閉鎖

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8.追憶 - 03

 

 気が付けば世界は闇に閉ざされていた。
 母さんの調子はずっと良くならず、結局あれから一度も顔を会わせることができなかった。父さんは母さんに睡眠薬を飲ませたと言い、俺は亮介を連れて自分の部屋に閉じこもっている。夕飯は父さんが作った質素なスープをパンと一緒に貰った。
 俺が弱っているせいか気を遣ってくれた亮介は、自分だけベッドで寝て俺を床に放り出すような真似はしなかった。しかし部屋にベッドが一つしかないのも事実であり、今は狭いそこにぎゅうぎゅう詰めになって入り込んでいる。すぐ隣では長い髪が布団の中に沈んでいた。それはもうぴくりとも動かず、呼吸の音さえ聞こえてこない。
 代わりに一階からの音が絶えず耳に入っていた。誰かの話し声のような音や、物を動かしているような音、走ったり叩いたりしている音など、聞こえるはずのない音ばかりが頭の中で響き渡る。誰に言われずとも、それが幻聴であることは理解していた。俺は一気に昔に戻ってしまったのだ。
 眠れない。雪が降っているせいだろうか。それともこの部屋に戻ってきたせいなのか。胸の内に積もるのは不安ばかりで、それをどうすれば消すことができるのかなんて今の俺には分からなかった。
「弘毅」
 目を開けて天井を見上げていると、とても小さな声が俺の名前を呼んだ。それは亮介が放ったものらしい。
「ごめん、起こしたか?」
「ふん……眠ってたわけじゃないから安心しろ。こんな早い時間から眠れるわけないだろ」
 あんな商売をしている亮介はいつも眠りにつく時間が遅かった。それを考えると当然のことなのだろうけど、どうしても彼がまだ眠っていない理由はそれだけじゃないような気がした。
「何か話でもあるのか?」
 静かに訊ねてみると、相手はごそごそと布団の中で動き、ゆっくりと身体を起き上がらせた。相手の目を見る為に俺もまたベッドの上に座ることにする。
「お前、まだ俺に話してないじゃないか」
 亮介はじっと前を見つめている。彼の両手が握り拳を作っていた。何か遠くにあるものを睨み付けているようにも見える。
「こんな時間に話せって言うのかよ? 明日でいいだろ」
「そうやって先延ばしにして、お前はずっと逃げてきたんだろ」
 なかなか胸を引き裂くようなことを相手は言っていた。何気なしに言ったのかもしれないけれど、それはあまりにも俺の急所を貫いてしまうものだった。
 逃げたくなる気持ちが俺の足を引っ張っているのだろうか。それとも、逃げることでしか自分自身を守ることができなかったのだろうか。
「弘毅」
 急かすように相手がこっちを見てくる。暗闇の中で光る彼の瞳は大きくて、まるでこの世の全てを包含しているかのような光明を放っていた。もう立ち止まってる場合じゃないことは分かっている。俺の背を押す人がいてくれるうちは、まだ前に進む力が残されているはずだ。
 震える唇をゆっくりと持ち上げてみる。
「分かったよ。もう何も隠さない。先延ばしにもしない。俺が抱えてるもの、全部打ち明ける」
 呼吸の音と空気の振動、それ以外の音は何もなかった。俺の耳には自分の声さえ届かない。ただ言葉として発することのない亮介の気持ちは聞こえてきた気がした。目を合わせることもなく、俺は彼の心を理解できるようになっていたのかもしれなかった。

 

 

