閉鎖

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9.終焉 - 01

 

 長かった終わりがようやく始まる。

 

 

 透明なガラス玉のように澄んだ空気が学園内を包んでいた。
 冷たい風が吹く季節が舞い降り、それもが通り過ぎようとしている景色の中に、いつもと変わらない通常が座り込んでいる。冬休みが終わるとあっという間に季節は変わり、気が付けば卒業式の足音が聞こえるカレンダーが月日を刻んでいた。
 学園内ではシーズンに合わせ生徒たちはそわそわし出し、まるで祭りが始まる前日のような雰囲気が構成されている。中には親しみ心を通わせ合った先輩との別れを惜しんでいるような同級生も見られたが、ただ一人だけ、とんでもなく機嫌が悪そうな人が俺の身近にいた。
「なあ晃」
 俺は普段通り授業の合間に晃と話をしていた。今日は晃の苦手な体育があったが、なぜか陰は部屋で待機しているらしい。だから妙に噂に精通している晃と話をしているわけだが。
「おう、どうしたよ」
「いや……なんか最近さ、やたら亮介の機嫌が悪い気がするんだけど」
 卒業式が近付くにつれ機嫌が悪くなるたった一人の人間。それこそがまさに俺と同室の加賀見亮介だったのだ。
 何が気に入らないのかと聞いたこともあったが、お前には関係ないと言われ理由を知ることができなかった俺は晃に頼ることにした。最近は客の数も減っているようだし、薬を飲んでベッドで寝転んでいる時間が多くなり、部屋の外に出ることすら嫌がっているようだった。
 とにかく俺は理由が知りたかったんだ。理由が分からなければどうしようもないし、もしそれが判明したなら俺にできることだってあるはずだから。
「加賀見はこの季節になると毎年あんな調子になってるぜ」
「……マジで?」
「おうよ」
 相手からもたらされた答えによると、どうやら俺が原因で亮介の機嫌が悪くなっているわけではないらしい。それは良かったんだけど、じゃあ一体何があいつの気に障っているのだろうか。
「もっと具体的に教えてくれ、晃」
「そんなこと言われてもなぁ……やっぱりあれじゃないか、今まで客としてもてなしてきた先輩がもう少しでいなくなるから、それが嫌なんじゃないのか?」
「えー……」
 確かに収入源である先輩たちが卒業するのは苦痛かもしれないが、でもあいつは下級生を相手にもしているようだから、それはあまり関係ないような気がした。なんとなくだけどもっと別の要因があるような気がする。それこそ常人の俺なんかじゃ想像もつかないとんでもない要因が。
「気になるなら本人に聞けばいいじゃないか。聞いたぞ弘毅、お前加賀見のコイビトになったんだろ?」
「なっ――なんで知ってるんだよ!」
「新聞部の奴らが堂々と書いてたぞ」
 いつの間にやら俺と亮介の関係は知れ渡っていたらしい。それにしては俺が睨まれることがほとんどなく平和に暮らせたのは、きっと亮介が俺との仲を公認しているからなんだろうな。亮介のファンたちは亮介の言うことなら何でも受け入れそうだし。
「とにかく、亮介に聞いても教えてくれなかったから晃に聞いてるんだよ。俺には関係ないから気にするなとか言われてさ」
「じゃあ気にしなければいいだろ。本気で困ってんなら相談くらいしてくるだろうし」
「そうかなぁ」
 あのプライドだけは高い亮介殿が俺なんかに相談をしてくるなんてことは、たとえ天地がひっくり返ったとしてもなさそうなことだった。音楽祭の時ですらあんな感じだったんだから、相手が相談したくとも俺から聞き出さなければならなさそうな気がする。
「晃になら話してくれたりして」
「ないない。俺、別に加賀見と仲いいわけじゃねえし、話すならやっぱ弘毅だろ」
「いや……あいつ俺にだけは負けたくないらしいから、それで余計に意地張ってんじゃないかと思ってるんだよ」
「恋人なのにか?」
 むしろそういう関係になってしまったことがそもそもの原因だったんじゃないだろうか。俺はそれほどその「恋人」というヤツに敏感になっていたりはしないけど、周りは俺と亮介をそういう目で見てくるし、亮介は亮介で何を考えているのか分からないし。いつまで保つか分からない関係は二人をこじらせてしまったんじゃないだろうかと、少し怖くなる時がある。
「本当のことを言えば俺と亮介は恋人じゃないんだよ。あいつを薬から遠ざける為に恋人のふりをしてるだけなんだ。だから今でも仲良くしてるわけじゃない」
「まあ、恋人だなんて言っても所詮は学園内限定の恋人だもんな。一歩外に出ればお互いに忘れちまうような関係なら、そんなもんだろ」
「……」
 なにやら今日の晃は亮介のようなことを言っていた。まるで未来を全く見ていないような、暗闇へ手を伸ばしているような科白を俺の前に掲げている。
 そういえば俺はまだ晃のことをほとんど知らなかった。もう付き合って一年が経ちそうであるくせに、俺は彼の表面的な事情しか知らず、内面にまでは深く踏み入ったことがなかったんだ。亮介とは求めたわけではないのに互いに腹の底を明かし合ったのに、この差は一体どこから来たものなのだろう。
「ん? どうしたよ」
 その黒い瞳の奥にいつも光っているものは何なのか。
「なんでもない。また後で亮介に直接聞いてみることにするよ」
「そうか。頑張れよ」
 何を頑張ればいいのかは知らなかったが、相手の応援は素直に受け取っておくことにした。

