閉鎖

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8.追憶 - 04

 

「それじゃ、行ってくるよ」
「弘毅」
 ふわりとやわらかなベールに包まれる。そんな感覚が俺の身体を支配し、そのすぐ後で目の前にある現実が凍て付いた心を震わせた。
「気を付けるのよ。怪しい人についていっては駄目よ。朝起きたらちゃんと歯を磨いて、授業中は先生のお話をよく聞くのよ」
「分かってるよ、母さん」
 俺を抱き締めていた相手はふっと身体を離した。二人の目線が繋がり合い、言葉にならぬ言伝が光の如き速度で交わされる。
「それから」
 手を離そうとしたならまだ科白が続いていたことに気付いた。
「男の子とはお友達になったら、駄目よ」
「……うん」
 小さく返事をし、一つ頷いて見せたら、母さんの顔からさっと陰りが消え去った。

 

 

 田舎の道を二人きりで歩いている。朝早くから家を飛び出したせいか、辺りはしんと静まり人の影も見えなかった。
「何もこんな早い時間から帰らなくたって……ふあ」
 俺の隣で亮介が大きく欠伸をする。彼の頭には見慣れぬ寝癖がくっついており、なんとも新鮮味のある姿を見せてくれていた。
 家に居たくないと言った俺のわがままに付き合ってくれた亮介と父さんは、一日限りの帰宅を俺に許してくれていた。今朝は母さんの調子も良くてすんなり別れることができたし、あとは学園に帰るだけという簡単なものになっていた。
「バス停まであとどのくらいだよ、バカ弘毅」
「昨日と同じだってば。だから五分か十分くらい」
「うっぜぇな」
 とにかく亮介は朝が苦手なのか機嫌が悪い。半分くらい引きずらなきゃまともに歩いてくれないし、ちょっとしたことですぐに文句を言ってくるし、いつもの倍以上は俺をこき使う気配が大いに感じられた。もともと俺は巻き込まれる側だったものの、今は俺のせいでこういった事態になっていることを考えると、素直に彼を責められないのが心苦しさを彩っていた。だから俺は彼の言動を叱るような真似はしない。
「しかし腹が減ったな。おい弘毅、この辺で美味しいお菓子売ってる店とかねぇのか? ファミレスとかでもいいぞ」
「……お前、朝っぱらからお菓子食うつもりかよ?」
「糖分がなきゃ頭が働かないだろ」
 機嫌が悪くとも絶好調な亮介殿はやたらと元気そうだった。しかしこの田舎の道でお菓子屋や飲食店を探すとなると、バス停に着くよりも時間がかかることは分かり切っている。はたして亮介さんはバス停とお菓子のどちらを優先するのであろうか。
 ああ、間違いなくお菓子を優先するんだろうな。なんてこった。
「バス停を過ぎた先にお洒落なカフェがあったはず」
「こんな田舎にカフェとかあんのかよ? ま、とりあえずはそこを目指すか」
 完璧なまでにバス停を無視した相手は少し気分が良くなったらしかった。まあ時間はまだまだあるし、それなりにのんびりしていても今日中には学園に帰れるだろう。
 誰一人としてすれ違う人のいない道を歩いていると、五分も経たないうちに目的地であるカフェに辿り着いた。狭い店内には既に何人かの客がくつろいでいたが、それでもやはり空席が目立っている。どうやら開店時間ぎりぎりに着いたらしかった。
 とりあえず空いている席に座り、クールな装飾が施されたメニューを手に取ってみる。
「ショートケーキ、プリン、クレープ……か。見た目はなかなか美味そうじゃないか。お前は何にする?」
「俺はオレンジジュースでいいよ」
「お前相変わらず柑橘類ばっかだな。このみかんバカ」
「なっ」