 部屋の電気を付けることもなく、暗闇の中で二つの生命が蠢いている。だけど今はこの漆黒が心地いい。明るく光り輝いている場所よりも、こういった深淵の傍にある穴の方が俺にはよく似合っていたから。
 胸に手を当てると心臓が大きく動いていた。誰かに過去を話すのは今が初めてだし、そうなる理由もよく分かる。俺はもっと自分自身のことを理解してやらなければならなかったのだ。
「妹は――麻衣はクリスマスの日に誘拐された。父さんも母さんも必死になって探したけど、家族の力だけじゃどうしても見つけ出すことができなかった」
 迷子のように方法を手探りで求めていた日々が目の前に降りてくる。今日のように冷たい夜も、日差しの暖かな明るい朝も、季節なんか関係なしに俺たちは走り回っていた記憶がある。特に兄さんは自分の身を滅ぼす勢いで麻衣を探していた。それでも見つからなかったのは、そういう運命だったということなのだろうか。
「警察には届け出なかったのか」
「もちろんそうしたよ。でも警察の力でも麻衣は発見できなかった。そうやって時間だけが過ぎていく恐ろしい日々が続いて、いつの間にか夏が終わりかける日が来たんだ」
 一度たりとも忘れたことなどない。一日として心配しなかった日はない。いくら時間が流れようと、諦めるという選択肢だけは何があろうと選びたくなかった。だからこそもう一度麻衣の姿が見えたあの日、その執念が彼女にも届いたのだと俺は勝手に舞い上がっていた。
「麻衣は自力で帰ってきたんだ。一人きりで、すっかり痩せていた。夏にしては涼しい夜、あいつは家の玄関を開けた」
「まさか逃げ出してきたのか? すごい妹だな」
「俺も驚いたよ。心底嬉しくて抱き締めたかった。でも俺はそのすぐ後で、もっと驚かされることになってしまった。だってあいつの――妹のお腹は、異様に大きくなっていたから」
 彼女のその姿を見た時、俺は何一つ理解できなかった。なぜ身体は痩せているのに腹だけ大きくなっているのか、頭の中に存在していた理解しようとする意思がどこかへ去ってしまっていたんだ。それを知ると俺は駄目になると分かっていた。家に帰ってきたのに妹は嬉しくなさそうで、バカみたいに明るかったあの笑みを見ることはもう叶わないのだと、誰に言われるまでもなく俺は瞬間的に覚ってしまっていた。
「……事実を受け止めるのに、俺が一番時間がかかったらしかった。父さんや母さんは麻衣の姿を見てすぐに分かったみたいで、兄さんも認めたくはなかったけど受け止められたらしい。俺はなんだか怖くて、全く知らない人間が家の中に上がり込んでいる心地がして、腹の大きくなった麻衣の姿をまっすぐ見ることができなかった。麻衣も頑なに口をつぐみ、自分の部屋にこもってなかなか外に出なかった。でも、たぶん、それがそもそもの間違いだったんだと思う」
 悔むことばかりで何もできない。前を見据えなければならないのに、俺の行為はいつも後ろに向いている。手をぎゅっと力を込めて握り締めてみた。少しだけ痛さを感じ、それにより現実に戻ってくることができる。
「家に帰って一カ月もしないうちに麻衣は自殺したよ。両親と兄さんが出かけている間、包丁で手首の動脈を切っていた。俺が一番最初に発見したんだ。床の上は大量の血液で赤黒くなっていて、人間にこんなに多くの血が流れていただなんてとおかしなところで驚いていた」
 彼女の変わり果てた姿を見つけた時、何も感情が湧き上がってこなかった。声を上げることも駆け寄ることもできなくて、ただただ呆然とその血の多さを両目で見つめていた。彼女の髪が赤黒い血と混じっていて気色悪かった。鉄のような臭いが部屋の中に充満していて、そのまま気を失ってしまいそうなほど立ち竦んでいた。
「麻衣が死んで――母さんはずっと泣いていた。俺は理解したくなくてぼんやりしてて、葬式の日になって初めて涙が出た。兄さんと父さんは涙を見せなかったけど、俺の前で兄さんは自分を責めていた。俺は知らないうちに駄目になりかけていて、それに気付いた兄さんがずっと支えてくれていた」