 

 

 部屋に戻ると亮介はベッドの上で寝転んでいた。その隣には薬のビンが蓋を開けられたまま転がり、床の上には幾つかの錠剤が散らばっている。
「亮介」
 声をかけても返事はなかった。その代わりにぐるりと身体を回転させ、相手の顔が見えなくなってしまう。話したくないということなんだろうな。
 仕方がないので俺は床の掃除をすることにした。落ちている白い粒を拾い上げ、全てゴミ箱に捨ててしまう。亮介はどれほど綺麗でも床に落ちたものを食べない奴だった。薬でもそれは同じらしく、以前それを指摘するとすごい勢いで反論されてしまったことがある。
 床の掃除が終わり俺もまたくつろごうとソファに座り込むと、身体ごとそっぽを向いていた相手が首だけ動かしてこちらを見てきた。そうしてしばらくじっと見つめられる。
「な、何」
「お前ちょっとキアランの所に行って薬買ってきてくれよ」
「えっ」
 突然の命令に焦っていると、亮介は傍にあった机の上からメモ用紙を投げてきた。ひらひらと舞うそれを受け取ると、綺麗な字で数種類の横文字が書かれていることが分かった。どうやらこれは薬の名前らしい。
「金は後で払うと伝えておいてくれ」
「そんなこと言われても……」
「いいから行けよ。俺は今、動きたくないんだ」
 どうにも行く気になれなかったが、ふとキアランなら亮介の今の状態について知っているんじゃないかという考えが湧き上がってきた。彼はあれでいろんなことに詳しいし、ヒントくらいなら得られるんじゃなかろうか。
「じゃあ行ってくる」
「早くしろよ」
 結局最後まで背中を見せられていたが、そんなことはもう忘れて俺は次の場面のことばかりを考えるようになっていた。

 

 

 初めてキアランと出会った部屋を訪ねると、薄暗い空間の真ん中に誰かが立っていることが分かった。近付かなければ相手が誰なのかは分からなかったが、彼の周囲に漂う雰囲気が相手の正体を物語っているように感じられる。俺は安心したまま相手に近付いていた。
「あれ、弘くんじゃない。珍しいね、君がここに一人で来るなんて」
 聞こえてきた声は間違いなくキアランのものだった。分かっていたこととはいえ、なんとなくほっとしてしまう。
「亮介に頼まれたんだよ、外に出たくないから代わりに薬を買ってきてくれって」
「ああ、亮ちゃん今の時期は駄目だもんね。じゃあいつものヤツを渡しておこっか」
 やはりキアランは知っていたんだ。だとすれば俺がここに来た意味もあるというわけだ。
「キアラン、あいつは一体何がそんなに気に入らないんだ? 今の時期って何があるんだ?」
 薬を選んで集めている相手に問うと、彼は動作を止めて少しだけ考えているような仕草を見せてきた。闇の中で小さな息遣いが広がっていく。
「ボクも詳しくは知らないんだけどね……卒業式が気に入らないって感じのことを言ってたことがあるんだよ。それも毎年あんな感じだから、特定の先輩とお別れするのがつらいってわけじゃないみたい」
「じゃあ、なんだ、あいつは卒業式そのものが気に入らないってことか?」
「普通に考えるとそうなるよね。でもそんなの意味不明だよねぇ」
 この学園の卒業式は一般の卒業式と異なる点でもあるのだろうか。卒業式なんて長ったらしい話を聞いて、卒業証書を受け取って、適当な挨拶をして歌を歌って終わりじゃないのか? まさか歌が嫌だから気に入らないってわけでもないだろうし、考えれば考えるほど彼の思考が分からなくなりそうだ。
「亮ちゃんって将来の夢とか何もないみたいだし、だから卒業後のことを考えて憂鬱になってるだけなんじゃないかな」
「うーん」
 キアランの推理も間違ってなさそうなものだけど、それでも自分が卒業するのはまだまだ先のことだし、あの亮介が今から焦っているようにはどうしても思えなかった。俺の中の何かは要因なら別にあるはずだと言っている。そこに確かな証拠なんて何もないけど、結局は無理にでも本人に聞いてしまうのが一番の解決策なんじゃないかという結論に至るのだった。
 薬が入った袋を受け取り、相手と一度だけ目を合わせる。
「そういえば弘くん、亮ちゃんの恋人になったって本当?」
「げっ……キアランまで知ってるのかよ」
「ボクは弘くんがそうしたいなら構わないんだけど、大変じゃない?」
 彼の言う「大変」の中には言葉にできないほど多くのものが含まれている響きがあった。それは彼自身の経験がそうさせているのか、それとも俺の身を案じて必要以上に心配をしているせいなのかは分からない。
「今のところは上手くいってるよ。ていうか、正確に言うと俺と亮介は恋人じゃないし」
「あれっ、違うの? なぁんだ」
 何やら不思議な反応を示され違和感を覚えた。晃の時もそうだったけど、俺はキアランのこともよく知らないのかもしれない。
 これまで一緒に過ごしてきたつもりなのに、感情にまで入り込み何もかもを見てきた相手は亮介だけだったんだ。
「それじゃあ亮ちゃんによろしくね」
「なあ、一つ聞いてもいいか」
 今聞いておかなければ一生機会がないような気がしたんだ。だから闇の中に引っ込みかけた相手を呼び止めた。
「キアランはどうしてこんな……薬の売人なんかをしてるんだ?」
 くるりと曲がっている髪が彼の表情を隠している。それでも見えている部分は朗らかで、誰のことも恨んでいない優しげな感情を潜めているように見えた。
 一呼吸置いてから相手はふっと微笑み、俺に一つの答えを与えてくれる。
「当時好きだった先輩に頼まれたからだよ」
 あまりにもあっけないその返答は、俺の中にあった何らかの偶像を破壊するには強すぎる要素であった。