 相変わらずお菓子ばっかり食べてるお前に言われたくない、と返そうかと考えたがやめた。ここで喧嘩をしていても仕方がない。せっかくの朝食なんだからいい気分で味わいたかったんだ。
 注文をするとすぐに品が運ばれてきた。俺の前には一つのコップに注がれたオレンジジュースが鎮座し、それよりも向こう側にはイチゴのショートケーキにプリン・ア・ラ・モード、バナナのクレープが並んでいる。見ただけでお腹いっぱいになりそうなメニューを亮介は口に運び始めた。甘そうな塊が次々と小さな口の中に消えていく。
「ふん、まあまあだな」
 ぺろりと全てを平らげた亮介殿は偉そうな感想を零していた。この他の全てを見下したような態度ってどうにかならないもんかね。
「おい弘毅、もう行くぞ」
「あ、うん……ってちょっと待て、まさかとは思うけど、俺が金を払うのか?」
 気付かなければいいことに気付いてしまい、さっと全身から血の気が引いた心地がした。慌てて訊ねてみたものの、亮介は平然とした顔でこっちを見てくる。
「はなからてめえにゃ期待してねぇよ」
「え」
 何やらよく分からない言葉を残し、亮介はさっさと歩き出してしまった。そのままレジへと近付き、懐から自分の財布を取り出して料金を支払う。あまりにもすんなりと払ってくれたので俺は面食らってしまった。そもそもあの自分大好きで他の連中を足蹴にする亮介殿が他人の為に金を払うなんて、まるで天変地異でも起こったかのような大事件ではないだろうか。
 などと意味のないことを考えていると、相手は俺を取り残して店から出てしまった。はっと我に帰った俺は慌てて彼の背を追う。
「亮介、おいってば」
「あん? 何だバカ弘毅」
「あ、ありがとな。金払ってくれて」
「……」
 お礼を言ったはずなのに睨み返されてしまった。ついでに沈黙というオプションも付けられ、どういうことなのか全く分からなくなってしまう。これは何だ、やはり亮介は怒っているのか? でも自分から金を払いに行ったし、相手の考えが一つとして見えてこない。
 いつかは目を合わせることもなく分かったはずだったのに。あれは偶然で、単なる俺の思い込みだったということか?
「さあて、腹も満たされたことだし、ちょっくら遊びに行くか」
「え、遊びにって――学園に帰らないのかよ?」
「そんな焦って帰る必要もないだろ。それよりお前の故郷、案内してくれよ」
 彼の顔に企みや悪戯心は見られなかった。裏表のない珍しい表情がそこにある。こんな彼の姿を見たのは今日が初めてかもしれない。それは学園から離れ、外の世界で過ごしているからだろうか。
「案内って言われても、見たら分かるようにここは田舎だし、そんなわざわざ連れて行くべき場所なんかないぞ」
「じゃゲーセンに連れてけ」
「は――」
 ごく自然な流れでぽんと飛び出したのは不自然な単語だった。ゲーセンって。おいちょっと待てよ、確かに亮介は悪魔の如き性格で俺を馬鹿にしまくってくる奴だけど、世間じゃ儚げな優等生で押し通してるんじゃなかったっけ。そんな奴がゲーセンに行くってお前。通りがかった学園の生徒に見られたら一瞬でそいつの夢を壊しちまうんじゃないのかよ?
「何をぼんやりしてやがる、早く連れていけよ」
「ええと、その。ここからじゃ結構遠いぞ? いいのか?」
「俺は距離のことなんか何も言ってないじゃないか。その意味が分からないのか? どれほど遠くても構わないから連れて行けってことだ、いちいち言わせるんじゃねえよバカ」
 乱暴な言葉だったけどそこに棘は含まれておらず、ともすればそれは普段よりも幾多もやわらかい声色をしていた。振り返った彼の目は繊細できめ細やかな淡い朝陽を映し出していた。……