 人が一人死ぬことによりもたらされる喪失感。遮断していた真実を受け入れた時、本当に俺の中の全てが崩壊してしまいそうだった。あんな経験はもう二度と味わえないと思っている。唯一無二の悲しみがそこにはあったんだ。
「やがて悲しみが終わりかけた頃、母さんがおかしくなった。異常なほど男に怯え、俺や兄さんを見たなら怒鳴ってきた。殴られたり、蹴られたり、家の外に追い出されそうになった。それはたぶん麻衣を守る行為なんだと思う。俺は怖くて、とにかく怖くて理解できなくて、母さんから逃げ回っていた。いつもぶたれた後は涙が止まらなかった。そんな俺を兄さんは守ってくれたんだ。ぶたれそうになる俺の前に立ち塞がって、俺を守ってくれていた」
「……お前を、兄貴が?」
「そうだよ」
 頼りになる人だった。ずっと憧れていた人だから、余計にそう思えたのかもしれない。兄さんさえいれば何も怖くなかった。兄さんだけは俺を守ってくれるはずだと、そう信じて疑わなかった。
「そんな毎日が続き、ちょうど秋の真ん中になった時、とても大きな出来事があった。その日は朝から兄さんがどこかに出かけていて、母さんの調子もいい穏やかな日だった。夜になると兄さんは予定通り家に戻ってきた。だけどその手には何かが握られていて、顔も身体も泥みたいなもので汚れていた。電気の下でよく見てみるとそれは血痕だった。手に握られているものは包丁で、玄関で彼を出迎えた俺に向かって、相手は「犯人を殺してきた」とだけ言ったんだ」
 俺はその言葉を聞いた時嬉しかった。これで俺を脅かすものはなくなったと感じたのだ。だけどそのすぐ後でぞっとした。目の前で微笑んでいる相手の姿が歪んで見えて、彼が一体何を考えているか少しも見えなくなってしまった。俺は気付かぬうちに一歩後ずさりしていた。
「証拠品として兄さんは犯人の私物を持ち帰っていた。その中には車の免許証や携帯電話も含まれてて、おかげでそれまで見えなかった犯人の正体がようやく分かった。兄さんは持ち帰った全てを台所で燃やしていた。父さんは暴れそうになっている母さんを抑え、俺は唖然として兄さんの行動を眺めていた」
 その頃の俺は視界に映る全てが現実のものとは信じられなかったんだと思う。これまでに築き上げてきたあらゆるものが手の隙間から零れ落ち、見失った先で掻き集める勇気もなくてひたすら目を大きくしていたように記憶している。燃えて灰になる物質を眺めながら、俺は兄さんの表情だけを目に焼き付けていた。忘れられない光景が今も俺の脳裏で描かれていた。
「俺は家に居たくなくて、とにかく離れようと学校に逃げていた。それほど仲も良くないくせに友達の輪に入り、何もかも忘れようとして女の子とも仲良くしようと好きでもない人に告白したこともあった。よく分からないままに成功した告白は交際の礎になって、休みの日はその子と外出ばかりをしていた。だけど――ある日二人で手を繋いで歩いていたら、道の先で兄さんが立っていた。兄さんは俺たちに近付いて、いいや俺と手を繋いでいる子に近付いて、その子を殴り倒してしまった。止める暇もなく彼は彼女を殴り続けた。近くを通りかかった男の人が止めてくれたけど、彼女は病院に入院してそのまま交際は終わりを告げた」
 こんなに簡単だとは思わなかった。家庭が崩壊することなんて、物語の中の話だと思っていた。それが事実になったと覚ったのはあの暴行事件がきっかけで、あれ以来俺は兄さんを普通の目で見ることができなくなってしまった。
 助けてくれた人なのに。守ってくれるはずの人なのに。
「家の中で、兄さんは俺を守ってくれる。母さんの暴力から守ってくれるけど、もうその人は俺の知らない人になっていた。彼は俺に「愛している」と言うんだ。愛してるならどうしてあんなことをしたのか、俺には何も分からなくて、でも質問することが怖くて訊ねることさえできなかった。そうやって口を閉ざしていたら、ある日兄さんは俺を部屋に呼んだ。そして何も言わずに強く抱き締めてきた。その時に初めて気付いたけど、彼はひどく震えているようだった。大きな彼の姿が途端に小さく思えた。気持ちが緩んで、泣き出しそうになった時、脇腹に鋭い痛みを感じた。重くて大きな痛みだった。――驚いて身体を離そうとしてもそれはかなわなくて、俺は床の上に押し倒された。兄さんは包丁を握っていた。しっかりと握り締めていて、それで俺の脇腹を刺していた。身体から力が抜けて何もできなかった。兄さんは顔を近付けて俺にキスをした。小さな声で「愛している」と言い、そのまま――」