 

 

 夜が来ると部屋の中はしんと静まり返っていた。いつもなら来客のせいでなかなか眠れないこの時間帯も、今は誰の声も聞こえず安らかな空間が造られている。それが普通と言えばそれまでなのだが、同室の彼と共に暮らす俺にとっては確かに異常な事態だったのだ。
 浅い時間であるせいか、亮介はまだ眠らずベッドの上に座り込んでいた。ぼんやりと窓の外を眺め、空に浮かんでいる星を見ているようだった。
 いつまでも躊躇している場合じゃないことは分かっていた。一度断られたとしても、何度でも挑戦するべきなんだろう。だから俺は相手の隣に腰を下ろす。
「なんだよバカ、さっさと寝ろよ」
「お前に話があるんだ」
「却下」
 内容を言う前に断られてしまった。きっと相手も俺が何を言いたいか察しているんだろうな。とにかく俺も亮介も、この一年でたくさんのものを見せすぎてきたんだ。俺たちはその責任を負って生きなければならないのかもしれない。
「亮介、お前さ、最近機嫌が悪いのは……もう少しで卒業式があるからなのか?」
「そうさ」
 覚悟を決めて訊ねてみたのに、なんとも気の抜けるような返答が示されてしまった。おいおい、俺には教えたくなかったんじゃないのかよ。それなら以前聞いた時に教えてくれてもよかったじゃないか。
「それがどうかしたのか」
「えっ、だって、ほら――なんで卒業式が嫌なのか分からないし」
「お前は知らなくていいことだ」
 驚いているところに向けられたのは前回と同じような科白だった。ぐるりと回って戻ってきたみたいだ。
「先輩と別れるのがつらいとか?」
「別に」
「歌を歌うのが嫌だとかって理由ではないよな」
「当たり前だろ」
 相手は目さえ合わせてくれない。飛んでくるのはぶっきらぼうな返事だけで、話をすること自体が面倒だと言わんばかりの声色をしていた。もしかしたら俺は彼を追い詰めようとしているのかもしれない。
 もしそうだとすると、これ以上は何も聞かない方が賢明なんだろうか。
「無理に聞き出すような真似はしないけど、相談ならいつでも受けてやるからな」
「……」
 何を言っても窓の外から視線を外さなかった相手は黙り込み、仕方がないので俺は眠りの中へ逃げ出すことにした。

 

 +++++

 