 

 

 近所のゲーセンに案内すると亮介は周囲をきょろきょろと見回していた。何かを探しているようにも見えるその仕草は、だけど一向に収まる気配がなく、こちらから止めないと一生続きそうな気がしたのかもしれない。俺はおそるおそる相手の邪魔をした。
「亮介、何を探してるんだよ」
「いや……ずいぶんいろいろあるんだなと思って観察してただけだ」
 お世辞にも広いゲーセンとは言い難いここですらいろいろあると思えるのなら、亮介の知っているゲーセンとは一体どれほど小さなものだったのだろう。確かに亮介の住んでいる地域はここにも負けないほどの田舎だが、いくらなんでもここより狭いゲーセンしかないってことはないだろう。
 とすると、どういうことだ? まさか彼は――。
「なあ亮介」
「その通りだ、弘毅。お前はバカのくせに察しがいい時がある」
「……まだ何も言ってないじゃないか」
「ふん、お前の言いたいことなど全てお見通しだ」
 心を読むことが得意な亮介さんは俺の考えが分かったらしい。そいつは凄いや。でも俺の考えが間違ってたらどうするんだよ。
 とりあえず確定的な事実が欲しかった為、改めて相手に聞き直してみることにした。
「お前さ、もしかして、ゲーセンに来たの初めて?」
「それだけじゃないぞ。俺は今まで生きてきた中でゲームをしたことがない」
「う、うわあ」
 何やら自慢げに相手は腕を組んでいたが、彼の過去はそれほど誇らしいことではなかった。昔から親の望む子供を演じていた彼にとって、ゲームとは不良のするものだと考えていたということなのだろうか。そうやって湧き上がる欲望をずっと抑え込んでいたのなら、それはやっぱり悲しいことだった。
「ていうか亮介お前、それじゃ休みの日とかって何をして時間を潰してたんだ? 読書とかか?」
「まあ読書もしてたが、ガキの頃は朝から晩まで勉強してたな。そんなことはどうでもいいから弘毅、俺にしかできないような難しいゲームを教えろよ」
 あくまで自信満々な相手は再びきょろきょろと周囲を見回し始めた。
 しかし、亮介にしかできないような難しいものとなると、やはりパズルゲームなんかが相性がいいんだろうか。思い返せば兄さんもパズルゲームは得意だったし、頭のいい人はパズルという偏見が俺の中で出来上がっている。
「じゃあこれとかどう? ルールは簡単だけど結構難しいぞ」
「いいだろう、受けて立とうじゃないか。俺の天才っぷりに驚くなよ?」
 初心者のくせに威張り腐っている亮介は不敵な笑みを見せてきた。椅子に座って百円玉を機械に投入し、簡単なルール説明を眺めてからゲームをスタートさせる。
 俺は隣の席に座り眺めていたが、最初から心配など一つもしていなかった。そして俺の予想が見事に的中したかのように、亮介は最初の一回で操作をマスターしてしまい、あれよあれよという間に次々とステージを進めていく。
「なんだよ、大して難しくねえじゃんか」
「お前にとってはな……」
 結局彼は百円玉一つで最後のステージまで突破してしまった。何なんだこの天才は。頭がいい奴の頭の中ってどうなってんだよ。凡人には理解できないお星様とかが飛び交ってんじゃないか?
 田舎のゲーム機に恐ろしいハイスコアを記録させた亮介は立ち上がり、また首を動かして何かを探し始めた。こいつってどのゲームをしてもすぐにマスターしてしまうんじゃないだろうか。もしそうなら、ゲームなんか楽しめないのかもしれない。
「よし亮介! 今度は俺と対戦しようぜ」
「は? お前本気で言ってんの? この亮介様にお前なんかが敵うわけがないのに、無謀な挑戦だって分かんねえのか?」
「そう言ってられるのも今のうちだぞ」
 相手の腕を掴んで一つのゲームの前へと案内する。そこへ辿り着くと、目の前からぴこぴこと派手な音が二人の高校生を出迎えてくれた。
「……何だこれ」
「音に合わせてここを叩くゲーム。さ、始めるぞ」
「ちょ、ちょっと待てよ、おい!」
 他のどんなゲームでも楽しめないというのなら、彼の唯一の弱点である音を使ったゲームなら大丈夫だと思ったんだ。顔色が変わった亮介の制止の声を無視してゲームを始めると、渋い顔をしながらも相手は臨戦体勢になってくれた。
 俺だってこのゲームに慣れているわけじゃなかったが、いざ始めてみると亮介のプレイは滅茶苦茶だった。手が音についていってないし、リズムは崩れてるし、どう見ても素人以下のレベルでしかないパフォーマンスを俺の隣で演じてくれていた。当然その勝負では俺が勝つことになる。
「ほらな、言っただろ?」
「くっ……もう一回だ、もう一回!」
 再び銀色のコインが投入される。
 二度目の対戦でも結果は変わらなかった。俺が勝つと相手はすごい勢いでこっちを睨み付け、とんでもなく素早い動きで百円玉を機械に入れていた。まさかこいつ、自分が勝つまで諦めないつもりじゃないだろうな。
「なんでそんなに的確にできるんだよ、お前何かズルしてるんじゃねえの」
「じゃ、場所変わってみる?」
 鋭い瞳の相手と場所を入れ替え三回戦を行う。それでもやっぱり結果は同じで、更に亮介の目は細くなった。
「もう一回!」
 俺の予感が当たっているのか、勝ち星を得なければ相手はここを動かないつもりなのかもしれない。だけど簡単にクリアできてしまうパズルゲームより亮介はずっと楽しそうだった。ゲームの面白さは完璧を極めると途端に味わえなくなってしまう。それを最初から得てしまう亮介は、やっぱり俺から見るととても不幸な人間のようにしか思えなかった。