 彼の目は俺にだけ向いていた。他のものなど一つとして見えていないようで、俺が学校で友人と話すことすら敵視しているようだった。それが人を愛する行為だというのなら、俺の考えが間違っているのではないかと怖くなった。逃げ出し遠ざかった今でさえ彼の考えは分からない!
「まさか兄貴に強姦されたのか? お前、以前言っていたじゃないか。性的な暴力を受けたことはないって」
「あれは違うよ。あんなのは、ただの暴力だ。世間一般で言われてる強姦の類じゃない。だって兄さんは俺の腹に刺さった刃を抜こうとしなかった。痛いのに、苦しくてつらいのに、それをもっと奥へ侵入させようとしていた。その裏側で彼は俺を「愛している」と言うんだ! あんなことをされたら、俺まで頭がどうかしてしまいそうだった。いっそ狂ってしまえば楽になると思って何も考えないように試みたこともあった。でもそれは駄目だった、俺は余計なことばかりを頭で精製して、結局一人まともに生きている父さんのことを考えると、俺だけでもしっかりしていなければならないと思った。普通に生きることがあんなにもつらいことだったなんて知らなかった! もう誰も信じられなくなりそうで、誰に近付くことも怖くて、そのままじゃどうしたって生き抜くことが不可能になってたんだ! ……俺が兄さんに暴力を受けたことを知った父さんは、俺を全寮制の学校へ閉じ込めることで守ろうとした。それが理由だよ、俺があそこへ転校したのは」
「……」
 まつ毛の下に隠れている亮介の双眸が闇の中で煌めいていた。近いようで遠いそれはじっと一点を見据えたまま動かず、おかげで俺は奥にあるものを知ることができた。そこに潜むのは月光を映した刃ではない。鮮血を切り裂く風をも凌駕するベールだけが幾重にも降り積もっていた。
「もう分かっただろ、俺は皆が思ってるほど強い人間じゃない。怖いものに立ち向かう勇気もないただの臆病者なんだ。どうすればいいか分からなくなったら迷わず逃げ出してしまった。父さんに嫌な役を押し付けて、自分一人だけ平和な生活を手に入れてしまった。そしてそれに後悔すらしていない! 他にあるはずの方法を探す手間さえ押しのけて、新しくやり直すことで全て忘れてしまおうと考えたんだ! きっとそれは上手くいっていた。だけど本当は知っている、ただの一時しのぎの快楽でしかないってことを。学校を卒業すれば俺はまた戻るだろう。底のない絶望を味わう時を先送りにして、自分が一体何をしているのかも分からない」
 あまりにも多すぎる「分からない」ことを許せる時が来たならば、その時こそ本当に俺は変わることができるのだろうか。言い訳や装飾で自らの身を守ることを第一に考えるような人間から、全ての責任と真正面から向き合うことのできる大人になることができるだろうか。
「話を聞いただけで、軽々しいことは言いたくねえけど」
 聞こえる亮介の声が戸惑っていた。張り詰めた糸が細かく振動し、それが彼の全てを揺らしている。
「人間なんか、誰も完璧な選択は出来ないもんだろ。誰に何を言われても平気な奴だっていないだろ。むしろ間違うことの方が多いのに、お前がお前自身を許してやれなくて、一体誰がお前を許すっていうんだ」
「亮介は頭がいいから自分の過ちも次にどうすべきかってこともすぐに判断できるんだ。でも俺は馬鹿だから、まず考えることをやめようとしてしまった。いくら美化してみても俺は今のままじゃその行為を許せない。だから忘れようと、全て捨ててやり直そうと考えた。……もう戻りたくないんだ、この家族に」
 確かなものが何もない。俺が本当に望んでいること、それを見つけられたらいくらか楽になっただろう。だけど既に金色の鍵は振り返った先で落としてしまい、銀縁の扉だけが俺を待っていた。俺は何も持たないままその門をくぐって行ったんだ。
