が見えてしまった。
 俺は立ち上がってビンを台所の流しに放り込むことにした。
「からっぽになってしまったのね」
 席に戻ろうとした刹那、母さんのこの世のものとは思えない声が響いてきた。それは聞かなかったふりをして椅子に座る。
「からっぽになるまで――していたのね、麻衣」
「な、なあ母さん。久しぶりの母さんの料理、美味しいよ」
「違う!」
 母さんは音を立てて立ち上がった。しまったと思った頃にはもう遅くて、相手は机を挟んだ所から俺に平手打ちをしてきた。
 鋭い痛みが頬を刺し、途端に昔の感覚が身体の中を支配する。
「落ち着け、恭子!」
「触らないで――私の娘に触らないで、汚らしい男!」
 父さんが母さんを背後から引き止め、おかげで俺はこの場から逃げ出すことができた。こうなってしまってはもう何を言っても無駄だった。だから何の躊躇いもなく自分の部屋へ引き返し、後ろからついてきていた亮介が部屋に入ると扉を閉めて鍵をかけた。
「……おい」
 力が抜けて床の上に座り込んでしまう。後ろにいるだろう相手の姿を確認するだけの余力はなかった。
「驚いた? けど、これが俺の日常だったんだよ」
「異常だな」
「そう」
 小さな音を立てながら亮介は俺の前に回り込んできた。そこでしゃがみ、下から顔を覗き込んでくる。
「腫れてるぞ、頬」
「平気」
 ぶたれた個所はまだじんじんしていた。それはどんなナイフより鋭く、どんな弾丸より俺の内部に食い込んでいる。だけど脇腹の傷に比べると全然問題じゃなかった。
「俺の母さん、麻衣が自殺したことで頭がおかしくなっちゃったんだ。精神的な病だって医者は言ってた」
「見れば分かる」
「そう、だよな」
「あ、おい……落ち込むなよバカ」
 なんだか亮介は慌てているようだった。俺はつらいのは今だけだってちゃんと分かってるから、彼が心を痛める必要なんかないのに。こんな優しい奴と友達になれて本当によかった。
 唐突にくいと顔を上げさせられた。腫れていない方の頬に手を当てられ、そのまま顔が近付き一方的なキスが贈られる。しかしすぐに身体を離し、相手は視線を別の方に向けてしまった。
「亮介?」
 その意図が分からなくて声をかけると、相手は顔を赤く染めながらも聞き取れる声量で答えてくれた。
「何があろうと、俺だけはお前の味方だから――勝手に落ち込んだりするんじゃねえよバカ」
 彼の偽りのない科白を聞き、俺は「うん」と返事をすることだけで精いっぱいだった。

 

 

 

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