 

 

 午前中の大半をゲーセンで過ごし、適当なファミレスで昼食をとった後、俺と亮介はふらふらと田舎の道を歩いていた。いい加減バスに乗らないと今日中に学園へ帰れない気がしたが、亮介はまだ帰る気はないらしく、俺の言葉を無視して田舎の風景を眺めていた。
「お、川だ」
 道路沿いに歩いていると大きな川に出くわした。家の近所を走るその川は地元じゃ有名な存在で、俺も小さい頃はよく兄さんや妹と共に遊びに行っていたことを思い出す。
 無邪気な相手は平静を装いつつゆったりと川へと近付いていった。
「おー」
 手を伸ばせば触れられるほどの距離まで縮め、そこで亮介はすとんとしゃがみ込んだ。何の躊躇いもなく両手を伸ばして川の水に触っている。
「冷てー」
「水なんだから当たり前だろ」
「魚とかいないのか?」
 まるで彼は子供のようだった。じっと水面を見つめて魚を探しているようだ。俺が近付くと向こう岸に集まっていた鳥が一気に飛び立った。
「綺麗な川だな。俺の家の近所、川なんかなかったから新鮮だ」
「ふうん?」
 魚を探すのに飽きた相手は足元に落ちている丸い石を手に取る。それを川に向かって投げ、広がる波紋をただぼんやりと眺めていた。俺は彼の隣にしゃがみ込んだ。
「なあ亮介、さっきゲーセンで言ってたことだけど」
「うん?」
 今の相手はどうしても亮介に見えない。いいや、彼こそが本当の亮介なんだろうけど、全ての仮面を剥ぎ取った彼の姿は、あまりにも普通すぎて一般人のようにしか思えなかったんだ。
 ああきっと、俺はこんな彼の姿に惹かれているんだ。
「子供の頃の話。休みの日はずっと勉強してたって言ってたけど、やっぱお前って生まれついての天才じゃなかったんだな」
「なんでだよ」
「いや、だって子供の頃に知識を蓄えたってことだろ? 最初から何もかもを理解するなんて不可能だもんな」
「……」
 川の音が二人の声を掻き消していた。だからこの会話は二人以外の人間には分からない。宇宙から切り離された空間がここにあった。
「確かにガキの頃は、ちゃんと勉強しないといい成績は取れなかった。でも途中で分かったんだよ。人間ってのは勉強の仕方を変えるだけで天才にも馬鹿にもなれるって。……お前、今はどんな勉強法してる?」
「どんなって、俺はコツコツやるタイプだな。予習と復習を繰り返すような」
「それで満足できるならそれでもいいが、俺はそれじゃ駄目だと気が付いた。お前も知ってるように、俺はテスト前の一回しか教科書は読まない。でもその一回で全てを覚え切るんだ。書いてある文字を覚えるんじゃない、視界に映るページ自体を頭に叩き込む。端的に言えば教科書の丸暗記だな。一体どういう因果か、俺はそれができる記憶力を持ってたってことさ」
 静かに語った彼の言葉は確かに俺の胸に響いてきた。そこに嘘が含まれていないことは明白で、テスト前の彼の姿を思い出すと納得できるものばかりが並んでいた。
「その記憶力が天才である所以って感じだな」
「逆に言えば、ただそれだけだ。俺は先人の知恵は得られるが、そこから新たな発想を生み出すことができない。つまらない人間だ。だから俺はキアランが羨ましかった」
「そっか」
「今は絹山幾人も円センセーも黒田も羨ましいし、お前のことも羨ましい」
 彼がどうして文句を言いつつもキアランと仲良くしていたのか、なぜ散々バカにしながらも先生や俺にくっついていたのか、その理由がようやく分かったかもしれなかった。亮介は「個性」というものに強く惹かれているんだ。最も分かりやすかったキアランの夢を起点とし、円先生や絹山幾人、晃と陰、そして俺という人間にまで彼の視界は広がった。一人一人が抱えるものを発見した彼は、自分が持っていないものに憧れている。そして自らの足元を見て「持っていない自分」に失望しているのかもしれない。
「でもさ、やっぱお前って天才だと思うよ。その記憶力も充分すごいことだし、何より応用力がなければ解けない問題だってたくさんあるじゃん。それに覚えるだけじゃ活かせない公式もある。おまけにスポーツもできる。俺みたいな一般人からすれば、すごく羨ましいよ」
「……当然だろ」
 この異様なまでの自画自賛も自分自身を守る為の手法だと分かっている。彼は自分を素晴らしい人間だと本心では思っていないのに、そう口に出さなければ壊れてしまうと理解しているんだ。だから何度も嘘を言う。そして俺はそれに気付かないふりをする。
「亮介はさ、どんな大人になりたいんだ?」
「え」
 冷たい風が二人を包んでいた。たくさんの鳥たちが頭上を通り過ぎていく。