 誰にも迷惑をかけずに生きることは難しい。そしてそれ以上に、誰も巻き込まず死ぬことは難しかった。
「聡史兄さんはいい人だよ。いつも俺のことを気にかけてくれる。でももう会いたくはない。俺に近付かないで欲しいんだ。この家から出ていったのなら、きっと俺を探しに学園へ向かったんだろう。今確実に分かることはそれだけだよ、俺は兄さんに会いたくない」
「――そうか」
 そっと手を重ねられた。相手の白い指が俺の手に絡み付く。そこから感じられるあたたかさが彼の全てを物語っていた。
「呆れた? それとも嫌いになった?」
 訊ねると亮介はゆっくりと首を横に振った。
「俺のこと、もっと馬鹿にしてくれてもいいんだぞ」
「そんなことするわけないだろう」
「どうして? いつものお前なら迷わずそうしてたじゃないか。俺のことを困らせて、そして嘲笑っていたじゃないか」
「嗤ってやるもんかよ」
 手を握りながら彼は前を睨み付けていた。何かに怒っているような表情で、夜の闇をその視線で殺そうと試みている。
「嗤ってやるもんか。困らせてやるもんか。お前が自らを許せないって言うんなら、俺はお前に何もしてやらない。だから苦しんで生きていけ。死ぬまで地獄のような苦しみを味わえ! 逃げたいなら逃げればいい、絶望したいなら絶望してしまえ! 俺はお前に何も言わないからな、どんな痛みを見せられたって、同情なんかしてやるものか。ただ一つだけは約束してやる。お前が抱えているものを吐き出したくなった時は、何も口出しせず最後まで全部聞いてやるってことを」
 どきりとして、涙が出た。熱い雫が頬を伝い手の上に落ちた。彼の厳しさが嬉しかった。俺を叱るでもなく、甘やかすでもなく、第三者の立場から包み込んでくれる優しさが心を震わせた。
 俺はきっと亮介に甘えていたんだ。何も知らない相手を利用して、彼の友達になることで過去から逃げ出そうと考えていた。でも頭のいい彼は俺の闇を察し、あろうことか深く潜入しようとしてきた。最初は戸惑ったけど、俺は彼を信じることにしたのかもしれない。俺は亮介をどんな目で見ていたんだろう。彼に何を望み、何を期待して今彼の隣にいるのだろう?
 ――ああ、そうだ。きっと亮介は、俺にとっての光なんだ。
「悪かったな、無理矢理過去を掘り起こすような真似をして」
「えっ」
 涙を拭っているとこの世のものとは思えない科白が耳に届いた。それはどうやら俺の隣にいる奴が発したものらしい。しかしにわかには信じられなくて、驚きのあまりしばらく言葉を失ってしまう。
「……何をそんなに驚いてやがる」
「い、いや、だってお前、俺に謝った……よな?」
「それがどうしたんだ。俺は自分の非を認めたから謝っただけだ、驚く要素なんか一つもないだろうがこのバカ」
 驚いたのは一瞬だけで、相手はやはりいつもの亮介殿であるようだった。彼の言う「バカ」という響きが俺の心を安定させてくれる。……いや、本当はそんなことで安定したくないけどさ。
「お前は嫌がるかもしれないけど、どうしても知っておきたかったんだよ。お前が何を抱えて何から逃げてるのかってことを」
 手を握ったままの相手は落ち着いているようだった。普段なら照れて顔をそっぽに向けてしまうのに、夜の中では平気でいられるのだろうか。
「どうしてそこまで知りたかったんだ?」
「どうしてって、そんなの――」
 何かを言いかけた亮介はぴたりと発言を止めてしまう。そんなことをされると余計に気になるって分からないんだろうか。
 ぐいと顔を覗き込むと目をそらされた。目線を追ってそこに顔を入れると目が合い、相手は今度は逆方向に目を動かしていた。この狭い空間で彼の逃げ道は皆無に等しい。俺は相手の両肩に手を置き、少し力を込めて彼の身体を布団の上に押し倒した。
「て、てめえ、いきなり何しやがる!」
「正直に言ってくれないと押し潰しちゃうぞ」
「だから、それは――」
 漆黒の中でもはっきりと分かるくらい頬を赤らめている相手は、ようやく観念したかのように俺の目をまっすぐ見上げてきた。
 二つの目の間で確かな何かが交錯する。