 何もなければ月日が経つのは早いもので、気が付けば卒業式の当日が俺たちの前に立ち塞がっていた。
 知り合いの三年生なんていないし、俺にとっては長々とした話を聞かされて疲れるだけのイベントという印象しかなかったが、クラスの中では涙を見せている生徒の姿も見受けられた。しかし肝心の亮介は卒業式に参加はしたもののすぐに部屋に引っ込んでしまったらしかった。教室の中で彼の空席が異様な雰囲気を醸し出している。
「来年も同じクラスになれればいいな、弘毅」
「この学園ってクラス替えとかあるんだ」
「そりゃまあ。でもルームメイトとはずっと一緒のクラスになるぞ」
「ふうん……」
 湿っぽくなっている教室内で俺は晃と他愛ない会話を交わす。もしかしたらこうして彼と気軽に話ができるのはこれが最後かもしれないと考えると、ちょっとだけ淋しく思えてきた。部屋の位置を知ってるからそれほど悲しむべき要素ではないけど、それでも同じクラスの一員だったからこそここまで仲良くできたんじゃないかと感じるんだ。
「ま、クラスが別になっても仲良くしようや」
「そうだな」
 まるで最後の挨拶のようなものを交わし、俺は教室を出て行った。

 

 

 部屋に戻っても亮介の姿はなかった。扉にはきちんと鍵がかけられているし、どうにも誰かが部屋に入った気配が感じられなくて、亮介は卒業式の後にここへ帰ってきていないのではないかと思った。
 彼が部屋に帰らなかったのなら一体どこへ行ったんだろう。まさか円先生の所に行ったとは考えにくいし、最近の様子を考慮すると卒業する先輩たちに挨拶をしているとも思えない。こんな時にキアランの所に行くのもおかしなことだし、誰かと一緒にいるわけじゃないのかもしれない。
 亮介が一人で行くような場所。誰にも会いたくなくて――もちろん俺にも会いたくないから逃げ出したのなら、俺も知らないような場所へ行ったのかもしれなかった。だけど諦める前に探してみても無駄ではないだろう。卒業式の当日であるこの時なら、彼の気持ちも少しくらい理解できるかもしれないから。
 傷心した彼が向かいそうな場所で思い当たる所は一つしかなかった。かつて無理矢理連れられて訪れた場所がある。もしもそこに居るのなら、あいつは俺には会ってもいいと考えているはずだ。
 足を向かわせる場所は決まっていた。高鳴る鼓動を抑えつつゆっくりと歩いていく。廊下には誰の足音も響かずに、自分で作った音だけがこの耳に届いているようだった。
 そうして辿り着いたのは学園の屋上であり。
「やっぱりここか」
 俺が探していた相手は居た。屋上の柵にもたれかかり、下にいる卒業生たちを眺めているようだ。俺はそっと亮介の隣に並び、相手と同じものを見てみる。
「みんないなくなっちまったな」
「――え」
 風に乗って小さな呟きが飛んできた。彼の瞳はぴたりと止まったまま、黒い点のようなものを見つめている。
「この前はあんなこと言ってたけどさ、先輩がいなくなって淋しいんだろ? 別に意地張らなくたって……」
「未来なんてないんだよ。この学園にいる限り、ここの生徒たちには未来なんてない」
 いつもと同じ言葉が聞こえる。彼を苦しめている不思議な言霊が、この日に限ってとてつもなく大きなものに感じられる。
「未来?」
「そう、未来だ。現在より先にある時間。それはこの日に奪われる。誰も何も知らないから……幸せでいられるのかもしれないけど」
「どういうこと――」
 事情を知らない俺でも、亮介が今考えていることは恐ろしいものだということが分かった。彼は何かとんでもないことを知らされていて、だから今まで絶望したような顔をしていたのかもしれない。普段は明るく振る舞いながらも、時々思い出しては泣いていたのかもしれない。それは一体どんなものだ? どんな色をしていて、どんな顔の悪魔が彼を哀しませている?
 ふっと亮介は柵に背を向けた。彼の長い髪がふわりと微笑む。
「お前は知りたいか?」
 相手の質問に対し俺は一つ頷いた。
「知らない方が楽でいられるぞ。それでも知りたいのか?」
「亮介が知っていて、そのせいで苦しんでるのなら、その苦しみを俺にも分けて欲しい」
「……バカだな」
 逃げ出しそうな相手の腕を掴んだ。その行為に驚いたのか、亮介はちょっと目を大きくしてこちらを振り返ってくる。
「じゃあ約束しろ。これは誰にも口外するな。そして聞いたことを決して後悔するな。お前は俺と違って自分から聞いたということを忘れるなよ」
 唇が渇いていた。彼の抱える覚悟が俺をも押し倒しそうだった。腕を掴んでいた手を離し、相手の眼の奥を見つめる。
 そうして彼が紡ぎ出した真実は。

 

「この学園の生徒は一生ここから出られない。なぜなら、連中はこの閉鎖された空間の中で一人残らず殺されるからだ」

 

 簡潔に短くまとまった言葉だけを発した相手はそのまま屋上から姿を消し、だから俺はそれ以上詳しく聞くことができなかった。ただ理解できないという思いが充満している俺の頭の中で、一つだけ意識を執拗に追いかけ回している「クローン」という単語があり、それは恐ろしい横顔で俺の隣に座っているような心地がしていた。……

 

 

 

 

 

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