「俺はまだ考え中なんだけど、卒業したら大学に行って、どこかの会社に就職して、父さんを助けようと思ってる。母さんの治療費も稼いでさ、いつか昔のように……普通に暮らせるようになれればいいなって、そんな現実逃避をしてるんだ」
 相手はこちらを見た。首を動かし、じっと目を見つめてくる。だけどその眼差しは悲しげな色を湛えていた。夢のような瞳に吸い込まれてしまいそうだ。
「亮介は?」
「……」
 ふっと彼は目をそらす。唇を噛み締め、俯いて顔も見えなくなった。すぐ近くにいたから分かったけど、彼は小さく震えているようだった。
 何が彼をこうさせているのか。未来を語る時、いつも亮介は俯いてしまう。なぜなのか? 彼は何を知っているのか?
 そしてその苦しみを俺にも分けて欲しいと思うのは傲慢だろうか。
「亮介」
 動かない彼の手を取る。それはとてもあたたかい。
 肩に手を置き、そっと身体を近付けた。全身の軸をずらして徐々に相手に重なっていく。俯いた顔に目を近寄せ、少し浮上したその顔に手を添えた。そして相手の呼吸を自分から奪う。
「ん――」
 俺からの初めての贈り物だった。鼻と鼻をこすり合わせるように、相手の香りをすぐ近くから感じる。やわらかな唇が俺のそれを優しく受け止め、そのまま幾らかの時が静かに流れた。
 身体を離した時、辺りは夕焼け色に染まっていた。
「どうして」
 ようやく見えるようになった相手の顔は一筋の涙で濡れている。俺はそれをそっと拭い、彼を安心させる為に微笑んだ。
「だって俺、亮介の彼氏だから」
「それは――俺を薬から遠ざける為の設定だ。お前の本心じゃない」
「本心だって言ったら、嫌か?」
 オレンジに染まった彼の瞳は深い海の底を反映しているようだった。水面下で出会った俺という人間に、彼はどんな光を与えてくれるのだろう。俺は彼を地上へと導くことができるだろうか、その役目を手にする人間は水瀬弘毅で構わないのだろうか。
「どうして!」
 亮介は取り乱したかのように頭を横に振る。いくら心の底からの言葉を伝えたとしても、必ず歪められてしまうのなら。
「俺は亮介の力になりたい。友達でも恋人でも何でもいいから、お前の幸せの手伝いをしたいんだ。お前のその悲しそうな顔を見たくない。望むのなら、友達にもなるし恋人にもなる、家族にだってなってみせる。俺はお前のこと、好きだから」
「……すき」
 聞こえた音を繰り返すよう、彼は唇から一つの単語を零す。その裏側にある単語は表裏一体ではないと誰が知っているだろう?
 再び彼の唇を奪った。強引に貪り尽くし、彼の全てを身体の一部から感じ取る。
「だから、どうしてなんだ」
 それでも相手が知りたがるのは理由だけだった。俺の服を掴み、途方に暮れた迷子のような目でこちらを見てくる。
「分からないよ」
「わからない?」
「そう、分からない。俺はさ、妹がああいう目に遭って以来、誰のことも本気で好きになれなかった。女の子にも興味がなくなったし、恋愛事とか、まるで駄目だった。本気で他人を愛することができなかったんだ。それなのに、今はお前のことがすごく気になってる。お前が幸せになってくれたら俺も嬉しいし、どうにかしてお前を楽しませてやりたいんだ。おかしいよな、ただの友達でしかないのに、ここまで入れ込んでしまうなんて。だから本当に分からないんだ。自分が一体何を一番に望んでいるのか……どうしてここまで、亮介のことが気になってしまうのか」
 そしてなぜ俺は彼にキスをしたのか、その理由すら分からない。同性の彼に贈るキスを相手はどう思っているだろう。慣れているからすぐに忘れてしまうだろうか、それとも気持ち悪いと蔑むだろうか?
 期待しているのは一つの答えだけだ。
「昨夜の亮介の言葉、本当は嬉しかった」
「……」
「好きだと言ってくれたよな? あれがもし本心なら、俺はすごく嬉しいよ」
 亮介が嘘を言っていなかったことはもう分かっている。それなのに疑う真似をする自分は卑怯だと思った。どうしても彼からの言葉を引き出したかったのかもしれない。
「なあ、亮介」
 いくら名前を呼んでも、いくら話しかけても、彼を手に入れることはできない。
 ならば奪ってしまえ。この広い宇宙の中から引っ張り上げ、俺の世界に連れ込んでしまえばいい。
 簡単なことだ。
「お前のこと、好きでいてもいいか?」
 ああ、それは簡単なことだった。とてもとても簡単なことだった。
 でもそれよりももっと簡単なことは、彼を内側から壊してぐったりした身体を手に入れることだったんだ。