「お前のことが――「好き」だからだ」

 好き。
 それはどうもありがとう。
 普通ならそう返しただろう。だけど彼の口から放たれたその単語には、今までに聞いたことのない響きが含まれていたことに気が付いた。いいや、俺はそれとよく似た言葉を聞いたことがある。
 彼の「好き」と重なる音。彼の「好き」と類似した振動。
『愛している、弘毅。お前だけは守るから――』
「亮、介」
 変わらない姿勢のままキスされた。だけど俺の口の中はいつの間にかカラカラに渇いていた。
 相手と目が合う。瞳の奥にある刃が恐ろしい。
「お、おい……大丈夫かよお前。顔色悪いぞ」
「ごめん」
 俺は自身の身体をベッドの上に放り投げた。すぐに相手の顔が心配そうに覗き込んでくる。
「そんなに俺に好かれるのがショックだったってのかよ、ああ?」
「そうじゃないんだ、そうじゃないんだよ、ごめん。でも駄目なんだ」
「何が駄目なんだ、俺は兄貴とは違うぞ、弘毅!」
 彼の言葉が俺を目覚めさせようとした。兄さんと亮介は違う、そんなことは分かってる。亮介は兄さんみたいに暴力を振るったりしない。亮介は兄さんみたいに俺を独占しようとしたりしない。分かってるんだ、分かってるはずなのに、どうしても信じることができない!
「ごめん亮介、俺は――」
 言葉を遮るかのように相手は俺にキスしてきた。彼にしては乱暴なキスだった。
「忘れてしまえばいい。忘れさせてやるから」
 相手の長い髪が俺の頬に垂れ落ちていた。
「いつか俺があの学園を飛び出した時、お前も一緒に来てくれ、弘毅。そして二人で一緒に生きていくんだ」
 それはかつて聞いたことのある願い。あの時に答えられなかった自分は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。
「うん」
 すんなりと答えていた。迷う暇などなく、最初から答えが決められていたかのように。
 亮介は目を閉じ、身体をすり寄せてきた。二人並んで闇の中に沈んでいた。天を駆ける星が静寂に輝き、道標となるべき月は雲に隠れて見えなくなっていた。
「まるでプロポーズだな、さっきの科白」
 試しに訊ねてみると相手は薄っすらと目を開いた。
「意味くらい自分で考えろ。みなまで言わせるんじゃねえよ、バカ弘毅」
「そうだな」
 心の拠り所はここにあったのかもしれない。
 過去につけられた傷が癒えることは決してないのだろう。だけど振り返って懐かしむことができる時が来るように、俺は自ら課していた足枷を外し歩いていくべきなのだろうと感じていた。

 

 

 

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