 

 +++++

 

 学園に帰った時にはすっかり辺りが暗くなっていた。夏休みと変わらず人の姿がほとんど見えない廊下を二人で歩き、部屋の扉を開けると確定的な安堵が胸を打った。俺たちはようやく帰ってきたことを実感する。
 カーテンを開けると爽やかな夜空が見えていた。星はひっそりと輝き、雲の隙間から月が顔を出す。風が彼らを包み込むと世界から色を消していた。そうやって作られた夜空はノスタルジックな気分にさせるには充分な魔力を秘めている。
「それにしても、バスに間に合ってよかったな。ぎりぎりだったけど」
「ふん」
 荷物を机の上に置き、亮介は俺に背を向けたまま片付けを始めた。あの川での告白からずっとこんな調子が続いている。相手の感情は何一つ見えてこないし、どう対応すればいいのやら。
「疲れたから俺、もう風呂入って寝るな。夕飯は要らねえや」
「そうかよ」
 なんとも冷たい返事だけが飛んでくる。いつもはもうちょっと愛想があったはずなのに、そこまであの告白が嫌だったのかよ? 何気にショックなんだけど。
 もやもやしたままの気持ちでシャワーを浴び、湯船には浸からずすぐに風呂から出ると、入れ替わるように亮介が風呂に入っていった。当然のようにすれ違う時に掛け声はなく、ますます胸のもやもやが広がってしまう。
 だけどそれはほんの数分のものでしかなかった。風呂から出た亮介は冴えた目でじっとこちらを見つめ、ベッドの上に座っていた俺の隣に腰を下ろしてくる。そのままぴたりと身体をくっつけてきた。おかげで触れている部分がじんわりとした熱を帯びる。
「な、何?」
 速度を増した鼓動を覚られない為にわざと声を出して訊ねた。亮介は俺の肩に頭を乗せ、そっと手を重ねてくる。
「……しないか」
 まるで意図が掴めない科白だけがはっきりと聞こえてきた。
「何をするって?」
「だから――その、アレだアレ」
「ん?」
 分からないふりをして首を傾げる。相手はきゅっと手の力を強め、首の辺りに唇を押し付けてきた。
「本当に分からないのかよ、おい……」
「いいよ。しようか」
 彼の頬に手を添え、合図としてのキスをした。そのままベッドの上に相手を押し倒し、抵抗しない彼を貪り始める。
 そうして長い夜は始まった。

 

 

 

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